国家と自由


from 真樹子さん (2001年08月22日 00:47)

 まず議論をはじめる前に申し上げておきたいのですが、先日のレスを見ていると、どうも私を特定の思想の持ち主であると決めてかかったり、細部の揚げ足取りがあったりと、議論を継続するのに困難を感じるのですが、私の舌足らずもあったとは思いますので、一応投稿させていただきます。

1.国家と自由(前回のレス3.への回答)

真樹子さんのご意見からは、今回に限らず、何か国家が国民と敵対するもの、国民を抑圧するものといった、マルクス主義風の国家観の印象を受けるのです。

というところなんかその最たるものですが、確かにマルクス主義系の著作を読むことはなきにしもあらず、影響は恐らく受けているだろうとは思いますが、とりあえずマルクス主義の方がどちらかといえば、国家の利益と労働者の利益が一致していることが建前になっていて、国家が国民と敵対するもの、国民を抑圧するものという発想は否定されてますよね。国家からの自由と国家による自由についても、確か区別しないのではないでしょうか。国家との社会契約が守られないのなら、それを打ち倒してもよいというのは、もっと昔の思想家の考えでしたよね。だから、私の考えは後半に書かれた“「王権の監視」に由来する発想”の方がまだ近いと思います。

 で、いままでの日本においては、社会政策なんかでも国家なり納税者なり受益者なりの利益は、官僚によりほとんど予定調和的に調整されていて、その対立は表に出ないという状態が長く続いていたわけですね。その中で受益者は、レディメードの社会保障を受けていればそれで満足、という傾向が強かったわけですが、社会の分節化が進んだのでしょうか、その歪みがあちこちに出ているわけですね。その一例として、専業主婦の問題なんかが現れているのだろうと思います。その中では、国家のとる政策と個人の利益との乖離が以前より激しくなりうるのは避けられないでしょう。権利同士の衝突に限らず、パターナリズムという点においてもです。もちろん常にそうなるというわけではありませんが。自己決定権みたいなのがクローズアップされてきたのは、そういう文脈であると私は理解しています。

 もっとも、そうすると万人による闘争状態が継続し、収拾がつかなくなる。そこで第三の役者に登場願うのですが、国家への自由(参政権)ですね。最終的には議会ということになるのでしょうが、それに限らず、このインターネットなんかも含めて、いろんな利害関係者が議論を闘わせて、社会的合意を探る、というプロセスが必要になってくるわけですね。この段階で、国家からの自由と、国家による自由の妥当な配分が決まってくるのだと思います。
 なお、マルクス主義系の人はおそらく区別しないのでしょうが、私の考えでは、国家からの自由がまずあって、国家による自由は補完的な関係に立つ、と考えます。もっとも、国家による自由を全く否定する立場には立ちません。なぜなら、国家からの自由のみが認められる世界は、不公正が支配する世界になりかねない。そのため、あくまで民主的な国家であることが前提ですが、国家がたえず不公正をなくす役割を果たさなければならない、と考えます。

 このため、“扶養控除が専業主婦に有利”はともかくとして、“公費によって(つまり国民全体で負担して)保育施設を作ることは子供を持つ夫婦だけに有利”“公費によってバリアフリーを推進したら、老人や身障者に対する恩恵のほうが若い健常者に対する恩恵よりも大きい”という損得や、個人に対するパターナリズムの問題は当然にあって、問題はそのような政策を、社会における公正を保つコストとして支払うことにつき、どれだけ社会的合意が得られるか、ということなわけですね。
 今回は詳述は避けますが、専業主婦の税制や社会保障については、現在では社会的合意が果たして得られているのか、ゆらぎが出ているのでないか、という点で注目しているわけです。

 ここで前回のレスを読み返してみると、国家観、自由観のレベルではほとんど差はなくて、この論点の対立はやはり専業主婦が置かれている状況等の現状認識の差や、政策面における価値観の差によるものと思いますが、どうでしょうか(^^);

2.相対主義と善悪(前回2.への回答)

