神名龍子
ミスコンテストについては、4年ほど前に「49.異性の視線」で扱ったことがあるが、つい最近、興味深い報道があった。
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既婚女性らに門戸開放も応募低調 杜の都親善大使 今年から「ミス仙台」の名称をやめ、男性や既婚女性にも門戸を開く「せんだい・杜(もり)の都親善大使」の応募が振るわない。募集開始から1カ月が経過するが、応募は6人にとどまっており、男性はゼロ。12日の締め切りが迫っており、主催者は「仙台の観光のために一役買ってほしい」とPRに懸命だ。 事務局の仙台商工会議所によると、「ミス仙台」の名称だった昨年の応募は159人。毎年、150人前後の応募が集まっていた。 性別による格差の解消を目指すジェンダーフリーの流れを意識し、女性限定や未婚という条件を撤廃したが、「知名度がいまひとつ」(仙台商工会議所)なのが響いているようだ。 今年の審査から、仙台についての問いに答えてもらう筆記を設けたことも、少なからず影響しているよう。「試験を受ける感じがするかもしれないが、問題は極めて簡単。審査ではアピール力のある人材を重視したい」と主催者側は強調する。 各種イベントで観光PRのアシスタントとして活躍する親善大使(3人)には賞金30万円とトロフィーが贈られる。問い合わせは、仙台七夕まつり協賛会事務局022(265)8181へ。
(河北新報) |
この記事に見られる主催者側のコメントは、「勘違いもはなはだしい」と言わざるを得ない。人気がないのは、けっして知名度や、筆記試験の問題ではない。仙台に限らず、ミスコンに対してはフェミニズムの側から、「美によって女性に序列をつけることがよくない」という意見が昔からある。それを真に受けて審査基準を変更すると、こういう無残なことになるのだ。
ミスコンを批判するフェミニストや、この主催者は、次の点を自らに厳しく問い直す必要がある。自分達の主張が正しいと思われるにも関わらず、積極的にミスコンに応募してくる女性(そして今回応募しなかった男女)大衆との間に、見解の相違が生じてしまうのはなぜなのか。これら大衆を説得できないとすれば、それは大衆の意識が自分達に比べて「解放されていない」「より低い」ものだからと断定してよいのだろうか、…と。
従来のミスコンであれば、基準が「美」に限られている。より正確にいえば、単なる造形的な「美」ではなく、「好感度」ということが重要な要素になっていると考えられる(特に観光振興目的のミスコンはそうならざるを得ない)。また、そこには男女の「見る−見られる」(見せられる−見せる)という非対称的な構造を前提として、女性の美しさが、男女のエロス的活動の重要な要素を形成しているという通念が含まれている。男性応募者ゼロということも、これで説明がつく。また別の面から、従来のミスコンに関して、さしあたり2つの特徴を挙げることが出来る。
前者についていうと、女性が「美」を基準としたによる審査で評価されるということが、多くの男女にとって「価値あること」と考えられている現実がある。それが従来の形式の「ミスコン」を支えてきた(応募者も多数いた)。この事実は女性誌が、美容やファッションに関する、種類も量も豊富な広告にあふれている、という事実からも容易に理解することができる。
別の言い方をするならば、ミスコンの成立は、「女性が美しいのはよいことだ」という価値観を、男女一般大衆がどこまで普遍的なものとして承認しているかにかかっているのである。もし、男女一般大衆がこのような価値観を共有していないのだとすれば、フェミニストが反対するまでもなく、ミスコンのようなイベントは自然消滅するだろう。逆にいえば、各地でミスコンが成立するという事実が、現在の男女一般大衆の価値観が何であるかを物語っている。
しかし、この仙台での新方式では、審査基準が不明瞭であり、何を基準として勝った(負けた)のかがわかりにくい。「せんだい・杜(もり)の都親善大使」に選ばれたということが、具体的に自分の何が評価されたことを意味するのか、自他に対して知らしめない構造になっている。だから、人気があるわけがない。人々が、応募のモチベーションを持ち難いものになっているのである。
たとえ「美」以外のものを審査基準とするとしても、その基準が明らかであり、それによって評価されることが一般に「価値あること」と考えられているという条件を満たしていたならば、もっと多数の応募が得られたはずである。しかし現実には、このようなポイントを突きはずしているために、門戸を開放したことによってかえって応募者が激減するという、逆説的な困難が生じてしまったのだ。だが、知名度がどうの、筆記試験がどうのと言っているようでは、主催者側が問題の本質に気付いているとは考えられず、したがって効果的な改善を期待することも不可能であろう。
また、審査基準が明らかでないということは、そこで選に漏れた人達に対しても、救いをもたらさない。審査基準が明確なら、自分はこの基準では落ちたけれども、別の基準ではもっといい線をいくはずだ、とか、自分を慰める術がある。
しかし、審査基準が不明瞭な場合には、それが不可能になる。「美」というシンプルな基準によらず、多様な基準を持ち込めば持ち込むほど、そのコンテストで敗退したものは、全人格的な意味での劣位者という刻印を押されることになってしまう。よほどオールマイティな自信にあふれた者でもない限り、応募に踏み切る勇気を振り絞ることは難しいだろう。
それは多くの男女にとって、たかだか30万円の賞金とトロフィーによって促されるようなものではあり得ない。もちろんフェミニストが提唱する当為(「〜であるべき」、ゾルレン)によっても、人々は動かない。まして、観光客を集めることとは、何の関係もあろうはずがない。「フェミニズム理念を具現化した都市」などということが、観光の目玉になるはずがないことは、どんな素人にも見当がつくだろう。それすら理解できない「仙台商工会議所」や「仙台七夕まつり協賛会事務局」というのがどのような団体なのか、はなはだ理解に苦しむといわざるを得ない。
地域振興の成否が、フェミニストの提唱する当為(ゾルレン)ではなく、現実の男女一般大衆の価値観が何であるかという存在事実(ザイン)にかかっていることは、当然である。なぜなら、集めるべき観光客とはまさに「男女一般大衆」であり、彼らを動かすためには、彼らの価値観が何であるかを把握し、そこに訴えかける必要があるからだ。当為によって観光客を集めることなど出来るはずがない。この、ごく当然のことさえわきまえていれば、仙台のような失敗は生じるはずがないのである。
もちろん私にとっては、仙台のイベントが失敗したところで他人事に過ぎない。当地の地域振興や観光産業にとっては重要な問題であるはずだが、その成否それ自体は、私にいかなる利害ももたらさないだろう。しかし、現実的効果(地域振興)も期待できないような政治的理念が、男女一般大衆が共有する価値観を背景として自由参加で成立するはずのイベント(ミスコン)を抑圧しようすることは、どう考えても不当である。その不当性と無効性とを指摘せずにはいられないのだ。
