神名龍子
ジェンダーフリー思想では、ジェンダーは「自分らしさ」と相反するもの、「自分らしさ」を抑圧するものと考えられている。それは前回も引用した、
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丹藤 ジェンダーというのは,生物学的な性差ではなく,「男らしさ」「女らしさ」といった,社会的文化的に作り上げられた性差のことで,そこには役割や規範,イメージが伴います。 そしてそれは女性や男性の自由な生き方を枠付けして圧迫するものです。そうした「らしさ」の縛りにとらわれることなく,自分らしさにこだわって生きていこうと……簡単にいえば,こうした考え方がジェンダーフリーです。 |
という性教協の言い分にもよく表れている。今回はこの問題を取り上げ、そもそも「自分らしさ」とは何であるかという根本からの検証を試みる。
しかし、ジェンダーフリーでは最初から「ジェンダー」をネガティブな意味でしか扱わないため、本当にジェンダーが「自分らしさ」と相容れないものなのかということが検証されていない。それは、ジェンダーフリー思想の中では疑うことすら許されない「真理」なのである。また、本当にジェンダーを知らずに成長したら「自分らしさ」が発現するという実験も存在しない。強いていえば、狼に育てられたという野生児姉妹の話があるが、彼女達は、ついに人間としていかなる可能性を持つこともなく、その短い生涯を終えた。
この世界から自分以外の「他者」や「他物」の存在を排除すると、最後に純粋な「自分」だけが残りそうに思い勝ちである。しかし、他者・他物の存在やその影響を排除して、どんな「あり得る」が自分に与えられるだろうか、と考えてみよう。これは、
などの可能性が一切なくなるということ、つまりどんな可能性もあり得ないということに気が付くだろう。このことから、「自分らしさ」とか自己実現ということは、他者(や他物)の存在なしには成立しないということがわかる。
他者との関わりを断ったら、「自分」が確立するどころか、「自分」が成立しなくなる(自分のあらゆる「あり得る」が失われる)のである。つまり「自分」とは、他者と関わることで初めて「自分」として存在することができるということだ。それは他者が自分を規定するという一面を含んではいるが、しかし必ずしも自分が誰かの意志に支配されているわけではない。
また、人間は自分の「あり得る」の大部分を、既に存在しているモデルを参考にして思い描く。だが、それを「自分らしさ」の放棄とは考える必要はない。そうでなければ、自分のあらゆる「あり得る」を、すべて自分で完全なオリジナルとして創出しなければならないという話になってしまう。そうしたい人はそれでもよいが、ほとんど何もできない内に人生を終えるだろう。たとえば、火を起こすことを考えてみよう。火を起こすにも、先例を参照することなしに、その方法を考えつくのは、大変な困難が伴う。そして、このような困難が、生活のありとあらゆる場面に伴うものだとしたら、「自分らしさ」どころか、事実上、人間らしい暮らしが不可能になることは明らかである。
つまり、自分が何かをしようと思ったら、既存のモデルの中から良さそうなものを選ぶというのは、効率がよくて合理的な方法なのだ。そして私達は、長い歴史の中で多くの人々がさまざまなモデルを蓄積してきた。もちろんその中には、時代遅れで使えなくなったものもある。しかし私達が、多様なモデルの蓄積の恩恵に預かって生きているということは、疑い得ない事実である。そして多くの場合、私達はそのことを、誰かに支配されているとか抑圧されているとは感じない。むしろ私達は、過去の幾多のモデルを活用することによって、内容豊かな生を送ることを可能にしているのである。
「自分らしさ」というのは、ジェンダーも含めた無数の過去モデルから切り離されることで実現するのではない。むしろ、過去モデルをどのように活用するか、そしてある時は、そこにどのようなオリジナリティを加味するかというところに、本当の「自分らしさ」や「個性」が現れるのである。したがって、ジェンダーから解放されることによって「自分らしさ」を実現できるというのは、人間がどのようにして生きているか、どのようにして生きてゆけるかということを考えていない、ジェンダーフリー論者の誤謬である。
