神名龍子
近年フェミニズムにおいて、ジェンダーのみならず、セックス(身体的性差)をも否定しようとする主張が目立ち始めている。しかし、セックス否定の主張にはどのような論拠があり、それはどの程度の妥当性を持つものなのだろうか。この点について、J・バトラーとCh・デルフィという2人のフェミニストの主張を取り上げ検討する。
まず前者についていうと、バトラーのテーゼは、〈主観/客観〉図式からいえば主観が客観を作り出すという考え方に対応させることが出来る。ニーチェはどんな視点からも唯一不変なものとしての〈客観〉(=真理)は存在しないという。存在するのは、たださまざまな〈主観〉にとっての解釈だけであり、これらの解釈のうちで最も強力で勝ち残ったものこそが〈客観〉と呼ばれていたものの正体だと主張する。同様にバトラーは〈セックス〉は〈ジェンダー〉という文化的な装置の作用によって生み出されたものだという。セックスは客観的に存在するのではなく、いわば「ジェンダー化された身体」である。ジェンダーという実践の反復が、人々をしてあたかもセックスが存在するかのように思いこませる効果を持つというのである。
ここまでは他の社会構築主義の主張と同じである。フーコーの、性をめぐる様々な言説的実践(や非言説的実践)の総体である「セクシュアリティの装置」に取り込まれるという主張と同様、ジェンダーという社会的・文化的装置が、人間の身体(という物質)を〈男/女〉という二つのセックスに分節するというのである。
しかしそれだけではなく、バトラーの懐疑論(ジェンダーおよびセックスの相対化)は、デリダの形而上学批判の戦略に、より多くを負っている。それは、あらかじめセックスが存在するのではなく、セックスが行為の言説的実践(の反復)の結果生じるというものだ。これは次のような、デリダの、意味の起源の確定不可能性という言語観に対応している。
ソシュールでは、言語表現は〈言おうとすること〉が発話される事で成立するとし、エクリチュール(書かれたもの)はその模倣に過ぎないとみなされる。だがデリダは、〈言おうとすること=根源としての現前〉が意味を持つのは言葉(再現前)が反復によって同一の意味を表示出来るからだとして、言葉の意味の始源性への遡行不可能性を宣言する(意味の起源の確定不可能性、現実を言葉で言い当てる事の不可能性)。
バトラーのいうジェンダーの「パフォーマティヴ」の反復が、デリダの主張の「言語」を「ジェンダー」に置き換えたものであることは一目瞭然である。
パントマイムという「パフォーマンス」がある。たとえば実際には何もない空間に、あたかも壁があるかのように振る舞う。壁にぶつかったように振る舞ったり、壁の表面を両手でなぞるような振る舞いを続けていると、それを見ている私達にも、まるでそこに本当に透明な壁があるかのように見えてしまう。バトラーの主張もこれと同じで、ジェンダーという「パフォーマンス」が持続反復されることで、「セックス」が客観的に存在するように思い込まされているに過ぎないのだ、というわけだ。
そしてデリダをベースにする限り、ジェンダーの起源はどこにも存在しない事になり、セックスは単なる虚妄に過ぎないという事になる。だが、このバトラーのジェンダーとセックスの相対化や、その元となったデリダの言語批判は、はたして適切なものだろうか。
実際には言語において、〈起源としての意味〉=〈現前〉は、〈再現前〉によって表出されるわけではない。私達が「これは本当だ」という形で言葉を使用することの内には、確かに本当のことを言っているという確信が成立する(=起源としての意味)という事実を含んでいる。
〈セックス〉に対しても、このような現象学の考え方を当てはめてみる。自分の〈セックス〉が何であるかということ(アイデンティティ)は、自分の内部に存在する〈根源としての男(女)〉の再現から生じたものではなく、自分自身を内省したときにその都度、自分は男(女)であるという確信が生じることを、最も基底の根拠としている。
確かに、人間の持つ世界像は各人の精神において構築される。しかし、これはジェンダーやセックスに限った話ではなく、あらゆる認識について例外なく当てはまる。