 前後しますが、この国家への自由を保障するために、表現の自由というものが問題になってきます。さまざまな当事者が表現を通じてバトルを闘うわけですが、その評価は別として、とりあえずリングに上がる切符を与えるという意味で、あらゆる言論活動の機会を保障する。その意味で表現の自由とは極めて相対主義的な発想の産物な訳ですね。
 ところが、リングに上がる切符は手に入れたが、リング自体を破壊しようとする人も中にはいる。そういう場合にどう対処するか、という問題が出てくるわけです。この場合、相対主義を徹底するとリング自体が破壊され、相対主義そのものが死滅してしまうというパラドックスが生じるわけですね。
 この点、日本の憲法はとらないわけですが、ドイツ憲法(基本法)などは相対主義を修正し、民主主義を破壊する政治活動を制限したりしているわけですね。軍服の問題にはこういう背景があるわけです。
 もちろん、日本においてミリタリー収集家の人が軍服を着るというのは、文脈も異なっていて、それ自体ある意味平和の証拠とさえ言えるかもしれません。ただ、軍服というもののもつさまざまな文脈を知らずに、あるいは無視して、公の場でそれを着るというのは、なんだかなあ、という気がします。
 私は基本的には相対主義に立つ者な訳ですが、その基盤を破壊する者についてはそれを修正して、アプリオリな価値判断を下さざるを得ない、というのが前回の趣旨です。ただ、日本における「軍服」の記号的な意味については別途再検討する必要はあると思います。

3.最後に性別(前回1.への回答)

 おそらく、この問題について議論がかみあわないのは、直観として性差を認識できるかどうか、という点にあるのでないか、と思います。その意味で、私は非常に徹底した社会構築論に根ざしているのかもしれません。
 これについては水かけモードに突入していますので、これ以上はやめにしておきます。


国家・自由・法律

 前回の私の発言は、真樹子さんが特定の思想の持ち主だと決め付けたのではなくて、真樹子さんの発想の傾向を指摘したものです。ですから、真樹子さん今回引用されている部分のすぐ後ろに「あるいは」として「『王権の監視』」に由来する発想も挙げているわけですし、さらにその後で、「真樹子さんの知識がどの辺に由来しているのかわかりませんので」ともお断りしています。

 ですから、これ以上マルクス主義に言及することは蛇足になるのですが、一応気になる部分に触れておくと、マルクス主義で「国家の利益と労働者の利益が一致している」とみなされるのは、「国家一般」ではなくて、暴力革命が成功した後に成立する社会主義国家に限られた話です。私が前回に書いたように、自由追求によって生じる利害対立を調整するのが国家だというのが、ヘーゲルの考えです。これに対して、マルクスは、国家の調停はブルジョアに有利に働くような考え方(イデオロギー)に支配されているのでその役目を果たしていないとして、ヘーゲルを批判するわけです。そして、そのような国家は暴力革命によって倒さなければならないとする。ですから、暴力革命の邪魔になるような諸々の存在、法律や裁判所や刑務所、警察や軍隊をマルクスは「暴力装置」と呼ぶわけです。「暴力」というのは「不当な実力」(ここでいう実力は「実力行使」などという場合の「実力」です)という意味ですから、彼はこうした存在そのものを否定する。しかし、暴力革命によって成立した社会主義国家においては、法律も裁判所も刑務所も警察も軍隊も、決して「暴力装置」と呼ばれることはありません。なぜなら、彼にとって社会主義国家とは、共産主義の実現のために不可欠な過程的存在として正当化されるからです。

1.国家について

 それはさておき、「王権の監視」については、これも前回書いた通り、イギリスで発生した考え方ですね。真樹子さんの、

国家との社会契約が守られないのなら、それを打ち倒してもよいというのは、もっと昔の思想家の考え

というご指摘はその通りで、「抵抗権」とか「革命権」と呼ばれている概念です。私の知っている範囲では、おそらくジョン・ロック(1632〜1704)が最初ではないかと思います(彼より少し前のホッブズには、この考えはありません)。イギリスのカルタ(憲章)は元々は、王と領主(封建貴族)の間での権利の線引きのようなものですね。つまり領主に一定範囲の権利を認め、王はそれを侵さないという約束です。最初は、各領主ごとに王との約束(カルタ)が作られるわけですが、これがその後に、王と領主連合(仮名 ^^;)との約束として一本化されます。これがマグナ・カルタ(大憲章)です。このマグナ・カルタを憲法の原型とみなした場合、憲法は「国家と国民との約束」という定義になります。つまり、カルタでいう王を国家に、領主を国民(議会)に置き換えた論理です。ですから、この考えを下敷きにした場合には当然、「国家からの自由がまずあって」という発想が出てくるわけですね。

