神名龍子
先日、「Visitor's Room」に、私がジェンダーフリーは自動的にジェンダーレスになると書いているが、ジェンダーフリーとジェンダーレスは違うのではないかというご質問を頂いた。 ジェンダーフリーは自動的にジェンダーレスになるというのは、このHPではずいぶん以前から指摘している。たとえば「ジェンダー素描」の、「T's とジェンダー」は、98年12月20日に記したもので、もう5年近くも前の話になる。
しかし近年になって、こういう疑問は他にも見受けられるので、加筆修正の上、改めてこちらに掲載することにした。
まず「ジェンダー」というのは、社会的、文化的、心理的な性差のことである。
一方「ジェンダーフリー」というのは、最近のジェンダーフリー推進派の説明では「ジェンダー」を「男女の自由な生き方を枠付けして圧迫するもの」と規定した上で、このジェンダーにとらわれることなく「自分らしく」生きて行こうというものである。ついでに書いておくと、ジェンダーフリー推進派は、「ジェンダーフリーは性差否定ではない」とも言っている。しかし、このように規定してもジェンダーフリーは必ず「ジェンダーレス」になる。
理由は簡単で、性別(身体的性別=セックス)に関係なく選べるものは、定義上「ジェンダー」とは呼べないからなのだ。
たとえば自動車を買うのに、ホンダを買うかトヨタを買うかという事は、性別とは関係ない。「アタシは女だからホンダを買うわ」とか「男ならニッサンじゃなければおかしいじゃないか」という人はいない。つまり、こういうのを「ジェンダー」とは呼ばない。この例と同様、「ジェンダーにとらわれることなく」というのは、要するにジェンダーをジェンダーでなくしてしまえということであって、「ジェンダーレス化」に他ならない。したがって、ジェンダーフリー推進派がいくら「ジェンダーフリーは性差否定ではない」も言っても、ジェンダーにとらわれることなく生きて行こうというのであれば、それはジェンダーの消滅を志向する以外の何ものでもない。
また、「ジェンダーフリーは性差否定ではない」というのは、せいぜいこの1〜2年に出てきた主張で、それ以前には存在しない。
たとえば、「でたらめてジェンダーフリー」で取り上げた、江原由美子という人は有名なフェミニストで、勁草書房などから何冊も本を出している。フェミニズムはいくつかの系統に分かれているが、江原由美子はラジカル・フェミニズムという系統の人で、このラジカル・フェミニズムでは、性差別は性差があるから起こるので、性差別をなくすためには性差をなくさなければならないと主張する。この人が、ラジカル・フェミニズムは間違いだったと「転向」したという話はまったく聞かないが、そういう人がつい昨年も、東京都文京区発行の季刊「PARTNER」21号の特集「あらためてジェンダーフリー」に文章を書いたりしていたわけだ。江原由美子の本は今でも書店で入手可能だし、図書館で見ることも出来るだろう。その中ではっきり「性差否定」が主張されていることは、誰でも実際に確認することが可能である。
また、これは関西の自治体の話だそうだが、「ジェンダーチェック」と称する質問表を作成しているところもある。既存のジェンダーに沿った答えが多いと「ジェンダーにとらわれている」とか「封建主義の遺物」というコメントと共に低い点数をつけられるのだそうだ(このジェンダーチェックは、市によっては、ホームページにも掲載されているらしい)。要するに、ジェンダーフリー推進派にとって、ジェンダーは消滅させるべき「悪」であり、ジェンダーフリーは「真理」であり、それに賛同しない者(私のような ^^;)は「程度の低い人間」という烙印を押して、洗脳ないし粛清の対象にでもしたいのだろう。これらのことからも、「ジェンダーフリーは性差否定ではない」というのは、単なるエクスキューズ(いい訳)に過ぎない。
なぜ、こういういい訳が必要になったかというと、現在のジェンダーフリーは、かつてのフェミニズム運動と違って、「男女共同参画」の形で政府や自治体といった行政の中に入り込んでいるからだ。保守系の政権党の議員を「だましだまし」推進して行かないと、自分たちが放り出されたり、「男女共同参画」そのものが無に帰す可能性もある。それで、社会の中にジェンダーフリーに対する警戒色が現れ始めた1〜2年前から、「ジェンダーフリーは性差否定ではない」といい始めたのであろう。
ジェンダーフリー推進派は、「ジェンダー」と「自分らしさ」を、両者がさも相容れない概念であるかのような仕方で対置する。しかし、これは一種の、言葉のトリック(詭弁)である。「ジェンダー」に限らず、あらゆる慣習や伝統は、それ自体としては必ずしも「自分らしさ」と相容れないような概念ではない。この誤りについては、「『自分らしさ』とジェンダー」でも既に指摘した。
私の考えを総論的に述べれば、ジェンダーは決してなくなることはない。ジェンダーがなくならないということは、一定以上の男女がジェンダーを維持し続けるということである。ただし、ジェンダーの中身は時代と共に変化する。これはフェミニストやジェンダーフリー論者が何も言わなくても(また、そういう人たちが存在しなくても)、必ず変化する。これは言語と同じこと。古典と現代文を見比べればわかる通り、言語というのは、改革論者がいなくても、日本語なら日本語という基本骨格を残しつつ、しかし固定不可能なものとして変化する。
ジェンダーも、たとえばガチガチの伝統主義者や国粋主義者のように、その内容を固定し、なおかつ例外を認めず押し付けるというようなことをすると、とても不自然であると同時に、迷惑極まりないものになる。いつの時代にも「言葉の乱れ」を嘆いて見せる、鬱陶しい自称・文化人がいる。だから私はジェンダーに関して、そういう鬱陶しさとも対立している(笑)。