したがって、もしバトラーの主張を認めるのであれば、同じことが「性差別」についても言えるということになってしまう。つまり「性差別」なるものが本当に存在するわけではなく、それはフェミニストの言説実践の反復によって、あたかも存在するかのように演じられているに過ぎない、ということも出来てしまうのである。そして、ジェンダーやセックスは「主観」が作り出したものに過ぎないが、性差別は「客観」的に存在するといえる根拠は、理論的には存在しない。なぜなら、デリダやバトラーの論理では、そもそも「客観」の存在が否定されるからだ。
ではその世界像は、どのような分節を用いて構築されているのか。一つは、バトラーのいう反復である。「何度試してもこうなる」という経験は、彼女の指摘する通り、「おそらく次もそうなるであろう」という予想の根拠になる。
しかし、それだけが世界分節の原理ではない。重要なのは「間主観性」である。つまり、各人の世界像がおのおのの意識に現れているとして、私達はお互いの世界像を確かめ合うことで、その強度を強めているのである。自分に見えているものが、他者にも同じように見えているのだとすれば、それはたまたま自分に幻覚が見えているのではなく「現実」だと考えても(とりあえず)差し支えない。
もう一つは、欲望・関心による配視である。人間にとっての意味や価値は、単に外部からインプットされたデータなのではなく、自分の欲望にとっての有用性という判断が伴う。もし、他者から「これはいいぞ」と教えられても、それが自分の欲望に適わないものであれば無関心でいられるし、他者が関心を示さないものでも、自分にとって価値があると思えるものは大切にする。
したがって、「性」が人間にとって無関心事にならない限り、そして、性に関する人々の欲望の間に何がしかの共通性が存在する限り、バトラーの主張は成立しない。世界観が個々人の内面において構築されるものだということを全面的に認めるとしても、やはりジェンダーやセックスについての、人々の分節の仕方には共通性が生じてしまうのである。
ここには、バトラーが掲げる価値相対主義的な構築主義と、現象学の違いがはっきり現れる。現象学は「方法的」独我論を採ることによって、実は個々人の間に、認識の仕方においてある共通的な構造が存在することを明らかにする。一方、バトラーのような価値相対主義は、認識の共通構造を無視することでしか成立しない。しかしそれでは、誰が計算しても「2+3」が「5」になるという、単純な事実すら説明不可能になってしまう。多くの人が〈男/女〉というジェンダー/セクシャリティ秩序を生きているのには、強力な根拠が存在していると言わなければならないが、そのことについての考察がまったく欠けている。人間の欲望にとっての性別の持つ意味や根拠について考える必要があるのだ。
もし、バトラーが欲望や認識について、人間に共通のものがあると認めるのであれば、彼女はジェンダーやセックスが(特に性二分制が)普遍的に妥当するということを認めざるを得ないであろう。また逆に、人間の欲望や認識に普遍性を認めないのであれば、彼女の主張それ自体が独我論に過ぎず、他の人々に共有される根拠が存在しないということになる。したがって、そのいずれにしても、彼女の主張は広く納得を得るものにはなりえない。
構築主義は、近代哲学におけるイギリス経験論やドイツ観念論、あるいは現象学などと比べて、きわめて中途半端である。構築主義では、人間の認識の構造が突き詰めて考えられていないからだ。そのために、バトラーのような一面的な認識論(=構築主義)になってしまうのである。認識論に限った話ではないが、実はポストモダン等の現代思想は、近代哲学と比較しても、はるかに後退した位置にいる。せいぜい18世紀のカントにたどり着くかどうかというところが今のところの限界であり、この行き詰まりには、ポストモダニストには自覚されていない、明確な理由が存在する。しかし、これを説明するには近代哲学の説明を展開する必要があり、別の機会を期すことにする。
(参考:「クィア理論とポスト構造主義−反形而上学の潮流として」野口勝三、『Queer JAPAN』Vol.3所収)
