94. セックスは否定できるか・2

神名龍子


 前回のセックスは否定できるかについて、デルフィについてはわかったが、バトラーがよくわからないというご指摘をいただいた。そこで今回は、角度を変えて再度バトラーについての説明を試みることにした。まずは『自己決定権とジェンダー』(岩波書店,2002)に見られる、江原由美子氏のバトラー解釈を、以下に簡略にまとめてみる。

 かつてジェンダーとセックスは、無関係かつ対立的なものと定義されていた。しかし、このようなジェンダー概念の使い方は、、身体を社会や文化から切り離してその外に置いてしまうことになる。現在のジェンダー概念は、身体と対立するものではなく(社会的・文化的に形成された「性別」それ自体ではなく)、性別についての社会的・文化的に形成されている広い意味での「通念」や「知識」、またそれらに基づく言説実践や社会的実践という意味で使用されることが多い(江原はここで、ジェンダーフリーも後者の意味と矛盾しないという)。

 この新しいジェンダー概念においては、セックスもジェンダーの一部として扱うことができる。性別についての「通念」や「知識」には科学的・学問的知識も含まれるので、たとえば近年いわれているような「脳の性差」もジェンダーである。ただし、身体的性差が「間違いだ」とか「実際には存在しない」というのではなく、身体的性差についての「知識」も社会過程を経て作られ、流通させられているということである。現在の科学において見出された身体的性差の見方は、現代社会におけるジェンダーをめぐる政治的文脈における身体的性差の見方である。したがって私達が生物学的身体と思っているものは、科学や医療や政策など、社会の制度的配置のなかで、そのようなものとして「構築」されたものであり、ゆえにこれもジェンダー(新しい意味での)なのである。

 身体を言説によって構築されたものと見ることは、身体の「物質性」を否定することだろうか(そうではない)。私達は、何かが「文化的構築物」であるというと、それを意識的な選択の産物でありう、意識で簡単に変えられるものと考える傾向がある。しかし、「構築」されるということはむしろ「強制」と分かちがたく関連している。文化的・社会的条件が変われば、別の「構築」が可能になるかもしれないが、個々人にとって変えようと思って簡単に変えられるものではない。身体が「構築」されるとは、そういう意味である。身体には大きく「意識の客体としての身体」(物質としての身体)と「身体経験」の2つの意味があり、後者には、知覚、運動、自分の身体状況についての経験の3つがある。バトラーが問題にしている身体は後者(身体経験)である。

 この社会において、「物質としての身体」と「身体経験」とは「知識」の中で関連付けられている。他者の身体経験を、直接に経験することは出来ないが、しかし私達は、他者も自分と同じ身体経験を持つであろうことを想像して、他者の身体を「構築」している。

 しかし両者には共通点もあり、それは「意識」の外にあるということである。ここで、この「意識」を「言語表現」に置き換えてみると、「身体はつねに言語の外にあるものとして言及される」(by バトラー)ということになる。つまり身体は、言語に先だって存在するものとして現れる。

 これを逆転させると、言語に先行して存在するものとして身体を表示する言語実践(とその反復)が、この社会の「身体という形象」を作っているといえる。通常は、身体があるからその身体を言語で指し示すのだと考える。逆に、そのような言語の使い方の習慣に基づいて、身体という形象を「構築」していると考えるとき、身体を「社会的・文化的構築物」と位置付けることが出来る。

 では、このような身体の見方の変更に、どういう意味があるのか。第一に、私達は他者の身体経験を一定の考え方の枠組みの中で「構築」しているということ。したがって他者の身体経験は、その枠組みによって(社会的に)肯定されたり否定されたりする。第二に、こうした身体経験の肯定・否定には、権威や権力が作用している。第三に、「物質的身体」は身体経験(の訴え)によって見出されたり探索されたりする。どんな物質的身体を探索するかは、それ自体社会的に「構築」されている身体経験によって規定されていることが多い。

 「意識」を「言語」に置きかえる前のところまでは、ほとんど現象学と同じ見方で、これはおそらくデリダの影響が強く出ている部分なのだと思う。また後半には、フーコーの影響が強く見られる。

 私なりに補足すると、ここで江原が「物質的身体」と呼んでいるのは、それが意識にどのようにとらえられているかという「身体観」のことだ。この考え方は以前の、ジェンダーとセックスを無関係なものと考えるよりは進んだものになっている。

