from 真樹子さん (2001年08月20日 00:20)
随分お疲れのところバトルをさしあげて申し訳ないのですが…
1.まず、
| > | 性別でいうと、私の考えでは「性二分制が普遍的であることの根拠」は、こうした「直接知覚による認識」と「身体レベルの性差」(人体の構造や生理的機能)とが、時代や文化を越えておおよそ共通しているからだということになります。 |
という点について、私の考えでは、○や△と異なり、性別はそれ自体分節化された後の認識でしかないように思えます。すなわち、直接知覚の段階では、「スカートをはいている」「胸が出ている」「髪が長い」ということまでしかわからない。これを「女」だと認識できるのは、それぞれの本能(本質主義)または文化(社会構築主義)の作用ではないか、という疑念があります。それ以前に、性差というものが存在し、かつその性別が、その内容はともかく二つであって三つでない、という枠組みそれ自体が先験的に与えられている、というのなら理解はできますが。
私としては、あまり哲学的な解決ではないのかも知れませんが、本質主義/社会構築主義については折衷説をとるということでよいのでないかと思っています。問題は、その次にあって、各人がそれぞれ異なった属性をもつことを前提に、各人の行動の自由をどう保障するか、という実務的なところに関心があります。
2.次に歴史と価値判断についてですが、「あらゆる語り口の『歴史』がすべて等価であるとは限りません」というのは、おっしゃるとおりで、前の時にもここまで踏み込もうかとは考えていたのですが。
まず、ご承知の通り、この非等価性を導くものとしては、政治がありますね。例の教科書問題なんかはこれがかなり色濃いわけですが、「歴史」は時の政治上のパワーバランスによって価値判断がなされてしまいます。あるいは、文化によっても異なった価値判断がなされます。
以上はともかくとしても、「歴史」の評価を全くの相対主義に委ねてよいかと言えば、必ずしもそうではないのではないとも考えます。例えば戦争は見方によって聖戦であったり、蛮行であったりするわけですが、大量殺戮や激しい人権侵害が起きたような歴史的事件は、立場を問わず「悪」と評価されなければならない、のでないかと思います。
同じようなことは自由というか自己決定の問題についても言えることで、例えば専業主婦というライフスタイルをとることも、女装をすることも、それ自体「善」だという人もいれば、「悪」だという人もいる。しかし、組織犯罪者として生活することや、過去に大量殺戮を犯したナチスの軍服を着ることは、やはり「悪」だと評価されなければならない。
その意味で、私が全くの相対主義に立つ者ではないことは申し添えさせて頂きます。
3.最後に、専業主婦と税制・社会保障ですが、立法から何十年もたった制度で、当時は専業主婦がほとんどで、無収入である彼女らにも社会保障の恩恵を与える、というのが当初の立法趣旨だったと思います。ただ、男性が企業で残業を含め長時間労働を行い、女性が家庭を守るというのは、ある意味大変合理的なシステムであって、共働きが標準の社会は公共の託児所を作ったり等、それなりにコストがかかるわけですね。私は社会政策の専門でないので、詳しいことはわかりませんが、社会が複雑化・専門化した中で、専業主婦というのはある意味大変効率的な分業なのだと思います。
もっとも、現在において女性の就労機会も増え、条件も多少は改善しつつある中で、いわゆる103万円,130万円の壁は、逆に賃金等の女性の労働条件の改善の足かせになっているわけですね。また、専業主婦世帯は比較的生活水準が高い一方、生活水準の低い共働き世帯が、逆に扶養控除等の恩恵に浴し得ないという欠陥があります。
このため、専業主婦の社会的費用を国民全体で負担してまで、専業主婦になることにインセンティブを与える合理的理由はあまりないと思います。生活水準の高い専業主婦世帯は、ズバリ当の夫が負担すればよいわけですし(もちろん妻の受給権は保障する)、生活水準は低いが介護等のため専業主婦になっている人については、個別に免除等で対処するのが筋だと思いますが…。
あと、事実婚(同性婚を含む)に対して、法律婚を優遇する必要があるか、という論点もあります。