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ラディカル・フェミニストであり、かつ唯物論的アプローチを主張している私たちは、数年間に渡って考察をつづけた結果、家父長制を理解するためには家父長制イデオロギー全体をラディカルに再検討する必要があるという暫定的な結論に達した。私たちは家父長制イデオロギーのあらゆる基本前提をしりぞけなければならない。つまり、家父長制イデオロギーよりもむしろ現実自体によって生みだされているように見えるカテゴリー、たとえば「女性」「男性」というカテゴリーまでも含めてしりぞけなければならないのである。私たちの目下の研究をごく手短かに要約するならば、私たちは、ジェンダー−女性と男性の相対的な社会的位置−がセックスという(明らかに)自然的なカテゴリーにもとづいて構築されるのではなく、むしろ、ジェンダーが存在するがために、セックスが関連的事象になり、したがって、知覚対象のカテゴリーになったのだと考える。 多くのフェミニストも含め大多数の人々にとっては、解剖学的セックス(および、その自然的な意味合い)ジェンダー−技術的分業−を作りだす、あるいは、少なくとも可能にするということになっている。そして、今度はジェンダーが一方の集団による他方の集団の支配を作りだす、あるいは、少なくとも可能にするというわけだ。しかし私たちは、抑圧がジェンダーを作りだすと考える。つまり、論理的には、分業の階層的序列が技術的分業に先立って存在していて、技術的分業すなわちジェンダーと呼ばれる性別役割を作りだしたのだと考える。人間の階層的な二分割が解剖学的差異(それ自体には社会的な意味合いはない)を社会慣行に適合した区別に変化させるという意味において、今度はジェンダーが、解剖学的セックスを作りだしたのである。社会慣行が、しかも社会慣行のみが、一つの自然的事象(あらゆる自然的事象と同じく、それ自体には意味がない)を思考カテゴリーに変化させるのだ。 以上はもちろん仮説であり、実証(または反証)されるまでには数年かかるだろう。というのも、この仮説は、現在、議論の余地のない自明のことように(ママ)見えていること−つまり、生殖において男女の果たす異なった役割は、この差異にもとづいて結果的にどのような社会形態が構築されようと、社会全体にとって本質的な重要性をもたざるをえないということ−にまさしく反しているからである。過程は、実際には、これとは逆になっていて、当の差異(すなわち、この差異に付されている意味)は社会慣行の最終的な結果なのであって、社会慣行の基盤をなしているのではない、ということを証明するのは、冒険的な企てである。にもかかわらず、この賭を私たちはやりたいと思っているのだ。 (「家父長制とフェミニズム、それに関わる女性知識人」、『なにが女性の主要な敵なのか』所収、P182〜184) |
デルフィは「唯物論的アプローチ」を主張するくらいだから、(バトラーと違って)すべてを人間の認識に還元しようとは考えない。したがって、身体的な性差それ自体は、客観的に存在すると考えられている。ただし彼女の考えでは、それ自体はまったく意味を持たない差異として考えられており、そのような、「それ自体としては意味を持たない解剖学的差異」に意味付与をするのがジェンダーである、と考えられている。
彼女の主張する「考える順序」は次のようなものだ。まず、抑圧が先にあり、これがジェンダーを作りだす。分業を決定する序列が、性別役割(技術的分業)に先行して存在する。その後に、ジェンダーがセックスを識別するというのである。
したがって巷間いわれているような、「ジェンダーがセックスを作りだす」という理解は、デルフィの主張を単純化することによって歪曲するものである。彼女は、男女の解剖学的差異が客観的に存在することを認めた上で、人間がそれに与える「意味」がジェンダーによって作られたのだと主張しているに過ぎない。
おそらくこのような主張の背景には、性差と性差別の同一視と、男女対抗図式がある。 デルフィの考えでは、女性はすべて被抑圧者と位置付けられなければならず、同時に男性はすべて抑圧者と考えられなければならない。もちろん、片方の性が抑圧者であり、他方の性が被抑圧者であることには、本質的な根拠はなく、それは単なる「社会慣行」である(そう考えなければ、性差別を解決不可能なものと認めなければならない)。そう考える限りにおいて、たとえば女性が出産という身体的な特質を持つがゆえに、現在の性別役割を持つのだと考えることを否定することが出来る。
