女化神社(茨城県龍ヶ崎市)

1998年04月12日
1998年04月19日加筆

 具体的には T's とは関係ないのですが、名前が面白いのと、たまたま【EON】で話題に出たので訪れてみました。「女化」は「おなばけ」と読みます。

 東京からは国道6号線を下り、取手市に藤代町に入ります。文巻橋で藤代町と龍ヶ崎市の境を流れる小貝川を渡すと、すぐにもう一つ幸谷橋があり、それを渡ってすぐの子通幸谷交差点を右折して、県道5号線に入ります。

 しばらく走ると、かつては鹿島参宮線として鹿嶋市まで伸びていた関東鉄道龍ヶ崎線(現在は佐貫-龍ヶ崎間)の単線の踏み切りがあります。この踏み切りを渡り、馴柴東交差点(その手前の馴柴交差点と間違えないよう注意)を左折すると県道48号線に入ります。

道路脇の案内標識
 すぐ先の左手に龍ヶ崎市歴史民俗資料館があり、かつて龍ヶ崎線を走っていた蒸気機関車が目に付きます。今回、私は帰りがけに寄ってみたのですが、時間に余裕があればこちらを先に寄ってみるといいでしょう。帰りに寄るる場合は反対側の車線になるので、向かい側にある龍ヶ崎市文化会館の駐車場を使うという方法もあります。この歴史民俗資料館には、特に女化神社に関する展示はありませんが、ここで一部500円で頒布されてい「女化の狐伝説〜狐女房譚〜」は興味深いものです。

 ここからさらに県道48号線を北上し、牛久市に入って少し先の永山北交差点を右折すると、女化神社の社殿の裏手に出ます。ちなみにこの一角だけが龍ヶ崎市の飛び地になっており、歴史民俗資料館と同じ馴馬町に属します。周辺は牛久市女化になります。その先の右手が駐車場になっており、今回は背の低いたくさんの桜の木がまだ花を盛りに咲き誇っていました。何人かで集まってお弁当を広げている女性たちがいて、なんとなく「ここで皆でお化粧して集まって、お花見をしたら怒られるかな」などと考えてしまいました。この駐車場は社殿に向かって右側になります。

 なお最初に行った時は気が付かなかったのですが、社殿の裏手の道路(永山北交差点から入って来た道)を挟んで北方に伸びる狭い道があり、その突き当たりにも赤い鳥居が見えます。そちらは女化神社の奥院になっています。

女化神社駐車場と桜
 駐車場の入り口に「一休(ひとやすみ)」という名のパブがありましたが、昼なので当然営業はしていません。「女化」という地名ではありますが、まさかゲイバーではないと思います。裏に「喫茶店・一休」の看板が置いてありましたが、周辺が農業地帯のために昼間お客が来なくて喫茶店の営業をやめたのか、初午や春秋の祭などの参拝客の集まる時期だけ営業するのかは不明です。訪れたのは土曜日、2回目が日曜日でしたが、周辺も含めてあまり人のいないところではあります。2回目の日曜日の時は、店内からカラオケらしい音楽と歌が聞こえてきました。

 駐車場にバイクを停め、社殿に向かうと左手に長い参道があります。まず社殿に背を向けてこの参道を歩いてみると、数百メートルの参道に江戸時代から平成にいたるまでの各時代に寄進された鳥居がたくさん並んでいて、女化神社が稲荷社であることを改めて思い知らされます。参道脇の空き地では地元の主婦らしいおばさんが二人、何かを探すように腰をかがめて地面を見ていました。おそらく、よもぎ摘みでもしていたのでしょうか。

参道正面から社殿方向
 社殿の周辺、特に裏手には小さな石の祠や、文久二年(1862年)に社殿を再建した際の石版碑などがあり、その一つひとつを見てみましたが、彫り込まれた文字の読みにくいものも少なくなくて、拓本取りの用意もないのであまり要領を得ませんでした。現在の社殿はこの文久二年再建のもので、既に二百数十年を経過しています。

 社殿の周辺と奥院をよく見ると、地元から移り住んだ人達なのか、それとも他に何か理由があるのか、東京から参拝に来る「講」が複数組あるようで、これは意外な感じがしました。

 社殿に戻って参拝を済ませてから、社務所でお守りを買い、「この神社の縁起を書いたものはありませんか」と聞くと「ご由緒書きでしょうか」といって隣の間から1枚の紙を持ってきて手渡してくれました。旧漢字・旧仮名遣いですが、明朝体で印刷されており、読みにくいものではありません。創建は永正二年(1505年)または同六年。祭神は保食命。「保食」は「ウケイ」と読むのかと思ったのですが、これは私の勘違いで「ウケモチノミコト」と読みます(ウケイは祈請、誓約等と書いて、吉凶を占う神事の意)。

