神名龍子
『不美人論』(藤野美奈子・西研、径書房)という本がある。直接的にはタイトルの通り「ブス」が抱える問題を中心に据えたものであり、具体的にどのような問題があるのか、それについてどのように考えればよいのかということが、対談形式でわかりやすく、しかし深く掘り下げて語られている。そしてなお興味深いことは、これが「不美人」に限った問題ではなく、かなり深いところで「女性一般」についての論とつながっているということなのだ。今回は本書を中心に、他の本や論文なども参照しつつ、そういう問題を取り上げて考えてみたい。
『不美人論』の初めの方で強く印象に残るのは、かつて藤野さんが「きれいになりたい」と「人として立派に」を相反するものと考え、両者の間で葛藤に引き裂かれる思いをしたということである。地方の高校、それも進学校に通っていた時代には、他者からの評価の基準は「成績」だった。言いかえれば、女の子の評価基準を「美醜」(好み)に置かない環境にいた。ところが東京の大学に入るやいなや、彼女は突然にエロス競争の中に投げ込まれることになる。過剰なお化粧をしたり、「ブリっ子」に走ったりするようになる。
これについて西さんは、子供に「人間はこうであらねばならない」という理想像を強く与え過ぎると、大人になるにつれて「親から与えられた理想像」と「自分の欲望」との葛藤が生じ、自我がうまく作れなくなると説明している。藤野さんの例でいえば、良い成績を取るということが「親から与えられた理想像」と合致していたために、それだけを求め、ある程度実現できていれば自我は安定するわけである。
といっても、高校時代の彼女が自分の容姿について完全に無関心だったわけではないことは、『考えることで楽になろう』(メディアファクトリー)を読めば明らかで、当時の彼女もヘアスタイルのままならない「縮毛」に悩んでいたことが見て取れる。だから、これはあくまでも比率の問題であろう。高校時代にも容姿の問題に無関心だったわけではないが、それでも「勉強ができる」という事が彼女の支えになっていた。父親から認められ、男子生徒からも一目置かれる存在であり続ける事が出来たのだと思う。
しかし東京の大学に入って、その比率が逆転する。東京出身の同級生は「楽で華やかでおいしそう」に“快”を追求することを、まったくためらいを見せることなく表明し実践する。合コンでの男子学生の評価は「容姿」い基準が置かれる。彼女自身も、「美人」になること、「美人」にみられることを求めてはいるが、それでも心のどこかに、そういう自分の欲望が軽薄で悪い事であるかのように思う気持ちもある。
この時の彼女の葛藤は、おそらくは2つあったのだと思う。ひとつは既に述べたように、「きれいになりたい」と「人として立派に」を相反するものと考えていることである。良い成績を取る事も含めて「人として立派に」を追求する事が正しい事であり、化粧やファッションに現(うつつ)を抜かすのは悪い事だ、という価値観。これは俗にいう「人間は外見よりも内面が大事だ」という事とつながっている。つまり単なる彼女の個人的な思い込みではなく、社会的にも流通している価値観の一つであり、また彼女に取っては小さい頃から親に刷り込まれてきた価値観でもあって、現に高校卒業まではそれを実践していれば他者から評価されるという経験にも支えられてきた。そのために、このような価値観は彼女に強固に内面化されていたのだと思う。
しかしその一方で、「きれいになりたい」「美人だと認められたい」という欲望も、否定しがたく彼女の内に沸き起こっていた。それは彼女にとって、「人として立派に」と相反するものだという他に、もう一つの葛藤を呼び起こした。生まれつきの顔立ちや髪質によって、それがなかなか上手く行かないという問題に直面したのである。
ただし、これは彼女の場合には、単なる生まれつきの問題ではなく、「きれいになりたい」を否定して「人として立派に」を追求し続けてきたために、「女性としての“鍛錬”」をしてこなかったという要因に直面する事でもあった。それが「過剰なお化粧」や「ブリっ子」という形で現れたわけだ。
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これは T's の初心者にも共通して見られる現象である。私自身にも身に覚えがあるが(^^;)、それまで化粧やオシャレに縁のなかった人間が、ある程度の年齢に達して突然「解禁」となると、つい女性性の記号を過剰に身に付けてしまうのだ。