そこでデルフィは、常識的な考え方をすべて逆転させる。つまり〈セックス→ジェンダー→抑圧(性差別)〉という図式を逆転させて、〈抑圧→ジェンダー→セックス〉と考えるのである。もちろん、ここでの「セックス」は純粋に物質的なそれではなく、人間が(あるいは男性が)セックスに付与する意味付けのことを指している。
このような考え方をしなければならないのは、そもそもラディカル・フェミニズムが持っていた「性差があるから性差別が起こる」というドグマが間違っていたからであり、この誤ったドグマを正当化するという動機に支えられてのことなのである。
しかし私の考えでは、このデルフィの目論みが成功しているとは考えられない。もしデルフィの主張の通りにまず最初に抑圧が生じたとしても、その段階で、被抑圧者の立場は女性に与えられていたことになる。そもそも抑圧/被抑圧の関係が、解剖学的差異と合致していたからこそ、解剖学的差異に対して社会慣行に基づく意味付与が可能になるのである。したがってデルフィの主張は、最初の段階において、性別の識別が存在していたと考えなければならないパラドクスを抱えている。
また、デルフィの考え方で行くと、逆説的に、ジェンダーやセックスを否定することには意味がないという話になってしまう。大元の「抑圧」を解消しない限り、どんなに性差を否定しても、新たな性差(ジェンダーとセックス)が生み出されるという話になるからで、性差否定は単なる対症療法という話になってしまうのだ。
また、男女を抑圧/被抑圧という関係のみでとらえる男女対抗図式を前提としていることが、そもそも多くの男女の実感にそぐわない。ジェンダーであれセックスであれ、人々がそれらに対して感じている「意味」は、対立的なものに限定されているわけではない。
私達は(男女とも)、性差がエロスの源泉であることを直観的にも経験的にも知っているので、男女の間に抑圧/被抑圧関係が存在しなくても、解剖学的差異に対するエロス的観点からの意味付与がなされるであろうこと、また現に私達がそのような意味を伴って「男や女であること」を生きていることに納得するのである。
繰り返すが、デルフィのこのような主張は、「性差があるから性差別が起こる」という誤ったドグマの正当化という限定的な視点から出ており、それ以外の視点で性をみることが、すべて排除されている。しかも、このドクマが「差異」と「差別」の同一視という、およそ差別の本質を突きはずしたところから出ていることは、既に何度も指摘している通りである。
逆にいえば、このようなデルフィの主張に賛同することは、差別の本質を理解していない上に、男女を対抗図式でのみ捉えるという前提から出発しなければならない。もちろん、この二つの誤った前提が、行政が採用すべき性格のものではないことは明らかである。
付け加えていえば、ジェンダーがセックスに意味付けをするという見解は、一面的には正しい。デルフィがいうところの解剖学的差異に対して、私達は確かにジェンダー的な意味を与えている。たとえば、体毛、性器、乳房、体形、髪型、筋肉などの身体的な諸特徴は、男女のセックスアピールとして機能するが、このセックスアピールとは、生物学的な機能ではなく、エロティシズムという幻想的価値観を掻きたてるものに他ならないからだ。したがって、人間のジェンダーの在り様が身体に意味付与をするというアイデア、それ自体には、一半の正しさがある。
しかし、これらの身体的な差異の意味を抑圧から生じたものと考えたり、男女を対抗図式でのみ捉えたりという、誤った前提を脇において考えるのであれば、これは誤った考えだ。要するにデルフィが主張するのは、人間が男女の身体(の差異)に対して意味付けを行うこと一般の否定である。しかし、人間は様々な意味や価値の世界を生きるような存在であって、このような意味付けや価値秩序それ自体を否定することは出来ない。デルフィの拙さは、このような意味付与はすべて抑圧が根本原因であり、したがってこれをすべて否定せよということにある。
