from 真樹子さん (2001年08月11日 21:21)
真樹子です
私のHPにもジェンダーがらみの内容で投稿を頂いていて、そのレスと内容的にかぶるところが多々あると思いますが、一応別スレッドということで、#56の「ジェンダーとは何か」への感想です。
(一般の方へ:
http://homepage2.nifty.com/mtforum/vs002.htm
も併せて読んでいただければ幸いです)
話題にされている、社会構築主義と本質主義をもうひとつ哲学の決まり文句で言ってみれば、ご承知の通り、自由意思論と決定論の対立のヴァリアントでしかないわけですね。
「近代人」というのの理念型は、自らの行動をすべて自らの意思で制御できるのが身の上で、一方で近代科学の発達は、最近の脳の性分化説も含めて、人間の行動は既に決定されているもので、自由意思というものはフィクションに過ぎないという帰結を導き出しかねないわけで、その葛藤の解消が、最近の構造主義/ポスト構造主義なんかも含めて、ここン百年の哲学のテーマだったりするわけですが、フェミニズムの主流はどうも議論がねじれているというか、そのためにいらないところで摩擦を引き起こしているというか、そんな気がします。
すなわち、まずフェミニストの大多数がとっているであろう社会構築主義に立つとして、その根っこには自由意思論があるはずだから、本来、性自認なり身の回りでの性役割にかかわらずやりたいことをやる、すなわち自由の概念が論じられるのが先で、「差別だ」と騒いだり性差の解消だとか言うのは、本来二次的な話のはずな訳ですね。
一方、本質主義に立つとして、この立場だと性自認も性役割も変えられないわけですから、それを理由とした差別を解消するのが先で、個人の意思なり個性の尊重みたいなのは、それら差別の解消があってから、というのが論理的だと思うんですね。
憲法なんかも、近代合理主義の通り、13条の幸福追求権で、いまはやりの自己決定権なんかも含めて個人の自由の保障を言っていて(もちろん公共の福祉=他者の権利を侵害しない範囲で、という留保つきですが)、性別を含めて、自分の意思で変えられないか、変えることが恐ろしく困難な場合にはじめて、それを理由とした差別はやめましょう(14条)、と言っている訳です。
にもかかわらず、社会構築系のフェミニストは差別の解消、さらには差別の元になる性差の解消ということを言っていて、逆に本質主義系のフェミニストの方が、性別は個性であって個人を尊重すべき、とやっているのが、ちょっと前までのフェミ業界のスキームだったように思えます。
その原因には女性同士のピアシップみたいなものが集団主義の方に作用して、女性という社会集団の差別の解消という方向に運動が向いたことにあるのでないか、と考えているのですが、この辺は私のところで書いたこととかぶりますのでここではこのくらいに。(余談ですが、政治思想の新自由主義というのは、論理的にはナショナリズムとは全く相反するはずなのに、この国の新自由主義者はこぞってナショナリストなわけですが、現実の政治思想は、非論理的に構築されるのを常とするようです)
それで、私も極端な社会構築主義も本質主義も理念型でしかなくて、その折衷的な立場に立つことはこの前に書いたとおりです。もっとも、神名さんに比べて私は多少社会構築主義が勝つところがあるかもしれません。
脳の性分化説というのがあてはまるとしても、人間は高等生命なので、丁度クローン人間ができたとしても、原本の人物と同じ運命をたどることはないだろうというのと同じで、社会環境などでいくらでも性自認も性役割も変わりうると思うのですが、その点で#56中程の要約1、にお書きになられていることは、大方において見解を同じくします。
もっとも、「性差の認識について時代や文化を越えた共通点を持ち」という部分は、自然科学的な見地から言われているのか、人類学的な見地(だとしたら構造主義でしょうか^^;)から言われているのかこれだけではわかりませんが、もう少し実証的な議論が必要なように思えます。
また、この要約の前に述べられたことは、今私たちが所属している文化については妥当し得ても、他の文化において妥当するかどうかについては留保が必要ではないでしょうか。言葉を換えれば、何かについて普遍性を主張するとき、まず自ら立脚する視点を相対化する手続が必要でないか、と思うのですが…。
これらについては要約2、についても同様です。
