95.「性差=性差別」のウソ −読売社説に寄せて−

神名龍子


 昨日(2004/02/20)の読売新聞の社説に『[性差意識]「男性優位も性の否定も間違いだ」』http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20040219ig91.htm)が掲載された。これは同紙に17日に報じられた、『「男らしさ・女らしさ」日本の高校生は意識希薄』http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20040217it01.htm)を受けてのものだろう。まずは後者の記事から紹介しよう。


 同紙によれば、日米中韓で行われた「高校生の生活と意識に関する調査」で、日本の高校生は「男は男らしく」「女は女らしく」といった性差意識が突出して低いことが16日、教育研究機関のまとめで分かった。調査は、文部科学省所管の財団法人「一ツ橋文芸教育振興会」と「日本青少年研究所」が昨秋、4か国の各1000人余りの高校生を対象にアンケートをしたとある。その結果の内、記事に紹介されているものを表にすると、

日本米国中国韓国
女は女らしくすべきだ28.4%58.0%71.6%47.7%
男は男らしく43.4%63.5%75.0%73.8%
結婚前は純潔を守るべき33.3%52.0%75.0%73.8%

となり、日本だけが半数を大きく割り込んでいる。これについて同紙では、「近年の男女共同参画社会の推進により、日本の若者意識が影響を受けたと見られる」と述べている。また、同記事には高校生の規範意識についての調査結果も、

日本は「学校のずる休み」を「よくない」と答えたのは27・4%しかなく、「親に反抗する」(よくない=19・9%)、「先生に反抗する」(同25・1%)も、批判は他の3か国より少なかった。

とある。しかし私はこのことから、かえって性差意識についての調査結果に疑問を感じてしまう。どう考えても、現在の高校生が男女の差を否定しているとは思えず、むしろ男女交際などについても充分に(あるいは過剰に)関心が持たれていると思うからだ。もちろんその関心は、けっして性差を無視したものではなく、したがって「高校生に同性愛者やバイセクシャルが目に見えて増えた」という話も聞こえてこない。

 性差意識についての回答で、日本だけが特異に低い数値を示すのは、性差意識の欠如ではなく、規範意識の欠如、あるいは規範に対するアレルギーを示しているとは考えられないだろうか

 性差意識ついての質問が「〜べきである」という形を取ると、「いや、そんな強制的なものではないし、例外もあるよなぁ」と考えてしまいやすい(私でもそう考えるだろう)。ちなみに昨年2月の読売新聞の意識調査では、「男らしさ、女らしさのどちらにも抵抗を感じない」が72%であった。「抵抗を感じない」と「〜べきである」とでは意味がまったく異なる。このように設問文をちょっと変えるだけで「Yes」とは答えにくくなってしまうものなのだ。逆に、この設問を裏返して「女は女らしくすべきではない」としても、やはり低い数値が出るだろう。このようなアンケート調査はけっして「客観的」なものではなく、設問文の書き方一つで、さまざまな結果が出てしまう(そもそも「純潔」に至っては、いまどきの高校生の何割がこの言葉を知っているのだろうか? ^^;)。

 ついでに書いておけば、他国での設問文はどうなっていたのか、ということにも興味がある。たとえば英文では「must be …」と書かれていたのかどうか。それによって国際間の比較が妥当なものかどうかということにも影響してくるだろう。したがって、いくらジェンダーフリーに批判的な私でも、このアンケートと同紙の記事だけでは、この結果と結論とを鵜呑みにする気になれない。

 今回の調査は読売新聞が行なったものではないが、改憲や安全保障などの問題について、読売新聞と朝日新聞がそれぞれ独自にアンケートを取ると、しばしば両者で異なる結果が出ることが知られている。今やこのようなアンケート調査は、雑誌の「星占い」や「血液型占い」と同様、「話題にはされるがまともに信じられてはいない」というのが、大方の反応ではないだろうか。報道各社は一度、「アンケート調査を信用できるか」というアンケート調査をしてみてはいかがなものか。


 しかしながら、上記の社説に

 男らしさ、女らしさの観念を否定するためのチェックリストを作り、性別にとらわれた答えは減点とする啓発用冊子が作成された。男女混合名簿が学校で広く使用され、わざわざ「女男混合名簿」と言い換えているところもある。

 運動会で男女一緒の騎馬戦を実施したりするのも同じ考えからだ。

 過激な性教育も同根ではないか。小学校四年生の保健の時間に、男女が裸で抱き合っている絵を見せ、「セックスは気持ちいい」と教えた授業のあったことも報告されている。

と述べられているような、性差否定の教育が行なわれていることは事実である。

 こういうことを書くと、ジェンダーフリー推進派からは、「ジェンダーフリーは性差否定ではない。無理解や誤解に基づく批判だ」という反論が返ってくる。しかしそれなら、男女共同参画社会基本法の制定に先立つ「男女共同参画審議会」について大沢真理が、「ジェンダーの解消をめざすという案が取られた」(『上野千鶴子対談集 ラディカルに語れば』P26、平凡社)と述べていることをどう説明するのか。また、江原由美子が、バトラーの主張を前提としてジェンダーおよびセックスの両レベルで性差否定を主張した上で、

こうした広義の意味でジェンダーを定義すれば、社会教育で使用されているジェンダーという言葉に使用法とも、ほとんど矛盾しません。たとえば社会教育ではよく「ジェンダー・フリー」という言い方をします。この言葉は社会的・文化的に形成されている固定的な性別についての枠組みから自由になろうという意味ですが、今の定義を使っても同様に性別や性差についてのこれまでの「知識」「通念」から自由になろうということですから同じことを言ってると考えられるわけです。
(『自己決定権とジェンダー』P79、岩波書店)

