神名龍子
少し前の話だが、ある掲示板で、近年になって女児の身体がタブー視され始めてきたのではないか、という指摘があった。その流れで児童ポルノ規制法が作られたわけだが、しかしその一方では、性教育は低年齢化しておかしな教材を使ったり、小学生に性器の名前を言わせるような変質的な教育が行なわれている。芸能界では、小学生モデルが出て来たり、アイドルも低年齢化している。
また、これは子供の話ではないが、昔は電車の中で母親が平気で授乳していたのが、今では見られなくなった、ということもある。そこで今回は、これらの指摘を踏まえて、性意識の変化について考えてみようと思う。
はっきりした社会現象で言うと、私の記憶では「ロリコン」という概念が出てきたのが、およそ1980年前後ではなかったかと思う。コミケ(会場が浅草から川崎市民プラザに移った頃 ^^;)でその手の同人誌が売られ、商業誌にも内山亜紀らが出てきたのが、その頃だったのではなかっただろうか。その後、80年代の終わりには宮崎勤の犯罪が起こるわけだが、しかし、ロリコン男性に狙われる心配が出てきたから、女児の身体がタブー視され始めたのだ…というのとは、ちょっと違うような気がする(^^;)。
しかも80年代初期は、一方では「女子大生ブーム」で湧いていた時期とも重なるのだ。そして83年頃から、この「女子大生ブーム」は、女子高生を対象とした「おニャン子ブーム」へと移行してゆく。
90年代からは援助交際が問題になっているが、昔は、遊郭で働くハイティーンというのは珍しくなかったし、女性の結婚年齢も現在に比べてずっと低かったのである。このことは、ハイティーンが昔から性的対象として禁忌とされていたわけではない(もちろん小学生のような年齢は別だ)、ということを意味する。
ただし、女子学生は性的に禁忌の対象であった。なぜかというと、おそらく昔は女学校へ進学するのが「お嬢様」だったからではないかと思う。ただし『ハイカラさんが通る』(大和和紀)にも見られるように、女学校を卒業したらすぐに結婚というケースもあって、やっぱり今に比べれば結婚する年齢は低かった。しかし行灯袴、あるいはセーラー服に身を包んだ女学校の「お嬢様」達というのは、当時の多くの男性にとって、ちょっと手の出せない「高嶺の花」だったのではないだろうか。
その後、少しずつではあるが、女学校を卒業してもすぐには結婚せずに、職業婦人になったり、一部には大学に進む女性も出てくる。そうすると自動的に、「お嬢様」の結婚年齢が高くなって行く。
戦後、昭和30年代に遊郭が廃止される。その一方で、男女の進学率が高くなると、昔の「お嬢様」の遺産(^^;)として、ハイティーンの女の子は皆「清楚」なイメージを持つ性的禁忌と見られるようになった。
また男女を問わず、学生・生徒というのは、身体的には成熟しても「まだ社会に出ない半人前」と見られていた。性的行為は「大人の行為」であり、「半人前」である学生・生徒には許されない行為だということが、社会的なコンセンサスとして存在していた(今でも完全になくなったわけではないから、援助交際が問題視されるのだが)。進学率が高くなり、高学歴化が進むことで、社会的に「大人」とみなされる年齢が、どんどん高齢化していったのである。
だが、「最近の子は発育がいい」といわれるように、昔に比べて身体的に成熟する年齢は、逆に低下する傾向にある。そうするとハイティーンの男女は、「身体的存在」としては大人であり、「社会的存在」としては子供であるという、中途半端な状態に置かれる続けることになる。それでも、しばらくは社会的コンセンサスの方が勝っていたわけだが、次第にこの矛盾が露呈してきた。つまり性的経験を持つハイティーンが増加した。 私は、おそらくこの社会的コンセンサスの破綻の大きな要因として、学生運動があったと思っている。つまり、高校生ではなく大学生から(上の年齢から)この破綻が始まった。それは、学生が社会的コンセンサス(慣習)に「否」を付きつけた学生運動と連動している。たとえば、かぐやひめの『神田川』は、同棲している大学生カップルの歌であろう。それ以前にも、同じような同棲生活は存在したに違いない。しかし、それに付随していたはずの「後ろめたさ」がなくなってきたのが、あの時代だったのではないかと思う。それどころか社会的コンセンサスに逆らうことが、当時はまだ度胸を要することだったために、「カッコイイ」こととして見られていたのではないか。
