86. 言語は性別の「底板」ではない

神名龍子


 これは基本的には、既に62.ジェンダーと言語で述べたことなのだが、ある「男性学」が売りの学者が、最近出した本で、

西洋語を例にとっても、多くの言語に男性名詞・女性名詞といった性による区分がある。ここには、男性・女性の二元論で世界を把握する傾向が残存しているといって良いだろう。現在ではあまり意識化されていないが、もともとこの世界を男のもの、男性的な領域、男らしいことがらと、女のもの、女性的な領域、女らしいことがらとに分類する傾向が存在していたということが、こんなことからもわかる。

などと書いているのを見たので、繰り返し確認の意味で取り上げることにした。

 このような見解は、従来のフェミニズムや男性学など(以下、フェミニズム等という)の主張とも、趣を異にしている。「従来のフェミニズムや男性学など」とは、次のようなことだ。まず、フェミニズム等は、「現在の性差別」を問題にするものだ。だから、フェミニズム等が存在しつづけるためには、現代社会が性差別にあふれている社会であるという前提を必要とする。

 ところが、彼らは「性差別をなくすためには性差をなくさなければならない」というドグマを立ててしまった。そのため、「性差をなくすことは可能である」といえなければ、やはりフェミニズム等は問題を解決できないものとして、無用の長物になってしまう。それを避けるためには、ジェンダーについて構築主義・相対主義の立場を取らざるを得なくなった。構築主義・相対主義を主張するためには、「近代社会」と、「過去(前近代)」や「辺境(サモアなど)」とを比較して、「ほら、こんなに違うじゃないか」というしかない。そして「近現代社会が性差別にあふれている」という以上、「過去」や「辺境」は「近代社会」よりも性差別の少ない社会として描かれ、それによって「現代の問題を解決できる可能性があるんだ」といわなければならないのである。これが従来のフェミニズム等の主張とその構造であり、もちろん今でも残っている。

 ところが上に引用した文章では、男女二元性を昔からのものと認めている。このような意見が出てきたのは、「ジェンダーがセックスを規定する」というフェミニズムの新説が出て来たことと無関係ではあるまい。さらに遡れば、この発想の元になったのは、言語が世界分節の根拠であるという、ポストモダンの発想である。

 ポストモダンは、「反ロゴス主義」「反形而上学」の動機を持つ思想である。形而上学というのは、真理が何であるかを論理(ロゴス)によって求める思想であり、言語によって世界をありのままに写し取ることが出来る、という事が前提になっている。それに対してポストモダンでは、言語というのはそういうものではないんだという。これは、デリダあたりの仕事が有名だ。ソシュールの言語学などをベースに、言語は世界をありのままに写し取ったものではなく、むしろ人間は言語によって世界を分節しているんだ、というわけだ。そして、それは恣意的なものであるから、言語にも、それによって分節される世界にも、何の根拠もなければ真理もない。簡単にいえば、こういう主張になる。

 この理屈を使って、「言語」を「ジェンダー」に、「世界」を「セックス(身体的性差)」に置き換えたのが、「ジェンダーがセックスを規定する」という説である。上に引用したのも、そのバリエーションで、「このような言語のあり方に見られるように、人間にはまず観念としての性別があり、それが現実世界(身体)を男女二分法で分節する原因になっているのだ」とでもいいたいのだろう。

 しかし、フランスならともかく、それではドイツで性別が「男性・女性・中性」の三分法にならなかったのはなぜかと疑問を感じる人もいるだろう。全世界的に見れば決して「男性名詞・女性名詞」の二分法を採用している言語は多くない。それにも関わらず、人間の性別は普遍的に男女二分法であるという事実は、この引用文のような言い方では説明不可能である。この「男性学」者は、流行の新説を取り入れてみたのはよいが、自分の頭でまともに性を考えたことがないのだろう。

 私の考えでは、そもそも世界分節の原理を「言語」に置いたことに間違いがある。つまり、「ジェンダーがセックスを規定する」という説は、そのモデルからして間違っているのである。

 確かに、まずあらかじめ分節された世界それ自体があって、それに言語を当てはめるという「言語名称観(ノマンクラチュール)」は、あまり妥当性を持たない。たとえば、ある一群の動物を全部「犬」と呼んだり、別の地方ではそれを「犬/狼」に分節したり、また別の地方では「犬/山犬/狼」に分節したりする。この場合の「犬」や「山犬」や「狼」を「隣接する概念」を呼ぶと、ソシュールは、言語の分節は「隣接する概念」との差異によって決まるというわけだ。

 しかし、それでは人間は「隣接する概念との差異」を、どのような原理で認識しているのか。これは言語がなぜ「犬/山犬/狼」という分節を持つのかという質問であるから、「言語によって決まる」というのでは答えにならない。それは「言語は言語によって構成されている」というのと、同じことだからである。

 性別も同じで、「ジェンダーがセックスを規定する」というのなら、「ではジェンダーにおける男女二分法は何によって決まっているんだ」という話になる。「ジェンダーがあるからだ」では答えにならないし、「それは言語が…」と言っても、「では言語の根拠としての、隣接概念の差異を、人間はどのように認識しているのか」という問いには答えられない。「言語」を底板として考える限り、このように、決して答えの出ない問いが残ってしまうのである

 ソシュールは言語学者だから、そこは彼にとっては研究の対象外だといえば済む。しかし、後にこれをポストモダニストが、「隣接概念の差異」を「言語」ではなく「世界」の底板にしてしまった。だから、こんなおかしな話になるのだ。「言語」であれ、形而上学のように「世界それ自体」であれ、「人間以外」に根拠を求めようとしたら、最終的には必ず行き詰まる。このことは哲学史を見れば、誰にも納得できることだ。しかもポストモダンは「反ロゴス主義」という動機を持っていたはずなのに、結局、言語を世界認識の根底だと考えてしまっている。これが根本的な矛盾なのである。

 世界分節の根拠は、「言語」ではなく人間自身の「欲望・興味・関心」にある。簡単に言えば「必要」ということだ

 たとえば、釣りに興味がある人は魚の種類を詳しく知っているけれど、釣りに興味がない人はただ「サカナ」という語ですべての魚を包括しても、不便を感じないということがあり得る。また同じように魚に詳しい人でも、釣りが好きな人と魚屋とでは、詳しい魚の種類が異なるということもあるだろう。魚屋にとって商品にならない(食べられない)魚は関心の対象外だからである。したがって、様々な種類の魚をどのように分節するかということは、人によってその興味・関心が異なるために、分節の仕方が異なってしまう。しかし、同じ魚屋同士なら、それも同じ地方で店を開いていて扱う商品が似通っていたら、魚の分節の仕方はかなり共通したものになるはずだ。

 さらにいえば、「上/下」、「前/後」、「左/右」といった二分法は、性別の二分法と同様、時代や文化を超えた普遍性を持っている。この普遍性は、人間がみな同じような身体を持っているという事に理由があるのだ。なぜ「上/下」や「左/右」ではなく、120度ずつの三分法ではいけないのか、と問う人がいたら、逆に「その三分法はどのような興味・関心に支えられており、またその必要性はどの程度の普遍性を持っているのか」という問いに答えて欲しい(笑)。

 「ジェンダーがセックスを規定する」というのは、フェミニズムの新説として流行の観があるが、上に示したような矛盾を解けない限り、無効な説だというしかない

L.Jin-na


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