日本で法学をやった人は、ホッブズは知らなくても、なぜか皆さんロックは知っているので、(確かめたことはありませんが)日本の法学はこの考え方が主流なのかな、という気がします。

 一方、私の場合には社会契約説を前提においていますから、国家はあらかじめ王権(=国家権力)としてあったものが今でも続いているとは見ずに、国民のものと見るわけです。そこでは憲法も国家の主権者たる国民同士の約束(契約)と位置付けるべきだと思います(社会契約とは、国家の成員同士の相互契約をいうわけですから)。この発想では、国家は「あらかじめ存在するもの」ではなくて、私達がどういうものとして国家を作るのか、ということを考えなければなりません。

 もちろん、歴史的事実からいっても国家は「社会契約説」が考えられるよりも昔から存在していますし、個人的にいっても私が生まれた時には既に「日本」という国家が存在していたわけです。でもそれは、例えばルソーにしても当然知っていたわけですよね。それにも関わらず、なぜ社会契約説という考え方を置くのかというと、こういう事なんです。

 まず、人権の根拠を考えるということ。ロックには人権の根拠を論理的に考える姿勢がなくて、彼は天賦人権説を取ります。時代背景を考えるとすぐにわかりますが、これは王権神授説に対するアンチテーゼを置いたわけです。ですが、神の真意が天賦人権説にあるのか、それとも王権神授説にあるのかということは、証明不可能で、この二つの説は論理上、同等の権利しか持っていない。これはロックの説の致命的な欠陥です。だから、ルソーは『社会契約論』の中で天賦人権説を明確に否定しています。王権神授説を覆すためには、これと同じく「神」を根拠にした論理によっては不可能で、その根拠を「個人(の実感)」に求めるわけです。つまり、人権の根拠を普遍洞察性に求めることによって、多くの人々に、王権神授説よりも妥当と認められるような原理を提出しなければならない。現在では、あまりに人権概念が自明のこととされてしまったために、かえってこのモチーフが忘れ去られてしまっているように思います。

 社会契約説の普遍洞察性を一言でいえば、「神」や「真理」といった物語を使わないということです。ここが、聖書の物語に依存しているロックの思想とは決定的に違うところで、人々が誰でも自分の内に自由を求める気持ちがあると認める限り、そのことを根拠として論理展開ができる。そこから「国家」とは何か、どうあるべきものかという原理も提出される。私がロックのような考えを用いない理由も、ここにあります。たとえ歴史的・現実的には国家が既に存在しているとしても、そこに属する成員の一人一人が、国家とは何か、自分がそこにどのような形で関わるべきかを根本から(物語を用いることなく)考える道筋が用意されているということ。それが社会契約説の意義だと思います。

 専業主婦の件については、後述します。

2.内面の自由について

相対主義を徹底するとリング自体が破壊され、相対主義そのものが死滅してしまうというパラドックス

というのは、重要なご指摘だと思いました。ただ、このパラドックスの答えは、原理的には既に近代法の中に含まれていると思います。それは何かというと、「表現の自由」以前に、「内面の自由」という考え方があって、そこから「思想・信条の自由」なども出てくるわけです。そして、近代法で処罰の対象になるのは「行為」であって、内面で悪いことを考えてもそれは処罰の対象にはならないわけです。これは、近代法と宗教の戒律との違いでもあります。

 たとえば、私が誰かに殺意をいだいても、それだけでは処罰の対象にはなりません。しかし、殺意をいだいた相手を殺すための準備をすれば殺人予備、実行すれば殺人罪や殺人未遂に問われます。また言論の場合には、それが他者に対する何らかの侵害になる行為(名誉毀損や脅迫など)とみなされる場合だけが、処罰の対象とされます。

 リングの例でいうと、リングの存在を否定するような言論は認められるけれども、リングを破壊する「行為」に及んだ場合には処罰の対象となる、つまり禁止の対象になるということです。民主主義の否定や、ファシズムあるいはマルクス主義の主張でも、それが言論である限りは許されるべきなのです。ただし武装蜂起のような場合には犯罪として取り締まりの対象になる。この際、「武装蜂起は私の思想の実践的表現である」という言い分は通りません。

