91. フェミニズム一問一答再反論

神名龍子


 【日本女性学会】(http://www.joseigakkai-jp.org/)というホームページで、フェミニズム批判に対する反論(当該ページの表現では「回答」)が掲載されている。

 【 学会ニュース『Q&A−男女共同参画をめぐる現在の論点』日本女性学会 号外 2003年3月】
http://www.joseigakkai-jp.org/newsgogai.htm)というのがそれで、一問一答形式で27項目に渡って反論が列記されている。

 【日本女性学会】のインデックスページには、「このページ上の文章等を無断で転載されることのないよう、お願いします。」と書かれているが、『Q&A−男女共同参画をめぐる現在の論点』のページに関しては、

この『Q&A』の著作権は本研究会にありますが、必要に応じてコピーのうえ、自由にご利用ください。

と明示されているので、これに従って27項目全てに再反論を試みることにした。もちろん、再々反論にはいつでも応じるが、フェミニストにとって都合の悪いものだからと、手のひらを返して「引用禁止」としても応じるつもりはないし、そのような申し入れは全て公開するつもりである。

 なお、以下に引用する日本女性学会の「回答」は、可能な限り先方の意をありのままに伝えるため、回答に付随する図版(2ヵ所)も含めて引用させていただいた。明らかな脱字や、記号の全角・半角の不揃いの修正を除いて、原文そのままを引用掲載している。

  1. 「男らしさ/女らしさ」をめぐる論点
  2. 家族をめぐる論点
  3. 性(セクシュアリティ)をめぐる論点
  4. その他 の論点


1.「男らしさ/女らしさ」をめぐる論点
[批判1] ジェンダー・フリーは、男らしさ/女らしさを全否定するものだ。
[回答1] ジェンダー・フリーは、男はこうあるべき(たとえば、強さ、仕事・・・)・女はこうあるべき(たとえば、細やかな気配り、家事・育児・・・)と決めつける規範を押しつけないことと、社会の意思決定、経済力などさまざまな面にあった男女間のアンバランスな力関係・格差をなくすことを意味しています。ですから一人ひとりがそれぞれの性別とその持ち味を大切にして生きていくことを否定するものではありません。「女らしく、男らしく」から「自分らしく」へ、そして、男性優位の社会から性別について中立・公正な社会へ、ということです。
[再反論1] 「中立・公正」といえば聞こえはよいが、要するに個人単位での「結果の平等」を追求する考えである。しかし、政府の男女共同参画についての見解でも、昨年11月12日の参院内閣委員会において、その目標が「機会の平等」であって「結果の平等」ではないことが強調されている。
 また、「女らしく、男らしく」と「自分らしく」とは必ずしも相反するものではない(たとえば「女らしい」演技を見せる女優が全て没個性的だとはいえない)。それにも関わらず、両概念が両立不可能なものであるかのように対比して見せた上で、どちらを選ぶかというような論理立てには妥当性がない。

[批判2] 世の中は、男/女の違いがあってこそおもしろい。ジェンダー・フリー社会は、同じような人々しか存在しない平板で退屈な社会だ。
[回答2] 男/女の違いばかりが人の違いではありません。ジェンダー・フリーの社会は、金子みすずが「みんな違ってみんないい」と言ったような、男性にも女性にもいろいろな人がいる、一人ひとりが多様に違う楽しい社会なのではないでしょうか。
[再反論2] そもそも、個々人の違いと、性差による違いとは別レベルの問題であって、両立可能なものである。現に「ジェンダーフリーの社会」にならなくても個々人の違いは存在しているのであって、「一人ひとりが多様に違う」社会はジェンダーフリーに特有のものではない。まったく論点がずれており、批判に答えていない。

[批判3] 思春期の頃に「男であること/女であること」を強く意識して自らに課して引き受けていくことを通じて、人間は社会的な自分を形成し成熟していくことができる。しかるに、ジェンダー・フリー教育は「男であること/女であること」を意識させないものなので、そうした成熟に関与しない。
[回答3] 思春期に必要なのは、一人ひとりが、性別ということと自分の気持ちにていねいに付き合っていくことです。性別を、乱暴な男/女のステレオタイプの二分法で捉え、その一方の鋳型に自分を押し込んでいくことは、成熟ではなく、むしろ幼稚な思考でしょう。
[再反論3] 「男であること/女であること」が、なぜ「乱暴な男/女のステレオタイプの二分法」といえるのか、まったく説明がなされていない。これは反論ではなく単なるレッテル貼りである。このような思考こそ「幼稚」と呼ぶべきである。
 「男であること/女であること」は、決して画一的なものではなく、「さまざまな男」や「さまざまな女」が存在していることは『古事記』の昔から現代文学に至るまで、および他の様々な分野において表現されている。現実にも男女はそのようなものとして存在しており、そのことを前提として生きている。「男であること/女であること」を画一的な「鋳型」と考えるのは、このような現実から乖離した「フェミニストの幼稚な思考」の産物に過ぎない。

[批判4] 例外的な存在はあっても、大多数の人々は男/女のどちらかであるから、そちらが規準になるべきである。人を男/女の2群に分けてとらえる「男女の二分法」に対する批判は、どちらでもない少数の例外的な人が在る、ということの方を規準に置き換えようとする考え方である。
[回答4] 問題は、「例外」の話ではありません。分かりやすく、身体の大きさを例に考えてみましょう。男女一万人ずつの身長分布を図示してみると、ピークの位置がずれた、しかし重なり合う正規分布になります。この場合、大多数とは誰のことで、例外とは誰のことでしょう?どこに明確な線が引けるのでしょう?このような現実を「男は女よりも体が大きい」と二分法で理解してしまうことがどんなに乱暴なことであるかは、すぐに理解できるでしょう。多くの精神的特徴についても同じで、人間を特徴によって二つに分けるなどということはそもそもできないのです。「大多数/例外」という区別自体も乱暴な二分法にほかなりません。
[再反論4] これは個別論と男女の「平均的傾向」とを混同させた詭弁である。示された図を見れば、男性の平均身長が女性の平均身長を上回ることは否定のしようのない事実であろう。それにも関わらず、これを二分法で語るのは乱暴だ、という方が乱暴なのである。
 たとえば、下記[回答23]に見られるように、フェミニスト側も自分の主張にとって都合のよい場合には、管理職や国会議員などの「男女比」を示している。フェミニズムの男女二分方批判は、自分たちの都合次第で、これを批判したり利用したりするという恣意的な姿勢が見られ、一貫性がない。