また、過去モデルや他人との比較においてこそ生まれる向上心や競争心も、ジェンダーフリー論者の言い分からすれば、否定しなければならないだろう。なぜなら、そのような向上心や競争心は、過去モデルや他人の存在を前提として初めて生まれるもの、他人の影響によって生じるものだからである。
しかし、実際には人間は上達を目指すような心性を持っている。たとえば絵を描くのでも、人間は最初は自分の作品を創ってそれだけで満足してしまう。しかし、そのうちに他人の作品と自分の作品を比較するようになって、「う〜む、自分のはイマイチだな」などと思うようになる。そしてもっと上手に描こうとする。このような向上心や競争心がないと、社会そのものに活気がなくなるのはもちろん、個々の人間にとっても面白くない。同じレベルのことを同じように繰り返すような生活に、人間は飽きるからだ。大多数の人は現代にあっても、「終わりなき日常をまったりと生きる」ことを望んでいるわけではない。
ジェンダーフリー思想の背景にあるのは、まず、文明や社会というものを罪悪視し、そう言うものがなければ人間は本来は素晴らしい存在なのだという、ロマン主義的な性善説である。
これは、かつての啓蒙主義にも共通する人間観で、ルソーでいえば『エミール』や『人間不平等起源論』によく表れている。『人間不平等起源論』では、原初の人間は「自己保存」と「憐れみ」の情のままに生きており、幸福で自由で平等で「平和にもっとも適し、人類にもっともふさわしい」状態だとされている。ところが、社会状態に入ると人間に自尊心や虚栄心が芽生え、利己的な所有欲から闘争が引き起こされるようになったので、人々は自分たちの生存の仕方を変えて、自由と権利に基づく社会にしなければならないと考えるようになったという。これが彼の社会契約説の考え方だ。しかしこの考え方では、フェミニズムやジェンダーフリー思想がジェンダーの起源を説明できないのと同様、なぜ人間が理想的な「自然状態」を捨てて、厄介な「社会状態」には言ったのかということが説明できなくなる。
ロマン主義は、何かまずいことが起こった時に「その原因はこれだ」というものを名指して、その「悪の根源」を排除すれば問題はすべて解決するという、とても単純な思考法に陥ってしまう。「悪の根源」を排除すれば問題は解決するという以上、「人間自体は本来すばらしいものだ」という前提が不可欠である。つまり、このような単純な思考法で満足するためには、ロマン主義的な人間観を前提に置く必要があるのである。
このような思考法は、昔から現在に至るまで、社会思想の様々なバリエーションを生み出してきた。たとえば、資本制やブルジョアを「悪の根源」だといえばマルクス主義が成立するし、アメリカや GHQ を「悪の根源」だといい、「人間」を「日本人」に置きかえれば反米保守の思想になる(正確にいえば、これは保守派というより懐古派というべきだろうが)。また、性差やジェンダーを「悪の根源」だといえばジェンダーフリー思想になる。マルクス主義やジェンダーフリー思想と、反米保守とは一見すると正反対のようだが、思想の範型としては同じものだ。反差別の思想でも、差異がなければ(あるいは差異に対する価値付けがなければ)差別はなくなると考える種類の思想も、ここに分類することが出来る。
ジェンダーフリー思想では、ジェンダーが社会的・文化的な構築物だと主張する一方で、「自分らしさ」が各人にあらかじめ備わっているものだということは、まったく論証されていない。このことが、ジェンダーフリー思想が無条件・無検証で「ロマン主義的人間観」を採用していることを示している。
もうひとつ指摘しておく必要があるのは、現在のジェンダーフリー思想でいう「自分らしさ」や「解放」が2つの意味を持っているということだ。ひとつは、かつてのマルクス主義がいう解放で、これは「労働」を人間の普遍的な本質(類的本質)とみなす人間観に立脚している。専業を主婦を社会の寄生虫扱いし、M字型就労形態を問題視するような意見がこれに当たる。
