神名龍子
「家族」とは何か。巷間「多様な家族」と称して、「家族」概念を相対化・否定しようという意見もある。曰く、「一人暮しも家族である」、「仲のよい友人同士が生活を共にするのも家族である」などの意見がそれだ。しかしこれは「家族」ではなく「世帯」という。また、ある部族で「家族」を広い意味に取る例を挙げて「家族」概念を相対化しようとする向きもある。しかしこのような場合、日本では「親族」という。
一方、「家族」という概念が何であるか、その意味を確定することが難しいことも、また事実である。しかし、それにも関わらず、私たちは平素「家族」という語を用いていることも確かである。つまり、私たちは「家族」という語を何らかの意味を込めて用いており、そうである以上、私たちは「家族」という語の意味を「知っている」はずである。したがって、ここではその「家族」という語の意味本質について追求し、よって「家族」概念の混乱を避けて、「家族」に関わる様々な問題について考察する基礎を定めることを目的とする。
今のところ、「家族」の本質として上げることが出来るの、次の4点である。
世界には、時代や文化の違いによって様々な形態の家族(と呼ばれる共同体)があるが、私たちはこの4点が「ある幅をもって」認められる場合に、その共同体を「家族」と呼ぶことに同意する(違和感を感じない)ことができる。以下、これらの各号について詳述する。
まず一般的な家族像について考えるならば、「家族」というのは「両親」と「その子供」によって構成される。もちろんこれは「核家族」に限った話ではない。3世代同居の場合には、「両親」がそのまた両親の「子供」であるという形で、この図式を重複させた構造になっているに過ぎない。
むろん、子供のいない夫婦もいれば、両親が揃っていない例などもあることは承知している。しかし、両親が揃っていないような場合でも、子供が生まれるということは、かつてその子の「父」である男性と、「母」である女性との性愛的な結合があったということだ。つまり「家族」概念においては、この「性愛的な横の関係」が現に存在することを必要条件とするわけではない。「性愛的な横の関係」が何らかの形で存在し、または存在したということが必要なのである。
「家族」概念には「性愛的な横の関係」に対して、もう一つ「親子という縦の関係」が含まれる。この場合の「子供」は「性愛的な横の関係」から生じたと「みなされる」ものである。しかしこれも、厳密な意味で「性愛的な横の関係」から生じた「子供」がいることが「家族」の必要条件なのではない。
一つは「養子」や「継子」という例がある。これは「子供」が、夫婦の一方ないし両方の、生物学的な意味での「子」ではないというケースだが、しかし制度上この両親の生物学的の「子」であるかのように「みなす」という形を取っている。このようなケースは形式上、両親とその両親から生まれた子供ということを「原型」とした「擬制」である。
| ※ | この「擬制」という表現は、小浜逸郎氏の表現をお借りしたものだが、これは決して「ニセモノ家族」という意味ではない。「偽制」や「疑制」ではなく、あくまでも「擬制」である。「原型」家族との間に価値の上下をつける意図もない。ただ「家族」という概念の本質的な意味を確認しながら考察を進めて行く必要上、便宜的にこのような区別を用いている。世の中には「区別」や「差異」を安易に「差別」と同一視する人がいるが、それが誤りであることは過去数年間で再三に渡って述べているから、ここでは繰り返さない。 |
したがって家族秩序は、「性愛的な横の関係」と「親子という縦の関係」を基本骨格とする。世界のいかなる形態の家族を見ても、この2つ(とその「擬制」と)を基本骨格としていることは普遍的である。またそれに付随して、インセストタブー(近親相姦禁忌)もまた普遍的に見られる。特に母子相姦や父子相姦は、これが行なわれると、縦横の2つの関係の区別がつかなくなるからだ。これに対して、兄妹のような場合には、例えば「通い婚」が行なわれた昔の日本では、違う家で育った異母兄妹の婚姻が認められていた例などもあり、普遍性があるとはいえない(もちろん現代の日本では禁じられているが)。