[批判5] 男女共同参画政策は、鯉のぼりやひな祭りなどの伝統や慣習を破壊するものである。
[回答5] 伝統や慣習は不変ではなく、時代とともに取捨され改変され、今日にいたっているものです。例えば、明治初期にチョンマゲや帯刀などの伝統は放棄されてしまいました。鯉のぼりとひな祭りに含まれていた「男は強く元気に/女は優しく美しく」と、性別と人のありかたを結びつけるシンボリズムは、今日では適切とは言えません。現在、5月5日は、すべての子どものための祝日とされています。ひな祭りも、性別と関係づけないお祝いにするのが良いと思われます。なぜ、そうしないのでしょう?
[再反論5] そもそも、性別と人のありかたを結びつけるシンボリズムは、今日では適切とは言えないというのは、誰の、何を基準とした判断なのか。確かにチョンマゲや帯刀は現在では無用のものとして廃止されているが、男女二分法は時代や文化の違いを越えて普遍的に存在している。
 そして、多くの男の子や女の子が、端午の節句や雛祭りを「男の子」「女の子」に結び付けて理解し、なおかつそれを喜んでいる事実がある以上、それを取りやめなければならない理由は存在しない。

[批判6] 男女共同参画政策は「トイレや風呂を男女共用にしろ」というような、人々を困惑させるような主張をしている。
[回答6] 男女共同参画政策は、いつ・どこでそのような主張をしたでしょうか?どなたかご教示ください。「性別にとらわれず・性別にかかわらず、だれもが等しく尊重され、等しい機会を得られ、その結果を等しく享受できる社会をつくる」ということを男女が全く同じになることだとか、性別をなくすことと解するのは曲解というものです。
[再反論6] その前に、フェミニズム批判がいつ・どこでこのような主張をしたのかを明らかにして頂きたい。日本女性学会は、フェミニズム批判について、「そこで明らかになったことの一つは、多様なかたちをとって行われている批判のほとんどが、誤解あるいは曲解に基づくものであるか、単なる懐古的な主張であることです。」と主張している。もしかしたらこのようなことを言った批判者は存在するかも知れないが、少なくともこれはフェミニズム批判として一般的なものではない。フェミニズム批判が誤解に基づくものであるという自説を補強して見せるために、殊更に取り上げたものとしか思えない。

[批判7] 「男の子はブルー、女の子はピンクや赤」ということを否定すると子育てや教育現場で混乱が起こる。ふつう、女の子はピンクを選ぶし、男の子はプルーを選ぶ。
[回答7] 「男の子にはブルー、女の子にはピンクや赤」という性別に基づいた固定的な考え方や決めつけ、選択の余地のない押しつけを問題にしているのです。ブルーや寒色系が好きな女の子に、女の子はピンク・赤だからとピンクや赤の持ち物ばかり持たせることは、本人の意思や感情を尊重しない強制です。ピンクや赤が好きな男の子にとっても同じです。また、自分がどのような色が好きなのか、似合うのかを本人が考え・選ぶ余地なく、機械的に男の子にはブルー・女の子にはピンクのものが与えられるという経験の中では、色彩について考える習慣も、自分で選ぶ力も身につきません。
[再反論7] 子供たちがそれぞれ好きな色を選んだ結果として、性別によって好まれる色の傾向に違いがあるということ、このこと自体は事実である。男女差がないように、男の子も女の子も同じように暖色から寒色まで色の好みがバラつくべきだとか、それを実現するために「この子の色の好みは間違っている」ということには意味がない。
 また、似合う・似合わないということは、客観的・科学的に決まるものではなく、時代や文化によって共有されている「共通了解」である。この共通了解は決して固定的なものではなく、その時々の流行という形で常に変化するが、単なる個人の価値観ではなく、間主観的なものである。どのような色が好ましいか、自分に似合うかという判断にも、必ずこのような間主観的な判断が介在している。それは流行による「押し付け」ではなく、他者の意見も参考にした判断というべきものであり、その時々の各人の判断が総体として、その時々の傾向(トレンド)を示すのである。
 性別と色彩の関係も、決して固定的なものではなく、このトレンドに左右される。たとえばプロ野球で広島が優勝して「カープブーム」が起これば、「赤」が男子のトレンドにもなる。このような好みの問題に、「平等」思想が介在することこそが不当なのであり、そこに正解など存在しない。


2.家族をめぐる論点
[批判8] 男女共同参画は、専業主婦という生き方を軽視し否定している。
[回答8] これまで、一見専業主婦という生き方は誉められ、税制など制度上も優遇されていたかに見えます。しかし、それは被扶養の妻である限りでのことです。夫と死別したり離婚したりしたら、専業主婦という足場はたちまち消失します。また、年金保険料の拠出義務免除は優遇されているとも言えますが、その結果、65歳以上になって受給する年金は月に6万円ほどの基礎年金のみです。一人の人間の生活費としてはむしろ冷遇と言えるでしょう。男女共同参画は、女性たちが他人に頼らなくては生きていけないのではなく、しっかりした生きる足場を持てるような社会の仕組みを作り出していこうという考え方です。専業主婦という生き方をしている個人のあり方・生き方を軽視したり否定したりする、などと、個人を問題にする次元の話ではありません。
[再反論8] これは明らかな論旨のすり替えである。この回答で挙げられている年金の例は、性別とは関係なく「働く妻と専業主夫の夫婦」にも適用されるからだ。
 そもそも、「専業主婦という生き方をしている個人のあり方・生き方を軽視したり否定したりする、などと、個人を問題にする」のは、以前からフェミニストが論じてきたところであって、その事実がここではまったく無視されている。たとえば、フェミニストは以前からM字型就労などを例に挙げて、女性の就労率の低さを問題視し続けてきた。しかし、この問題提起は当の女性自身の希望を無視することでしか成立しないものであり、このような問題的をすること自体が専業主婦に対する蔑視・否定の現れである。
 第二回全国家庭動向調査(1998年版『女性白書2000』)によれば、「子供が三歳くらいまでは、母親は育児に専念すべきだ」という問いに対して、「全く賛成」(50.7%)と「どちらかといえば賛成」(39.4%)の合計が 90.1% を占めている。ということは、賛成派の9割と、反対派の残り1割がどちらも希望通りにした場合、はっきりと「M字型」を示すことが女性の希望の実現を意味している。フェミニストの「M字型」批判は、子供の育児に専念したいという9割の女性に対して、「それは遅れている間違った意識だ」と当人の希望を否定する専業主婦否定以外の何ものでもない。