もうひとつは、ポストモダンに由来する「解放」で、これは少し説明を要する。たとえばドゥルーズは、人間の「欲望」が本来は特定の方向付けのない、四方八方に拡散・散乱するものだという。それが、さまざまな社会の制度やルールを身に付ける中で、特定の方向付けをされるようになると考える。つまり人間の欲望を、社会的欲望として構築されたものと考え、このような方向付けを本来の「拡散する欲望」に対する抑圧と見るのだ。これを性の問題に当てはめていうと、ジェンダーが押し付けられることによって「自分らしさ」が抑圧されるという主張が成立する。
しかし、この主張にもいくつかの大きな欠陥がある。まず、ジェンダーフリー思想自体が、上に挙げたロマン主義やマルクス主義、ポストモダンなどの影響を受けた構築物であるということ。それゆえに、やはり社会的・文化的構築物であるところのジェンダーに対して、ジェンダーフリー思想は、論理上せいぜい同等の権利を持つに過ぎず、けっしてジェンダーを否定できるような優越性を主張することはできない。
次に、このドゥルーズの理論からすれば、マルクス主義的な「解放」もまた、「欲望」の抑圧になってしまうということだ。たとえば、M字型就労形態を台形型就労形態しなければらないというのも、やはり特定の方向付けを意味することになってしまうからである。ジェンダーフリー思想が持つ2つの「解放」の理念の間にパラドクスが生じてしまう。
3つ目に、人間の欲望は、どのような形であれ特定の形を与えない限り、実現しないということを忘れている。つまり、ドゥルーズの理論に照らしていえば、人間が何らかの欲望を実現させれば、それはすべて「四方八方に拡散・散乱する欲望」に対する特定の方向付けとして、抑圧とみなされることになる。しかし、欲望の実現こそが欲望の抑圧であるという主張に、私はどうしても同意することができない。それどころか、私達は通常、欲望を実現を妨げられることを「抑圧」と呼んでいるのではないだろうか。その意味では、このドゥルーズの理論こそが(普通の意味での)欲望の抑圧に他ならない。
4つ目に、そもそも人間の欲望が「四方八方に拡散・散乱する欲望」であるということが、論証されていないフィクションに過ぎない。また、ドゥルーズの理論の元になっているのは、フロイトのいう幼児期の多型倒錯である。しかし、少なくともフロイトは、口唇期から性器期に至る心理的個体発達の過程を、ただそういうものとして語ったに過ぎず、人間の性愛(や、その他の欲望)の多様な可能性への希望を期待するものとして語ったわけではない。幼児期の心理こそが人間本来の姿だと解釈したのは、ただドゥルーズのロマン主義的な心性によるものであって、何の根拠もない。
| ※ | この「四方八方に拡散・散乱する欲望」もそうだが、ドゥルーズの思想には、ただ言葉によって理念としてのみ語ることの出来る、非現実的な概念が多い。他に有名なところでは、「n個の性」というのがある。セクシャルマイノリティの中には、これを誤解している人達もいるようだが、これは人間の性別の多様性を指す概念ではなく、世の中のあらゆるものの差異を「性別」というタームで言い替えているに過ぎない。たとえば、この「n個の性」の中には、「鉱物」や「自動車」も含まれるのである。 |
以上のことから、ジェンダーフリー思想は、過去の思想(ロマン主義、マルクス主義、ポストモダン)を取り入れることそれ自体が矛盾であり、また取り入れた過去の思想にも矛盾が含まれており、さらには取り入れた思想間で矛盾が生じるという、二重三重の矛盾を抱えているということがわかるだろう。
| 外で遊ぶのが嫌いで家で絵ばかり描いている男の子に「男の子だから外で元気に遊びなさい」と注意したら、将来の画伯の才能をつぶしてしまうかもしれません |
と書いてあるのを見たことがあると教えていただいた。しかし、人間にあらかじめ「画伯の才能」など備わっているはずがない。これは芸術についても、人間についても、まともに考えたことがあるとは思えない、あまりに能天気すぎる考えだ。
まず第一に、芸術の才能は「実体」として人間に備わっているものではない。たとえばゴッホも、存命中にはその作品が評価されなかった。つまり、ゴッホ自身は「画伯の才能」があると評価された経験を持たない人だった。後世、彼の作品が評価されるようになって、はじめてその作者であるゴッホは、画才の持ち主と評価されたわけだ。