次に、近代市民社会とジェンダーについて。まず確認しておきたいのは、「近代人」(Modern Man)は、さきほど申しましたとおり、自らの行動をすべて自らの意思で制御できるというのが身の上ですが、近代市民社会の初期の段階では、これに該当し得たのは男性、加えて言えば白人でブルジョワ階級ですが、に限られていたわけですね。
さらには、性別による役割分業も、実は近代工業社会の産物で、それまでは(欧州に限った話ですが)男性も女性も共に生産活動に従事していた、という話を聞いたことがあります。すなわち生産力の向上が専業主婦のような存在を可能にする一方、均質な労働力を必要とする企業が生産要員を男性に限った、という話です。(少し記憶違いがあるかもしれません)
このように、近代におけるジェンダーについては、近代思想の理念型と、現実の社会構造等との間には激しい乖離があるわけですが、そのあたりの歴史的経緯についても触れる必要があるのでないかと思います。
いずれにせよ、「社会進出も含めた選択肢が用意されており、それを自分の努力次第で実現できる社会が望ましい」という結論には変わりないのですが、そこに至るまでの道筋は、私とはかなり違うようにお見受けしました。
ただ、ジェンダーフリーについては私のサイトの方で詳しく書きましたが、個人の努力の妨げになるような、性別に基づく社会的障壁の解消」という定義をとれば、決して神名さんのお考えもこれと矛盾するものではないと思います。また、「男」「女」共同参画という言われ方をしても、あらゆる場面における性差の解消を主張する人は、それほど一般的ではないと思います。
一方で、今や専業主婦バッシングとか、オヤジバッシングとかも結構出てきていて、それはそれで気になるこの頃ですが…。
| > | そこに至るまでの道筋は、私とはかなり違うようにお見受けしました。 |
そうですね。道筋というより、出発点から方法から、全部違うのではないかと思いますが(^^;)、それは今回、以下で触れることになると思います。
社会構築主義と本質主義の対立が、自由意思論と決定論の対立のヴァリアントだというのは、まったくその通りですね。それは私は「ジェンダーとは何か」で、「近代哲学に古くからある、身心二元論と身心一元論の対立のバリエーションに過ぎない」と書いたわけです。
なぜかというと、「自由意思論と決定論の対立」もまた遡れば「身心二元論と身心一元論の対立のバリエーションに過ぎない」からです。身心一元論の立場を取ると「精神」も「身体」の機能という事になりますから、自由意思というのも存在しなくて、すべては物理法則に則った変化に過ぎないという話になってしまう。自然科学的な決定論を導き出してしまうわけで、その極端な例が「ラプラスの魔」ですね。逆に身心二元論を取ると、別原理である「精神」と「身体」の関係が説明できなくなってしまう。
そして、フェミニズムに限らず構造主義やポスト構造主義なども含めて、様々な現代思想の議論がねじれているのは、ひとつにはこの「身心二元論と身心一元論の対立」という矛盾を解くことが出来ないでいるからなのです(さらに遡ってなぜかというと、「主観と客観は一致するか」という問題が解けないからですね)。
ですが、これは現象学的に考えたら簡単にわかる問題で、「身心二元論と身心一元論のどちらが正しいか」という問いを立てたら絶対に解けません。人は誰でも自分の身心を身心二元論的に捉える場合と、身心一元論的に捉える場合があって、「身心二元論が正しい」とか「身心一元論が正しい」という確信が、それぞれどのような場合に成立するのかを考えればよいわけです。言い換えれば、そもそもなぜ人間は「身心二元論と身心一元論の対立」という問いを立ててしまうのか、という問いを立ててそれに答えればよいということです。
したがって私は、「ジェンダーとは何か」において、社会構築主義と本質主義の「折衷」をしたわけではありません。両者を共にエポケーし(脇に置いて)、「社会構築主義 vs 本質主義」という図式そのものを取り払ってしまい、「男」や「女」が人々にとってどのような関係において、どのようなものとして「生きられている」のかを、現象学的に取り出して見せたものです。ですから冒頭でも「私達は構築主義と本質主義のいずれかの説を補強するのではなく、この対立を白紙に戻してジェンダーについて根底から考え直されなくてはならない。」と宣言しているのです。したがって私の用いた手法は、
| > | もっとも、「性差の認識について時代や文化を越えた共通点を持ち」という部分は、自然科学的な見地から言われているのか、人類学的な見地(だとしたら構造主義でしょうか^^;)から言われているのかこれだけではわかりませんが、もう少し実証的な議論が必要なように思えます。 |