性的倫理だけでなく、あの当時は価値観の一大転回点である。大学は最高学府として、明治時代から社会的にその権威を認められ続けて来た。しかし、その権威を大学生自身が否定し、当時の大学教員も(全員とは言わないが)その権威に見合うほどの内容を持たない人たちだったことが、社会に対して露呈してしまった。そんな時代である。このあたりの時代的な雰囲気は、『東大落城』(佐々淳行・文春文庫)を読むとよくわかる。
しかしそれとは別に、もう一つの「時代の流れ」があったと思う。それは、全国的な都市化傾向だ。養老孟司氏の表現をお借りすれば、「自然」の排除と「脳化」の進行である。そうすると、公衆の面前で授乳のために乳房を出すという事はなくなってくる。そういうのは露骨な「自然」だからで、「田舎っぽい」行為と見られるようになってしまう。
その代わり、性的禁忌の破綻によって、エロスの提示としてのファッション的な乳房の露出(たとえばトップレス)ならあり得るようになってきた。ボンデージ・ファッションのように、ファッション的に洗練された(とみなされる)ものは、都市化・脳化された社会で受け入れられてゆく。そして、(さすがにトップレスで電車に乗る女性を見たことはないが ^^;)、素人ヌードとか、女子大生ヌードのようなものが出て来るし、女子高生が極端に短いスカートを履くようになる。つまり露出がなくなったのではなくて、露出の場所や方法と目的が変化したと考えるべきだろう。
そして性の禁忌の破綻傾向が、ますます低年齢化を進め、女子中学生から小学生にまで及んでいるのが、現在の状況なのではないだろうか。
では、なぜこのような低年齢化が進むのかというと、エロティシズムが「禁忌の侵犯」だからである。昔は女子大生というのは、インテリ女性の代名詞のような感じがあって、しかも希少価値があった(おそらく、今でもAVで女教師モノが作られ続けているのも、同じような理由によると思う)。そういう女性は、まさに「禁忌」である(あった?)わけだ。
しかし80年代以降、テレビで温泉には入るわ、週刊誌にヌードは載るわ、ウソかまことか「女子大生ソープ嬢」なんて記事まであって、最初の内は話題になっても、やっぱりこういうのは次第に飽きられて行かざるを得ない。それで、次に「おニャン子ブーム」に切り替わるが、援助交際が社会問題化するほどになれば、これも飽きられてくる。要するに現在では、女子大生や女子高生というブランドが、その新鮮味を失って「定番」と化してきたのである。この場合、「定番化」とは「禁忌の喪失」を意味している。
そうなれば「次なる禁忌」として、「さらなる低年齢化」が候補の一つに挙げる事は、必然的である。性的な魅力というのは、供給過多になると、禁忌性が薄れてインフレを起こしてしまうような性質を持っているからだ。
これは年齢だけが重要なファクターだということではない。たとえばSMも、昔ほど「異常」とか「猟奇的」といったイメージはなくなっている。いろんな面で性の禁忌が破綻、あるいは解体されているのだ。そして、より刺激の強いものを求めやすくなった。だが、こういうのは麻薬と同じで、慣れてしまえばさらに強い刺激を求めざるを得ないから、キリがない。
昔は、そもそも子供(女の子)の身体に性的魅力を見出そうとする「目」がなかったから、子供の体が性的禁忌であるということを(ごく一握りの変質者を除けば)誰も意識しなかった。逆にいえば、宮崎勤のように殺害に至らない場合でも、子供に性的いたずらをすれば、それだけで「変質者」扱いされ、「異常な事件」とみなされた。これは子供の身体に強い禁忌があったことの証拠である。つまり子供の身体は、最近になって禁忌(タブー)化されたのではなくて、それが禁忌であることが「発見」されたのである。
つまり最初に指摘にあったような、一見すると逆ベクトルを向いているかのような現象は、エロティシズムの本質が「禁忌の侵犯」であることに由来しているのである。
誤解のないように書いておくが、このことは、女児が男性の性的暴力の対象として狙われ始めてきたから、そのような男性支配的から女児を守るために性教育が必要になってきた、ということを意味しない。むしろ、そのような風潮が女児の禁忌性に拍車をかけるのであって、低年齢層の性的倫理の破綻と性教育とは、共犯関係を形成しているということなのだ。