ただ、軍服というもののもつさまざまな文脈を知らずに、あるいは無視して、公の場でそれを着るというのは、なんだかなあ、という気がします。

というのも、あくまでも自分の個人的な疑念ないし不快感の表明として、それが言論の範囲に収まっている限りは、真樹子さんにはそれを表現する権利があるわけです。ただし、軍服の着用を実力行使によって阻止しようとしたら(しないと思いますが ^^;)、その場合には犯罪に問われます。あるいは、軍服を着ている人達の人格を侵害するような仕方で誹謗したら、それも名誉毀損という形で犯罪に問われる。逆にいえば、そうならない範囲でさえあれば、何を言ってもよいわけで、それは認められなければなりません。

 表現の自由は、相対主義的な発想の産物なのではなくて、いろんな考えの人がいるということそれ自体は、素朴な事実です。もちろんこの素朴な事実から「何も決定することは出来ないんだ」という結論に至れば、それは相対主義になります。ですが、表現の自由はそういう目的から生じているわけではなくて、あくまでも相互主観的な妥当(共通了解)を導き出すための手段だと思います。そもそも、話し合って何かを決めるという事は、異なる意見の持ち主が存在していることが前提になっているからです。

 これは、ルソーの言葉でいうと一般意思(皆にとってよいと思われること)を取り出すために必要な手続きなのであって、この手続きをなくして「私の意思が一般意思だ」という人が出てくると、とても危険なことになります。つまりフランス革命直後の恐怖政治(テロリズム)や、スターリニズムですね。昔のドイツでも、一度権力がナチスの手に落ちると、民主的な手続きはすべて抹殺されてしまいました。つまり、リングが破壊されたわけですが、これも表現の自由を許したからではなくて、不当な「行為」によってそうなったわけです。逆にいうと、民主主義の制度をとるすべての国でファシズムが台頭するわけではない、ということです。

世間には「民主主義からナチズムが生まれた」という短絡的な主張する人もいるようですが、ナチス党が突撃隊による暴力を抜きにして、言論のみによって政権を勝ち取り得たかどうかを検証してみれば、その誤りはすぐに理解出来ると思います。

 ですから、「相対主義を徹底するとリング自体が破壊され」るというのは、私なりに言い直すと、次のような話になります。表現の「自由」ということを、前回述べた「絶対自由」と取り違えると(つまり、自由には必ず制限がつきものだという事を忘れると)、合法的言論と違法行為との区別もなくなり、人々の言論の自由を侵害する行為が野放しになる。

 原則はここまで述べた通りなのですが、時には例外が生じます。それが、ドイツの例ですね。私は東西統一後のドイツ憲法(基本法)にどういう変化があったのかよく知りませんので、ここでは旧西ドイツの基本法の話になりますが、少なくとも西ドイツ当時には共産主義を主張することが禁じられていたわけです。冷戦下の状況で、共産圏と地続きの最前線の位置にあった西ドイツとしては、そこから感じられる危機的状況が、部分的にではあれ言論統制をすることの根拠となる現実的条件だと考えられていたからです。他に、ナチズムの主張も(純粋に言論としても)出来ませんし、歴史修正主義も禁止されていますね。

 ですが、これは上に述べた原則に照らしていえば決して好ましいことではありません。もちろんこういう条件下では、いきなりこれらの制限を廃止しろと言うことはできません。しかし、そういう制限を設けざるを得ない理由とされている現実的条件を解消する努力(原則に沿った自由を認めるための現実条件を整える努力)は必要で、現在の制限を無条件に認めているようではだめなのです。自由に制限はつきものですが、それはあくまでも必要最小限でなければならず、また、その制限を少しでも減らすための現実的条件を求めることが、自由の実現のために不可欠だからです。

 つまるところ、「日本においてミリタリー収集家の人が軍服を着る」ということが、はたして「人々の言論の自由を侵害する行為」につながるかという問いになると思います。彼らを見て不快感や不安を感じるという人がいるのはわかりますし、そのこと自体もまた禁止されるべきではないと思います。ですが、それだけでは単なる印象に過ぎません。そういう印象を受けるということと、上の問いについて冷静に判断を下すこととは、あくまでも別問題として問われるべきでしょう。

