神名龍子
で、手術そのものは既に医学と法律という2つの分野で認められたわけですが、これで済んだという事ではありません。思い付くままに挙げてみても、
これについて、従来だと往々にして「闘争」になってしまいそうな意見が出かねない状況がありました。ある種のイデオロギーにしたがって、あるいはそのイデオロギーの内容を借りて、「抑圧者」と「被抑圧者」の、一種の階級闘争の様相を呈して来るんですね。しかしこの方法では自分達を、ますます反社会的存在として印象づけてしまい勝ちになるというジレンマから逃れられないという欠点があります。そこをごまかそうとすると、いつまで経っても「まだ終わらない」と叫んで、徹底的に世の中を変えようとか、詰まるところは革命思想になってしまう(笑)。
しかし、TSは革命勢力かと言えば、そんなことはないはずなんですね。それどころか、性別二元性についてはそのままにしておきたいという点では保守的で、ただ従来の枠組みはそのままに、その枠組みの中での自分の居場所を変更(もしくは修正)したいだけなのだと思います。社会に対して「対立」するのではなく、「適応」が目的であるはずです。上記のような種類のイデオロギーを利用する(あるいは利用される)と、本来の目的(適応)から離れてしまうという矛盾に突き当たってしまいます。
これが一番よい状態であるから、こういうふうにすべきだというふうに考えてゆくと、かえって現実性を持たなくなってしまうんですね。
ですから逆に、従来の社会の価値体系をまずいったん認めてしまう。その上で「ここの部分だけは、ちょっと変えてね」という方が、実効性という点からは優れた戦略であるということになります。これはもちろん、現代の日本においてという条件での話です。どんな時代のどこの国でも「これならOK」という方法は、まぁ「あったらいいな」と思う人はたくさんいると思いますが、非現実的な話です。極端に言えば将棋で、最初の一手で詰んでしまう手はないものかというようなものですね。従来の価値観をすべてひっくり返してしまうというのは、もう革命です。これはやり過ぎで、やってはいけない。
とりあえず現状では、上に挙げた3点についてのみ、場合によっては並行的に、あるいは優先順位をつけて1つずつ解決して行くという方法の方が現実的でしょう。戦略、もしくはゲームとして捉らえると、まず自分達がどのようなゲームの中にいてそのゲームがどのようなルールで行なわれているかを考える必要があります。「従来の社会の価値体系をまずいったん認めてしまう」と書いたのは、この意味です。しかも、この場合の「ゲーム」というのは、将棋などと違って必ずしもルールが固定されたものではなく、お互いがコンセンサスを取り合いながら、ルールを変更してゆく事が可能です。そうすると「社会」というのは「ゲームの集合」として捉らえることが可能で、私達は現代の日本において、大雑把に分けて、少なくとも「公」と「私」の2種類のゲームを並行して行なっていることに気がつきます。
「公」というのは社会と言い換えてもいいでしょう。「公」のゲームのルールは市場原理です(ですから、たとえば平安時代の日本や社会主義の国ではこの戦略は使えません)。市場原理において、自分の労働力、もしくは自分の「労働力という側面」も商品ですね。就職というのは、自分の労働力という商品を提供して代価をもらうための契約です。ですから、そこでは商品としての労働力の価値だけを見てもらえばよいので、そこで現在と以前の性別が違うというような事は無関係な条件であるわけですね。ですから、そういう事を理由に採用しないとか、あるいは決まりかけていた採用を取り消すというのは、資本制の原理に反するともいえます。就職において不当な扱いを受けた場合には、そこを突く。同時に法律でも禁止する(というより日本国憲法において既に禁止されているはずだと思いますが)。性転換が社会の秩序を壊すかのように言う意見もあるでしょうが、このような場合において、社会の秩序を壊さんとしているのは、実は企業側であるということですね。