それから、デルフィを擁護するわけではないが、重要なことは、彼女自身はこの自説を、実証されていない仮説だと明言しているということである。ところが日本のフェミニスト(や、そのシンパ)には、このことを無視して、デルフィの「仮説」を、あたかも実証済みの論理であるかのように振り回す者がいる。そのためには、まずこのデルフィの「仮説」を実証しなくてはならないはずなのだが、、日本のフェミニストは実証抜きでこれを真理として「騙る」のである。
ところがこの考え方では、まだフェミニストにとって問題が残ってしまう。ジェンダーとセックスを無関係なものと定義したことによって、セックス(身体レベルの性差)を相対化ないし否定することが出来なくなってしまったのだ。そうすると、男女には体力差があるからとか、身長が違うからといった問題については、口出しできなくなってしまう。
そこで、ジェンダーとセックスの両方を否定する論理が求められることになる。そのためにフェミニズムは「転回」して、一度は自分達が「無関係」だとしたセックスとジェンダーとを、再び関連付けて考えざるを得なくなった。そこに出てくるのが、バトラーやデルフィの主張なのである。
2つ目には、日本の社会主義化である。たとえば、『ジェンダーフリー・性教育バッシング ここが知りたい50のQ&A』(大月書店)という本の「はじめに」の部分に、浅井春夫・性教協代表幹事が次のようなことを書いている。昨今のジェンフリ・性教育バッシングは四つの柱・重点をもって推進されている…という意味のことを述べ、
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第一の柱である「政治」については、憲法の理念から離れた政治がすすめられ、憲法「改正」が議論にのぼるまでになっています。戦後の民主主義である平等の理念もたんなる機会(チャンス)の平等とされ、結果の平等は政治の課題から遠ざけられつつあるのが現状です。 (同書・P12〜13) |
とあるのだが、遠ざけるも何も、戦後の日本が社会主義になったわけではないのだから、「結果の平等」など最初から入っておらず、それは社会主義者・共産主義者が主張していたに過ぎない。
近代は「フェアな自由競争」による自己実現の追及を実現する。ここがよく誤解されるところなのだが、「自己実現」が保障されるのではなく、「自己実現の追及」が保障されるのが、近代社会である。だから、「結果の平等」など、最初から政治課題に含まれているはずがないのである。
しかし「結果の平等」という考え方も、これはマルクス以前から存在しているもので、そういう考え方が出てきたことには、それなりの理由がある。なぜかというと、近代以前のヨーロッパでは、貧富の差と身分制度がつながっていたからだ(この点、武士が貧しくて、士農工商の序列の最下位にいた商人が富を握っていた日本の前近代とは事情が異なっている)。そのため近代になって、世襲的な身分制が廃止されたことで、貧富の差がなくなるという期待をした人達が、ヨーロッパにいた。ところが、実際にはそうならなくて、ブルジョア階級が急速な伸びを示す。しかも産業革命が追い討ちをかけることで、貧富の差がますます開いてゆく。ヨーロッパの近代初期には、そういう問題があった。
この傾向は、フランス革命に既に見えていて、大雑把にいえば「機会の平等」や「自由競争」を求めたブルジョアが穏健派・漸進派のジロンド党、「結果の平等」を求めた貧農層や都市貧民層が急進派のジャコバン党である。最初は両派が手を握って革命を成功させたけれども、貧しい者は貧しいままじゃないかということで、急進派のジャコバン派が主導権を握って、恐怖政治を行なう。
近代批判をする保守論客の中には、これを指摘して民主主義は必ず全体主義になるという人がいるが、これは的外れな近代批判で、これはむしろ、社会主義・共産主義が必ず抑圧的な国家を作るということを示している。いわばこれは、「機会の平等」や「自由競争」を求める自由主義と、「結果の平等」を求める社会主義との冷戦構造の先取りだったのである。
ここで重要なことは「結果の平等」と「自由」とは両立しないということだ。「機会の平等」は「自由」の実現のための条件だが、「結果の平等」を求めようとすれば「自由競争」を抑圧せざるを得なくなり、そのために必ず強大な権力を中央に集中させる必要が生じる。