一方、ジェンダーフリー論者の「押し付け」もご免こうむりたい。既存のジェンダーに沿う回答をしたら、なぜ「封建主義の遺物」の烙印を押されて低い点数をつけられなければならないのか。それから、最近はいくらかなりをひそめたが、専業主婦をしている女性は意識が低いという放言を平気でするフェミニストも、ずいぶんいた。今でも、言葉を控えて「私は多様性を認めます」というポーズを取っているだけで、その意識はたいして変わっていないと思う。扶養控除等の廃止を主張するなどの、経済的な面での締め付けに転じただけだ。「ジェンダー」や「性別役割分担」は「悪」であるという前提で専業主婦を肯定しても、説得力のあろうはずがない。
このジェンダーフリーの「押し付け」の例として、彼らの検閲思想がある。ジェンダーフリー論者はこれを「メディア・リテラシー」と称しているが、やっていることは検閲そのものである。昨年、「ジェンダーフリーの検閲思想」で指摘したのはCMについてだが、他には教科書の文章のチェックという例もある。
たとえば、光村図書の小学校5年生の国語教科書に掲載されていた「どろんこ祭り」(今江祥智)。どろをぶつけ合う村祭りで、「気弱な男の子」が「おきゃんな女の子」をやり込めたことから「そこで初めて、二人とも、本来の男の子、女の子にたちもどったみたいだった」と締めくくられるのだが、それがジェンダーを助長すると批判されて、削除されるに至った。しかも呆れたことに、このときの検閲者は日弁連である。国が検閲したら大騒ぎする人たちのはずなのだが、どうして自分たちには教科書を検閲する権利があると思い込んだのか、まったく理解できない。
ジェンダーをガチガチに固定的に考える伝統主義者・国粋主義者も困り者だが、少なくとも彼らがCMや小説などを「検閲」して、「我が国の伝統的な男女の在り様が描かれていない、けしからん!」というのは、これまで聞いたことがない。
逆に、左翼にとってはこれが当たり前で、「社会主義リアリズム」とか「プロレタリア文学」等の言葉がある。「この作品は革命の大義を書いていない、けしからん!」というのは、昔からざらにあったわけだ。「プロレタリア」を「ジェンダーフリー」に、「ブルジョワ」を「ジェンダー」に置きかえれば、両者は同じ事をやっているのである。つまり、
| 哲学も文学も教育もCMも、すべて2種類ある。「ジェンダーにとらわれたもの(ブルジョワ)」と、「ジェンダーフリー(プロレタリア)」だ。そして、後者の方が正しい。なぜなら、前者はイデオロギー(当然のこととして信じられている誤った考え方)だから。そのことは、ジェンダーフリー(マルクス主義)を「真理」だと認めないので、すぐわかる! |
こんな感じなのだ。しかも、「検閲」の対象になるのは「表現」だけではない。前述のジェンダーチェック表のように、人々の内面(価値観等)にまで踏み込んでくる。しかし、ここまでやったら、これはもう「近代社会」ではない。ヨーロッパの中世キリスト教社会か、社会主義国である。キリスト教ではたとえば、男性が女性を見て淫らな気持ちを起こしたら姦淫したのと同じだ、と聖書に書かれている。社会主義国でも思想上の理由で収容所に送られたりすることは周知の事実であろう。つまりどちらも、人間の内面に踏み込んで束縛することを当然と考える世界である。
一方、近代社会(近代自由主義社会)で規制の対象になるのは「行為」であって、内面は規制の対象にならない。だから、もし私が誰かに殺意を持っても、それだけでは逮捕も処罰もされない。何らかの「行為」を起こして初めて、殺人予備や殺人未遂、あるいは殺人罪などに問われることになるのだ。
ところが、あちこちの自治体の男女共同参画条例などを見ると「固定的な性別役割意識の解消」などと書かれているのが見つかる。「解消」の代わりに、「払拭」とか「取り除く」などと書かれていることもあるかも知れない。「男らしさ・女らしさ」より「自分らしさ」などといいながら、実際には法律や条例で人々の「意識」のありようを規定しようとしている。これは近代原理からの重大な逸脱である。
しかも、これは一部の自治体の「行き過ぎ」というようなものではなく、男女共同参画基本法の策定の過程で織り込み済みなのだ。1996年に男女共同参画審議会が「男女共同参画ビジョン」という答申を出しているが、同審議会の委員の1人であった大沢真理は、審議過程で「『男女共同参画』は、…ジェンダーそのものの解消を志向するという」趣旨を確認したと証言し、「政府文書が、ジェンダーそのものの解消を展望するなどは前代未聞といえる」と解説している(「『男女共同参画ビジョン』の特徴と意義」、『女性と労働21』1996年11月)。同じことは他でも述べていて、たとえば『ラディカルに語れば』(平凡社)という本の中でも、冒頭の上野千鶴子との対談の中にこの話が出てくる。
「ジェンダーフリーとジェンダーレスは違う」というジェンダーフリー推進派の主張がここ1〜2年のものに過ぎない。私は最初にそう書いた。なぜなら、ジェンダーフリーが「ジェンダーそのものの解消を志向する」ものとして進められてきたという事実があるからだ。しかも、それはジェンダーフリーを批判する側の人間が言っているだけではなくて、このようにフェミニズム側の資料に当たっても、そう書いてある。
近年の資料だけでなく、このようにもう少し前の資料に当たれば、このことは誰でも確かめることが可能である。
「ジェンダーフリーは性差否定ではない、ジェンダーレスとは違う」というジェンダーフリー論者が増えている。それでは、ここで名前を挙げた、江原由美子、大沢真理、上野千鶴子といった人たちも、ジェンダーフリーを誤解しているというのか。私は逆に、この点についてジェンダーフリー論者の意見を聞いてみたい。