ある人に芸術の才能があるかどうかという事は、その人の創る作品が他の人に感銘を与えるかどうかという問題であり、あくまでも「評価」に過ぎない。そして時代が変われば評価も変わるのである。つまり、作品に対する評価が先で、作者の才能に対する評価はそれに付随する評価であるに過ぎない。駄作しか発表しない芸術家は、決して才能の持ち主だと評価されることはないからだ。
もちろん、これは芸術の才能に限らず、どんな才能にもいえることだ。時代や場面ごとに評価の基準があって、その基準に叶えば「才能がある」と評価されるし、基準から外れていれば評価されない。もちろん、革新的な作品が評価の基準を変えてしまうということもあるが、その場合でも、あくまでも評価する側の人に、その作品から感銘を受ける感度が用意されていなければ話にならない。
芸術や文学とは、作者がもつ価値観や感動、想いなどを、理論によらずに表現する技術(アート)である。同じことを理論によって表現すると「評論」とか「批評」あるいは「論文」になるが、芸術表現というのは非論理的な形で行なわれる。それによって、理論によっては表現しきれないものを別の形で表現して、それを味わう人に「直接に心に響くような」感銘を与える。これが芸術である。
だから、ひたすら絵を描く練習や、楽器を演奏する練習だけしてもしかたがない。それで身につく「技術」はあくまでも「テクニック」であって「アート」ではない。表現しようとする「何か」(作品のテーマとかモチーフと呼ばれているもの)が芸術家の内面に存在しなければ、アーティストではなく、小手先の器用なテクニシャンが生まれるだけだ。人間は、外で遊ぶとか、友人と遊ぶ、異性と付き合う、あるいは失恋したり、勉強や仕事で挫折するなど、喜怒哀楽を含む様々な人生経験があって、初めて表現すべき「何か」を内面に持つことが可能なのである。
もう一つ重要なことは、その「何か」が他の人にも共有されているということである。そうでなければ、作品の受け手の側に「作品を評価する感度」が存在するはずがない。多くの人が、上手く言葉(=論理)に出来ない「何か」を内面に持っていて、それを誰かが芸術の形で表現できたりすると、その作品は受け入れられる。芸術作品が受け入れられるということは、そこに表現されている価値観や感動、想いなどの「何か」が人々に共有されているということである。
これは悪くすると「大衆への迎合」のように言われることもあるが、しかし一方で、皆が心の中にモヤモヤした「何か」を持っている時に、それを取り出して「こんな感じってあるよね?」と何らかの形で上手く表現できると支持される。「迎合」ではなくて「代弁者」になること。それもコロンブスの卵のように、それをいち早く感知して上手に表現できた人が「時代を切り開く芸術家」といわれるのではないだろうか(ただし、あまりに早すぎると作品も作者の才能も評価されないということになる)。これはどう考えても、子供の頃からひたすら絵を描いていれば出来るということではない。それ以外のいろんな経験をすることが大切で、そうしなければ時代の気分を誰よりも早く感じとって作品にすることなど、できるはずがないのだ。
これも芸術だけの話ではなく、「自分らしさ」についても同じことだろう。「自分らしさ」というのはけっして他人と無関係に形成されるものではないし、ここでいう「評価」の問題がある。凝りに凝った方法で人間を何人も殺して、今までにこういう事をやった人間はいないという理由で、「これがオレの『自分らしさ』だ」と主張しても、それは単なる「異常」である。
「自分らしさ」とか「個性」というのは、肯定的に評価される限りで認められるものだ。そういうものは「才能」と同じで、人々の価値観によって決まる。言いかえれば、社会のルールの中で育ってこそ、その中でよりよく評価されるような「個性」や「自分らしさ」を形成してゆくことが可能なのであって、そんなものが最初から備わっていると考えるのは、明らかに間違っている。「才能」や「自分らしさ」を、「脳」や「心臓」のように生まれつき備わっている実体と勘違いしていることが、根本的な錯誤なのだ。