おっしゃるところの「私たちの社会がその成員に対してどれだけ豊かな選択肢を提供できるか」という問題は、私は自己決定権(国家からの自由)と社会権(国家による自由)の関係、という形で捉えています。しかし、国家による自由には必ず一定のパターナリズムが介入します。それと国家からの自由をどう折り合わせるか、ということは、公共政策を論じる場合は常に考えなければならないことだと思います。私のHPでMILKという人と対談したときも、このことが話題になりました。
トランス関係では、性別再指定手術の保険適用という問題が、目の前の問題としてあるわけですが、戸籍訂正より実現しやすそうにもかかわらず、あまり論じられていませんね。もちろん私は反対ではないですが、細かいところでは何点か懸念するところがあります。これについてはまた後日、何らかの形で発表します。
| > | すなわち、直接知覚の段階では、「スカートをはいている」「胸が出ている」「髪が長い」ということまでしかわからない。これを「女」だと認識できるのは、それぞれの本能(本質主義)または文化(社会構築主義)の作用ではないか、という疑念があります。 |
あのですね、これは元々、ジェンダーの発生について述べた箇所への言及だったはずなのですが・・・(^^;)。
「胸が出ている」はともかくとしても、女性が「スカートをはいている」とか「髪が長い」というのは、少なくとも私はそれが「人体の構造や生理的機能」に含まれるとは思えません。これは、「ジェンダーレベルでの性差」を見ているのであって、「身体レベルの性差」を見ているわけではありませんよね。ならば、そのような条件を持つ人を見て「女」だと認識するのが文化の作用であることは当然なのです。
ですが、人間が認識する性差というのは、それだけなのでしょうか。もし仮に、衣服を着けた状態の人間しか知らない、誰も普通にいう意味での「人体の構造や生理的機能」(セックスレベルの性差)について知らないような共同体があるとしたら、このような指摘も成立するかもしれません。ですが、それはジェンダーの概念だけが存在して、セックスという概念が存在しないような世界ですね。誰も「裸の男女」を知らない(直接知覚として誰も認識したことのない)ような、そういう共同体の例が実際にありますか?
繰り返していうと私は、身体レベルの性差は人々の経験の中で直接に知覚の対象とすることが出来るということ。そして、それを様々な文化の中に、その文化特有の方法で織り込むこと(その文化における「性」の扱い方が決められること)、これがそもそものジェンダーの発生であり、そのジェンダーの中に時代や文化を越えて性二分性が普遍的に見られる理由だといっているのです。ですから、ジェンダーが発生した後の話を持ち込まれても、話が混乱するだけで、けっして有効な反論にはなり得ないと思います。
2.歴史と価値判断、および善悪について
私の考えでは、「立場を問わず「悪」と評価されなければならない」ということはあり得ません。少なくとも現実における人間の言動について、そういう評価が可能だと考えるのは、非常に危険な考え方だと思います。そもそも、「善」や「悪」というのはそれ自体が評価である以上、必ず「評価する視点」というものが存在します。逆にいえば、「立場を問わず「悪」と評価されなければならない」という考え方は、いわば「神の視座」に立つ思考なのです。
もちろん、立場を問わない「善」や「悪」というのは、純粋な理念としては成立します。ですが、それは結局は抽象概念の形をとらざるを得なくて、何かしら具体的な言動について「これが絶対善(絶対悪)だ」ということは出来ません。
ここでは具体的に、
| > | 過去に大量殺戮を犯したナチスの軍服を着ることは、やはり「悪」だと評価されなければならない |
について考えてみましょう。これは確か、真樹子さんのホームページの中でも『女装と軍服』というタイトルで取り上げられていた問題でしたね。昨年の11月にTBS系の「ここがヘンだよ日本人」というテレビ番組の中で、フランス人からは「ドイツ軍に占領された歴史を想起させ不愉快だ」、ドイツ人から「ナチスの軍服を着ることはドイツでは犯罪に当たる」という批判があったと書かれていました。