[批判9] 母になり子育てすることは、女性だけの使命であり特権であるのに、男女共同参画などを言う女性たちは、それを理解せず、男と同じになること、男と対等に肩を並べることをめざそうとしている。
[回答9] 「母になり母として子育てすることは、女性固有の使命である」というような世の中の考え方が、妊娠・出産できない、または望まない女性たちをどんなに生きづらくしてきたことを、また、子どもを産むことや子育てについて男性がもち得る可能性やチャンスを狭めてきたことを考えたことがありますか? 妊娠・出産・母乳授乳をした女性たちの多くが男性には経験できないその経験を通じて幸福を感じるということはもちろんあるでしょう。しかし、女性に固有の経験は、妊娠・出産・母乳授乳のみであって、子産み・子育てに関するそれ以外の経験は性別と関係ないはずです。子どもが産まれ育つこと、子育てに関する男性の喜びは、なぜ語られないのでしょう? こうした、女性のみを子産み・子育てと結びつける考え方は、社会的活動(とりわけ仕事)と妊娠・出産、育児や介護を含む家事など生活活動を二者択一的に分け、前者を男性、後者を女性と結びつける、これまでの社会の慣行に基づいています。男女共同参画は、男性にも女性にも、そうした二者択一の選択を強いる社会を変えていこうという考え方です。
[再反論9] まず、「母になり子育てすることは、女性だけの使命であり特権である」という意見が、フェミニズム批判の中で大勢を占める意見ではない。
 次に、「子育て」というのは、授乳やおむつの交換など、直接に子供に関わることだけではない。したがって、男女が共に子育てに関わるということが、同じ作業を分担することだとは限らない。たとえば、授乳やおむつの交換などを母親が担当し、父親がその精神的・物質的な支援(バックアップ)を担当するという役割分担があってもよいはずだし、事実、そのような役割分担の上に従来の「子育て」が成立していたのである。もし、前者だけを「子育て」と考え、その全てを女性だけが担当してきたと考えるなら、それは女性の傲慢である。

[批判10] 働く女性が増えると出生率が低下する。
[回答10] データはそうなっていません。子育て期の30歳から39歳の女性が働いている割合の高い県の方がむしろ、出生率が高いですし、「実際に産み育てている子ども」の平均人数も就業女性は1.98人、専業主婦は1.91人と就業主婦の方がやや高くなっています。25‐34歳女性の労働力率が高い国ほど出生率も高い傾向にあるという国際比較調査の結果もあります。
[再反論10] この国内データは何に基づくものなのか。参照不可能なデータを示されても納得することはできない。また国際比較調査は、そもそも各国ごとの経済事情が異なることを忘れてはならない。一般に貧しい後進国の場合は出生率が高く、なおかつ女性も働かなくては生活ができないことは、昔の日本を見ても一目瞭然である。なお、フランスでは子育てをする家庭に社会保険から手当を支給し、その支給額が手厚いため、女性が安心して仕事が辞められる家庭優遇策となり、出生率が回復してきているという話もある。

[批判11] 子育て期の母親が、子育てに専念せず、就労をすることは、子どもの発達に悪影響を及ぼす。
[回答11] そのようなことは実証されていません。母親の就労と子どもの発達の関係を調べたある調査では、0歳から5歳までに「異常行動」がみられた割合は、母親が専業主婦である子どもの方が高いという結果が示されています。また、別の調査では、育児不安や、虐待にもつながりかねない過度なしつけをしている人の割合は、専業主婦の方が高くなっていました。専業主婦にさまざまな人がいることは言うまでもありませんが、子育てや家事と両立する良い条件の就業機会を整えていくことは、それがないために専業主婦を選んでいる人の不満を解消し、結果的に育児不安や子どもに対する不適切な対応を減らすことにつながります。人間の子育ては多くの要因の複雑なかかわり・影響によって成り立っている、つまり、特定単一の要因が決定的な影響を及ぼすとは考えにくい、複雑な営みなのではないでしょうか。ライフスタイルの選択、働きかた、子育てのしかたはもちろん個人の自由です。が、男女共同参画社会基本法の基本理念の一つ、第6条は、女性も男性も、家庭生活の役割と就労等社会的活動の両方ができるよう社会的条件を整えていくべきことを定めており、そのもとに施策が進められています。
[再反論11] 一見すると、客観的なデータを示しての反論のように見せかけているが、極めて恣意的な主張であるといわざるを得ない。
 「0歳から5歳までに「異常行動」がみられた割合は、母親が専業主婦である子どもの方が高い」というのは、どのような調査の結果なのか、またここでいう「異常行動」とは何を指しているのか、さらに、成長後の非行率はどうかなど、ここでは示されていない問題が多すぎる。例えば、思春期後に現れる神経症や人格障害(いわゆるボーダーライン)についても、エディプス期やそれ以前の時期に原因があるとする説もあり、「0歳から5歳まで」の間に「異常行動」がないから問題ないというのは、人間理解の欠如としかいいようがない。
 また、育児には責任感が伴うのが当然であり、それが母親にとってプレッシャーと感じられることは当然である。したがって「育児不安や、虐待にもつながりかねない過度なしつけをしている人の割合は、専業主婦の方が高く」なるのは当然で、育児をしない母親には育児不安もしつけも、やらないのだから問題が生じるはずがない。これは逆にいえば、就労女性の方が専業主婦よりも「職場での不安」を感じる人の割合が高いというのと同じ事なのである。これも、この回答の論旨からいえば「働かなければいい」という話になってしまう。しかし重要なのは、育児であれ職場の問題であれ、問題に出遭わないように逃げ回ることではなく、問題を解決し克服することであるはずだ。