このような例は他にもあって、本書では実名が挙げられているのだが、ある出版社の女性編集者で、その出版社から出すフェミニズム本をずっと手掛けてきた女性がいる。私は昨年この女性編集者と、ある場所で顔を合わせる機会があった。そこで彼女に見せてもらった写真は、彼女自身が和風に装った、すごくきれいで色っぽい写真だったんです(ヌードにあらず)。文句なしにきれいではあるのだが…、私の頭の中ではその写真と、その人がずっとフェミニズム本を手掛けてきたことと、どうしても結び付かなかった。本書を読んで、彼女もやはり地方で秀才路線を突き進んできて、東大に入ってケバくなった(^^;)らしいということがわかった。やはり「秀才」路線と「女」路線とに引き裂かれていたわけだ。
念のために繰り返しておくが、現在でもこの女性編集者が「ケバい」というのではない。「女性としての“鍛錬”」の功成って、たいへん素敵な女性になっている(私にはフェミニスト相手にヨイショする義理はないから、これは素直に信じてもらってよい)。
1ヶ月ほど前の日経新聞に、若い女性に「お姫様」願望が流行、という記事が載ったことがある。詳細は手元にとどめていないのだが、遙洋子が、
| かつて働く女性は、自分自身の女性性を切り捨てて男性化することで、男性と伍(ご)してきた。でも今の若い世代の女性は先輩たちの姿を見て、そんな生き方はしんどいと思っている。逆に女性であることを再発見し、再認識しながら生きていきたいと考える人の方が多い。だから、こうした姫願望を切り捨てずに、時々楽しんで自分自身を癒やすのではないか |
とコメントしていた。このコメントは、おそらくそれなりに当たっていて、ウーマンリブのようなものを別にすれば、働く女性が「自分自身の女性性を切り捨てて男性化することで、男性と伍してきた」という感じが広がりを見せたのが、およそ80年代であろう。『不美人論』での西さんの発言を借用していえば、この頃には、すでに日本は欧米と肩を並べるほどの復興・発達を成し遂げて、男性たちは「働くこと」に以前ほど「夢」を感じなくなっていた。「夢」を追うというより「働かなければ食えないから」という動機の方が強かった。それ以前と比べて、上昇志向が頭打ちになっていたわけである。
それに反比例するように女性が元気になっていった。それは仕事が、「働かなければ食えないから」でも「家族を養うため」でもなく、自己実現をキーワードとした個人的な「夢」に結び付いていたからである。しかも、そこへバブル景気という追い風が吹いた。だから遙洋子のいう、働く女性の「男性化」というのは、同時代の男性ではなく、会社に忠誠心は持たないながら、もう一昔前(高度成長期の「モーレツ」時代)の男性のステレオタイプがモデルだったと考えられる。
ただし80年代といえども、これが「女性一般」のモデルだったわけでは、決して、ない。自分自身の女性性を切り捨てて男性化することで男性と伍してきた「働く女性」とは、要するに「きれいになりたい」と「人として立派に」とを相反するものと考え、ひたすら後者のみを実践してきた女性達なのである。「きれいになりたい」と「人として立派に」とを相反するものと考える場合、大まかにいって、取るべきコースが、
の3つくらいある。1番目は藤野さんが後に歩んだ道であり、2番目は「自分自身の女性性を切り捨てて男性化することで男性と伍してきた働く女性」やフェミニストの主張によく見られる。3番目は、かつての例の女性編集者、あるいは T's 初心者によく見られる。実を言えば私もいまだに3番目の気(け)があり、他の人達を見てもフルタイムの TG や TS に比べ、パートタイムの TV や TG に、女性性を過剰に演出する傾向があるように思える。
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最後の西さんの発言の前半は、いつも私も書いているので省略するとして、後半も重要なことだ。自分の中のコンプレックスを見つめるというのはしんどい、かなり「痛い」ことである。ところがフェミニズムはよい逃げ道を提供できるようになっていて、紋切り型の言い回しを授けられ、その受け売りさえしていれば、「痛い」思いもしなくて済む。しかし、そんなものが「思想」といえるのか。