女化神社社殿
 この縁起書を読むと「女化」の名の由来も判りますが、前述の「女化の狐伝説〜狐女房譚〜」によると、地元には大同小異の伝承が複数あり、それぞれやや細部が異なるようです。簡単にいうと、漁師にねらわれていた狐を助けた男のもとに、その狐が女性の姿で訪れて夫婦になって三人の子をなすが、やがて正体がばれて去って行くという話です。社殿前の左右二基の狐の石像が、社殿に向かって右に一匹、左に二匹の、計三匹の子狐を伴っているのも、この話がモチーフになっています。「女化の狐伝説〜狐女房譚〜」の巻頭には地元出身の故高野恒雄氏による「きつねのおんがえし」という題の切り絵10点が掲載されていて、大変に美しいものです。

 ただし縁起書には、まず源頼朝が建久の頃(1190〜1199年)狩りの際に富士の裾野で助命した狐が移り住んだという話が書かれています。その中では、これはまだ狐女房譚の逸話の前の時代の話ですから「女化」ではなく「高見が原」という地名が書かれています。つまり女に化けた狐の話しは源頼朝が助けた狐の後日談ということになります。

 源頼朝の話はともかくとして、狐女房譚としての似たような話は他の土地にもあるそうですし、そういえば話の筋は違いますが九尾の狐も女性に化けていました。また狐に限らなければ、話の筋からはなんとなく鶴の恩返しや雪女の話を思い出します。狐の子という点では平安時代の陰陽師・阿倍晴明を連想させられる話でもあります。

 ことのついでに社務所で、女化神社のある一角だけが龍ヶ崎市の飛び地になっている理由についても質問してみましたが、こちらの方は要領を得ない答えでした。帰りがけに歴史民俗資料館で尋ねてみると、定説や記録はないという前置きで、ある程度のことを教えてくれました。元々このあたりは牛久藩領「女化が原」といって、明治以前は耕地化(開拓)されない原野であり、龍ヶ崎や牛久の村々の、堆肥を作るための採草場としての入会地として各村の間で女化の入会権の境界を巡る争いもあったそうです。

 入会地というのは薪や堆肥用の草などを採る共有地のことです。山であれば入会山といいます。昔話で「おじいさんは山へ柴刈りに」という「山」もおそらくは個人の持ち山ではなく入会山だったのでしょう。九州では「佐賀者が通った後は草も生えない」という言葉があるそうですが、適当な山がなければ道端の草を取ってでも堆肥作りをするしかなく、でなければ農業が出来ないのです。女化周辺にも山らしい山がなく、そこに採草場に適した原野があれば、その入会権の有無は死活問題だったでしょう。

 女化を巡る権利を主張するにも、その地にある神社の面倒を見るのは、ひとつの有効な方法で、必ずしも信仰の面からだけこの神社が大切にされてきたわけではないのかも知れません。女化の耕地化が始まったのは明治に入ってからですが、幕末から明治にかけてのある時期に、龍ヶ崎の地主の山崎某が女化神社に宮司として青木某を招いたそうで、現在でも女化神社の宮司は青木姓ですから、その数代前の御先祖でしょう。「女化の狐伝説〜狐女房譚〜」には文久二年の社殿の再建の中心人物が、龍ヶ崎の名主の山崎茂右衛門とありますから、あるいは青木某を宮司として招いたのも同一人物かその子であったかも知れません。女化が原の大部分が牛久市に編入された後でも、山崎家による龍ヶ崎と女化の結びつきがまで行政区分に影響を与え、女化神社のある一角だけが龍ヶ崎市の飛び地になったと考えても、それほど無理な想像ではないと思います。

 以上お話はあいにく女装や性転換とは関係ありませんが、この「女化神社」のお守りを見ていると、なんとなく「女になれそう」な気がしてくるから不思議です(笑)。東京から車で2〜3時間。常磐道からアプローチすればもう少し早いかも知れません。ドライブ/ツーリングがてら、ひそかに「女性化祈願」をしてみてはいかがでしょうか。

女化神社茨城県龍ヶ崎市馴馬町字女化5379
龍ヶ崎市歴史民俗資料館茨城県龍ヶ崎市馴馬町2488
0297-64-6227
入館無料(9:00〜16:30)、月曜・月末休館

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