一方、「私」のゲーム、これは単に個人としての自分一人だけでなく、家族、結婚、友人関係などの私的な人間関係の中を生きるゲームです。こちらでは金銭的な価値というものを相手に求めませんし、自分も求められません。ですから「公」のゲームとはルールも違いますし、当然こちら側の戦略も別のものが必要になるわけですね。「私」のゲームのルールは信頼関係であり、倫理・モラルというものです。私が「女装の精神誌」を書いた背景の一つにも、これがあります。きっかけも、ある女装者とその奥さんの夫婦間の問題だったわけですからね(第1章「他人を責める前に自分を見つめる」に記載)。
ついでにお断りしておくと、私が繰り返し書いて来た「公の意識」というのは、ここで言う「公」のゲームについての話ではなく、「私」のゲームにおいての私的関係(家族・仲間・友人関係)の事をいっています。
「性転換が社会の秩序を壊す」というのも、欧米ならば、キリスト教のような宗教規範が今でも顕在的・潜在的に社会規範になっていますから事情が異なるのですが、日本においてはこの「私」のゲームに根拠があるわけです。会社勤めなどの経験がある人は思い当たるフシがあると思いますが、日本人は「公」のゲームにも、しばしば「私」のゲームのルールを持ち込んでしまいますね。例えば「一緒に酒が飲めないやつは信用できない」というのは、職場を「擬似家族」として捉らえているからです。「公」のゲームと「私」のゲームとはきっちりと区別をして、ルールの誤用を拒否し、上記のように資本制の原理を貫かなくてはなりません。
そうしますと一番問題になるのは結婚だと思います。戸籍の記載事項の変更が認められたとして、世の中には、(以下の言い回しはTS当事者にとっては気に入らないと思いますが、あえて書きます)元男性だった女性と結婚したくないという男性や、元女性だった男性とは結婚したくないという女性もいるでしょう。これは一概に差別と言えるかという問題があるわけです。しかし、相手側にも、TS当事者と同様に結婚相手を選ぶ自由と権利があって、両者は基本的に等価であるわけですね。ここで、TS当事者の自由・権利との衝突が起きます。「ルール」というのは、簡単に言えばこのような利害の衝突をどのように調整するかというものです。ここでは、結婚前に相手にその事実を告げるとか、告げなかった場合で結婚後にその事実が判明した場合には離婚の理由に出来るというくらいの譲歩は、少なくとも現在の一般の感覚に照らして考えた場合にはやむをえないと思います。
もちろんこのルールは「私」のゲームのルールですから、「公」のゲームのルールに則って行なわれる就職などには適用されません。また結婚前にその事実を知っていた場合には、結婚後にそれを離婚の理由とすることは出来ないという制限も必要でしょう。また、世間一般の感覚(社会通念)が変化して、「TSは、あらゆる場合において性別再判定後の性別で扱われるべきだ」ということでコンセンサスが取れる社会になった場合には、当然この条件は離婚の理由から除外されるべきです。ただ「現在の日本」という条件下においては仕方がないもので、これは社会に受け入れられるためのコストとして、当分の間は負担してはどうかということです。そうじゃないと、今度は「TSの被害者」という概念が、好むと好まざると現われてしまうという危惧があります。否応無く加害者側に立たされてしまうというのは、TS当事者自身にとっても、社会への「適応」という観点からけっして好ましい事態ではありません。
法律というのは、「公」のゲームと「私」のゲームの両方に関わるもので、基本的に社会全体の整合性を求める性質があります。一方でTS当事者の求めるものが「対立」ではなく「適応」であるならば、「戸籍の記載事項の変更」を認めさせるなどの法律の変更、あるいは法律の運用の変更を求める場合、ゲームの手順として「そのためのコスト」は認めざるをえないと思うんですね。とにかく、まず以上に書いたような事を実現させることが優先事項かと思います。それが成功したら、次はTSに関する社会通念を変化させるための運動に移ればよいわけです。繰り返しになりますが、これが一番よい状態であるから、こういうふうにすべきだというふうにまとめて考えると、いつまでたっても何一つ認めてもらえないという期間ばかりが長引いてしまって、かえって現実性を持たなくなってしまいます。