 以前の考え方では、「セックス」は「身体観」ではなく、客観的に存在する物質(的身体)として考えられていた。この考え方でいうと、たしかにジェンダーは客観存在としての物質的身体とは関係ないと主張し得る。物質と意識の因果関係など証明しようがないのだから、遺伝子のような物質的根拠からジェンダーが発生するのだということは、原理的に証明不可能だからだ。しかし、人間の意識にとっての「身体観」と「ジェンダー」の関連を考えることは可能である。古いジェンダー観においては、この「身体観」が見落とされていたのだ。

 しかし江原=バトラーの主張に見られる「物質的身体」は、明らかに「身体観」のことであり、身体観とジェンダーの関連について言及している。したがって、これは上記のような言い方では批判することが出来ない。

 ここでの、江原=バトラーの主張を、私なりに補足しながらまとめると、こういうことだ。人間は自分の「意識=主観」の外へ出て、客観それ自体を確かめることは出来ないのだから、物質的身体といっても、それは必ず、知覚や経験を通じて「意識」に表れるもの、あるいは「意識」への様々な現れから「構築」されたものである。これが一点目であり、この部分は現象学的にも正しいといえる。

 次に、なぜ「意識」を「言語」に置き換えなければならないのかというと、ジェンダーや身体観を独我論のレベルにとどめずに、社会的な産物だと結論付けなければならないからだろう。私達は他者の「意識」を直接に経験することはできないが、言語は交換可能なものなので(つまり他者と会話ができるということ)、この目的に適しているのだ。そして、社会が権力関係の網の目であるということと、いかなる言説もその時代の「知の枠組み」(エピステーメ)の規定を受けているというフーコーの考えを持ち出して、一切の「意識=言語」に現れるものをすべて社会の構築物だと結論付けているのである。

 この主張のどこが間違ってるのかというと、「意識」を「言語」に置き換えたことである。実際には「意識」と「言語」はイコールではないので、単純に置きかえることは出来ない。両者はまったく別レベルの存在であり、したがって、ここに詭弁のタネがある。

 江原=バトラーがいう言語実践(とその反復)が、本当に、この社会の「身体という形象」を作っているといえるかどうか、具体的な場面を想定して検討してみよう。

 たとえば誰かが怪我をして血を流しているのを私が見る。その人が「痛い」といえば、私は、出血するような怪我をしているから痛いのだろうなと納得し、その痛みを想像することもできる。私が「見た」相手の身体が「物質的身体(観)」であり、想像した痛みというのは、相手の身体経験を想像しているわけだ。そして私は、江原の言うように、この2つを関連付けて理解する。

 ここで重要なことは相手が発する言語(「痛い」)と、私の知覚(相手の出血を「見る」)との間に矛盾がないということだ。だから、簡単に納得できるのである。では、そうでない場合は、どうだろうか。たとえば相手が「痛い」といったけれども、外傷が見られない。そういう場合に、私はまず「どうしたの?」と尋ねる。それで相手が、「外傷はないけど、腕を思いきりぶつけてしまった」といえば納得する。あるいは、相手が「何だかわからないけど、とにかく痛いんだ」といえば、その痛みの原因を見つけ出して納得しようとするか、それでも原因が見つからなくて不思議に思うか、そうでなければ相手が嘘を言っていると思うか、そのいずれかの態度を取るだろう。

 これは、「身体」の問題というよりも「現実」の問題である。私達が「これは本当だ」と納得できるためには、いくつかの条件があって、そのひとつは、そこで起こった事態に整合性があるということだ。もちろん、この整合性には他者の言動も含まれる。誰かの肌を羽毛で撫でたら大げさに痛がった…というような場合には、私達は迷わず「ウソつけ!」というだろう。

 しかし、「怪我をしたら痛い」とか、「羽で撫でられたら痛いはずがない」というのは、社会的に共有はされていても、社会的に「構築」されたものだとはいえない。なぜかというと、それは社会的・文化的な問題ではなく、人間の文字通り「身体性」の問題だからだ。もっと極端なことを言えば人間が、首を切られたり、釜茹でにされて死んでしまうのは、「そうされると死んでしまうんだよ」ということを社会的に教え込まれたからではない。