[批判12] 男女共同参画は、夫婦別姓、世帯単位ではなく個人単位の諸制度、離婚における破綻主義、“事実婚”等を導入し、社会の基本単位である家族や家族に関する制度を破壊し、社会的安定・公序良俗・安寧秩序を破壊する「崩しの思想」である。
[回答12] 社会を構成しているのはあくまで個人です。家族は、それを望む個人がより良く生きていくためにつくり・営む、共生のしくみとして尊重されるものです。そして、その共生には多様なありかたがあり得るはずです。2000年の国勢調査では下図のように多様な世帯が存在していることわかりました。モデル世帯とされている夫婦・子ども2人という世帯は、全世帯の13.4%に過ぎません。単親世帯は、7.6%、単独世帯(一人住まい)は27.6%とモデル世帯の倍にもなり、世帯・家族の多様化が急激に進んでいます。従って税制度などはモデル世帯をもとにできず、個人単位にする方向しかなくなったのです。
 もし、個人を生きにくくさせるような家族のあり方があれば、それは当然批判されるべきです。例えば、家庭内暴力を許すような家族のあり方、構成員の誰かに不当な重荷を与えるような家族のあり方、特定の人を排除するような家族のあり方に対して。そして家族に関する制度は、家族は個人の尊重のうえに成り立つものだ、ということを前提に考えられるべきです。構成員の誰かが制約や不利益を受けることを許す余地のある制度、特定の生き方や家族のあり方を前提とする(つまり、それ以外のあり方を選ぼうとする人々に不利益になり得る)制度であってはなりません。ひとりも犠牲にされない人々の共生を可能にしていくことを通じて、安定性のある安全で住み良い社会を目指すのが、男女共同参画の考え方です。
[再反論12] 「家族」と「世帯」を混同した詭弁である。両者を混同することで、「家族の形態の多様化」を打ち出し、「家族」概念を相対化ないし否定しようとするこの手の主張は、以前からフェミニストが言ってきたことなのだ。しかし、まず「単独世帯(一人住まい)」は、そもそも「家族」とは呼ばない。
 また、ここでは明言されていないが「事実婚」(同棲)に至っては、当人達の意志によって行われるものであり、婚姻届を出すか出さないか、それによって社会的にどのような扱いの差が生じるかという事をわきえた上で、自己決定的に選択された形態である。自分たちでそのような形態を選択しておきながら、「それ以外のあり方を選ぼうとする人々に不利益になり得る」というのは筋違いであって、同棲している男女が婚姻届を提出することを妨げる規定は、未成年者や重婚などの場合を除けば、法的には存在しない。
 そもそも、この回答は批判に対して充分に答えておらず、論点をずらして口当たりのよい理念のみを述べている。しかしフェミニストは、現在のような家族制度は近代の産物である等、家族制度そのものを否定する主張を繰り返しており、今回の回答はそのような主張から目をそらすものになっている。なお、家族制度の否定は、フーリエエンゲルスなど、社会主義者の一貫した主張であることも、ここに指摘しておく。

[批判13] 男が女を守る−そうした自然な愛を排斥するのがフェミニズムである。
[回答13] 「男に守ってもらいたいとは思わない。しかし、危機が迫ったら、一緒に戦うか、一緒に逃げるかして欲しい。自分だけ逃げ出すような男は最低だ」。ある、20歳くらいの女性の発言です。一般に、強い者が弱い者を守る。それが「自然な愛」に基づくものなのかどうかはわかりません。しかし、望ましいモラルとは言えるでしょう。ただし、「男が強い者で、女が弱い者である」とは必ずしも言えませんね。
[再反論13] この回答の手口も「論点ずらし」である。また、[回答4]では男女の身長の分布の違いをも否定しているというのに、ここでは「ある、20歳くらいの女性の発言」を一般論化しようとしている。[回答]が全体として矛盾に満ちていることを、まず指摘しておく。
 そもそも、「男が女を守る−そうした自然な愛」というのは、男女についての一般論ではない。男性にとって守りたい女性もいれば、積極的に見捨てやろうかと思うような女性もいるのは、当然の人情の機微である(これは女性から見て、好ましい男性もいればそうではない男性もいる、というのとまったく同じ事だ)。つまり「自然な」というのは、動物的な本能の話ではなく、あくまでも社会生活上の「関係」から「このような場面では当然にして生じるであろう感情」を意味している。そして、これは現実に「男が強い者で、女が弱い者である」かどうかということとは別問題なのだ。お世辞にも強いといえないような男性でも、恋人を守りたいとか、恋人を守れるくらいに強かったらとは思うだろう。そういう感情は、どんな理屈でも禁じることはできない。
 これは特に女性に強調しておきたいのだが、自分の夫や彼氏はそんなことを考えていないというなら、それは貴女が愛されていないのである。少なくともその男性は、上の回答のような「フェミニズム・イデオロギー」を、貴女より愛しているのである。

[批判14] 母が子どもを産み・育てる−そうした自然な愛を排斥するのがフェミニズムである。
[回答14] 子どもを産んだり、育てたりする過程で親が子どもに対してもつ愛情が素敵なものであることを否定するものではありません。しかし、その愛が「自然な」ものであるとか、母に固有のものであるとか、あらゆる母が自動的に備えるものであるといったことは、もはや反証されています。父が子どもを育てる愛もとても素敵ですし、さまざまな要因で子どもとの愛情関係を形成できない人のことも見落としてはなりません。
[再反論14] これも反論になっていない。上と同様、「自然な」ということを動物的な本能の意味で解釈し、また父親の愛情を持ち出して母性愛を相対化しようとしている。
 まず、子供を愛することが「母親」だけに見られることだとは、誰も言っていない。もちろん父親の子供に対する愛もある。しかし「愛情のあり方」には男女で異なる傾向が見られ、これが「父性」「母性」と呼ばれている。子供に対する愛情は「母に固有のもの」ではないが、「母性」はその定義上「母に固有のもの」である。
 またこの母性愛が「あらゆる母が自動的に備えるもの」だともいっていない。たとえばフェミニズム批判を続けている林道義氏は、「本能」という言葉を多用するので誤解されやすいが、その林氏も母性愛が「あらゆる母が自動的に備えるもの」だとは言っていない。実証も何も、そうではないことは林氏自身が臨床の場で直接に経験していることであり、だからこそ、それを問題視しているのである。
 フェミニズムを批判する人の中で、母性愛が「あらゆる母が自動的に備えるもの」だなどと誰が言っているのか。フェミニストは、自分たちに対する批判を「本質主義」の文脈で解釈し、それを「本質主義 vs 構築主義」の図式に当てはめて反論する習慣がある。しかしこれは、自分たちが反論しやすいように批判を歪めているに過ぎず、まともな反論になっていない。このような「フェミニズムの手口」についても、指摘しておく必要があるだろう。