この本で藤野さんは積年の悩みを恨みを全て吐露しているが、しかしそれは単なる「恨み言の垂れ流し」ではない。フロイト風に言えば無意識下に抑圧していたような、そういう想いもすべて、抉り出すようにして吐き出している。これは、紋切り型の言説(=フェミニズム)の受け売りをして癒されるのとは、およそ逆の行為である。この本では、対談ということもあって、すごく平易な言葉で書かれているために見逃しがちであるが、思想の営みというのは、本来がこういうものではなかったかと思う。
一方、これはけっして揶揄で言うのではなく、フェミニストにもブスはいる。だから、ブスの苦しみを「感じている」フェミニストがいるということは間違いない。しかし、その苦しさをどのように掬い上げて、まともに思想のまな板に乗せるかということは、これまで試みられた例がほとんどない。
例外は、吉澤夏子女史くらいではないかと思う。さすがに彼女は、美醜の価値基準そのものをなくしてしまえという馬鹿なことは言わないし、むしろ、そこまで言ったらやり過ぎだ、と考えている。その上で、美という評価基準を適用してもよい領域と、適用されるべきでない領域があるというのだから、これは正しい。また、ブスゆえにモテない、という問題については「個人的に解決すべき問題であり、社会的な救済を求めるような問題、つまりフェミニズムが関わるような問題ではない」と断言している(『美という評価基準』、勁草書房『QUEER JAPAN』Vol.3所収)。こういうところも、何でも政治的な課題として扱ってやろうという他のフェミニストとは、明らかに違っている。細かいところでは異論や疑問もあるが、大筋ではまともなことを言っていると思う。
美という評価基準を適用されるべきでない領域にそれを持ち込むような「差別」は、現に存在している。それを否定するつもりは毛頭ない。西さんも藤野さんも吉澤さんも、それは同じであろう。
藤野さんはこれを就職時の体験として語っている。「就職一般」が「美という評価基準を適用されるべきでない領域」だというのではなく、「受付嬢に美女というのは差別ではないが、実務能力を問われる美醜に関係ない仕事にブスが就けないのは差別」という。少なくとも後半部分について異論のある人は、ほとんどいないのではないかと思う。上に引用した部分に即していうと、「フェミニズムは、美醜の価値基準そのものを否定する思考放棄になっていて、この種の問題に全く答えていないし、女性に対しても説得力がない」という事になるのだ。
この問題についての、西さんの見解が興味深い。この問題は「徳福一致のアポリア」であり、この難問の“核心”は世界に対する不条理感と恨みである。容姿のことで傷ついている人が、どうしたら自分のルサンチマンを解きほぐして、前向きに生きられるかということと、社会を変える可能性を考えて行くことが重要だという。
「徳福一致のアポリア」というのは、古代ギリシャ哲学にも既に存在した難問だが、近代哲学ではさしあたってカントの名を挙げることが出来る。カントは道徳の問題を考える場合に、まず「絶対善」を考えてしまい、そこから道徳論を展開して行く。そして、彼自身が自分の思索の果てに突き当たるのが、「徳福一致のアポリア」なのである。「正しく生きること」と「幸せに生きること」とが、現実には必ずしも一致しない、という難問(アポリア)だ。これをどう一致させるのか、ということはカントには答えられなかった。そうすると仕方がないから、「正しく生きていさえ入れば、神様がちゃんと見ていますから、あの世では幸福になりますよ」としか言えない。しかし、これは「宗教」にはなっても、近現代的な意味での「思想」とはいえない。
これはマルクス主義でも基本的には同じ構造になっていて、ただ「来世」を「未来」に置きかえているに過ぎない。革命に貢献することが正しい生き方で、それでもしばらくは苦しい生活をしなければならないけれども、本当の共産社会が実現したらみんな解放されるのだ、という。だが、これでは「徳福一致のアポリア」をきちんと解いたことにはならない。なぜなら、そもそもなぜこのような「難問」が生じるのか、ということを解明していないからだ。
これは私の考えでは簡単なことで、そもそも「善とは何か」ということがきちんと考えられていないために、最初から善(徳)ということを幸福と関連付けて考えていないからだ。幸福と無関係なものとして「善」を考えを進め、最後になって「あれ?幸福の条件と合わないね?」と慌てることになる。