 つまり、身体に関する「知識」が、社会に共有されているということと、それが社会的に「構築」されたものだということとは、必ずしもイコールではないということであり、この二つを混同してはいけない。どんな知識も「経験」に基づいて「構築」されることは確かだが、そもそも「経験」とは何であるか。また、私達にとって身体が「意識」の外にあると感じられるのはなぜか。

 簡単にいえば、現実を経験するということは(私達に、これは現実を経験しているのだと確信が生じる条件は)、「逆らえなさ」である。たとえば、目の前にリンゴが置いてある。空想で思い浮かべたリンゴは自分の意思いよってかき消すことができるが、目の前に置かれたリンゴは、そちらに視線を向けているかぎりかき消すことはでき来ず、否応なしに見えてしまう。そういう「逆らえなさ」を伴うものを、私達は「現実」だと思うのである(もし突然にリンゴが目の前から消えたら、それは上に書いた、現実としての整合性を欠くということだ)。

 したがって、社会や文化が変わったら、私達の世界分節もいかようにも変わる、というわけではなく、私達の世界観はこの「逆らえなさ」に根拠を置いている。そうでなければ、そもそも現実世界という概念が成立せず、したがって政治や社会について考えることにも意味がない。江原=バトラーでは、このような「確信成立の条件」について充分に考えられていないために、一種の「唯心論」になってしまっている。ここが現象学とはっきり違っている。

 江原=バトラーは、人々の見解の一致の原因を「社会による規定」に求めるが、現象学では「人々の認識構造の普遍性(共通項)」に求める。現象学が世界観の一切を認識(意識=主観)に還元するのは、世界(や性別)を相対化することが目的ではなく、人間の認識の構造とその共通点を取り出すことだ。江原は社会学者であり、現象学的還元を社会学に取り入れたシュッツのことは知っている。しかし現象学そのものの理解が出来ていないために、これを安易に価値相対主義の手段として受け入れてしまっている。

 そして、この江原=バトラーの主張には、古いジェンダー観(=セックスと無関係なもの)と共通の、致命的な欠点がある。それは、「なぜジェンダーが時代や文化の違いを越えて男女二元性をとっているのか」ということの説明ができない、ということだ。男女二元性に普遍性があるということは、これはフーコーの言う「エピステーメ」(時代ごとの知の枠組み)の問題ではありえない。

 現象学的には、これは簡単に答えることができて、人間の身体に男女の性別があることが(そういう身体性が)、時代や文化の違いを越えて普遍的だからである。そのために、「あの人は男、あの人は女」という認識が、「逆らえなさ」を伴って、人々の意識に「やってくる」。そのことが基底にあるから、男女二元性が普遍的に見られるのだ。

 ところがフェミニズムには、最初から性差を否定する目的があるので、この「認識の普遍構造」を論じることがタブーになってしまっている。そのために、この論法では他の問題も扱うことができない。幾何学のような学問が、やはり時代や文化の違いを越えて(たとえば古代ギリシャでも、現代の日本でも)妥当することの説明も不可能である。それどころか、「2+3」が「5」になるということの普遍性さえ説明できない。したがって、これは認識論としては欠陥がある、ということは、誰の目にも明らかであろう。


(以下、04/02/09 加筆)

 実はこの「意識→言語」の置き換えは、フェミニズムだけではなく、現代思想(ポストモダンの一部や分析哲学など)によく見られる図式なのである。人間は言語を使って考えるのだから観念論よりも言語論の方がより根本的なのではないか、ということで、こんな発想が出てくる。

 しかし、実は言語それ自体を調べても、人間のことも社会のこともわかるはずがない。言語の方面での考察で最も優れているのはヴィトゲンシュタイン(後期)だが、言語論は彼によって限界まで推し進められてしまっており、その方面からのアプローチによっては、これ以上は何もわからないだろう。

 それにも関わらず、なぜ今でもこういう思想が続いているのか。それは、このような考え方が様々な難問を生み出してしまい、なぜそのような難問が生まれるのかを考えることなく、その難問を解こうとするからである。それによって、ああでもない、こうでもないと、スコラ哲学のような様相を呈してしまっているのが、現在の思想状況なのである。

 その理由は簡単で、近代哲学における難問だった、「主観と客観は一致するか」という問題が解けていないからだ。「主観=意識」を「言語」に置き換えたところで、この難問が解けるはずもなく、本質的に同じ難問が続いているに過ぎない。