つまり、一口にインセストタブーといっても様々な形態があり、禁忌が強いのは、縦横の2つの関係の区別を混乱させ、家族秩序の原理を破壊するような場合なのである。
また、これは次に述べる「相互承認による成員の存在基盤」という「家族」の本質にも関わることだが、「性愛的な横の関係」と「親子という縦の関係」という「家族」概念の基本骨格は、いずれも「エロス的関係」である。「エロス」とはこの場合、性愛的な狭い意味に限定するものではなく、人間のとって「よい」感じをもたらすもの一般をいう。したがって、「性愛的な横の関係」(夫婦など)がエロス的関係であることはもちろん、親子という関係もまたエロス的な情愛が含まれている。
エロス的でない関係とは、経済の領域などに見られる「契約」である。たとえば、商取引や雇用などの関係では、相手に対して「エロス」を感じる必要はない。だが、「家族」はこのような市民社会的な「契約」によって成立する共同体ではない。したがって、「家族」、「夫婦」や「親子」あるいは法的な「婚姻」などについて論じる場合にも、これを市民社会的な「契約」概念のみによって解釈することは、明らかな誤りであり、これではいわゆる「愛人契約」との区別がつかなくなってしまう。
たとえばカントの『人倫の形而上学』に見られる、「或る人間が他の人間の生殖器および性的能力についてなす相互的な使用」とか、「婚姻〔matrimonium〕、すなわち、性を異にする二人格の、彼らの性的特権を生涯にわたって相互的に占有するためになすところの結合」などというのは、この悪例の典型なのである(共に同書§24、P408)。
「性愛的な横の関係」とは、必ずしも法的な「婚姻」に限定されない。内縁関係であっても「家族」概念を構成し得るし、同性愛者のカップルであってもよい。これは「養子」が「親子という縦の関係」の「擬制」と考えられるのと同様に、「性愛的な横の関係」の「擬制」としての「家族」を構成し得ると考えられる(もちろん他の条件をも満たしていればの話であるが)。また、これらの「家族」と、「性愛的な横の関係」が法的な「婚姻」であるような「家族」とでは、法律上、その扱いに違いが出ることは当然である。しかしこのことと、法的な「婚姻」を伴わない場合であっても「家族」概念に含まれるか否かということとは別問題として考えなければならない。
「相互承認による成員の存在基盤」とは、言い換えれば、人間が自分の属する「家族」に「自己」を見出すということである。
人間は、他者からの承認を必要とするような心性を持っている。承認が得られないと、自我が不安定になってしまう。つまり、私が「私」であることを、他者を通して確かめないと不安になる。人間は様々な関係の中で、その「確かめ」をしている。
この確かめは、自分が単なる「おおぜい」の中の一人だというだけではなく、自分の独自性の確認といってもよい。いくら自分で「私は私である」と思っていても、他の人たちが誰も自分の独自性を認めてくれないと、自分という存在が判らなくなってしまう。
「家族」もまた人間が「自己」を見出す契機をもたらす「場」である。では、これは他の関係と何が違うのか。まず一つは、「家族秩序」の中で自分が特定のポジションを占めている、ということだ。これは言いかえると、家族が互いに互いのポジションを認め合っているということである。親はいつまでも自分の親だし、子供はいつまでも自分の子供である。会社では出世で後輩に抜かれてしまうことがあっても、「家族秩序」の中でいつの間にか子供が自分を追い抜いて親になっていたということはない。「市民社会=経済の領域」に比べて、安定したポジションを得られる。
次に、この「家族秩序」の中で互いが重んじられるということ。夫は夫として、妻は妻として、親は親として、子供は子供として、重んじられる。そこでは個人は、自分が他者との関係に関わりなく「自分は自分である」という意識を放棄して、「家族」の一体性の中に自己を見出す。
言葉でいうと判り難いが、「自分」という概念は「自分が何であるか」を了解すると同時に、「自分が何であり得るか」を了解するところに成立する。このとき、人は「世界」(他者や他物)との関係において、自分が何であるか・何であり得るかを了解する。