「善」とは表裏の意味をなす「悪」の本質については以前に考えたことがあって、これがわかれば自動的に「善」もわかるのだが、その本質の一つとして「利害の一致する間柄で共有される価値評価」ということが挙げられる。つまり、具体的に何が善(悪)であるかということは、利害の立場によって異なってしまう。したがって、利害調停なしには「何が善であるか」ということは共有されない、ということになる。
しかしキリスト教道徳や、その他のクソ真面目な道徳観では、「人として正しくあろうとすること」と「自分の幸福を追求すること」とが最初から、対立概念として考えられてしまう。だから「絶対善」を追求しても、それが「幸福」の条件にならない、ということが起こるのだ。まして、フェミニストの場合には自分達の思想が「徳福一致のアポリア」という壁に突き当たることに気付いていない。だから能天気に「正しいこと」と「幸福なこと」を結びつけて疑わない。
そこから起こる問題として、こういう「絶対善」の想定は必ず、独善的な意見の押し付けになるということがある。なぜなら、人間が善悪の価値観を持つことそれ自体は普遍的なことだが、具体的に何が善で、何が悪であるかということには、必ずしも普遍性はないからだ。だから、ある具体的な行為を絶対的な善(悪)だと規定して、それをあらゆることに適用しようとすると、必然的に自分の個人的な価値観を他者に押し付けることになってしまう。
しかし、これは個人的に何が善(悪)であるかという話ではなく、社会に共有されるべきルールとしての善悪がテーマなのだから、そのルールはどこかで誰かが考えて、誰でもそれに従いなさいというわけにはいかない。それをやると、独裁になってしまう。だから、社会のルールの問題としての善悪は、まず最初に「絶対善」を立てるということを禁じ手にしなければならない(理想理念の禁止)。それは他者が持つ善悪の価値観とのすり合わせの中からしか出てこない。つまり、話し合いと試行錯誤の中からしか見つけることはできないのである。
そして善悪の価値観というのは、利害の一致する間柄でなければ共有されないのだから、独善的な「善悪の価値観の押し付け」というのは、実は「自分の利害の主張」をしているに過ぎない。そして、自分達と利害の異なる者達との間での利害調停ということも考えていない。フェミニストは男性の利害も、専業主婦になりたい女性の利害も、美人になりたいという切実な女性の利害も、自分達と異なる利害関心はすべて「それは間違っている」といって切り捨てるだけである。だから説得力なんかあるわけがない。
これをルソーの用語を借りて言いかえれば、フェミニズムというのは決して「一般意思」を考える思想ではなく、一部の女性の「特殊意思」(普遍性を持たない利害関心)を「一般意思である」と強弁しているに過ぎない、ということである。
これをやると、必ずフランス革命直後の恐怖政治やスターリニズムのようなことになる。ヘーゲルは「理想理念の禁止」を、この恐怖政治批判として提出している。フランス革命やその後の恐怖政治というのは、ヘーゲルが若い頃にフランスで起こった事件なので、彼はそのことをよく知っていた。その事を念頭において、勝手に「理想理念」(絶対的な正しさ)を立てて、民意を問う手続きを欠落させてはダメだ、といっているのだ。
21世紀になってもそれがわからないフェミニズムが、「進歩的」な思想なんかであるはずがない。むしろ、こういう理想理念、形而上学、真理主義こそが近現代の悲惨さ(恐怖政治、スターリニズム、文革、その他の虐殺)を生み出してきたのだということを、そろそろ謙虚に学んだらどうか。
必要なことは、対立し合う諸利害の内のどれが「正しい」かを決めることではなく、利害対立を調停するための原理であり、それを踏まえた具体的方策である。しかし、男女対抗図式や階級闘争史観、対抗主義でしか物事を考えられないフェミニストは、そのことが全くわかっていない。このことがわからないまま、ダメな思想にどんなに理屈を積み重ねても、ダメなものはダメなままであるより他にない。こういう根本的なことすら理解できないフェミニズムは、近現代的な意味での「思想」になっていない。
たとえば私がセクシャルマイノリティに関して、対抗主義を取ってはダメだと主張し続けているのも、フェミニズムという特定の思想がダメだと言っているのではなく、フェミニズムを含む一切の対抗主義的な思想がダメだといっているのである。対抗主義を取るのではなく、セクシャルマイノリティとマジョリティの人々の間でどうしたら利害調停が出来るかを考えろ、ということなのだ。