[批判15] 主婦が家族の世話をする−そうした自然な愛を排斥するのがフェミニズムである。
[回答15] 「自然な愛」と称して、家族の世話が、女性の役割(主婦という慣習上の制度)にするというかたちで為されてきたことが問題なのです。世話を必要としている人は、それを担える身近な人たちが自発的にかつ協力・調整し合って、また、社会的なサービスを活用しながら世話をしていくと考えるべきではないでしょうか。
[再反論15] これも、[回答13・14]と同じ手口の「論点ずらし」である。ここでの「自然な愛」の意味も、[再反論13]で述べたように、動物的な「本能」ではなく、社会生活上の「関係」から「このような場面では当然にして生じるであろう感情」の意味である。
 したがって女性が、ただ「女性である」というだけで家族を世話をするはずがない。女性が家族の世話をするのは、そのような活動を通じて「家族」とその外側の「社会」という2つの領域において自己が承認され、それによってアイデンティティが確立できる場合である。もちろん、この場合の「承認」とは、フェミニストが「家事労働に賃金を」というような金銭に限った話ではない。
 また、「家族」というのは企業のようなゲゼルシャフトではない。ゲゼルシャフトの成員が「契約」によって結び付いているのに対して、「家族」というゲマインシャフトはエロス的に結び付き、互いに気遣い合う関係であり、家事もまたこの「気遣い」という側面を持っている。家事を金銭に換算したり、賃金を支払って「社会的なサービスを活用」すればよいと考えるのは、そもそもフェミニストが「家族」とは何であるかということを理解していない証拠である。


3.性(セクシュアリティ)をめぐる論点
[批判16] 性と生殖に関する女性の自己決定権(リプロダクティブ・ライツ)を認めないのが世界的潮流である。
[回答16] 2002年12月にバンコクで開催された第5回アジア太平洋人口会議で、性の自己決定権は、ブッシュ政権のアメリカが反対しましたが、日本、中国、インド、マレーシア、インドネシア等31カ国が賛成、2カ国棄権で採択されました。世界には、確かにイスラム教諸国のように性の自己決定権を認めない国も少なからずあります。しかし、それら諸国と最近政策変更したアメリカの存在を「世界的潮流」と呼ぶのは、情報な恣意的な取捨選択ではないでしょうか?
[再反論16] 自己決定権を「認めないのが世界的潮流」とは、どこから出た批判なのだろうか。アメリカ1国の動向については知っているが、フェミニズム批判の文脈でこのような批判を見たことがない。回答にある第5回アジア太平洋人口会議に言及するために、フェミニストが創作した批判であろう。
 また、そもそも「リプロダクティブ・ライツ」をめぐる議論は、開発途上国などの虐げられた女性たちをどうするかという問題意識から生じたものであって、フェミニストが振り回しているのとは、本質的に別問題なのである。こういう論旨のすり替えの手口は、下記[再反論27]で指摘するような、フェミニストによる公立校の共学化の強制などにも利用されている。実際には「リプロダクティブ・ライツ」とは「リプロダクティブ・ヘルス」と共に使われる概念であり、途上国における母体の健康その他の保護や、新生児の死亡率の低下などをその目的としたものであって、先進国の性道徳について論じたものではない。

[批判17] 性と生殖に関する女性の自己決定権を認めよというのは、フリーセックスの推進である。
[回答17] 性と生殖についての女性の自己決定権という考え方は、最終的には、妊娠・出産をその身に担う女性の意思が尊重されなければ、女性の、個人としての尊厳、生命の安全は保障されない、という認識に基づくものです。つまり、妊娠・出産を身に負う人々である女性の人権を守る考え方で、結果的に女性が不利になるフリーセックスの推進とは結びつきようがありません。
[再反論17] 「女性の意思が尊重」されるということと、自分一人で決めるということとは別の話だが、この回答が主張しているのはあくまでも「自分一人で決める」ということである。下記[再反論20]でも指摘するように、セックスのやり方を教え、セックスは気持ちよいものだと教え、あとは本人の自由意思でやりなさいと教えることが、事実上の「フリーセックスの推進」の効果を発揮することは当然の帰結ではないか。

[批判18] 女性の、性と生殖の自己決定権を認めることは、夫の了解なく妻が勝手に中絶することを進め、家庭崩壊を招く。
[回答18] 出産や中絶について、夫婦で相談して決めることが大切であることは言うまでもありません。しかし、夫との合意が成立しない場合や、どうしても子どもを育てられない情況にある場合などには、最終的に、妊娠・出産をその身に担う女性の意思が尊重されなければ、女性の、個人としての尊厳、生命の安全は保障され得ません。ましてや、日本を含む世界の多くの地域では、男女間の政治的・経済的・社会的・文化的なアンバランスな力関係が完全に撤廃・解消されておらず、いまなお、女性が強制を受けやすい情況にあります。こうしたことから、性と生殖についての最終的な自己決定を女性の基本的権利と考えるものです。
[再反論18] この回答の理屈でいえば、母体に危険がある場合でも本人が産むといえば、事実上この女性を「見殺し」にして産ませるべきだという話になってしまう。つまり、この回答とは逆に、かえって女性の生命の安全が保障されないケースをも認めなければならなくなる。このような自己決定論の延長に出てくるのは、自殺の容認である。「女性が強制を受けやすい情況」というのも、このような自己決定権を前提とした言い掛かりであり、説得力を持たない。

