神名龍子
今回は、浩加さんホームページの「マイ・オピニオン」中、「国民がどう考えるかだろうが...」という一文を拝見して、また「番外」の形でそれについて書いています。
マイ・オピニオンの「国民がどう考えるかだろうが...」を拝見しました。
浩加さんが例に出されている脳死問題についても同じ事が言えるのですが、日本人というのは、どうしていつも「○か×か」という問いの立て方をするんでしょうね。もしかしたら、これも受験戦争の弊害?(笑 ^^;)。
その脳死問題も、戸籍の変更の問題とよく似た構造をしていますね。反対派はもちろん、「西洋ではとっくに認められているのに」というような賛成派も、どういうわけか社会的な議論になると「当事者」という視点が抜けるんです。
つまり反対派は患者の苦しみを無視しているし、賛成派は脳死を「死」として認めがたい人達の感情を無視しているわけです。そうすると、これはどちらの意見も相手方に対する説得力を持たないので、必然的に平行線をたどります。
逆にいえば、相手を説得する言葉を持たないから、互いにその部分については触れないようにしているんですね。だから自分達の主張を叫ぶだけで、そもそもまともな「話し合い」にならない(笑)。
抽象的な言い方をすると、これは「独善」のぶつかり合いになるわけです。
戸籍の記載変更の是非についても、現在まったく同じ構造があって、これも認めるか否かの「○か×か」という問いを立てるからそうなるわけです。私の考えでは、「戸籍の性別記載変更」を認めてもらいたい T's 側も、認めたくない側も、「独善」に陥っているのではないかと思います。
例えば T's 側について言うと、反対派が反対する理由を述べたときには、その理由に対してきちんと反論するべきであって、それを脇において、「そうはいっても、こんなに苦しんでいる人達がいる」といったら、それは話を逸らしているわけです。「戸籍の性別記載変更」を認めることによって発生する不都合については、「それについては、こう対処しましょう」といえることが必要だと思います。
逆に反対派は、「戸籍の性別記載変更」を認めないとしたら、それによって発生する T's の不利益についてどのように対処するつもりなのかを答えてもらいたい。
どちらも、相手方の意見に対して「代案なき反対」をしているんじゃないかと思うんですね。
手術が実施されたから、次は戸籍の問題だというのは、一見すると具体的な問題を取り扱っているように見えますが、上記のようなところまで突っ込んで初めて「具体的」といえると思うんですね。
ですから私は以前から、「戸籍の性別記載変更は是か非か」という問いの立て方は無意味で、「戸籍の性別記載変更が認められる条件は何か」を問うべきだと書いて来ました。そうでなければ、この問題も水掛け論によって平行線をたどると思うからです。浩加さんが、
>政府や行政を不信任しても,何ら変わらないでしょう.
とおっしゃるのは、まったくその通りで、問いの立て方を変えない限りは、政府や行政を不信任しても、次々と同じような政府が出来るだけでしょう。
また仮に「戸籍の性別記載変更」が認められたとして、事実上は変更不可能なくらいの条件が付いていたとしたらどうでしょう。「認めることは認めたぞ」といわれても、それに対して「私達が考えていた形と違う」と反論する事が出来ません。なぜなら現状では「私達が考えていた形」を具体的に示していないのですから、「違う」も何も、そもそも比較のしようがありません。つまり反論の根拠がありません。
では、「戸籍の性別記載変更が認められる条件は何か」という問いを立てた後に、それについてどのように考えればよいのか。これは具体的にはいくつか以前から書いていますので、ここではもう少し原理的に掘り下げた話を書きたいと思います。
そもそも、そういう「条件」について考えるのはなぜか。
ここでいう「条件」というのは、いわば双方が意見を擦りあわせて共通了解を成立させるという事ですね。その共通了解が成立するためには、お互いが良好な関係を持ちたい(あるいは、持ち続けたい)と思うことが必要です。これは個人対個人の場合でも、社会対個人でも同じです。
私の考えでは、T's の要求の大半は「社会に受け入れられたい」という動機から発生していると思います(ですから、例えば T's という少数派が多数派から抑圧されている、というような対立構造でものを見るのは本末転倒です)。一方、社会は T's を社会の一員であると認めざるを得ません。そうでないと現在の社会が、前提から崩れてしまいます。同様に、国は T's を自国民として認めざるを得ません(在日韓国人の T's はどうするんだという意見もあるかも知れませんが、その場合には、日本の戸籍の問題ではありませんから、これは別問題です)。