3.法制度について

 専業主婦については、まず私は前回の私の勘違いを訂正しなければなりません。私は前回、

現状でも、「生活水準の高い専業主婦世帯」はこの制度の対象外であって

と書いたのですが、これは間違いで、生活水準が高くてもそこに稼ぎのない専業主婦がいたら、この世帯は扶養控除の対象になるんですね。まず、この点を訂正します。

 ただ、『公費によって(つまり国民全体で負担して)』ということと絡めていうと、たとえ扶養控除があっても、生活水準の高い、つまり収入の多い世帯はそれだけ税負担額も大きいということを付け加えておかなければなりません。なぜなら、この控除額は収入の多寡によって違うわけではないので(収入の多さに比例して控除額が増えるわけではないので)、控除額を差し引いた残りの分にかかる税金の金額は当然、「生活水準の高い専業主婦世帯」の方が大きくなるからです。つまり、扶養控除という側面では一見して有利に見える「生活水準の高い専業主婦世帯」も、累進課税という側面では、より大きな負担をしなければならないのです。

 そして、私の考えでは、その上でなお世帯間に生活水準の肯定という差異が出ても、それは自由競争という観点からいえば、その差がある程度の範囲に収まっている限りは問題はないと思います。もちろん、自由競争を野放しにすると、初期資本制のように貧富の差があまりにも開きすぎるという社会矛盾を引き起こします。

国家からの自由のみが認められる世界は、不公正が支配する世界になりかねない。

というのは、このことを上手く表したいいかたで、前回の言葉でいうと、「利益を追求し人々が契約でつながる市場原理の世界」がこれに当たります。つまり、資本制それ自体は完全な制度ではなくて矛盾をはらんでいるわけで、これはやはり望ましいことではありません。そこで調整役としての国家が必要になる。つまり、

国家がたえず不公正をなくす役割を果たさなければならない

ということですね。ですが、この「たえず不公正をなくす」ということをあまりに厳密にやりすぎると、これは市場原理の世界そのものの否定になってしまう。あるいは資本制それ自体を否定してしまうことは、やはり自由競争の否定になってしまいます。つまり「公正」という言葉の意味を厳密に取りすぎて、「きっちり同じ生活」というように考えてしまうと、これは私が前回書いた「絶対平等」になってしまうということです。「絶対平等」にこだわると自由競争の否定になってしまう。

 自由競争の否定というのは、人々の欲望に対する否定・抑圧であり、それはとりもなおさず人々の「自由」の否定です。ですがそれは、昨日も述べたように原理的にも間違っていますし(自由と平等の顛倒)、またその間違いは実際に社会主義国の貧困や崩壊という形で現れているわけですね。

 ですから「自由」の実現という観点から言うと、貧富の差は、あまりに開きすぎてはまずいのですが、完全に否定することも出来ないのです。そこで、貧富の差の存在それ自体は認めるけれども、ただしその差を一定の範囲内にとどめようとする発想が出てきます。もちろん貧富の差を認めるその範囲についてどれくらいが妥当かというのは、それこそ基本的には社会的合意によって定めるところなのですが、しかし原理的にゼロ(絶対平等)にすることは出来ません(それは、社会的合意による自分達の自由の否定という、新たな矛盾を引き起こすだけですから)。そこで、貧富の一定の差を認めつつ、差が開き過ぎないように「富の再配分」を行なうという方法が取られます。上に書いた累進課税はその典型的な例です。

 もっともこういう意見は、社会主義者・共産主義社から見れば「資本制の擁護」として批判されるかもしれませんね(笑)。貧富の差が開きすぎると資本制そのものが行き詰まりますから、こういった制度には確かに資本制の維持という効果があります。ですが、私がここで重視しているのは、資本制そのものではなく、あくまでも、人々の自由を求めるという本性に根ざした「自由競争」です。逆にいうと、自由競争が否定された世界では、人々がその自由を現実化する手立てを失うということです。

ここで前回のレスを読み返してみると、国家観、自由観のレベルではほとんど差はなくて、この論点の対立はやはり専業主婦が置かれている状況等の現状認識の差や、政策面における価値観の差によるものと思いますが、どうでしょうか(^^);