[批判19] 「性と生殖の自己決定権」は、女子高校生、女子中学生が“援助交際”をすることを助長するものだ。
[回答19] 宮城県、千葉県、石川県、岡山県、大分県の中高生3133人を対象に警察庁「青少年問題調査研究会」が行った調査では、「同年代の女子が見知らぬ人とセックスすること 構わない 9.6%、問題だが本人の自由 58.1%」、「同年代の男女がセックスすること 愛し合っていればいい 38.0%、したければすればよい34.7%」、「援助交際によるセックス して構わない 5.9%、問題だが本人の自由 44.8%」という結果が示されています。“援助交際”などによるエイズの蔓延も大きな問題となっています。性に関する情報が氾濫するなか、性に対してこれほど寛容な現在の中・高生が、“援助交際”に追いやられたり、性的人権侵害に巻き込まれることを防ぐのに必要・有効なのは、性のタブー視や禁欲教育ではあり得ません。必要なのは、セックスや妊娠や性感染症についての正しい知識、自らの性に関することの自己決定の尊重とその力、他者の尊重理解・他者に対する想像力を育てること、衝動のコントロールなど、発達段階に応じた性教育です。家庭や学校できちんとした性教育を行っていくことこそ大人の責任です。と同時に、大人と子ども、金銭の払い手と受け手、とくに少女では男性と女性という三重の力関係の下、不当な性的強制を受けやすい18歳未満の子どもと、金銭を支払って性的かかわりをもつことを、法律(児童買春禁止法)で禁じ、性に関する自己決定の力が未発達・未成熟な子どもたちを保護しています。
[再反論19] 警察庁のアンケート調査は、昨年12月に新聞発表されたものでは、「同じ年ごろの女の子が、見知らぬ人とセックスをして小遣いをもらうことをどう思うか」という問いに対して、

 「問題ではあるが本人の自由」
  高校男子 50.1%
  高校女子 50.5%

 「しても構わない」
  高校男子 8.2%
  高校女子 3.9%

という数字が出ている。これは[回答]にあるように、現在の中・高生が性に対して「寛容」なのではなく、問題があると感じている生徒が過半数を占めるということを示している(中学生に対する同じ質問では、「してはいけない」と答えた生徒が、中学男子の55.3%、女子の54.6%という数字も出ている)。なぜ、「問題であると」感じているにも関わらず「本人の自由」と答えてしまうのかといえば、中学生ではまだ教え込まれた道徳をそのまま答える傾向が強いのに対して、高校生ともなればその根拠を考えるからである。そのため、直感的には「問題ではある」と感じているにも関わらず、なぜそれが悪いのかと言うことが説明できないので「〜が本人の自由」という答えになってしまう。学校などで、本人の自由だ、自己決定だと教えればこういう答えが出てくるのは当然であろう。

 回答では「性に対してこれほど寛容な現在の中・高生が、“援助交際”に追いやられたり、性的人権侵害に巻き込まれることを防ぐのに」といっているが、中高生をそのような状況に追いやっているのは、無原則な「自由」概念を教え込む大人であり、この回答に見られる考えこそがその元凶である。

 「問題ではあるが本人の自由」と「しても構わない」以外の回答をした高校生は、男子41.7%、女子45.6%で、その中には「無回答」とか「わからない」というのも含まれているかも知れないが、これに「問題ではあるが本人の自由」と答えた生徒も加えて考えると、大部分の生徒は売春を「してはいけない」または「問題である」と感じていることになる。この直観は正しいが、それにも関わらず、大人はこの直観を裏付け説明する言葉を持っていない。

 それどころか、この回答に見られるように、性のタブー視や禁欲教育は必要・有効ではないとして、セックスのし方を教え込む者さえ存在する始末である。このようなフェミニストの主張と、売春を「してはいけない」または「問題である」と感じている中高生の直観とで、後者が正しいことは明らかであろう。

[批判20] 性教育パンフレット『ラブ アンド ボディ』は、中学生に性交渉を奨めている。
[回答20] 中学生に対して、性について決定を委ねることと、自己決定できる力を持てるように教育していくことは、まったく別のことです。『ラブ アンド ボディ』には、「欲望のままに性交渉をしないように」と明記してあり、中学生のセックスを奨めてはいません。現在、大学生であっても、性について無知であったり偏った知識しかもっていない人が少なくありません。適切な性教育を受けることなく、メディアが発信する性情報だけにさらされた結果です。彼ら・彼女らが性的な不幸に見舞われることのないよう、家庭や学校で、セックスや妊娠や性感染症について正しい知識を提供していくことは大人の責任です。
[再反論20] 『ラブ アンド ボディ』は、この回答にあるように「自己決定できる力を持てるように教育」だけのものではなく、性交について詳細に論じ避妊の方法なども解説している。中学生の性に関する興味を散々に刺激しておきながら、「欲望のままに性交渉をしないように」という文章によってその欲望を抑えられると考えることは、あまりに非常識である。性教育は子供の発達段階に対する考慮が不可欠であり、その点でも同書は配慮を欠いている。


4.その他 の論点
[批判21] 暫定措置であることを明記しない積極的改善措置の規定は、女性の優遇を永続させる。
[回答21] 積極的改善措置とは、もともと、改善され格差がなくなったら必要がなくなる措置のことです。すなわち、暫定的であることは、はじめからその意味のなかに含まれています。
[再反論21] たとえば同和問題においては、改善措置が「同和利権」と呼ばれる問題を生み出している。またポジティブアクション(アメリカでいうアファーマティブアクション)は、実力で入学・就職・昇進した女性や黒人に対しても、それはポジティブアクションのおかげであって実力ではないといわれるなど、新たな差別問題を生み出していもいる。そもそも、このような措置は自由競争の原則に反するものであって、惰性的に継続することを防ぐ措置が為されることが必要である。したがってこのような問題は、暫定措置であることとその実施期間を明記し、一定期間ごとに、廃止か延長かを検討されなくてはならない。