さらに誤解を避けるために付け加えておくと、私は性教育そのものがまったく無用だといっているわけではない。問題は、その中身と実施方法である。子供の発達段階を考慮せず、一部の大人の政治的・倫理主義的実践としての性教育が行なわれる限り、この共犯関係は解消することはないだろう。
「お子様中心主義」の教育者と、いわゆる「ロリコン」との間には、自分たちのロマンティシズムを子供に投影しているという共通点がある。この共通点が、両者の共犯関係を媒介しているといってよい。どちらも、子供は穢れない存在である、子供は天使だ、という共通の認識に立脚しているからだ。
しかしこういう子供観こそ、近代に独特のものであり、しかも専業主婦の誕生に伴う、「母親による育児」の前提として要請された視点であることを考えると、ジェンダーフリーを主張する者達が、現在のような過激な性教育の推進者であるということは、一種の悲喜劇というべきだろう。昔は、子供というのは放っておけば子供同士で遊んでいたものだ。ちょっと裕福な家庭では、子守りや乳母を雇って任せていた。このような状況では、児童心理学や発達心理学が必要なものとして要請される条件が存在しない。子守りや乳母が、そんな学問を身につけているような時代ではなかったからだ。
一方、そもそも専業主婦というのは、裕福な家庭の女子が女学校を出て、人によってはさらに「職業婦人」を経て家庭に納まったものである。今のように家電が普及していなかったとはいえ、いわゆる女工などの「労働婦人」に比べれば、有閑層でもあった。そういう専業主婦が育児に専念するようになって、初めて子供の発達段階に応じた育児のあり方という視点が誕生することになる。
「子供は穢れない天使だ」というような子供観は、元をたどればロマン主義や啓蒙主義に見つけることが出来るだろう。それと同時に、専業主婦が増え始めた時期(つまりその夫である給与生活者も増え始めた時期)、日本でいえば大正〜昭和初期には、存在したはずである。こういう子供観は、育児をする母親にとっては多いに励みになるだろう。したがって、そのような子供観に立脚した母子関係、それ自体を私は否定するつもりはない。
私が言いたいのは、子供が「誰にとって」天使であるかという視点の存在を考えずに、そのことを普遍的事実であるかのように考えてはならないということである。もう、何年も前の話になるが、ある幼稚園の周辺の家から、子供たちの声がうるさいという苦情が出たことがある。ところが、この幼稚園の関係者は、それは天使の声だ、うるさいとは何事かといって取り合わない。そんな新聞記事を見かけたことがあった。これなども「誰にとって」という視点を考えずに、「子供=天使」を「誰もがそう考えるはずだ」という普遍的事実に祭り上げてしまった幼稚園側に問題がある。「子供=天使」という考えも、また「国家」や「民族」であろうと、「自由」や「平等」であろうと、どんな概念でも、それを疑ってはならない「真理」として祭り上げた時に、人間は他者と理解しあう可能性を失う。
しかし、自分が子供だった時期(当たり前だが、誰にもそんな時期があったはずである)を思い出してみよう。子供というのは、悪い事を知らず、悪いことを考えず、「善」の塊であるような存在だったであろうか。私の経験では、子供は「いじめ」や「意地悪」もするし、自己中心的だから喧嘩も絶えない、また残酷さをも持ち合わせているような存在だったと思っている。幼稚園・保育園や小学校に通っていた時期を思い出してみれば、誰にも思い当たることがあるはずなのだ。「私は子供の頃、悪い事を知らず、考えず、善の化身のような存在であった」と臆面もなく言える人がいたら、名乗り出て欲しいものである(笑)。
ここまで考えれば、「お子様中心主義」の教育者と、「ロリコン」との共犯関係が、いかに誤った子供観を前提として共有しているか、よくわかるはずである。この誤った子供観は、子供の真実の姿ではなく、あくまでも「お子様中心主義」の教育者や「ロリコン」が、自分自身のロマンティシズムを子供たちに投影し、子供を過剰に「聖化」することで生じる。そこに性愛対象の低年齢化や、倒錯的な性教育といった現象の原因があるのだ。
個人的な趣味として幼児や児童を愛好しても、私は、その価値観自体の是非を問おうとは思わないし、問うべき問題でもなかろうと思う。しかし、実際に幼児や児童に手を出せば、これは言うまでもなく犯罪である。それと同じように、児童に性器の名前を大声でいわせるような、現在の非常識な性教育も、それ自体が「性的虐待」として断罪されるべきである。