と述べていることについて、どう説明するのか。大沢や江原は「ジェンダーフリー」について無理解ないし誤解をしているのだろうか。これについて、これまでまともな説明や反論を、聞いたことも読んだこともない。ジェンダーフリーが「性差否定である」ということは、けっして無知や誤解に基づく誤った批判ではなく、むしろ調べれば調べるほど、その確信が増してゆくのだ。

 バトラーの主張するジェンダーおよびセックスの否定と、「ジェンダーフリーは性差否定ではない」という主張とは、「ほとんど矛盾しません」どころか、真っ向から矛盾しているのではないか。また、大沢のいう「ジェンダーの解消」と「性差否定」との違いについても、誰もが「なるほど別物だ」と納得できるような説明があるのだろうか。「ジェンダーフリーは性差否定ではない」と主張する人の中で、これらについて明確に説明できる人が存在するとは思えない。そんなことが可能なら、「誤解」を解くために、とっくに誰かが説明しているはずだからだ。

 確かに、かつてはフェミニズムは、まともに理解されることがなかった。感情的に反発するか、「それはちょっと…」と苦笑してやり過ごすかというのが、大方の男女の反応だった。そういう時代ならば、「フェミニズム批判は無知や誤解に基づく」という言い分にも、一半の真理が含まれていただろう。しかし現在では、もはやこのような反発は有効性を失っており、単なる「ゴマカシ」に成り下がっている。皮肉なことに、フェミニズムが理解されればされるほど(つまりフェミニストが活躍すればするほど)、どんなフェミニストがどのような主張をしているかということを、容易に知ることが出来るようになっているからだ。

 フェミニストの「ジェンダーフリーは性差否定ではない。無理解や誤解に基づく批判だ」という反発には、さしあたり以下に挙げる問題がある。

1.自分達だけが「真理」を握っているという傲慢さ
 これは左翼全般に共通する問題だが、自分達だけが「真理」を握っており、無知蒙昧な大衆を「啓蒙」するエリートだという思い上がりがある。このような態度は、自分達の主張の正当性を、きちんと説得力をもって説明できない場合に、必然的に現れる。このような場合、自分達の理想とする社会が実現すれば無知な大衆にも理解できるはずだと考え、それによって民意を無視し、「理論より実践」を唱えるようになる。
 しかし、このような形で自分達を「前衛」と位置付ける構造それ自体が、証明不可能な循環論をなしてしまう。なぜなら、自分達を「前衛」と位置付けることの根拠はそのイデオロギーの正しさにあるのに、そのイデオロギーの正しさは自らが「前衛」となって実践しない限り証明されないからである。自分達のイデオロギーの正しさと、自分達が「前衛」であることとは、互いが互いの根拠となっており、このような循環論全体が、けっして証明し得ない構造の「フィクション」になっている。
2.時代認識の古さ
 図書館や大きな書店に行けばフェミニズム・ジェンダーフリー関係の本が並び、インターネットが普及しているこの時代において、もはや上記のような「前衛」意識は過去の遺物である。現在では、フェミニズムやジェンダーフリーを批判する者も必ずしも不勉強な人間ばかりではない。それでもなお、フェミニズムやジェンダーフリーに対する批判を「無理解や誤解に基づく批判だ」というのなら、「フェミニストはそんなに誤解を招く本ばかり出しているのか」という話になる。
3.隠蔽体質と幼児性
 既に述べたように、現実には性差否定を唱えその実践を叫んでいるにもかかわらず、表向きには「ジェンダーフリーは性差否定ではない」というのが、これに当たる。「ジェンダーフリーは性差否定ではない」とは、ここ1〜2年で聞かれるようになったもので、それ以前には以下にジェンダーが根拠を持たないものであるかということが、露骨に強調されていた。批判の声が挙がってから、口を拭えば済むと思っているのは、かなり幼稚な隠蔽体質の持ち主だといわざるを得ない。
4.論理破綻
 「ジェンダーフリーは性差否定ではない」ということは、バトラーやデルフィ、江原などの主張と合わせて考えれば、「ジェンダーフリーは性差別を解決しない」ということになる。また、もし「性差否定ではない」ジェンダーフリーが性差別の解決を目指しているのだとしたら、バトラーや江原らの主張は誤りだといわなければならない。しかしながら、ジェンダーフリー論者から、彼女たちに対する批判が一切出てこないのは、どのような事情によるものなのか? これについても、ジェンダーフリー論者からの明確かつ説得力ある回答が望まれる。それとも、彼女達の主張も「性差否定ではない」と言えるような、特殊な読み方でもあるのだろうか(笑)。

 話を読売新聞の社説に戻そう。上に述べた通り、ジェンダーフリーが「性差否定」であることは、この社説が示す通りである。その上で、この社説では次のように述べられている。

 「男社会の女性支配構造」があるとして、性差そのものを否定しようという考え方が、背景にある。「性差」と「性差別」を混同した考え方だ。

 性差による就職差別、家事や育児の女性への押しつけなど、社会に残る男性優位の構造は改めなければならない。男尊女卑などは論外だ。だが、性差別の解消と性差の否定とはまるで違うものだ。

 「まったくその通りだ」と喜ぶべきか、「今ごろわかったのか」と苦笑すべきか悩むところだが、ここで述べられていることは、私の年来の主張とまったく同じである。したがって、それはここでは詳しく繰り返さないが、まともな主張が徐々に広がりつつあるということには、素直に歓迎の意を表したい。

L.Jin-na


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