番外4.「自分らしく生きる」より、ワクワクしよう

神名龍子


 今回は、浩加さんホームページの「マイ・オピニオン」中、「『勉強』なんかしないで...」という一文を拝見して、また「番外」の形でそれについて書いています。


 10月5日の、「『勉強』なんかしないで...」って、おもしろかったですね。まぁ、正確に言えば「勉強」の意味にもよると思うんですけど・・・(^^;)。

 私の考えでは、「自分らしく生きたい」という言葉は、現在の日本の社会においての「模範解答」になっていると思うんです。

 いつの時代にも、それぞれの時代においての「カッコイイ生き方」みたいのが常にあって、昭和10年代だったら「御国のために生きたい」とか、1960〜70年代だったら「社会の変革のために生きたい」とかね(笑)。「自分らしく生きたい」というのは、そういう言葉と少しも変わりませんね。

 ただ、「自分らしく生きたい」が「御国のために生きたい」や「社会の変革のために生きたい」と違うのは、それが「現在の模範解答」だということです。それは最も無難な回答で、今の世の中に過去の模範解答、つまり「御国のために生きたい」とか「社会の変革のために生きたい」と答えたら、「変なやつ」と思われるんです(笑)。

 そして、これは要するに、それぞれの時代の有力な思想の反映なんですね。

 戦後は、「御国のために生きたい」と思うことが間違いだったとか、今の世の中は間違っているという考えがすごく広がって、それが「社会の変革のために生きたい」という事になるわけです。しかし、ほとんどの人はけっきょく社会主義にも失望して、そこから今度は、「国のためとか社会の改革のためだとか、そういう何か『全体』のためみたいなことは馬鹿馬鹿しいじゃないか」と思うようになる。

 何のことはない、「軍国主義」→「社会主義」→「ポスト・モダン」という思想の流れが、それぞれの時代の「カッコイイ生き方」に反映してるだけなんです(笑)。

 どうしてそういう事になるかというと、浩加さんの言葉でいう「生きづらい感」ですね。思想というは、生きる上での問題を考えるものですから、その中には常に、それぞれの時代における「生きづらい感」がどこから来るのかという見解が含まれています。戦前でしたら、農村で苦しい生活をしている人達がいるのに政財界の人間だけがいい生活をしているということで、クーデターを起こしたり、広い土地に入植すれば農家の次男三男も農地を手に出来ると考える。あるいは、資本主義が間違いの根本的な原因だから、労働者を搾取している資本家を倒せということになります。

 自分の「生きづらい感」を何とかしてくれという欲求が「軍国主義」や「社会主義」に対してリアリティを感じる原因になっているという構造があると思うんですね。だけど現代ではそういった、文字通り「夢」が破れてどこにも期待できない。それが「自分らしく生きたい」という希望になるんですけど、これは結局はニヒリズムです。

 「希望」があるのに、なぜニヒリズムなのかというと、ひとつは今いったように、それが何にも期待できないというところから起こっているということ。それから、「自分らしく」の中身が、実は具体的には何にもないということです。どう生きる事が「自分らしく生きる」ことなのか、まともに考えているとは思えないんですね。そもそも「自分らしく生きたい」という、今の時代に誰もが口にするような答えが、本当に「自分らしい」答えなのかどうか、考えたことがあるのかしらと不思議に思います。

 「自分らしい生き方」というのは、人生に対する評価であって、評価というのはあとからついて来るものです。何もしないうちから評価だけ考えたって仕方がない。というより、評価を気にしているような人に、本当に「その人らしい生き方」なんか出来るわけがない。評価されるような生き方をしたいという意味では、いい大学に入って一流企業に就職したいというのと同じ事ですね。

 本当に「その人らしい生き方」をしている人は「自分らしい生き方」なんていう抽象的な表現を使うわけがなくて、「自分のしたいこと」を具体的に言います。

 その時代の「社会の価値観がこうだからこう決めた」というのではなしに、これをすることが自分にとって面白そうだから、とかね(笑)、心の底からワクワク出来ることをしようと決めた時に、具体的な「自分のしたいこと」がいえるんです。そして端から見ても「なるほど楽しそうだ」とか、充実していると思えるような生き方が、「その人らしい生き方」という評価になるわけですね。

 だからその内容は人によって違ってて、一人ひとりが「自分がワクワクすること」を見つけなければならない。それはマニュアルが用意されていない生き方ですね。

 最初に「勉強」の意味による、と書いたのもそういう事なんです。私は大学には行っていませんけれども、高校が進学校だったので受験勉強については少しは知っています。その受験勉強なんかは「マニュアル化された勉強」の代表選手ですね。私よりももっと上の世代の人の場合には、また違っていたかも知れませんけれど、私の高校生当時には既に、参考書なんかでも、この問題が解けたら次はここに進みなさいとか、判らなかったらこのページを読みなさいなんていうことまで書いてありました。こういう勉強には、好奇心を持って「学ぶ」ことのワクワクする感じが少しもなくて、つまらないですね。

 こういう「勉強する」というのは、文法的には「能動」なのかも知れませんけれども、実態的には「受動」でしょう。そうじゃなくて、「何でこうなるの? それじゃこれはどうなの? 知りたい!」という気持ちがあって初めて「学ぶ」ということが「能動」になるんです。そういう能動的な「勉強」なら、私はいいと思うんですよ。

 だけど「これを知らなきゃ話についていけないから勉強する」というのは、他人と関わる上で必要な面もあるんですけれども、そういう勉強はつまらない(笑)。会合の場やネット上で話題になるような本でも、手にとって見て「これつまんない」って、いまだに読んでいない本が、私にもたくさんあります。第一、私が「つまんない」と思う本を私がどんなに熱心に読んでも、それは「私らしく」ないもんネ(笑)。

 逆に、私がワクワクする感じを受けるものは、T's に関係ないものでも貪るように 読みます。知識は、そのついでに少しだけ入ってきます(^^;)。「覚える」よりも、「考える」方が多いですね。

 だから私が嫌いなのは、例えば「 T's を理解してくれない家族」だとか、「性別二元社会」だとか、そんなものではなくて、「退屈」がいちばんキライ(笑)。それで、ここ数日は仏教と T's なんていうテーマであれこれ考えてたりしたんですけど、そのきっかけというのも、T's のことを知るためのお坊さん達の勉強会があったと聞いたからです。「へぇ、仏教と T's ね。それ面白いじゃん」という感じで一度ノッちゃえばあとは勢いです(^^;)。実際に考えてみて、面白かったですね。

 必要なのは知識ではなく、ワクワク、ドキドキっていう感情だと思います(その代わりハラハラすることも多いんですけど ^^;)。でも、イジイジ、ジメジメはダメです。楽しそうな人のそばにいるのはこちらも楽しいけれど、イジイジとか、ジメジメ、あるいは、イライラしてる人のそばになんか、近寄りたくない(笑)。まして、そんな生き方が「自分らしい」と思えるようなら、かなりアブナイ(笑)。

 私は自分が、「自分らしい生き方」をしているかどうかなんて判りませんけど、「真剣」に楽しんでます。だから、こうして文を書いているときでも、音楽を聴きながらっていうのがだめで、それぞれどちらも楽しいんですけれども、だからこそ真剣に楽しむためには、文を書くときは文を書く、音楽を聴くときは音楽を聴く事に徹しないと、中途半端になってしまって、真剣に楽しめません。

 もし「自分らしい生き方」が出来るようになったらワクワクできると考える人がいるとしたら、それは順番が逆だと思いますね(笑)。


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