神名龍子
先月19日に、「お龍さんの徒然草」で、「茨曽根小・長谷川校長の勇断に敬意」という一文を掲載した。ジェンダーフリー教育が推進する男女混合名簿(男女の区別なく、氏名を五十音順や出生日順に改めた出席簿)を、男女別名簿に戻した小学校の校長先生の話である。
ところがその後、とある教育関係者の方からうかがった話では、教育現場では「ジェンダー」や「ジェンダーフリー」という言葉を用いることなく「ジェンダーフリー教育」を推進する手段があるのだそうだ。たとえば、「私たちはジェンダーフリーのためにやっているのではなく、男女平等教育・人権問題・同和教育問題として位置づけて男女混合名簿に取り組んでいる」というような言い方があるらしい。この場合、私が書いてきたようなフェミニズム批判、ジェンダーフリー批判は、そのままでは使えないという事になる。そこでこの問題について、さらに踏み込んだ考察を試みようというのが、今回の目的である。もっとも内容的には、これまでに何らかの形で述べてきたことが大部分を占めることになると思う。
結論から言ってしまえば、この問題の核になるのは、差異と差別の混同である。フェミニズムやジェンダーフリー、あるいは「男女平等教育・人権問題・同和教育問題」といった差別問題では、しばしば差異と差別が混同される。そこから「差別をなくすためには差異をなくさなければならない」という考え方が出てきて、男女混合名簿が提案されたり、生徒を性別に関係なく「さん」付けで呼ぶなどの、「差異の否定」が打ち出されるのだ。
| ※ | これが性別においては、「性差別をなくすためには性差をなくさなければならない」という「性差の否定」になる。 |
しかし、差異が差別の本質であるわけではない。差別とは「差別する相手をカテゴライズし、そのカテゴリーに不当に低い評価をすることで相手を貶め、相対的に自己を高めることでアイデンティティ補償を行なう行為」である。
もちろん誰かを何らかのカテゴリーに分類するためには、差異が利用される。何らかの差異を利用して、差別する相手をカテゴライズする。差別に用いられるカテゴリーは、「オカマ」「在日」「部落」「黒人」「ブス」「チビ」「ハゲ」「デブ」など、その他、枚挙に暇がない。
これらのカテゴリーに「不当に低い評価をする」とは、どういうことか。たとえば頭の良し悪しは、その人がどういう人種や民族に属しているかという事とは関係がない。したがって、一般にそのようなコンセンサスが成立しているにも関わらず、「あいつは黒人だから頭が悪い」というのは「不当な低い評価」である。つまり、本来は判断基準として妥当でないカテゴリーを判断基準に用い、それによって低い評価をすることが「不当」とみなされる。このような方法で相手を貶めることで、自分を相対的に相手よりも高い位置に置く。それによってアイデンティティ不安から逃避することが「差別」と呼ばれる行為である。
このことからわかるように、差別は「差異」や「カテゴリー」や「価値判断」を利用して行なわれるが、「差異」や「カテゴリー」や「価値判断」が差別の本質であるわけではない。なぜならば、「差異」や「カテゴリー」や「価値判断」が必然的に差別を生み出すわけではなく、これらは差別と無関係な場面でも使われるからである。
したがって「差別をなくすためには差異をなくさなければならない」と考えるのは誤りである。たとえば、この考え方で行くと「黒人差別は肌の色が同じにならなければなくならない」ということになってしまう。それどころか、宗教、言語、文化・慣習、人種、民族、性別、居住地域、といったものも、全てなくすか統一しなければならないという話になってしまう。これは、あまりに非現実的な主張である。したがって、混合名簿や「さん」付けといった男女の区別もまた、差別や平等に関わる本質的な問題であるわけではない。
上で述べたように、差異それ自体は、無条件になくすべき「悪いもの」ではない。たとえば、学校でいえば「学年」や「クラス分け」も一種のカテゴライズだが、これは「学校の秩序」や「教育の実践」という観点から必要なカテゴライズである。つまり、何らかの必要性に支えられていて、その必要性が妥当なものとみなされる場合には、その必要上から生じるカテゴリーもまた妥当なものである。したがって、そのカテゴライズのためにある差異に着目することも、また妥当とみなされなくてはならない。