実際に考えてもらえればわかるが、他者や他物を抜きにして自分のどのような可能性があるかを考えることが出来るだろうか。まず不可能だろう。恋人と一緒に過ごしたいとか、コーヒーを飲みたいとか、必ず「恋人」や「お茶」といった、他者や他物が自分と関わる、その関わり方が「自分の可能性」なのである。だから、そもそも「自分」という概念は「他」という概念なしには成立しない。「自分」は「世界」(他者や他物)から独立した一個の存在として「自分」なのだ、ということはあり得ないのだ。
こうして人間は、エロス的関係の中に「自己」を見出す。もし自分が「世界」から独立した存在であると思うのであれば、何か欠けた不全感を感じるだろう。そして自分だけではなく、他の人間も同じだと了解すると、次のことがわかる。つまり、「私」が「私」として存在するのに欠かせない存在がいて、その相手もまた「その人」として存在するために「私」を必要としているということ。自分と相手とがこのような形で一体性を持っているという意識を、ヘーゲルは「愛」と呼ぶ(『法の哲学』)。
「家族」とは、その成員がそこにそれぞれ「自己」を見出し、互いが互いの存在根拠となるような「一体性」を感じること、つまり「愛」がその原理なのである。私はここで、「家族」のこのような側面を「相互承認による成員の存在基盤」と表現してみた。
「家族」には、何かしら共有している財産がある。たとえば家屋も、その登記が誰の名義かという話は別にして、事実上は「家族」で共有している。だから、もちろん法的な所有権の問題は別である。たとえ所有権が「家族」の外にある借家であっても、それは「家族」で共有(法的には「所有」ではなく「占有」だが)しているといえる。
「家族」というのは、普段はすべての財産が「どれが誰のものか」と決まっているわけではなく、その辺を曖昧にしたまま共有している生活財がある。このことは、平素はあまり意識されることはないが、皮肉なことに、離婚や相続という場面で誰が何を取るか紛糾するという形で、強く意識されることになる。
刑法に、同居の親族間では窃盗罪に問われないという規定(刑法第244条:いわゆる親族相盗)があることも、この理由による。この規定がないと、いわゆる「使用窃盗」が、家庭の中で頻繁に成立してしまう。財物を自分のものにする意志がなく、一時的に借用するつもりであっても、他者の占有権を侵せば窃盗罪が成立するからだ。これでは事実上、「家族」を営むことが不可能になるので、このような規定がある。
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第244条(親族間の犯罪に関する特例) 配偶者、直系血族又は同居の親族との間で第二百三十五条の罪、第二百三十五条の二の罪又はこれらの罪の未遂罪を犯した者は、その刑を免除する。 2 前項に規定する親族以外の親族との間で犯した同項に規定する罪は、告訴がなければ公訴を提起することができない。 3 前二項の規定は、親族でない共犯については、適用しない。 (神名註:刑法第235条は窃盗、第235条の2は不動産侵奪のこと) |
この条件も、決して過剰に狭い意味に取ってはならない。たとえば、父親がどこかへ単身赴任していて、現に同居しているのでないような場合でも、いずれ再び家族と同居する意思があればよい。
また、この概念は同一家屋に居住することを意味するものでもない。たとえば同一敷地内で「母屋」と「離れ」に分かれて暮らしているような場合も、ここでいう「同居」に含めて考える。大家族制度を取っているような場合には、この範囲はさらに「同一集落」くらいに広げて考えてもよいだろう。
つまり、物理的な距離として日常頻繁に顔を合わせ得る程度の狭い範囲にまとまって暮らしているか、何らかの事情で離れていても、いずれ家族と共に生活する意志があればよい。逆にいえば、そのような意志を持たずに離れて暮らしている場合や、お互いに無関心になってしまっての離散状態では、「家族」とは呼び難いであろう。