しかしこういう意見は、少なくとも「国民的な意見」としてはフランスとドイツからしか出ない。なぜかというと、フランスにはドイツに負けた「軍事コンプレックス」があるからです。フランスはドイツ軍にパリまで占領され、それを自力で回復することはできませんでした(フランスからドイツを追い払ったのは英米です)。ここから、戦後フランスの執拗なまでのナチス批判が起こり、その一方では西側諸国の中でも浮き上がりかねないNATO脱退や核兵器の独自開発などもはじめるわけですね。もし仮に、一度はドイツ軍にパリを占領されたとしても、それを自力で回復していたら、これほどの過敏な反応を起こすには至らなかったでしょう。事実、フランスは普仏戦争のときにも占領に近い状態(長期間に渡る包囲封鎖)にまで陥っていますが、これほどまでのコンプレックスを持つにはいたりませんでした。ですから、フランス人のナチス批判の大半は、あくまでも「フランス人の視点」からの批判なのです(その他に、フランス国籍を持つユダヤ人からの批判がありますが、もちろん彼らは「パリを占領されたから」ではなく、ユダヤ人の立場から批判しているわけです)。
ところで、このような批判の背景には、「ナチスの軍服」から彼らが受け取る「意味」の固定化ということがあります。その固定化された「意味」とはつまり、歴史的存在としてのナチスですね。
ところが、ロンドンではロックグループがナチスの制服や制帽を身につけたりしているわけです。私が知っている例でいうと、レッド・ツェッペリンというグループのギタリストのジミー・ペイジが、ナチ親衛隊の帽子を被って演奏している写真を見たことがあります。だけどそれを見て、「イギリスのロックグループはナチスを礼賛している」とは誰も思わないでしょう。なぜかといえば、彼等にとってのナチスの制服は、歴史的存在としてのナチス党をデノーテート(直示的)に意味しているのではなく、「社会に嫌われる存在・現体制からのハミダシ者」という意味を表すコノーテート(共示的)な記号として了解されているからです。フランス人であれ、ドイツ人であれ、これを「悪」として、あるいは「右翼」や「ファシスト」として糾弾したりはしないでしょう。ただし、別の視点からの「近頃の若いものは」という批判はあるかも知れませんが(笑)。
逆にいえば、真樹子さんのホームページで取り上げられた「ナチスの軍服を着ること」に対する批判は、あくまでも「ナチスの制服」の意味をデノーテートに固定した上での、特定の(例えばフランス人の)視点からの批判に過ぎません。だからそういう批判が無効だ、というのではなくて、それは彼らフランス人にとっては彼らなりの意味を有しているわけで、彼らから「そういう批判が出て来る事」それ自体は理解出来るのです。しかし、その批判が妥当かどうかということはまた別問題ですし、ましてそれが「立場を問わず」になし得るものでないことは明かです。
私はこの番組を見ていないのですが、真樹子さんのホームページを拝見した印象から推測すると、こういうフランス人から批判は一方的に自分の立場や感情を理解してもらいたいと求めるもので、逆に「ナチスの制服」のコノーテートな意味(嫌われ者・ハミダシ者)を理解しようとはしなかったのではないでしょうか。そもそも両者の間で「ナチスの制服」の意味が異なっているわけですから、批判自体が的外れなものになってしまっているわけです。私は戦争というのは、軍服の着用よりも、むしろこういった一方的な要求から起こるものだと思うのですが・・・。
一方、ドイツ人の立場に立ってみれば、彼らにとって「ナチスの制服」がデノーテートに歴史的存在としてのナチスを意味してしまうことには、やはりそれなりの妥当性があるわけです。しかもそれは過去だけの話ではなくて、今なお国内にネオ・ナチを抱えているわけですから、なおさらです。しかしそれもあくまでも「現代ドイツ人の立場」という視点に立つことで成立する「意味」なのです。
私が、「立場を問わず「悪」と評価されなければならない」という考えが危険だというのは、本当は「善」や「悪」なんかないんだ、という相対主義に立つからではありません。そうではなくて、私はむしろ、ある人(や集団)にとって何かが「善」や「悪」と感じられるには、彼らなりの判断根拠がある、といいたいのです。しかしそれはあくまでも「彼らなりの」であって、それを「立場を問わず」といってしまうのは、思考の飛躍があります。
判断対象がアプリオリに善(悪)だというのは、その判断根拠を突き詰めることの放棄になってしまう。それは、善や悪に関する動かし難い「真理」があるというのと同じことなのです。だけどそういう、絶対善や絶対悪が何であるかを決める権利を(またその決定に基づいて、人々に善悪の根拠の追及を放棄させる権利を)、はたして誰が持っているのでしょうか?