そして、「結果の平等」が自由を抑圧するということは、「結果の平等」が「自己決定」とも両立しないということである。現在の左翼やフェミニストは、そういう矛盾した主張を繰り返しているわけだ。このことは、フェミニズムの問題に限らず(しかしフェミニズムの問題も含めて)、絶対に忘れてはならないポイントである。
ジェンダーフリー派が「結果の平等」を求めるものだということは、彼らが実質的に「自由」の抑圧を志向していることの言明である。彼らのいう「自己決定」は、それはあくまでも「結果の平等」に反しない限りで認められるに過ぎない。現に、女性が自分の意思で「専業主婦」であることを自己決定しても、それはジェンダーフリー派に罵られ、育児のために退職を自己決定しても、「M字型就労」はダメだと主張しているのが、その証拠だ。このことからもジェンダーフリーが社会主義の実現を目指していることは明らかである。
3つ目として、これは上記の1つ目の動機と関連することだが、フェミニズムそれ自体が抱えている論理矛盾の問題がある。もともとフェミニズムそれ自体が、性二元論を前提とした男女対抗図式を前提においているために、どのような性差否定の論理を展開しても、必ず自家撞着に陥ることは必然的なのである。
フェミニズムが、この呪われた運命から脱却するためには、「男女対抗図式」と「性差があるから性差別が起こる」という、この2つのドグマのうち、少なくとも片方を捨てなければならない(実はどちらも間違っているのだから両方捨ててしまうことが正解なのだが)。それをしないから、どんな論理も打ち出しても必ずそこに矛盾が含まれてしまい、ああでもない、こうでもないと、次々に新しい論理を考えなくてはならなくなるのだ。しかし、どのような性差否定の論理を打ち出しても、男女対抗図式を捨てない限り、そこには必ず矛盾が含まれてしまうことになるので、決してこの矛盾を乗り越える「正解」は出てこない。
フェミニストが考えるべき事は、いかにして性差否定を根拠付けるかということではなく、なぜこのような矛盾が生まれてしまうのかということを、謙虚に反省することなのである。では、なぜそれがなされないのか?
それは、性差を否定すべきだということの本当の動機が隠されているからだ。本当の動機であるフェミニストの「昏い情念」(ルサンチマン)は隠されたまま、そこから出てきた「性差否定」を実践することの正当化を、まったく別の、学問を仮装した杜撰な理論によって行う。だけど、フェミニストの「昏い情念」の存在は、直観的には人々もわかっているために、説得力を発揮することが出来ないのである。
だから、つまるところ「押し付け」以外には取る手段がなくなる。この「押し付け」を正当化する理論は、マルクス主義に由来する。自分たちの信奉する「真理」が他の人々に対して説得力を持たず、民意を問うことによっては実現不可能な場合に、どうすればよいのか。人々を「真理」に気が付かない愚者と位置付け、自らを「真理」を握っている前衛と称することである。そして、今は人々の賛同は得られないけれども、自分たちの「真理」が実現すれば、人々もその正しさを認めるはずだ、という。そこで「理論よりも実践」という考え方が出て来るのだ。
しかし、このような考え方は信念対立を引き起こしこそすれ、それ(信念対立)を乗り越える原理を持たない。そのため、異なる「真理」を掲げる集団が出て来た場合には、いずれが正しいかということをあらかじめ決定することが不可能である。それぞれが「自分たちの真理」の実現を目指そうとすることによって、宗教戦争と本質を同じくする、解決不可能な対立に陥ることは、必然なのである。
こうなると「最終的に勝ち残ったものが正しい」という話になってしまう。恐怖政治やスターリニズムにおける「粛正」も、このような「民意を無視する」ことから起こるわけで、フェミニズムにもまったく同じ構造が存在する。
そして「最終的に勝ち残ったものが正しい」のであれば、実は理論なんかどうでもよいのだ(笑)。その場その場で生き残って行くことが最優先なので、そのためには、レッテル貼りでも詭弁でも、使えるものは何でも使う。フェミニストは数年前までは、性差の否定を露骨に主張していたのに、今では口を拭って「ジェンダーフリーは性差否定ではない」と主張している。このような態度も、そういう運動体質から出ているのである。
