歴史について


from 真樹子さん (2001年08月15日 21:43)

 まず念のため確認しておきますが、前回の書き込みの性別による役割分業と歴史の話は、あくまで伝聞であって、私の持論という訳ではありませんので確認させていただきます。
 ただ、このような例を持ちだしたのは、まさに

 現象学は、客観存在を前提としていないため、「真理」の概念がありません

 とおっしゃった点にあります。前回例示した「歴史」は、明らかにマルクス主義フェミニズム的な史観に基づくものであり、レスの中でお書きになったような批判は、少なくとも実証のレベルにおいても妥当すると思います。
 すなわち、歴史(仏語のhistoireなんかは「物語」の意味もあるわけですが)は、絶対真理を物語るわけでなく、それこそ語る者による物語でしかないわけですね。すなわち、歴史の物語は、話者の史観なり、イデオロギーなり、偏見なりを通じてしか語り出されないものであり、真理としての歴史は、仮に存在しても永遠に到達し得ない、わけですね。
 ですから、私もマルクス主義フェミニズム的な女性史について、一つの物語として面白いと思うことはあっても、それを信奉するつもりはありません(笑)。むしろ、歴史について私が興味をもつのは、歴史学そのものでなく、歴史観学(historiography)についてです。
 余談ですが、その意味で例の「新しい歴史教科書」と国内左派や中韓との論争は、もういい加減にうんざりしています。教育現場で問題にすべきは、どの史観に基づいた歴史を教えるかでなく、小学校のうちから歴史にはこんなにいろいろな見方がある、ということをいかに考えさせていくか、ということだと思います。

 で、私が前回、「まず自らが立つ視点を相対化する手続」と書いたのは、その意味においてです。
 この点、#56「ジェンダーとは何か」において、

人間は身体レベルの性差を持つということと、それについての認識の仕方について、時代や文化を超越したある共通点を持ち、そのことがいかなる時代や文化のジェンダーにおいても、性二分制が普遍的であることの根拠になっている

という点につき、私は神名さんが「真理」を求めたように読めたわけです。そして、私はそこに違和感を感じざるを得なかったわけです。別の言い方をすれば、本質主義の側に立ちつつ、その後修正を図る折衷主義と読んだわけです。その点が誤読というのであれば、了知しました。

 次に、欲望と価値判断について、この辺りは性別分業だけでなくセックスワークがらみでも結構ホットな論点になっているのでないかと思いますが、確か古典的フェミニスト(笑)は普通、性労働は「男性優位社会において女性が強制されて行う」ものだと言いますが、援助交際するコギャルなんかはそんなこと全然思ってないわけですね。また、専業主婦についても、現代においてはともかく、戦後一定の時期まで、ニュータウンの団地に住んで、家電製品に囲まれて、専業主婦をやるというのが女性の夢であったというのは現実にあって、専業主婦が強制されてそうなったというのは確かに皮相なものの見方ですね。
 ただ、専業主婦が悪であるというのは、それ自体特殊な価値判断でしかないのと同様に、専業主婦が善であるというのも、それは絶対的な価値判断ではありえないことは確認しておきたいところです。この点、世間一般では今や専業主婦バッシングのようなものが出てきている訳ですが、税制や社会保障制度は未だに専業主婦(あ、一応制度上は主夫でもよいですが)になることを奨励しているようなところがあるわけですね。国民年金の第三号被保険者とかが典型ですが。
 私の立場では、専業主婦になることそのものは善だとも悪だとも思いませんが、政府が専業主婦になることを奨励するような政策をとることは(もちろん、ならないことを奨励する政策がとられた場合はそれも含めて)、プライバシーの権利(自己決定権)違反にあたると考えます。この辺は神名さんの「かく在りたい」を重視する、ということに結論的には一致すると思うのですが、いかがでしょうか。


歴史の視点・社会の視点

 私は前回、「あるものが「何」であるかを規定するのは人間の欲望による分節であって」と書きましたが、歴史についても全く同じことがいえると思います。時間の経過の中のある「一瞬」に起こった事実を一瞬で述べることは出来ません。つまり、既に起こった事実をすべて語ろうとしても、それは絶対に事実の発生に追いつかないわけですね。だから、歴史を語るということは必然的に、必要と思われることだけを抜き出して語らざるを得ません。そしてその際、何を抜き出して(歴史として)語るかということは、その語る人が何を重要視するかという価値付けによって決まるわけです。

 ところが普通は、歴史というのは単に事実の羅列として語られるわけではなく、その事実に対する評価が一緒に語られる。ですから、歴史を語るということは、実は歴史という素材によって、自分の価値観を物語ることに他なりません。これが今回、真樹子さんがおっしゃる、「歴史の物語は、話者の史観なり、イデオロギーなり、偏見なりを通じてしか語り出されないものであり、真理としての歴史は、仮に存在しても永遠に到達し得ない」ということの内実だろうと思います。

 このことは、ある意味で様々に語られる「歴史」が相対的であることを物語っています。ただし、あらゆる語り口の「歴史」がすべて等価であるということを意味するわけではありません。

