92. 「男女平等」について

神名龍子


 先日ある掲示板で面白い話を聞いた。「男女平等」について話をしていたら、「そんなに平等平等って言うくらいなら『イラクへ女性隊員も派遣しろ!』と、なぜ言えなかった?」といわれて言葉に詰まったというのである。しかしこの人は、イラクへ派遣される自衛隊員が男性ばかりであったことを、当然のこととして受け止めていたという。このことを、どう考えればよいのかということだった。

 私の考えでは、ジェンダーフリーが「男女平等」を盾に、「あらゆる場面で男性と同じであること」を要求するために、本来の「男女平等」が何であるかということに混乱をきたしたのだと思う。そこで今回は「男女平等」について考えてみたいと思う。


 私の考えでは、「男女が平等な権利を持つ」ということと、「男女が同じことをする」というのは、まったく別のことである。したがって「男女平等」を口実に、あらゆる面で男性と同じであることを求める、ジェンダーフリーの考え方が間違っており、かえって「男女平等」という理念を損なうものになってしまっている。

 「男女平等」とは何かというと、まず一つは社会の成員として対等なメンバーシップを持つということだ。これが「法の下の平等」であって、たとえば選挙で男性の一票も、女性の一票も同じに扱われるということ。あるいは、交通違反をしたら男性も女性も同じように反則切符を切られる(^^;)。男性の一票が女性の二票分に扱われたり、同じ違反をして男性だけ切符を切られたりしたら、これは誰でも(ジェンダーフリーの支持者でなくても)不当だと思うだろう。

 もう一つは「機会の平等」である。たとえば教育を受ける権利。昔は「女には学問はいらない」といわれた時代もあるが、現在ではこれは通用しない。ただし、これは社会全般での話であって、特定の学校が男子校であったり、女子校であったりするのは構わない。しかし、日本の四年制の大学がすべて男子校で、女性は短大にしか進学できないとしたら、これは不平等だというべきである。そして、就職などについても「原則として」性別で差をつけないということ。「原則として」というのは、男性も女性も、あらゆる個人は身体を持つ存在であるから、その制約は受けざるを得ないということだ。たとえば、映画を撮影するに当たってヒロイン役のオーディションを実施するのに、男性ばかりが応募してきても困るだろう(^^;)。これは極端な例だが、募集に当たって性別を問うことが妥当と考えられるケースもあるわけだ。

 つまり職種によっては、やはり性別による適・不適があって、それは考慮される必要がある。たとえば、やはり女性兵士のいる米軍であっても、彼女達を最前線に出すことはまずない。通常は後方支援。つまりロジスティックなどを担当する(もちろん、そういう場所が襲撃されないという保証はないから戦闘訓練はするが)。そういう意味で「性別役割」は必ずしも否定すべきものではなく、これを「すべて」否定しようとすると、

「そんなに平等平等って言うくらいなら『イラクへ女性隊員も派遣しろ!』と、なぜ言えなかった?」

という批判が妥当性を持ってしまうことになるのである。

 そしてどんな職種であっても、すべての個人は身体を持つ存在であり、性愛という側面を持っている。これは「労働」の秩序と、すごく折り合いが悪いものだ(^^;)。だから、たとえば夫婦の生活は「家庭」の場面で、仕事は職場でという分離がなされる。昔は「社会恋愛禁止」なんていうところもあって、今はそれほどでもないと思うが、しかし社内結婚の夫婦を同一部署に勤務させないとか、そういうことはあるようだ。

 そして軍隊(ここでは自衛隊も含めて)というのは生活全般が「勤務」である。夜中に敵襲を受けたからといって、「本日の勤務時間は終了したので明日来て下さい」とは言えない(^^;)。派遣期間中、ずっと生活を共にする。当然、男女の宿舎も分けなければならないわけですが、これはこれでまた、部隊運用の効率が悪い。男女混成の部隊を編成するくらいなら、いっそ女性だけで編成された部隊のほうが、まだマシであろう。

 しかし、男性だけの部隊と女性だけの部隊と、どちらを派遣すべきかといえば、男性の部隊だと考えるのが常識的な判断である。そして、そういう「常識的な判断」を、「ジェンダーにとらわれている間違った考え」だということはできない。

 なぜかというと、この「常識的な判断」が、上に述べたことやその他のさまざまな条件を繰り込んだところに成立しているのに対して、それを批判する意見は「男女を区別することは差別である」というイデオロギー的な理想理念だけを根拠としているからだ。この前提の違いが、どちらの判断が妥当性を持つかということに差をつけてしまうのである。

 また、これは別の話だが、数年前にアメリカで、フェミニストから「女性にも消防官の現場をやらせろ」という働きかけがあって、実験的に放水車を使った消火訓練をさせた。訓練に参加させる条件が、以下の通り。

 ところが、この条件を満たした女性達に、実際に消火活動をさせてみたところ、5分も持たないうちに現場は混乱して、訓練を全面的に中止せざるを得なくなったというのである。体力テストを問題なく通過出来たはずの彼女達は、誰一人として暴れ回る放水用のホースの蛇口を持ち続けることができなかった。逆に水圧に負けて吹っ飛ばされる始末で、5分も経たないうちに訓練場は大混乱。女性の現場行きについては見直さざるを得なくなったという。