私の考えでは、このような思考の飛躍が起こるのは、「善」や「悪」それ自体が何であるかということが突き詰めて考えられていないからです。これは、真樹子さんが悪いというのではなくて、実は現代思想や倫理学などにも同じタイプの飛躍がいくらでも見られるのです。私の視点からは、そういう学者こそが「悪」ですね(笑)。
人間は、個々人のレベルでの「よい/わるい」という価値感を持っているわけですが、これだけだと単なる私利私欲の追求になってしまいますね。だけど、人間には他者との関係から汲み取るエロスがあって、そのことに気がつくと個人的な「よい/わるい」を少し我慢してでも、相手とのよい関係を維持したいと思う。そこに、人々の間に共有される「善/悪」の価値感が生まれる理由があります。つまり、こうした過程を無視して、あらかじめアプリオリに「絶対善」や「絶対悪」が存在すると考えるのは、話の順番が逆なのです。
例えば、上に書いたような事情で狭い範囲での共同体で共有される「善/悪」が出来たとします。仮に、この小共同体をどこかの部族だとしましょう。するとその部族の中で、殺し合ったり、他人のものを盗んだりするのは、その部族における「悪」になります。ですが、他の部族との間で戦争が起こった場合には、敵部族を殺したり、略奪によって自分の部族に富をもたらすことは「善」になります(英雄扱いされるなど)。もちろん、これは敵の部族から見れば「悪」ですよ。だけどある時、この2つの部族がお互いに「殺し合うよりも仲良くして方が得だ」ということに気がつくと、今度は相手の部族を殺しても「悪」になるわけです。なぜかというと、それは部族間の関係を悪化させることによって、自分達の部族に不利益をもたらす行為になるからです。つまり、同じ行為でも「意味」や善悪の「価値」が変わるわけです。
この例の中で、部族間が戦争をしているときに「殺し合いは「悪」です」といっても説得力がありません。なぜかというと、何故それが「悪」とされるのかという根拠が説得力をもって示されないからです。ただ「戦争はいけない」とか「人殺しはいけない」というだけでは、こういう状況では説得力を持ちません(現代の日本でさえ「なぜ人を殺してはいけないのか」といった類いのタイトルの本が何種類も出ているくらいです)。
つまり、同じ善悪の価値観が共有されるためにも、それなりの現実的条件が必要で、単に「絶対善」の理念を提出しただけではだめなんです。もし、そういう方法で「絶対善」が現実のものになるのでしたら、キリスト教一色で塗りつぶされた中世ヨーロッパは理想郷だったでしょう。遅くとも、それはカントの思想によって成し遂げられたはずです。でも、実際にはそうなっていませんね。なぜかというと、そこでは人々が「善」を意思する条件が考えられていないからです。
なぜ、人々が「善」を意思する条件が考えられていないのかというと、最初に「最高善」を設定してしまうからです。一度こういうものを設定してしまうと、「人は無条件に「善」に向うべし」という考えになってしまう。カントの場合でいうと、彼は「もし××でありたければ、●●せよ」という言い方は本当の善ではないというんですね。なぜなら、「最高善」はそういう「条件付きの善」ではなくて「無条件の善」であるはずだと考えるからです。だから単に(無条件に)「●●せよ」という言い方になってしまう。そこでは人々が「善」を意思する現実的条件を考えることが、「それは本当の善ではない」という言い方で禁止されてしまうのです(ちなみに、この矛盾を突いたのがヘーゲルです)。
もう少し簡潔にいうと、「仲良くすることが善だから仲良くしなさい」というのは顛倒した考え方で、実際には逆に、何らかの理由で相手と仲良くしたいと思ったときに、お互いの間に共有される「善」が目指されるということです。この前提を顛倒させると、「善悪」の問題は解き難い難問になってしまいます。
3.専業主婦と税制・社会保障について
これはちょっと、おっしゃっていることに矛盾があるような気がするので、最初に確認しておきたいのですが、
>いわゆる103万円,130万円の壁
というのは、つまり専業主婦や、共稼ぎでも主婦(主夫でもよいのですが、ともかく「扶養家族」扱いになっている方)の稼ぎが少ない場合に扶養控除があるという制度ですよね。すると、この金額が妥当かどうかは別にして、この制度の存在そのものは問題ないのではありませんか。