 まず一つ目は、事実そのものが曲げて書かれている場合には、そのことが知れれば人々の意識にその歴史は「ほんとう」として響かない、ということです。二番目に自分の「イデオロギーなり、偏見なり」に都合のよい解釈をして見せても、異なる考えを持つ人々にはやはり「ほんとう」として妥当しない。昨今の教科書問題に限らず、歴史の授業というのはずいぶんとウソを教えるもので、振りかえって見ると、戦後の日本史がいかにマルクス主義史観によって成り立っていたのか、よくわかります。

 たとえば江戸時代の「士農工商」は、なぜブルジョア階級である「商」が「農工」よりも下位に位置付けられているのか、マルクス主義の階級闘争史観では説明できないわけですね。それで、「農民の不満をごまかすためのタテマエだ」なんて説明された記憶があります(笑)。だけどこれは大嘘で、「士」の次に「農」が来るのは当時の封建制が農本主義を取っていたからです。極端にいえば、「士農」だけが存在すれば「工商」がいなくても日本の封建制は成立しますし、逆に「農」が存在しない封建制は考えられません。実際に鎌倉時代は「工商」抜きでスタートしていて、工業や商業の発達は鎌倉幕府の成立以降の話です。要するに、当時の政治制度においては「農」の存在が本質的とみなされ、制度上副次的な新興階層である「工商」はそれよりも下に置かれた、というに過ぎません。

 ですからこれは、日本の封建制が農本主義だったことがわかれば不思議でもなんでもないんですけど、かつての日本でブルジョア(商)がプロレタリアート(農工)の下位に位置付けられていたという事実は、マルクス主義の進歩史観・階級闘争史観では「あってはならないこと」なんですね(笑)。

 ところで、

人間は身体レベルの性差を持つということと、それについての認識の仕方について、時代や文化を超越したある共通点を持ち、そのことがいかなる時代や文化のジェンダーにおいても、性二分制が普遍的であることの根拠になっている

についてですが、ここでいう認識の「時代や文化を超越したある共通点」というのは、簡単にいえば「直接知覚」ということなんです。例えば「視覚」というのも直接知覚の一つですが、時代や文化が異なっても「●」は「丸」であって、「四角」や「三角」に見えたりはしないでしょう。

ただし知覚によって得た像をどのように分節するかはまた別の話で、例えば虹が何種類の色の帯と見るかは、それぞれ時代・文化における色彩感覚によって異なります(=虹は時代や文化を超えて普遍的に「七色」に分節されるわけではない)。そして、その色彩感覚は個々の時代や文化において、基本的にはやはり欲望相関的な(必要に応じた)分節によって編み上げられると考えられます。

 例えば、どのような歴史観が正しいかとか、これから日本の社会はどのような社会であるべきかと問題は、人によって意見が分かれます。なぜかというと、歴史や社会というのは一種の概念であって、「歴史それ自体」とか「社会それ自体」を直接に知覚することは出来ないからです。人は「歴史像」や「社会像」を思い描くことが出来るだけで、その際には、必ず「伝聞」や「価値判断」が混じっています(逆にいえば、直接知覚だけで「歴史像」や「社会像」を思い描くことは不可能です)。

 ですが、例えば幾何学なんかは(少なくとも私が学んだ中学・高校範囲の幾何学でいえば)、誰にでも妥当する。その根拠をとことんまで追い詰めると、究極的には直接に知覚によって確かめることが出来るからです。もちろん、定義(理念)上の「点」や「線」を見ることは出来ませんが、紙に描いた「点」や「線」を見たり、長さや角度を測ったりして「なるほど」と納得することは出来るでしょう。幾何学は公理系ですから、根本にある公理を証明することできません。ではその公理を支えているのは何かというと、各人がそれぞれ自分の知覚(直接知覚)を根拠として納得すること、それが「真」であることが妥当することによってなのです。

 性別でいうと、私の考えでは「性二分制が普遍的であることの根拠」は、こうした「直接知覚による認識」と「身体レベルの性差」(人体の構造や生理的機能)とが、時代や文化を越えておおよそ共通しているからだということになります。

 ただし、ここでいう「普遍的」というのは、「人間は男と女に二分出来る」ということが「真」として妥当することの普遍性や、ジェンダーがその認識に立脚して発生していることの普遍性について述べているのであって、「善悪」の価値判断は別問題です。つまり同じ根拠によって「性二分制が善である」ということが普遍的に成立するということはあり得ない。なぜなら、「真偽」と「善悪」とは異なるの価値基準であって、「真」であれば必然的に「善」であるという一対一対応の因果関係が常に成立するわけではないからです。

 また、「性二分制が普遍的であることの根拠」はあくまでも認識論(人間が身体レベルの性差をどのように認識するかという問題)として指摘しているのであって、例えば本能のような形でジェンダーが身体(セックス)にアプリオリにセットされているという意味でもありません。そういう意味でも、私は本質主義の立場に立っているわけではありません(もちろん社会構築主義の立場にも立ちませんが)。