ですから「歩み寄り」の動機は双方が持っているはずですね。まず、これをお互いに確認し合う必要があります。
この「歩み寄り」を別の言葉で言い換えると、「良好な関係を保つこと、をお互いが目的とすることによって行われる、ルールの編み替え」です。
そして「歩み寄り」というのは、どちらかがどちらかの「言いなり」になることではありません。「戸籍の性別記載変更は是か非か」という問いの立て方をしたら、これはどちらを選択しても、それぞれメリットとデメリットがあるわけです。ですから、どういう場合に(あるいは、どういう条件を備えた人に)戸籍の性別記載変更を認めるか、また、その人に対してどのような権利が認められ、どのような権利が制限されるべきかという検討が必要になります。
例えば、社会の側から「戸籍の性別記載変更は一切認めない」といえば、これは社会の側が何の歩み寄りもしていないということになります。あるいは T's 側が「権利の制限などとんでもない。戸籍の性別記載変更を認め、またその後もあらゆる権利が認められるべきだ」といえば、これも何の歩み寄りもしていないということになりますね。どちらにしても、結果は交渉の決裂ということになるでしょう。
交渉の決裂は、事実上「戸籍の性別記載変更」が認められないことを意味します。これは一見すると、反対派にとっては思うツボのようですが、しかしそれは「T's を社会の一員として認めない」という言明にもなってしまうんです。ですから、例えば国がそういう態度に出るというのは、国にとっても得策ではない。それは抗議という形を取る前に、まず穏やかに指摘するべきだと思いますね。それでもだめなら、その点を衝いてキャンペーンを張る。これは「人権」という漠然とした概念をお題目にするよりも、よっぽど効果があると思います(笑)。
また、T's 側が歩み寄りを見せないために「戸籍の性別記載変更」が認められないということになったら、これは自業自得、あるいは本末転倒というしかありません。自分達が何を何のために求めているのかという根本を忘れたら、そうなる可能性も多分にあるでしょう。
「権利の制限」といっても、例えば「戸籍の性別記載変更をした人には選挙権を認めない」といえば、これは不当な制限ですね。
ですが、例えば結婚というものを考えると、これは個人間での相互の約束ですね。私が結婚したいと思っても、相手がいやだといったら、しかたがない。そして、世の中にはいろいろな価値観の人がいますから、例えば、結婚相手はネイティブな女性でなければ嫌だと思っている男性だって存在するでしょう。これを差別だというなら、世の中の振った振られたの話はみんな差別です。
自分が社会に受け入れられるということは、自分の価値観を他人が尊重してくれるという事であり、同時に他の人々の価値観を尊重するということでもあるのです。つまり「相互尊重」ですね。この「相互尊重」は自分が社会に受け入れられることの根拠でもありますから、自分だけは勝手にするというわけには行きません。
ですから、他人が持つ「結婚相手はネイティブな女性でなければ嫌だ」という価値観も(いやだけど)認めなければいけない。これは自分が社会に受け入れられるための、いわばコストだと思います。そうすると、配偶者に対して結婚前に転性の事実を告げていない場合で、結婚後にその事実が判った場合には離婚の事由とみなすとか、そういう特有の制限を負うことは仕方がないと思います。それによって、「結婚相手はネイティブな女性でなければ嫌だ」という価値観を持つ男性に対しても、その人の価値観を保証する。これが「歩み寄り」の一例です。
もちろんこれは「そうと知っていれば結婚しなかった」ということが前提ですから、知っていて結婚したにも関わらず、あとから配偶者の転性の事実を以って離婚の事由とすることは不当でしょう。
それから上に書いた選挙権も含めて、公民権の制限というのはやはり不当だと思います。「戸籍の性別記載変更」をしたから選挙権がないとか、そういう人に対してだけ税率が高くなるとか、思想の自由を認めないとか、そういうことですね。労働権(と勤労の義務)についても同様でしょう。ですから上に書いた結婚の場合と違って、就職差別は、やはり問題だと思います。
ですから T's は、自分達に対して保証されるべきと考える権利と、(いやだけど)制限を受けても仕方がないものとを、それぞれはっきりと意識する必要があります。
この、「いやだけど」という部分こそ問題で、今までの経過を見ていると T's 側は自分達が「いやだ」と思う部分から目をそらしながら、自分達の主張を続けて来たと思うんです。だけど、目をそらしても仕方がないわけで、それは結局、私達にとって未解決のウィークポイントとして残ります。本当に解決を望むのであれば、自分達が「いやだ」と思う点からも目をそらすことなく、正面から取り組む必要があるでしょう。