セクシャルマイノリティの言うことなら何でも正しくて、マジョリティの考えは間違ってる、などという馬鹿なことはあるはずがない。それは、単にセクシャルマイノリティの「特殊意思」をマジョリティに押し付けようとしているだけで、そんなものは近代社会でも民主主義でもない。いくら「人権」などという言葉を使っても、「やってること」が近代否定・民主主義否定になっている以上、それは無効である。もちろん、逆にマジョリティの意見だけが絶対的に正しいというのも困る。「特殊意思」も「多数意思」も、単純に「一般意思」とイコールではないわけで、利害調停によって「落としどころ」を見つけることが大切なのだ。
しかし、フェミニストは上に述べたような理由で、あらゆることを自分達の独善的な価値観によって「差別の告発・糾弾」の視点でしか見られないようになっている。フェミニストのいう「ジェンダーの視点」というのは、こういう意味である。そして、そういう活動を通じて自分が「差別の告発・糾弾」をする「善」であるということが、アイデンティティの核になってしまっている。
だから、「差別のない社会」というのは、逆説的に、フェミニストが生きて行けない社会になってしまう(自らのアイデンティティを確認することが出来ないから)。そのために現実がどうあろうと、とにかく「あそこにも差別があるぞ、ここにも差別があるぞ」と、言い続けるしかなくなってしまう。これは一種の強迫神経症のようなものだ。フロイトのいう超自我(かくあらねばならない、という内面化された規範)が強過ぎることと、それ以外の価値観を持たないということが原因で、社会不適応を起こしているのである。
さしずめフェミニストになるのは「人として立派にありたい」という規範が強過ぎて、これを相対化することに失敗した人が、「きれいになりたい」とか「愛されたい」などの欲望を抑圧し、そのことを正当化せずにいられない人であろう。なおかつ、自分自身の欲望を抑圧したということを忘れて、他者の「きれいになりたい」とか「愛されたい」を抑圧する行動に出るわけだ。
それに対して、藤野さんは「人として立派にありたい」という規範を相対化することに成功した人である。「否定」したのではなく、自分の中で「人として立派にありたい」が占める比重が相対的に小さくなったということだ。「きれいになりたい」とか「愛されたい」などの欲望を表に出して軽やかに生きているように見えた人達も、実はいろんな悩みを抱えていて、ただそれを表に出さずに楽しくやってるだけだとわかった。実は、そういう人達も自分と同じように悩んでたりすることもあるのだとわかった。内面の大切さも、外見も大事だとわかって、「きれいになりたい」と「人として立派に」の間に、矛盾が感じられなくなった。そんな経験があったようだ。
そうすると、自分がとらわれているモノサシが相対化されて、絶対的なものでなくなった。現代は「皆が同じ問題で苦しんでいる」という感覚が薄れて、「自分だけが不運だ、自分だけが穴ぼこに落ちている」と感じやすい。「でも他の人達もやっぱり同じように苦しんだり笑ったりしている」という感覚が大切なのである。藤野さんも長年に渡っていろいろ苦しんで悩んできた人で、今でも全ての悩みがなくなったというわけではないが、それでもかなり楽になったと思う。その分だけ、他者にも寛容になれる。彼女を見ていると、本当にそういう気がする。
もちろん、それに失敗した人達もいる。「人として立派にありたい」という規範に縛られることと、それを真っ向から否定する事とは、同じことの表裏であり、それがバランスを失って、常に両極端のどちらかの形を取るのだ。フェミニストの中では特に上野千鶴子に、そういうバランスの悪さが感じられる。私は彼女を「思想的にグレたお嬢様(の成れの果て)」だと思っているが、彼女も単に「規範に縛られている」というだけでなく、一方ではその規範と対立する(と本人が思っている)欲望があり、両者が葛藤を起こしているから、そうなるのだろう。
彼女のわかりやすさは表現の上にも現れているが、もう一つは、マルクス主義とポストモダンの使い分け、というところにも現れている。前者が規範、後者が欲望を代表していて、論理的に相容れない矛盾を生じてしまう。規範にとらわれる自分をマルクス主義で、欲望的な自分をポストモダンで、それぞれ理論武装して正当化するのだが、そのためにかえって葛藤が解決不可能になってしまって、止揚されないのだ。彼女の不幸の源泉は、女に生まれた事ではなく、なまじ優秀に生まれついた事にある。