自然科学でも構造主義でもありません。そもそも、自然科学にせよ構造主義にせよ(また社会科学も)、「アプリオリに客観世界が存在する」という事を前提として成立しているわけですが、この前提に立つと必ず「正しい客観認識」という話になってしまう。この立場に立つこと自体が、決定論の立場に立つことを意味しています。つまり、あらかじめ存在する真理(客観)を認識するという話になってしまうわけです。「真理などない」と主張するポストモダン、ポスト構造主義でさえ、「この社会はこれこれの構造になっている」という説明を手放せずにいるのもそのためです。
| # | この点は、現在では自然科学の方が人文科学よりも認識が進んでいて、「科学」は真理に到達する手段だというかつての「思い込み」が放棄されています。現代の自然科学においては、どんなに確かに思える学説も「最も有力な仮説」に過ぎません。 |
私がやっているのは、社会構築主義と本質主義の折衷などという表層的な知的操作ではなくて、「客観の存在」という前提そのものを問い払ってしまった地平からの再スタートです。そこでは、客観存在としての「男」や「女」のいかに在るかではなく、それがどのようなものとして私達に現れているか、が問題なのです(現象学の考え方とその理由については、「『どう解く』の系譜」のフッサールの項を参照してください)。
もともと現象学では、客観存在を前提としていないために「真理」の概念がありません。したがって、
| > | また、この要約の前に述べられたことは、今私たちが所属している文化については妥当し得ても、他の文化において妥当するかどうかについては留保が必要ではないでしょうか。言葉を換えれば、何かについて普遍性を主張するとき、まず自ら立脚する視点を相対化する手続が必要でないか、と思うのですが…。 |
についても、実際に具体的な反証をお持ちであればいつでもお受けします。
| > | 「近代人」(Modern Man)は、さきほど申しましたとおり、自らの行動をすべて自らの意思で制御できるというのが身の上ですが、近代市民社会の初期の段階では、これに該当し得たのは男性、加えて言えば白人でブルジョワ階級ですが、に限られていたわけですね。 |
その通りですが、そこから現代までの流れを見れば、大まかにいって「市民」であることが社会的な階層や性別を越えて普遍性を広げてきた(今なお広げつつある)過程といってもよいのではないでしょうか。また、性役割分業や専業主婦が近代の産物だというのは性差否定の立場からはよくいわれる話ですが、私はこれについては以前から、それこそ妥当性のない主張だと思っています。一つは、それが果たしてどのていど事実であるのかということと、もうひとつは、仮にそれが事実だとしても、それだけではそれが悪いことだということは出来ないという、二つの理由によります。
まず、第一点ですが、「近代におけるジェンダーについては、近代思想の理念型と、現実の社会構造等との間には激しい乖離がある」というのは、具体的には何を指しているのでしょうか。「生産力の向上が専業主婦のような存在を可能に」してきたのは事実だとしても、近代市民原理あるいは市場原理には、「家事をするのは女性に限る」という原理を含んではいません。近代は生産性の向上によって専業主婦が増える条件を作りましたが、しかしこの条件だけなら「専業主夫」が増えてもよかったはずなのです。つまり「近代」はあくまでも専業主婦が増える条件の一端を準備したに過ぎず、そのすべてを「近代思想」、「近代社会」や「産業社会」に還元することには無理があります。いまさら、生産手段という下部構造が上部構造を規定する、でもないでしょう(^^;)。
また、専業主婦が爆発的に増え始めたのが、飛躍的な生産性の向上を可能にした産業革命以降だとしても、ではそれ以前には裕福な家庭であっても必ず共働きをしていたのでしょうか。そうではないでしょう。例えば江戸時代の日本にも「髪結いの亭主」という言葉がありますが、これは男女の役割がひっくり返っている例として出来た言葉で、実際には逆に夫の稼ぎで暮らす妻のほうが圧倒的に多かったわけです。ただ日本全体としてみればこういう都市生活者はごく一部だったわけで、農村に行けば昭和の初期でも共働きが当たり前でした。時代区分としての「近代」とか「産業革命」は一つの目安に過ぎません。近代以前にも専業主婦は存在したし、近代以降にもなかなか裕福になれず「主婦」という言葉の響きに憧れる女性は多かったのです。