 江原=バトラーの考えは、イギリス経験論のヒュームによく似ている。ヒュームは「知覚(印象&観念)」だけが確かな存在(=存在を疑い得ないもの)だとする。彼の考えでは、確かに存在するといえるのは、このように生成変化して行く「知覚の束」だけなのだ。また、彼は因果関係といった客観的法則も、その実在を否定する。「炎」と「熱」が、「炎=因、熱=果」という因果関係で捉えられるのも、人間の「習慣(経験の繰り返し)」に基づく主観的な結合に過ぎず、これは「炎」と「熱」から作られた複雑観念だというわけだ。このように、ヒュームの考えでは、自然科学が提示する世界の客観的秩序も、世界の究極の存在原因である神も、すべては人間の習慣と信念(信憑)によって「つくられた」観念だということになる。

 だが、これでは私が繰り返し指摘しているように、人々の世界像が必ずしも一致しないことの説明はできても、数学や自然科学のように、ある領域では人々の間で共通の理解が成立することの理由がわからなくなってしまう。これは、ニーチェにも共通する欠点で、ニーチェの影響を受けたのが、前回も述べたフーコーである。そしてフーコーの場合には、人々の見解の一致の原因を、権力作用の網の目と、エピステーメに求めるわけだ(つまり、社会的に規定されるということ)。

 しかし私達は実際には、「社会」が勝手に何でも書き込める「白紙」(タブラ・ラサ)のようなものとして存在しているわけではない。ある事柄については「なるほどその通りだ」と納得したり、また別の事柄については「これはおかしいじゃないか」と容易に信じなかったりする。それは、各人の「これは本当だ(ウソだ)」という判断によっている。つまり、人間の「確信成立の条件」が問題なのであって、人間を単純に何でも書き込める「白紙」だと考えてはいけない。もちろん、「意識」を「言語」に置き換えても、このことは変わらない。この視点を欠く限り、性別どころか、そもそも人間について理解したことにならないのである。

 江原=バトラーや、その信奉者達は、自分達の主張を最先端の知だと思っているのかもしれないが、私から見れば、これは18世紀のヒュームからほとんど進んでいない。近代を越えるどころか、近代思想の発展途上(カント以前!)のレベルに位置しているのである。


 もう一つ指摘しておくべきことは、江原が上記の形での性差(ジェンダーおよびセックス)否定を、「ジェンダーフリー」と結び付けているという事実である。江原は前掲の『自己決定権とジェンダー』で、次のように述べている。

 では、セックスと対立するジェンダーという意味でないとすれば、今ジェンダーとはどのような意味で使用されることが多いのでしょうか。いろいろな立場がありますが、、もっとも一般的には、社会的・文化的に形成された「性別」それ自体ではなくて、社会的・文化的に形成されている性別についての「通念」や「知識に基づいてなされる言説実践や社会的実践という意味で使用されることが多い。こうした広義の意味でジェンダーを定義すれば、社会教育で使用されているジェンダーという言葉に使用法とも、ほとんど矛盾しません。たとえば社会教育ではよく「ジェンダー・フリー」という言い方をします。この言葉は社会的・文化的に形成されている固定的な性別についての枠組みから自由になろうという意味ですが、今の定義を使っても同様に性別や性差についてのこれまでの「知識」「通念」から自由になろうということですから同じことを言ってると考えられるわけです。
(P79)

 既に説明したように、〈性別や性差についてのこれまでの「知識」「通念」から自由になろうということ〉とは、ここでいう「知識」「通念」が作られたものであるとして相対化・否定することである。そして江原は、「ジェンダー・フリー」における〈社会的・文化的に形成されている固定的な性別についての枠組みから自由になろう〉という主張も、それと同じ意味だと明言しているのである

 ジェンダーフリー推進派は現在、「ジェンダーフリーは性差を否定しない、ジェンダーフリーとジェンダーレスは違う」と主張しているが、これは「単なる言葉の言い替え」に過ぎず、実質的には現在でもジェンダーフリーは性差否定の思想である。私はこれまでに何度もそう指摘してきた。上に引用した江原の発言は、はからずもフェミニストの側から、それを裏付けてくれたことになる。

L.Jin-na


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