上野千鶴子に限らず、今のフェミニズム自体が、そういう論理矛盾を抱え込んでしまっている。その矛盾にさえ目をつぶれば、こういう葛藤に悩む女性は、「フェミニズム依存症」になることによって一時的には楽になれるだろう。だが、それは自分自身の抱える問題から目をそらしているだけで、まったく解決になっていない。
これは政治的な問題ではなく、社会に流通している規範を自分が、いかにバランスよく内面化してゆくか、という問題である。だから、そういうことがそれなりにできている大部分の女性は、フェミニズムが説得力を持たないのだ。
藤野さんは『不美人論』の中で、女は生まれながらにシリアスなものを背負わされる。ブスはお笑い担当、といっている。美人の中にも、シリアスなものを背負わされることのシンドさのようなものは感じているかもしれない。全員がそうだとは言わないが、「勉強できなければならない」とか「人として立派でなければならない」というのと同様に、「シリアスな美人でなければならない」という規範に強力に縛られてしまうと、やはりつらさを感じる事もあるだろう。
ただ、その演技をやめたときに、とたんに「下品」に転落して周囲を幻滅させる人と、かえって親しまれる人がいるように思う。これも結局は、バランスの問題なのだと思う。「ドシリアスな美人」を演じる事をやめても、バランスが取れている人なら「庶民的」などの良いイメージで見られる事も可能だろう。
誤解のないように書いておくが、この事は、それができる女性が強者で、フェミニズムに依存する女性が弱者である、ということをまったく意味しない。藤野さんの例でもわかるように(といっても女性に限らず)、実は大部分の人々は、それぞれ悩みを抱えたりしながら生きているのである。誰でも、それぞれ自分の内に社会規範を取り込んだり、自分の欲望を実現しようとする中で、なんとか両者を両立させようとしているし、時にはそれがうまく行かなくて挫折を味わうこともあるのだ。
昔の左翼運動では、多くの人達が貧困などの共通の問題を抱えていて、それが団結を保証する構造になっていた。こういうのを「共苦」というのだそうだが、今は一般にそういう問題というのはリアリティを持たない。規範と欲望を自分の内で両立させることも、基本的には個々人の問題である。だがフェミニズム依存症に陥る女性は、それを認めることができない。だから本来は個人的な問題であるものを、あえて政治的文脈で語ることで、これを「共苦」として扱おうとするのである。
その背景にあるのは、過剰な自意識である。ずっと「よい子」とか「優秀」だといわれてきた自分が、実は大部分の男女が「それなりに」こなしていること(規範と欲望の折り合いをつけること)ができていない、ということを認めることができない。それを認めることは、それまでの「よい子」や「優等生」というアイデンティティを捨てて「落ちこぼれ」に転落するような恐怖を感じてしまう。だから認めることができない。
率直にものを言えるような人なら、例えば「あなたはどうやって規範と欲望の折り合いをつけてきたの?」と尋ねることもできるだろう。しかし「よい子」や「優等生」のアイデンティティにしがみついている人は、それを口にする事が出来ない。あくまでも自分が教え導く側に立っていないと、アイデンティティ不安が生じるからだ。
何人かの女性に聞いてみると、小さいころから「かわいい」といわれて愛されてきた人には、こういう葛藤は生じにくいようだ。これは言い方を変えれば、「きれいになりたい」や「愛されたい」という欲望を抑圧すべきである、という規範を刷り込まれなかった女性である。もちろんこういう女性にも「人として立派でありたい」という欲望もあるはずだが、彼女達はそれが「きれいになりたい」や「愛されたい」と対立するものだとは思っていない(バランスが取れている)。
人間というのは、他者の承認を求める存在である。これは大雑把に二分すれば、エロス的関係(愛情関係)と社会的関係(役割関係)に分類される。「きれいになりたい」や「愛されたい」は前者の問題であり、「人として立派でありたい」は後者の問題である。後者の規範に強く縛られているフェミニストが、女性の社会進出や出世などに強い執着を見せる一方で、「家族」には否定的になるというのも、このことから説明することが出来る。