現状でも、「生活水準の高い専業主婦世帯」はこの制度の対象外であって、(夫が負担してるかどうかは知りませんが少なくとも)「社会的費用を国民全体で負担」する対象にはなっていないという事ですね。また、共働きで夫婦共に高い水準の給与を得ている場合にも、その世帯における「社会的費用を国民全体で負担」する必要はないでしょう。また、扶養控除の制度そのものをなくしたからといって「生活水準の低い共働き世帯」が救われるわけでもありません。
ならば、ここでの問題は制度のそのもの存在ではなくて、「壁」の金額が妥当かどうかということでしょう。そして実際にこの金額は、何十年も前の立法時のまま据え置かれているわけではなくて、それなりに物価や平均給与の上昇に比例して変更されているはずなのです(確か私が高校を出て働き始めた当時は90万円くらいではなかったかと記憶しています)。
「事実婚に対する法律婚の優遇」についても、これは少なくとも異性間の「事実婚」と「法律婚」との間にはあってもよいと思います。結婚(法律婚)とは何かというと、これはこれから二人で家庭を持ちますということの対社会的な宣言であり、同時にその宣言に対する社会的な承認でもあるわけです。それをするかしないかは、あくまでも当人達の選択に任されるべきであり、そうである以上、両者の態様の差異についても承知の上での選択とみなされるからです。法律婚によって、さまざまな権利や義務が生じることは、国家からの一方的は束縛と見るべきではなく、法的な保護の意味合いを兼ね備えています。その保護を受けるかどうかは、あくまでも当人達の自由な選択に任されています。その選択にあたっては当然、事実婚と法律婚との制度上の差異も当人達によって検討に含まれて然るべきなのです。したがって差異があるから不公平だということにはなりません。むしろ差異があるからこそ、あれかこれかという「選択の対象」になるのであって、そこにいかなる差異もなければそもそも「選択」ということ自体が意味を持ちません。
ただ、同性婚としての事実婚の場合には話が違います。これは自由な選択によるものではなくて、現状では法律婚が認められないため、必然的に事実婚にならざるを得ないという条件に置かれているわけです。したがって、この場合には法律婚を認めるか、もしくは法律婚に準じたパートナー制度を作る必要がある。その上でそのような制度を利用するのか、自己選択的に事実婚の態様を選ぶのかを、当人達が決められるようにすべきだろうと思います。
ところで私は「自由」について考える場合に、最初から自己決定権(国家からの自由)と社会権(国家による自由)に分けて考えるという事をしません。なぜかというと、真樹子さんと私とではおそらく「国家」の概念が違うのだろうと思います。真樹子さんのご意見からは、今回に限らず、何か国家が国民と敵対するもの、国民を抑圧するものといった、マルクス主義風の国家観の印象を受けるのです。あるいは、もしかしたら日本の法律系の学問に「王権の監視」に由来する発想が底流しているためかも知れません(例えば憲法の起源を英国の憲章(カルタ)に求めるとこういう発想になりそうな気がします)。
真樹子さんの知識がどの辺に由来しているのかわかりませんので、これはあくまでも私の勝手な印象と想像に過ぎないのですが、そのために、お互いの間で意見が食い違っているような気がします。
私が「自由」について考える場合には、上の「善悪」の場合と同じで、あらかじめ作り置かれた国家や制度というものを考えるのではなく「自由を求める個人」から考えます。つまり、人には自由を求める心性がある、というところから考えます。そうすると近代から現代に至る(そしてさらに未来に続く)歴史というのは、これは先日も書きましたけれども、人々が自由を実現して行く過程です。
まず、すべての人ができる限り、それぞれ自分の自由を実現したいと思う。ですが、それを野放しにすると必ず利害の対立が起こるので、それを調停する必要が生じる。ヘーゲルの考えを用語を変えていうと、近代社会というのは、