[批判22] 男女共同参画はマルクス主義に基づく思想であり、変装した共産主義である。
[回答22] 男女共同参画社会基本法の前文は、男女共同参画社会について「男女が、互いにその人権を尊重しつつ責任も分かち合い、性別にかかわりなく、その個性と能力を十分に発揮することができる」社会と説明しています。つまり男女共同参画はあくまで個人の尊重を旨とする考え方です。その元には、社会に、性別による不平等や女性に対する差別が存在すると認識し、それらを撤廃しようとする思想や運動の総称であり、個人の尊重と平等、公正な社会をめざすヒューマニズムの一種であるフェミニズムがあります。フェミニズムの思想には、性別による不平等や女性に対する差別の歴史的な成り立ちの分析や、差別の撤廃・公正の実現の展望のしかたによって、いろいろな流れ、いろいろな立場があります。が、共通しているのは、フェミニズムは、単に女権拡張、つまり女性が男性並みになったり、女尊男卑の社会をつくることをめざしているのではなく、女性も男性も「女だから」「男だから」ということから解放されて、性別にかかわりなく、自分らしく、お互いを尊重しあえるような対等な人間関係をつくりだしていくこと、多様性を認め、誰もがありのままの自己表現ができること、自分を愛せることで他の人の命も大切にする、つまり人権が尊重される社会、また暴力(力による強制)のない平和な社会をつくることをめざしている、ということです。
[再反論22] フェミニズムやいわゆる「ジェンダーフリー」の主張が、空想的社会主義者フーリエや、エンゲルスの主張に極めて近似していることは、先年ジェンダーフリーと社会主義で示した通りである。また、マルクス主義もその主張が人間の「解放」にあったことは周知の事実であろう。しかし、そのような「タテマエ」が決して実現しなかったことを、人類は20世紀を通じて学んだはずである。したがってここで問題にしているのは、「お題目」ではなく、その中身なのである。
 時代や文化の違いを越えて「男女二分法」が普遍的に存在することからも分かるように、性別は人間にとって重要なファクターの一つである。単に生殖の必要上からではなく、多くの男女が日常生活において、性差の存在を前提として、エロス(よい感じ)を汲み上げているということは否定できない事実である。そこでは各人が、それぞれ「男であること」や「女であること」を引き受けつつ、自分なりの個性を発揮している。つまり「性別」は「個性」や「多様性」と相反する概念ではなく、けっして「男であること」や「女であること」が画一的な規範なのでもない。また、性別役割それ自体が否定されなければならない必然性も、「個性」や「多様性」といった考え方の延長線上に出て来るものではない。
 フェミニズムがマルクス主義に基づく思想だという指摘は、下記の[回答25]に見られるような専業主婦蔑視と、その背景にある「働けイデオロギー」を主に指している。それに対する上記の[回答]は、まったく論点がずれており、批判に答えていない。

[批判23] フェミニズムは、個人の問題を、男女間の敵対の問題にすり替えている。
[回答23] フェミニズムは、性別にかかわらず一人ひとりの個性や可能性が大切にされることこそをめざしており、男性を敵視するなどというものではありません。人を男性と女性に分け、この2群を違って扱ってきたのは(そのような慣行を性別分業といいます)、むしろこれまでの社会の方でした。たとえば、今なお、家事労働の大半は女性によって担われている、一方、就労の場では、日本の女性雇用労働者の平均賃金は男性の半分あまり、管理職の男女比は93:7、国会議員の男女比は9:1、というように、「性別にかかわらずひとり一人の個性」どころか、人が性別によって異なって扱われている現実があります。フェミニズムは、そうした、人を男/女と分けて違う扱いをする社会秩序・社会慣行を問題にしているのです。
[再反論23] 「性別にかかわらずひとり一人の個性」というのなら、そもそも管理職や国会議員の男女比を提示することに意味がない。個々の男女がそれぞれ自分の望む進路を選んだ結果として、男女比に差が出てもそれを不当だとする根拠はない。男女同数の実現のために進路を決めなくてはならないとしたら、それは全体主義的な発想である。
 もちろん、男女を問わず誰もが必ず希望の進路へ進めるわけではないが、それは自由競争の結果として生じる格差である。したがって、自由競争の条件として性別その他の要因に関わりなく「機会の均等」を実現することは必要だが、そのことは「結果の平等」を保証するものではない。

[批判24] フェミニズムは、男女を敵対物として捉える、階級闘争史観と同様の、西欧的な憎悪の思想だ。
[回答24] 性別で秩序化されている社会では、男女の間に利害対立や葛藤が生じる可能性はあります。そうした対立や葛藤は、隠蔽するのではなく、適切に解決・解消をはかるべきです。現実の問題を、見方の問題にすり替えてはいけません。例えば、現在、北の高度工業諸国と南の諸国の間には、経済の構造的な格差・利害対立があります。それを、「南北を敵対物として捉える西欧的な憎悪の思想だ」と評することがいかに抑圧的な隠蔽であるかを考えてみてください。南北間関係が仲良く良好であることは、もちろん望ましいことです。それは、両者の間の利害対立や葛藤を隠蔽することによってはなく、適切に解決・解消をはかっていくことを通じて可能となることです。
[再反論24] 「見方の問題にすり替え」ているのは、この回答の方である。男女間に利害対立が存在しそれを解決しなければならないということ、および、利害対立や葛藤を隠蔽しないということと、この対立をマルクス主義的な階級対立に見立てることの必要性とは、まったく別問題である。まったく論点がずれており、批判に答えていない。

[批判25] 男女共同参画社会は労働を至上価値とするマルクス主義に基づく「尊い家事育児を担っている専業主婦も含め、みんな働け!」イデオロギーである。
[回答25] 貴族社会では蔑まれた労働に高い評価を与えたのは近代資本主義であり、マルクス主義の労働観もその延長線上にあるということは広く共有されている認識でしょう。男女共同参画社会はむしろ、労働に至上の価値をおく近・現代の産業社会で軽視されしわ寄せを受けてきた家事・育児・介護など生活にかかわる活動の意義を、高く評価し直そうとする社会です。が、それらを特定の人(専業主婦)の役割にするような「慣行」がつづいてよいとは考えないのです。個々の人が、人生のある時期に就労をせずに家事労働に専念するのはもちろん自由です。そういう選択を含めて、女性も男性も、生活にかかわる活動について多様なやり方が認められ、選んでいけるような条件整備をしようというのが男女共同参画社会の理念です。
[再反論25] この回答は明確な「専業主婦蔑視」である。「人生のある時期に就労をせずに家事労働に専念するのはもちろん自由です」という一方で、「家事・育児・介護」を「特定の人(専業主婦)の役割にするような『慣行』がつづいてよいとは考えない」と述べている。では、専業主婦は「自由意志」によるものではなく「慣行」なのか。専業主婦には主体性がないと言うのだろうか。
 また、この回答でいう「労働」とは正確には「賃労働」であって、主婦の「家事・育児・介護」もまた「労働」であるという事を認めていない。回答にいう「近代資本主義」はあくまでも経済領域の話であるから、そこに家事労働が含まれないのは当然としても、このような偏った労働観(労働の意味を「賃労働」に限定する)を家庭の領域にまで持ち込むのは、マルクス主義に特有の考え方である。そもそも「経済の領域」と「家庭という領域」とは別原理に立脚するものであり、このような混同はまったく不当である。