「性別」という差異もまったく同様である。「男女平等」という言葉があるが、この平等とは何か。それを考える前に、私達が住む社会について考える必要がある。ヘーゲルは、私達が生きるこの社会を、「家族・市民社会・国家」という3つの階層に分類する。先に「市民社会」から説明すると、これは主に経済の領域であり、人々の関係が「契約」によって成り立っている領域である。商取引も雇用もすべて「契約」であり、人々はそこで自由競争を展開する。「家族」は「市民社会」のような「契約」ではなく、人々が「エロス的関係」によって結び付いている領域である。この場合「エロス」とは性愛に限らず、広い意味での「よい感じ」を指す。したがって「家族」と「市民社会」とは別原理に立脚する領域である。「国家」は「家族」や「市民社会」において生じる利害対立を調停する。
さて、「平等」には大きく分けて2つあるが、1つは日本国憲法第14条に定められる「法の下の平等」である。これはいうまでもなく「国家」の領域の問題である。たとえば、選挙のときに男性は2票投票できるが女性は1票しか投票できないとか、同じ交通違反をしたのに男性だけが反則切符を切られるというのは、「法の下の平等」に反する。つまり、特に定めがない限り、このような場合に性別(という差異)を持ち出すことは不当なのである。
ここで重要なことは、このような近代概念としての「平等」が「差異のないこと」を意味するのではないという事である。「平等」とは差異があるにも関わらず国民としては同じ権利を持つということなのだ。たとえば、家柄などによる特権がないことや、宗教が違っても(ヨーロッパでいえばカトリックもプロテスタントも)「国民としての権利」は同じだという事である。
もうひとつは「機会の平等」。これは「市民社会」における自由競争の重要な原理である。社会主義国と違って「結果の平等」ではないことに注意する必要がある。
したがって、学校において男子または女子のいずれかが特権を持つということは不平等である。もちろんこれは男女別名簿の後先のような話ではなく、もっと具体的な利益の話である。たとえば、同じ学年なのに男女で授業内容のレベルが違うというような場合は不平等といえる。また、試験の点数などは自助努力による自由競争であるから、どちらか一方の性別にだけ点数に下駄をはかせるというのも不平等である。
しかし、男女別名簿を使っているとか、男子を「くん」、女子を「さん」付けで呼び分けるということが、どちらか一方の性別の具体的利益になるわけではない。したがって、これらが男女平等に反するということにはならない。繰り返すが、「平等」とはあらゆる「差異」をなくすことではないのだ。
人権とは何かということを根本的に考える場合には、法学の見解にとらわれてはならない。つまり、法に定められた人権について考えるのではなく、それ以前に、なぜ人権が法的に定めるべきものとして考えられたのか、ということを考えなくてはならない。
人権の根拠には諸説があるが、ジョン・ロックのいう天賦人権説は、ここでは採らない。彼の天賦人権説は、フィルマーという人物の王権神授説に対するカウンターである。しかし、ロックの天賦人権説と、フィルマーの王権神授説のいずれが正しいのかという問いは成立しない。この問いは「神の真意はいずれにあるか」という問いになってしまうため、キリスト教神学で扱うのは構わないとしても、近代の社会原理にはなり得ないからである。また、天賦人権説は後にルソーらによっても明確に否定されており、近代思想の中でもきわめて初期に現れた、中世の名残を引きずった思想なのである。
そもそも、「権利」とは「正当」(right, Recht)という意味である。つまり、「私には××する権利がある」ということは、「私が××するのは正当だ」ということと等しい。
したがって、実は「権利」とは、時代や文化を問わずどこにでもある概念なのだ。もちろん「権利」という言葉は明治時代の訳語だが、それ以前にも「××をして何が悪い」とか「××をして文句をいわれる筋合いはない」などの言い方で、行為の正当性を主張することはあったはずだからだ。