 う〜ん、だいぶ違うかもしれません(^^;)。まず、国家についていうと、そもそもの前提(原理)が違うわけです。これはいわば、イギリスとドイツの違いですね(笑)。

 もっとも、市場原理が生み出す矛盾を国家が調整するとか、官僚制が生み出すパターナリズムといった、重要な(と思われる)点で一致していることも確かだと思います。

ちなみに、官僚制が生み出すパターナリズムについて私なりにいうと、現在の官僚制が閉鎖的なシステムになりすぎているために惰性で仕事をしているから、ということになります。「悪しき前例主義」ですね。もう少し具体的にいうと、過去にたまたま成功した方法があると、その方法が固定化されてしまい、成功の原因がきちんと分析されていないということです。だから、条件が異なる場合にも過去に成功したやり方を試みて失敗したりする(^^;)。
 そして、「悪しき前例主義」の背後にはさらに「悪しき権威主義」があるわけです。要するに、自分の頭で考えていない、ということですね。それも組織が大きくなるほど組織の硬直化が激しい。それは、組織が大きければ大きいほど責任の所在がぼやけるということから来ています。ですが、ウェーバーの『官僚制』を読むとわかるんですけど、これは官僚制そのものが悪いというよりも、むしろ官僚制という制度が徹底されていないことによる、組織の欠陥なんです。官僚制は本来ならば、組織の中で権限とそれに伴う責任との配分が明確に規定されていなければならないからです。でも、マスコミの官僚批判を見ていると、そういう官僚制の本質が理解されていなくて、「官僚制=悪」といった的はずれな批判になっています。そのことも、かえって(日本の)官僚組織の欠陥を温存する一助になっていると思いますね。

 ただ私の場合には、「国家からの自由がまずあって」ではなくて、「まず自由でありたいと思う自分(や人々)がいて」という出発点を置きます。私の場合は自分自身を、国家に束縛される客体ではなく、あくまでも国家を作っている主体(の一人)として位置付けているわけで、この違いは大きいかもしれません。人権についても、国家と国民との約束ではなく、自由でありたいと思う各人の間での、自由の相互承認ということに根拠を置きます。その約束(相互承認)を守るためには、自分が我慢しなければならない部分も出てくるわけですけれど、それは基本的には国家による制限というよりも、お互いの約束なんです。ただ、約束を破った人が出たときに私刑にかけると問題が多いので(^^;)、それは国家に預ける。

 それから、この約束は対等な約束であって、そうじゃないと「相互承認」になりません。仮に「一方的に承認しろ」といわれたら、それは誰でも不公平だと思いますから、そういう特権者は作らない。別に神様が人間に平等に人権を分配したわけではなくて、不平等にするとワリを食った人から文句が出て約束そのものが成立しないから、法の下に平等という約束になります。逆にいうと、この平等は約束(相互承認)の範囲でだけ有効なので、その他の部分は頑張った分だけ自分が抜きん出ることが出来る。別の言い方をすると、この平等は機会の平等であって、結果の平等を保障するものではないということです。でも、結果にあまり差が開きすぎると競争そのものが成立しないから(競争が続かないから)、そこは競争の邪魔にならない程度に調整する。簡単でしょう(笑)。

 それからここでいう約束は、つまりは法律という形をとるわけですけれども、それは本来は自分達の約束だから、個々の社会の成員が理解しているというのが原則です(現実にはすべてを理解するのは無理なので、弁護士に相談したりするわけですが)。そして不都合があると思ったら「おかしいじゃないか」といっていい。もちろん、この約束は「相互承認」であることが前提ですから、自分の都合ばかり言ってはダメなんですけれども、それをわきまえた上で「おかしい」と思ったら、それは「ここはこう変えよう」と言えるんです。なぜなら、自分達の約束だからです。これもヘーゲルが面白い事をいっていて、法律の専門家の中には「素人が口出しするな」という人がいるけど、そうじゃないんだと。靴が自分の足に合うかどうかが靴職人(靴のプロ)でなくてもわかるように、法律も素人があれこれ言っていいんだというんですね(笑)。

 これは上にイギリスとドイツの違いと書きましたけど、近代国家の成立について歴史的経緯を見る視点に立つか、原理的視点に立つかの違いといってもよいかも知れません。この国家観の前提の違いが、「政策面における価値観の差」にも現れているということではないかと思います。

 一方、「専業主婦が置かれている状況等の現状認識の差」というのは、それ自体の違いがはっきり出ていると思います。もっとも、私にとっては「専業主婦」に特別の意味があるわけではなくて(笑)、もっと単純に「皆がそれぞれなりたいものになれる世の中がいい」と思っているだけです。ですから、仮に専業主婦に対してあまりに過大な優遇制度があったとしても、現実条件が許す範囲で、それをできるだけ減らさないまま、他の人達に対する条件の向上によって偏差の過剰さを修正する方向で考えたいですね。「専業主婦」を他の立場に置き換えても、それが違法でない限り同じことです。ただしいずれの場合であれ、絶対に全く減らさないというのではなく、あくまでも「現実条件が許す範囲でできるだけ」という条件付きですが。

L.Jin-na


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