 私から見れば、この実験の失敗の理由は明らかである。機動隊の「延長放水」(直接に放水塔からの放水ではなく、ホースとノズルを使用する放水)だって慣れなければ危険なのだ。機動隊の放水は基本的にはデモ隊等の人間に向けるものなので、消防の放水よりも水圧は低く設定されているが、消防の放水は雨戸やガラス窓などを水圧で破って建物内部の消火をすることを想定されているので、非常に水圧が高い。大学紛争当時、機動隊の放水では破れなかった東大・安田講堂のバリケードが、消防車の放水で吹っ飛んだという話もあるくらいだ(^^;)。

 条件に示された「体力テスト」が役に立たなかった理由は、体力テストではフルパワーを発揮することが可能なのに対して、現場の放水では体力テストと同じ力を出すことが不可能だからだ。ホースの筒先は高水圧によって常に動こうとする。そのホースを目標に向け続けるためには当然、筒先を常に微妙にコントロールし続けなければならない。ところが、この微妙なコントロールというのは、フルパワーを発揮している状態では不可能なのである。

 これは簡単に実験できることだが、たとえば茶碗に大豆を盛って、それを1つずつ箸でつまんで別の茶碗に移すとする。動作の正確さを優先すれば、パワーとスピードを抑えざるを得ない。フルパワーを発揮すれば、正確さとスピードが落ちる。また、スピードを優先すれば、正確さとパワーが落ちる。つまり人間の身体運動において「正確さ」と「パワー」と「スピード」は、それぞれ相反する要素なのだ。これが、彼女たちが現場で、体力検査から予想されるパフォーマンスを発揮できなかった理由である。

 したがって、高水圧に耐えながら、なおかつ筒先を正確にコントロールするためには、パワーに余裕を必要とし、なおかつ適度なパワーを発揮しつつ筒先をコントロールするための訓練を必要とする。男性隊員はおおむね前者の条件をクリアしているために、後者についてはオン・ジョブ・トレーニングでも間に合うが、前者の条件をクリアしていない女性隊員をいきなり現場に出せば、混乱するのは必然的な結末と言わざるを得ない。

 また、持続力の問題もあるだろう。つまり筋疲労の問題。もしかしたら消化開始直後の2〜3分間ほどは、それなりに活動できたのかも知れないが、大きな筋出力を維持し続けることができなかったということだ。あまり大きな筋出力でなければ、むしろ持久力のような面では、女性に利がある場合もある。しかし、この利点を活かすには、消火活動に要する筋出力は大き過ぎる。たとえば鉄棒に5分間ぶら下がり続けるのは、「微妙なコントロール」を必要としないにも関わらず、かなり疲れる。これも「5分も持たないうちに現場は混乱し」ということの一因になったのだろう。

 しかしこのことは、女性が高水圧による消火活動に向かないという以上のことを意味しない。このような事例があるからといって、彼女達が人格的に劣るわけでもなければ、公民として低い権利しか持ち得ないということもあり得ないのである。つまり、「適性」や「役割」と「社会的な平等」ということとは、まったく別問題として考える必要があるのだ。そうでなければ、実証的な体力テストによって、女性が「社会的に価値の低い存在」とみなされてしまうことにもなりかねない。ジェンダーフリーという思想は、その表看板に反して、このような「弱者否定」の危険をはらんでいる。その誤りを、近代原理を見直すことによって正し、役割や体力その他の違いに関わらず女性の「社会的な平等」を確保してゆくことを考えなければならない。

 また体力以外に重要なことは、集団で活動する際に他者に与える心理的影響の問題である。男性はどうしても女性をかばおうとするので、危険な場所で女性が一緒にいると落ち着かなくなり、これが作業にマイナスの影響を与える。このマイナスの影響は、消防士自身にとっても、救出すべき人たちにとても、危険の増大を意味する。

 いくら職業人として火災現場に臨場していても、消防士はあくまでも人間であって、消防機械ではない。そのため、このような心理的な影響から逃れる事は、極めて困難だといわざるを得ない。「女性は守られようと思っていない」という主張を聞いたからといって、このような心理特性が容易に消えるわけでもない、また「守られようと思っていない」ということが女性の総意であるわけでもないから、このような主張は問題解決のためには、まったく無意味である。このような、集団活動における心理的な要因というものも、考慮する必要がある。

 女性にも兵役のあるイスラエルで、女性兵士を前線に配置したところ、被害が増えたために前線配置をやめたという話もある。これもやはり、男性が女性をカバーしようと無理をしたためとのこと。となれば、やはり女性兵士は後方勤務となる。その主な任務は、ロジスティック(補給・兵站)だろう。つまりは「軍隊の台所」(といっても、もちろん食料ばかりを扱うわけではなく、武器弾薬や燃料その他あらゆる物資を扱う)であり、実はこの任務に女性が向くという話もある。

 こういう任務では、女性士官の指揮の下に男性が力仕事をする、ということもあるだろう。別に、女性が男性を指揮して悪いということはない。重要なことは適性の問題だからだ。

L.Jin-na


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