[批判26] 国の男女共同参画会議や地方自治体の男女共同参画審議会はフェミニストに乗っ取られ、今やフェミニストは体制派となって、フェミニズムという全体主義をおし進めている。
[回答26] 回答22で述べたように、フェミニズムは、社会に、性別による不平等や女性に対する差別が存在すると認識し、それらを撤廃しようとする思想や運動で、個人の尊重と平等、公正な社会をめざすヒューマニズムの一種です。全体主義とはまったく相容れないものです。男女共同参画政策は、1980年ころからの、フェミニズムの視点で取り組まれる学問である女性学(近年では男性学も)の発展を背景に、その成果を採り入れながら整備推進されてきました。それは、フェミニズムの視点を基づく女性学(男性学)が、現代の性別に関する問題の解明と解決、人の平等と社会の公正をめざすうえで有効性をもっていたからです。一方、男女共同参画会議議員の半数は大臣ですし、残る半数の有識者も、また、地方自治体の男女共同参画審議会委員も、あくまで人の平等と社会の構成を多様な立場・見識が反映されるように選ばれることになっており、フェミニズムであれ何であれ、特定の思想をもつ人々が意図的に「乗っ取る」ことができるようなものではありません。「フェミニストのたくらみ」「陰謀」「乗っ取る」「全体主義」などという描き方は、フェミニズムに反感をもつ立場からの、それこそ意図的な言いがかりと考えざるを得ません。
[再反論26] このような批判は、決して「フェミニズムに反感をもつ立場からの」「意図的な言いがかり」ではない。たとえば、次に引用する「対談」などに基づく批判である。

上野 審議会って、そんな簡単に論理が勝つの? ホントかなあ。
大沢 利害代表の審議会でなければ、論理の戦う場です。それに、ここは特殊な審議会なんです。というのは、事務局が引き回したくても、その素養がないんです。大学で女性学を学んでいませんし、役所に入ってからも女性政策というのは本当に周辺の「ウメチル」(ウィメンとチルドレンの略、女子どもの意)ですから、ジェンダーという発想はまったくないわけで、結局委員が発言し、自分の発言したことを起草して、文章を作っていくという、稀に見る審議会だったんです。
(P27〜28)

大沢 「ビジョン」の特徴と意義を解説した私の論文を、参画室の事務局で「ビジョン」の起草に深く関わった男性のお役人が、立ったまま読みはじめて、そのままとうとう終わりまで読んでしまった。そして最後に「こういうことだったのか」って言ったそうです(笑)。
上野 今のエピソードは実に典型的ですね。つまり、納得しながら進めてきたんじゃなくて、あれよあれよと大沢委員に寄り切られて、ふりかえったら「そんなことやってしまっていたボクちゃん」(笑)ということなんでしょうか。
(P29〜30)

大沢 各省庁の課長補佐とか、企画官とか、参事官補とか、そういう役職についている四〇代の前半くらいの女性の官僚は、本人が自分についてどう言うかは別として、フェミニストでない人を探すほうが難しいという状況です。私はオーストラリアで言うような意味でのフェモクラットが登場していると思います。
(P52、文中の「フェモクラット」はフェミニスト官僚の意。フェミニスト・ビューロクラット)

 これはいずれも、『ラディカルに語れば…』(平凡社)という本に収められている、上野千鶴子と大沢真理の対談からの引用である。フェミニスト同士の対談であり、大沢真理は男女共同参画審議会委員として、男女共同参画社会基本法の制定にあたり、その政策決定家庭に深く関わってきた人物である。ここに引用した、その大沢の発言と、

また、地方自治体の男女共同参画審議会委員も、あくまで人の平等と社会の構成を多様な立場・見識が反映されるように選ばれることになっており、フェミニズムであれ何であれ、特定の思想をもつ人々が意図的に「乗っ取る」ことができるようなものではありません。

という上の回答との間には明らかに食い違いが見られ、この回答が事実を述べているものと解釈する事はできない。

[批判27] 国の男女共同参画会議には監視機能を与えられている。これは、市民生活を監視する全体主義と同じである。
[回答27] 国の男女共同参画会議がもつ監視機能は、各省庁の施策や方針が、性別について中立的であるように、つまり、いずれかの性別の人々に不利益を与えたり性別の偏りを作り出したりすることのないようモニターするもので、市民生活を監視することではありません。それは、労働基準監督局のように、事業所に出向いて使用者や労働者に尋問したり、違反があった場合の労働基準監督官が発動できる司法警察官のような権限も持っていません。市民の権利を守るための行政の活動を監視する機能を、市民の権利を制限するための全体主義的な監視機能であるかのように意味をねじ曲げて伝えるのは、悪意に基づく行為でしょう。
[再反論27] まず、最初の批判に「国の男女共同参画会議には」とあるが、「国」に限定した批判など誰が出したのだろうか。現実には、この手の批判は地方自治体の男女共同参画条例や、そこに盛り込まれているオンブズマン制度をも批判の対象に含めているのが普通である。上記の批判26には「国の男女共同参画会議や地方自治体の男女共同参画審議会」とあるのに、批判27で地方自治体について割愛されているのはなぜか。また、回答中の「市民」とは「個人」を意味しているようだが、批判中にある「市民生活」には、経済活動も含まれている。言葉の意味をすり替え、あるいは自分たちに都合のよいように限定してはいけない。
 たとえば、廃案になったとはいえ千葉県の男女共同参画条例(案)には、県の事業の入札資格まで、男女共同参画に沿う企業かどうかで制限しようとした条文が見られた。
 また、埼玉県では、生徒の意見を無視して、全県立高校の共学化を、このオンブズマン制度を利用して強行しようとした「事件」もあった。確かに、これらのオンブズマン制度には強制捜査の権利は与えられていないが、条例に基づいた「勧告」を行なうことができ、これが事実上の強制力を発揮するのである。しかも、フェミニストがこの監視機関員になり、そこに対してフェミニズム団体が告発を行ない、それに基づいて監視機関が「勧告」を出すという、事実上の「丸投げ」状態、フェミニストによる自作自演的な「独裁」を可能としている。
 このような、民意の反映なき「絶対正義」の断行は、フランス革命直後に見られた「恐怖政治」や「全体主義(ファシズム)」の本質にほかならない。

L.Jin-na


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