そして正当と認められる限りにおいて、人は自分のしたいことを為す。これを「自由」という。「自由」は、
などをその本質とする。近代社会は「誰もがそれを求める」ところの自由をできる限り実現しようとする。ところが自由は「他者の自由と対立することがある」という性質を持っているので、無制限の自由を認めると、自分の自由が他者の自由を侵害したり、逆に、他者に自由によって自分の自由が侵害されたりする。このような状態は、社会秩序が存在するとは言えず、ホッブズのいう、《自然状態》(共通の権力と法のない状態)になる。それを防ぐためには、自由と自由の対立を調停するために、自由の一定の制限が不可欠である。
この自由の制限にも原則があって、まず一つは誰に対しても同じ制限を課すこと、逆にいえば、特権者がいないということ(平等)である。二つ目に、その限りにおいて、制限を必要最小限に押さえるということ。三つ目に、誰もが願うような種類の自由は、誰に対しても認めること。もちろんこれらの条件は、自由と自由の対立の調停を妨げるものであってはならない。
さて、三つ目の条件の「誰もが願うような種類の自由は、誰に対しても認める」ということ。これが人権である。例えば誰でも死にたくないと思う。これを「できる限り」保障するというルールを作れば「生存権」になる。つまり、自分が死なないために努力することは、誰にも等しく認められた正当な行為である。
つまり「人権」の本質は、人々が対等の条件でお互いの「自由」を認め合うことにある(自由の相互承認)。もちろんこれは、生まれながらに神に授けられたというようなものではなく、社会の成員同士の約束事である。つまり、人権とは「ルール」なのであって、これを何か「実体」として存在するもののように考えてはならない。また、人権は万能ではない。人権が「自由」の相互承認である以上、それは他者の自由を侵害するものであってはならず、責任が伴うという点で、「自由」と本質を同じくするからだ。
以上の点を押さえておけば、男女別名簿を使っているとか、男子を「くん」、女子を「さん」付けで呼び分けるということが、いかなる人権をも侵害していないことは明白である。これらの手段が「差別」にも当たらず「平等」にも反しないことは以上に見てきた通りであり、生徒の「自由」を侵すものでもないからだ。したがって、これらが「男女平等教育・人権問題・同和教育問題」に抵触するものではないということも、また明白である。
さて、私は上の方で、差異と差別は違うということ、したがって、差別をなくすために差異やカテゴリー、価値観などをなくしても意味がないと書いた。差異やカテゴリーというものをなくしてしまうと、そもそも人間の「世界観」それ自体が(その内容に関係なく)成立困難になるし、ルールも成立不可能である。価値観についても同様で、価値観それ自体が悪いというのであれば、「差別は悪いことだ」とも言えなくなってしまう。いうまでもなく「善悪」も一種の価値観だからである。
では、どうやって「差別」をなくしてゆくのか。
まずカテゴリーに対する「不当な価値付け」に対して「それは不当だ」ということ。それを、多くの人たちにとって説得力のある形で指摘することが必要だ。たとえば、同じ交通違反をしても美人は見逃されて、ブスは切符を切られるというのも「差別」である。これは、人の顔に対して美醜の判断をすること、それ自体が不当なのではない。そうではなくて、交通違反と顔の美醜とは無関係なことだと考えられているにも関わらず、無関係なはずの両者を結び付けて処分に差をつけている、これが「不当な価値付け」に当たるからだ。
そして、差別はアイデンティティ補償を動機とするのだから、「差別すること」は「自我不安を抱えていること」の露呈である。「あの人が他人を差別するのは自分に自信がないからだ」ということになる。
「差別は悪いことだからやめましょう」と言っても、差別によるアイデンティティ補償が可能である限り、そして人間が自我の不安を克服したいと望む存在である限り、差別は絶対になくならない。しかし、差別をすることでかえって「ダサイ、セコイ、カッコワルイ」といわれてしまうのであれば、自我不安は増すばかりで、アイデンティティ補償ができない。そうすると、差別をすることが馬鹿馬鹿しくなる。差別をする動機が失われるのである。