この3つの原理が重なっているわけです。これを、真樹子さんの言葉にあえて置きかえるとすれば、1〜2番目の世界が「国家からの自由」、3番目の世界が「国家による自由」の領域になるのではないかと思います。
しかし、「国家からの自由」と「国家による自由」とは、必ずしも対立するものではありません。というよりも本来は、対立しないように作られるべきものなんです。この二つを橋渡しするのは、ミルのいう「他人の自由を侵害しない限り自分の自由を追求してよい」ということですね。つまり、利害の対立というのは、自分の自由の追求によって他者の自由を侵害してしまうときに起こるわけです。そして利害対立の調整というのは、大雑把にいうと、そこでお互いに出来るだけ公平な条件になるような形で、自分の自由の追求を部分的に我慢する、ということになります。ここには「法の下の平等」という原理が働いているわけですが、ここで大切なのは、「平等」はあくまでも自由の追求のために必要とされる条件だということです(これを顛倒して平等を優先すると、社会主義のようにやたらと自由に対する制限がきつくなります。また、自由と平等を同列に置いても解きがたい難問が発生します)。
各人がとことん自分の利益を追求すると、必ず利害の対立が起こります。ということは、利害対立の調整のための自由の制限もまた、「各人が自由を追求するため」に必要な現実的条件なのです。つまり両者がセットになることには必然性があって、現実条件の中で「絶対善」が実現できないのと同様に、「絶対自由」や「絶対平等」の実現もまた背理だという事になります。
問題はそれが、できるだけ妥当な方法で行なわれているか、という点にあります。これも大雑把にいってしまえば、個々の制度を見て「この制度はこれこれの人に有利だ」ということにはあまり意味がありません。それよりも、制度総体として「私たちの社会がその成員に対してどれだけ豊かな選択肢を提供できるか」ということの現実条件の整備として機能しているかどうかが、まず大切だろうと思います。
仮に、扶養控除が専業主婦に有利だから不公平だというのでしたら、公費によって(つまり国民全体で負担して)保育施設を作ることは子供を持つ夫婦だけに有利だということになります。同じく公費によってバリアフリーを推進したら、老人や身障者に対する恩恵のほうが若い健常者に対する恩恵よりも大きいですね。そうすると、真樹子さんの論理だと、国家は私達に「子持ちの専業主婦(法律婚)で、なおかつ身体に障害を持つ老人」になることを推奨しているということになりませんか? 個々の制度に片っ端から順に目をつけて行くと、そういう話になってしまうわけです。だけど、どう考えても日本という国がそういう政策を持っているとは考えにくいですね(^^;)。
一つ一つの制度はある特定のカテゴリーの人達のためであっても、それらの制度が総体として皆のためになっているのであれば、私はそれはやはり肯定されるべきなのだと思います。逆に、個々の制度がある特定の人達に有利だからといって、それを廃止して行くと、結果として皆「平等」に貧しくなって行くわけです。これは単に経済的貧困というだけではなくて、選択肢の貧しい(つまり自由が極端に制限された)社会ということも、同時に意味しています。
もちろん、制度の総体を見渡してもなお不平等があると感じられた場合には、それに対する異議の申し立てはあって然るべきだと思います(私も「国家は常に正しい」というつもりはありませんから ^^;)。そして、それはあくまでも「国家からの自由」が(考える順番としては)先なのであって、「国家による自由」に「国家からの自由」を折り合わせるのではありません。まず「国家からの自由」(個人の自由追求)があって、そこから生じる利害対立の調停のために「国家による自由」が存在するのです。だから、「国家による自由」に関して、それが利害対立の調停の役に立たないとか、調停の仕方が不公平だと感じたら、それは国家に対して異議申し立てをする根拠になるのです。
ですが、その異議申し立ては「出っ張っている部分」を削るのではなく、「へこんでいる部分」を盛り上げる形でなされるべきだろうと思います。そうしないと、皆が「平等」に貧しく不自由になってしまう。それは、真樹子さんにとっても本末転倒なのではないでしょうか。