そして、自分のバランスの悪い価値観を安易に一般化して考えるために、他の男女に対しても自分と同じものを目指すように強要せずにはいられない。上に書いた「落ちこぼれ」恐怖を克服するためには、他者のあり方が間違っていて自分達こそが正しいという「価値倒錯」の他に方法がないからだ。だがそれでは、誰に対しても自分の内のエロス的関係に対する欲求を抑圧するべきである、という話になってしまう。端的に言えば、「フェミニズムは人々のエロス的欲求を抑圧する」ということになるわけだ。
もちろん昔だって、女性は自分がブスであるより美人であるほうがよいとは思っていただろう。だが、そのことと、様々な場面で(本来は美という評価基準を適用されるべきでない領域においてすら)やたらと美醜で評価されることが増えたということとは、別問題である。
人にとって快の中で最も基本的なのは「他人に愛され受け入れられている」ということと「役割を果たして承認される」こと(愛情関係と役割関係)。役割関係を上手く作れずに、人間関係を愛情関係としてしかイメージできない人が増えていて、愛情関係がメインになってきたから、美醜の問題もより重要になってきた、という西さんの指摘には、うなずけるものがある(もちろん既に論じたように、それがつらいからといって、美醜の価値基準そのものをなくしてしまえというのは行き過ぎである)。
もうひとつ、バランスの悪さという点で言うと、『不美人論』では会社に勤める女性の問題にも言及されている。男性の方が上下関係の中で働くことに慣れていて使いやすく、女性は変に甘えていたり、逆に上に立つとやたらときつい性格になったりすると言う。つまり、両極端なバランスの悪さが両方とも見られるという話になる。この問題について「女性には、上司としても部下としても型がない」という指摘には、大いに納得させられた。
ただし、これは職業にもよるのだと思う。『モダンガール論』(斎藤美奈子)によれば、昔の「職業婦人」の大半は結婚して専業主婦になったとあるが、その中にも例外はあり、看護婦や小学校の先生などの職業は一生続ける例も多かったという。この種の職業では、子供や病人と接するときに「女性らしさ」を損なうことなく自然な態度が取れるからではないかと思う。つまり、この種の職業では必ずしも「自分自身の女性性を切り捨てて男性化する」必要がないのだ。
このことは逆にいえば、他の職業では女性にはハンディがある、ということを意味する。しかし、このハンディを克服するためには、フェミニズムのような「バランスの悪さを正当化する思想」では解決不可能であろう。「女性には、上司としても部下としても型がない」という問題を解決するためには、「自分自身の女性性を切り捨てて男性化する」ことなしに、自分が持つ女性性と仕事とが両立できるような、バランスの取り方を「型」として作り上げなければならず、それこそが「働く女性」の真の課題であろう。
しかし、「正しい理念」を立ててそこからこのような状況を批判したり、PC(ポリティカル・コレクトネス/political correctness)に囲い込まれてしまうと、かえって相互理解が不可能になるという問題もある。だが私から見れば、「オカマ」は「セクシャルマイノリティ」という形で半ばPCの対象になりかかっているように思える。その分だけ、セクシャルマイノリティは組織的な対抗主義を取りやすい。その点、オカマはブスより危険だ。
だが、ブスであれオカマであれ、笑い者に甘んじ続けるか、それとも対抗主義を取るかという、そんな両極端な選択肢しか存在しないはずがない。繰り返しになるが、必要なことは、対立し合う諸利害の内のどれが「正しい」かを決めることではなく、利害対立を調停するための原理であり、それを踏まえた具体的方策なのである。
そしてすべてを「政治的」な問題として扱うのではなく、身の回りの具体的な人間関係を作ることが出来る、という事が大切なのだ。『不美人論』では、目的は身近な人に認められ、愛したり愛されたりすること、自分にとって不利で苦しいゲームに巻き込まれると目的を見失ってしまう、卑屈にならなければ必ず自分を好いてくれる人に会える、という自信と希望を取り戻すこと、とある。
これは社会学や統計では扱うことの出来ない問題だ。100人中99人が認める美人になれたとしても、本当に好きになって欲しい人が残りの1人だとしたら、これは不幸なことだろう。逆に99人にブスだといわれても、本当に好きになって欲しい人が残りの1人だとしたら、「99人が認める美人」より、遥かに幸福なことではないか?