これはおそらく日本だけの話ではなく、欧米諸国でも同じことで、「近代」と性別役割は無関係ではないにしろ、あまり安直に結び付けられるべきではないでしょう。近代以前の欧州で「男性も女性も共に生産活動に従事していた」のはどのような階層の話なのかという視点が抜けているために、近代以前と以後とで、それぞれ「専業主婦は近代になって出来た」という説を補強するのに都合のよい階層が抽出され、語られているように思います。
また産業革命直後(資本主義黎明期)のイギリスの工場での労働力といえば、実際にはむしろ「女子供」ですよね(たしか世界史の教科書にも、工場で鞭でコキ使われる子供の絵が載っていたのを記憶しています)。「均質な労働力を必要とする企業が生産要員を男性に限った」というよりも、むしろこの当時に問題になったのは、苛酷な労働からの女性や子供の保護です。逆にいえば当時は、現代と違ってこの過酷な労働条件に耐えるのが男性だったわけです。
二点目に、一点目の中でも少し触れましたが、およそ明治30年代以降(以下、これは日本に限った話としますが)女性自身が性別役割を積極的に引き受けて来た歴史があるということです。明治〜昭和初期の日本女性の大多数は、女工、女中、農家の嫁で、いわば貧困層の女性ですね。これは男女を問わず日本に貧困層が多かったからなのですが、こういう階層出身の女性は、シンデレラみたいに富裕層に嫁ぐ機会はまずなく(富裕層自体が少なかった上に富裕層同士での婚姻が多かったからです)、貧困層同士での結婚が多かったのです。そのため彼女達は、結婚しても働きに出なければ家計が成り立ちませんでした。女性だけでなく子供も同じで、たとえば私の母方の祖母は満足に小学校にも生かせてもらえずに子守りに出されたので、戦後のある時期まで「文盲」でした。
逆に主婦になったのは富裕家庭の女子であり、女学校を出て職業婦人になり、やがて富裕層や中間層(給与生活者)と結婚して主婦になったのです。学校教師や看護婦みたいに一生続けることの多い職種もありまいたが、いわゆる「職業夫人」と「専業主婦」は、同一人物の異なる時期の姿でもあったわけです。一生きつい仕事を続けなければならない女工、女中、農家の嫁、(都市における)貧困層の嫁、といった女性たちの多くは、自分が社会に出て働いていることを誇りに思うよりも、富裕層や中間層の「専業主婦」に憧れたのは当然でしょう(そもそも彼女達は「働きたい」のではなく「働かざるを得なかった」のですから)。そして戦後、給与生活者(都市生活者)の爆発的な増加に連動して、ますます主婦が増えるようになったのです。
つまり、近代以降に「専業主婦」が飛躍的に増えたといっても、それは産業構造が女性たちに強制したわけでも、男性が女性を社会から締め出したのでもなく、多くの女性たちもまたそれを望んだという事実を無視することは出来ません。むしろ現在ではこのような歴史的経緯のほうが隠蔽されているのではないでしょうか。
真樹子さんの今回のご意見からは、フェミニストが自分達の主張に合わせて描き出す種類の「歴史」(被抑圧史観)しか見えてきません。しか、そのような女性史からは、フェミニズムがいうような意見しか再生産されないわけで、そのような女性史こそ相対化・留保されるべきではないでしょうか。少なくとも「専業主婦=悪」というテーゼにさえとらわれなければ、近代女性史はむしろ「欲望実現の歴史」として見ることさえ可能なのです。
現象学には「真理」概念がないと書きましたが、あるものが「何」であるかは、客観的な事物としてあらかじめ存在するのではなく、したがって、あらかじめ存在する「真理」を探し当てるという発想も取りません。あるものが「何」であるかを規定するのは人間の欲望による分節であって、人々が(あるいは男や女がそれぞれ)どのような欲望を持っているかという事が、私にとって最も根本的な問題になります。例えば、明治30年以降の女性たちの、教育を受けたい、主婦になりたいという欲望。これを無視して近代以降の専業主婦の増加(誕生ではありません)を語ることに、どんな意味があるでしょうか。このことが自覚されない限り、人々の(あるいは多くの女性たちの)「かく在りたい」を無視した「専業主婦バッシング」もなくなるはずがありません。
また、社会構築主義であれ本質主義であれ、自然科学であれ構造主義であれ、人々の「欲望」やそこから生じる「意味」や「価値」の問題を扱うことも出来ないでしょう。ですから私は、徹底的に自らの内面に向って問い、また様々な資料からも人々の「欲望」を読み取ろうとします。少なくとも、人々の欲望に対して抑圧を強いるような「科学的真理」よりも、「かく在りたい」という実存的な要請に根ざした意見を展開して行きたいからです。