 ついでにいえば、ジェンダーレベルの性差の否定といった意見が出てくることの根拠はこの段階にはなくて、それは「ジェンダーとは何か」の中で、真樹子さんが前回に問題にされた部分よりも後に書いてあります。

 たとえば「高度に文明化した社会では性幻想も複雑になり、その分だけ相対的に身体の束縛が緩くならざるを得ない」し、また「高度に文明化した社会では、このような変化が一種の必然性を伴って現れてくるような条件が存在する」という部分ですね。別のいい方でいうと、社会が高度化し、ジェンダーが複雑になればその分だけ身体レベルの性差との関連において、結び付きの必然性が薄れてゆく、ということです。

 これはなにもジェンダーだけの問題ではなくて、広い意味で文明・文化というのは、高度化するほどに自然条件の束縛から「離陸」するものであり、ジェンダーもまたその例外ではない、ということなのです。ジェンダーレベルの性差の否定といった意見は、このような条件がある程度満たされることによって初めて発生することが可能になると考えられ、また事実としてもヨーロッパにおいて近代以降に発生しているわけですね。


 最後に、専業主婦が善か悪かという問題は、確かに見方によってはあくまでも相対的なものに過ぎないといえます。ですが、それ以前の問題として、そもそも専業主婦になる(ならない)というのは「善悪」の問題なのでしょうか。この答えは、真樹子さんご自身が今回、「専業主婦になることそのものは善だとも悪だとも思いません」とおっしゃっているわけですね。では、「政府が専業主婦になることを奨励するような政策を」とっていると思われるのは、どのような理由によってなのでしょうか。

 私は制度の細かいことを知りませんが、まず、女性は専業主婦になってもならなくてもいい。それは善悪の問題として他者からどうこう言われるものではないわけです。ここまでは、同じ意見だと思います。

 では専業主婦になったとして、この場合、基本的には夫婦の生活が夫一人の収入によって賄われるわけです。さらに子供が出来たりすれば、その収入で食べて行く人数も当然増えることになります。そこで、真樹子さんのおっしゃる「税制や社会保障制度」上の優遇(?)がまったくなくなると、どういう生活になると思いますか?

 もちろん、もし専業主婦のいる家庭の大半が、独身者の世帯よりも経済的に豊かで贅沢な生活をしているのでしたら、「税制や社会保障制度」上の優遇を見直す必要があるといえるでしょう。つまりこのような場合には、廃止も含めて検討するだけの現実的な理由があるわけです。

 しかし、実際には逆なのではないでしょうか。仮に私が普通の男性だとして、結婚して配偶者が専業主婦になったとします。正直な話、今の私の収入でどうやって生活して行くのか想像も出来ませんし、さらに子供が生まれたらと考えると、そら恐ろしい気がします。その上さらに、たとえば扶養家族が存在による税制上の控除といった制度がなかったら、家庭を持つことはは事実上、不可能だといってもよいと思います。

 とすれば、真樹子さんがおっしゃる制度というのは、むしろ「専業主婦」という選択肢を現実的なものとして支えるための条件(の一部)をなしているのではないでしょうか。もしそれらの制度がなければ、前回書いたような、「専業主婦」は一部の富裕層だけが実現出来る夢だ、という昔話に逆戻りしてしまうでしょう。

 私の考えでは、人生の選択肢が本当に豊かに用意されるためには、それを支える現実的な条件を必要とします。出来るだけ多くの人が自分の「かく在りたい」を実現しようと思ったら、それを保障するためのさまざまな制度が必要になる。しかし、それが直ちにある特定の選択肢だけを奨励しているということにはならないでしょう。また、このような条件を欠けば「豊かな選択肢」とは単なる理想・理念でしかありませんし、現実的な選択肢が極めて限られている社会では「自己決定」も単なるお題目に過ぎません。

 もちろん、それらの制度がどの程度であれば妥当かということは当然考えられるべきですし、それは景気の動向や人々のライフスタイルの変化によっても変動するでしょうから、「優遇のし過ぎだ」ということであれば、もっと妥当な線に改めようじゃないかと検討する必要はあります。逆に「これでは生活できないよ」という場合も同様です。しかしこの場合も、生活の保障をすることを、その生活を奨励することだと読み替えてしまったら、それは違うでしょうね。

 働きたい女性の場合も同じで、子供が生まれても働き続けたいという女性が増えたら保育施設の充実が求められるでしょう。実際には、出産後は育児に専念して、子供に手がかからなくなったら再就職したいと考える女性の方が多いようですが、それならそれでその期間、育児に専念できるような制度が考えられるべきだと思います。たとえば、育児期間が終了したら元の企業に再就職出来るとか、あまり仕事から外れていると職場復帰が難しい場合には在宅勤務という選択肢を増やすとか、いろいろ考えられるはずですね。

 もちろん、これらも「女性が働くこと」を奨励するためではなくて、私達の社会がその成員に対してどれだけ豊かな選択肢を保障できるかという視点から行われるべきものだと考えます。

L.Jin-na


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