from 井上 けんなさん (2001年08月22日 20:41)
ごぶさたしています。
最近は哲学畑の書き込みが多く、いつも面白く拝見しています。
さて、性別、あるいは性差という概念が身体の差異に対する直接知覚に由来するというご意見には全く同感です。
ここで付け加えさせていただこうと思うのは、認知発達論的に言って、人間が物事を知覚するということそれ自体が、物事を2つに分類するという知能の働きに由来しているらしいということです。
乳幼児がはじめて獲得する形容詞が「ある・ない」というペアであり、次が「同じ・違う」であるという研究があります。このように、人間の認知・認識それ自体の最も原初的なありようが、ゼロと1であり、イコールかノットイコールかであることを考えても、人間をまず2つに分類しようとすることは当然であるように思えます。
「同じ・違う」は「自分と」同じか違うか、という文脈で男と女に読み替えられ、それはその次に獲得される形容詞「大きい・小さい」によって「男は大きい」「女は小さい」とステレオタイプ化されていくと考えられています。
幼児がある人物の特徴について最も早くから認識するのが「その人は男か女か」であり、また「男の特徴」を尋ねられると「男は大きい」「男は強い(強いは大きいから派生する)」と答えるという研究結果も参考になるかと思います。
認知発達論に、こういった二分法についての見解がある事は知りませんでした。もっとも、現象学にしても認識の構造を検討する側面がある以上、両者の見解が重なる事があっても不思議ではありませんし、動物の「快・不快」の原理も含めて、分類の最も単純で素朴な方法は二分法ですね。
フロイトの何かの論文で、子供の「いない−いた」の遊びついて触れたものがあったと思いますが、この「いる・いない」も「ある・ない」と同じこと(欧文では同じ言葉)ですね。これを欲望連関を踏まえていうと、乳幼児にとっての「母親の不在」は、いわば自分の存在の危機に関わる大事です。乳幼児が「いる・いない」(ある・ない)を早い時期から問題にするのは、このような内的な動機(興味関心)に支えられているのだろうと思います。
それから、男女の「大きい・小さい」でいうと、これは単なる数学的な絶対値としての大きさというより、心理的な大きさ(大きさについての印象)という面が大きいように思います。認めたくはありませんが、私は男性の身体を持っています(^^;)。現在の私は、(男性としては)小柄な方ではありますけれども、しかし父の身長をとっくの昔に上回っています。だけど、子供の頃の「父の大きさ」の印象を思い出してみると、今の自分がそれを上回る大きさ(身長)の身体を持っているとはどうしても思えないんですね。自分の手を見ても、父の手はこの何倍かの大きさがあったはずだと思えてならないのです(笑)。
もちろん理性的には、そんな巨大なサイズの手が存在しないことはわかっているわけで(^^;)、この異なる仕方による2種類の認識のズレは、どちらが正しいという問題ではなくて、子供の目と大人の目の違いを表しているのだろうと思います。たぶん、ここでいう「子供の目」で見た父の「大きさ」は、「強さ」という観念と連合した後の段階(例えば小学生低学年)のものだったのでしょうね。
それから、「怖い・安心(やさしい)」というのも、それぞれ男女に結び付いた印象だったと記憶しています。私が幼い頃は、まだ下町が下町らしさを残していて、どこの町内にも一人くらいは必ず「カミナリ親父」とアダ名されるようなおじさんがいました。それに対して、女性の場合には年齢を問わずやさしくしてくれたわけです。少なくとも親と一緒にいるときや、自分の親と知り合いのおばさんであれば・・・(笑)。今になって思うとこれは、男や女のステレオタイプを植え付けられたということではなくて、幼児なりの「自分を守る知恵」だったのではないかという気がします。どういう対象(人)と一緒のときに自分が不安や安心感を覚えるのかということが、それなりに経験的に蓄積されて、それが自然に「男」や「女」の観念と結び付いたのだろうと思います。ものすごく素朴な方法ですが(^^;)、女性には優しくされないと期待はずれだけど、知らない男性と出会ったら無事に済めば「御の字」という感じで(笑)。
あと、分類以外の言葉で早く覚えるのが、例えば「マンマ」(ご飯)ですね。この言葉を覚えていたら、とりあえず乳幼児のうちは食いっぱぐれがないわけです(笑)。「パパ」や「ママ」は、これは分類概念でもあるんですけど、やっぱり保護者は必要不可欠な存在です。これくらいは保障されないと、「ワンワン」(犬)なんて覚えている余裕はないんじゃないかという気がしますね。
それから、もう少し成長してとりあえず一人で家から出るようになると、これ以上は家から離れると不安だと感じられるような範囲がありました。これも半径何メートルという規定によるものではなくて、この「不安」が「遠い・近い」を決めていたと思います。もちろんそこにも知覚が働いていないはずがなくて、「ここはよく知っている場所だ」と思ったら不安は感じないわけです。ある契機があって以降は、不安を克服するためにあえて「冒険」に出るようになりました。でも今から考えると、それは自宅からほんの2〜3ブロックくらいしか離れていない場所だったんですね(^^;)。
ところで、以上は「個体」の発達史の側面に関する話なのですが、私が「ジェンダーとは何か」で述べたジェンダーの「発生」には、共同体にとってのジェンダーの歴史という側面が、より多く述べられています。といっても、人間のやる事には違いありませんから、「性別、あるいは性差という概念が身体の差異に対する直接知覚に由来する」という点では同じ事なのですが。
ただ何が違うかというと、話が乳幼児に限られるわけではないので、性愛なども考えに含まれているということです。これは事実を述べた歴史の記述ではなくて、仮に他の動物と変わらない状態の原始的な人間を措定して、そこから考えるという一種の思考実験です(発生的現象学という方法を私なりに試みてみました)。ですから性愛といっても、最初から現代的な性愛を考えてはマズイのですが、この段階でも身体的な性別があるということそれ自体は、経験によって(端的には知覚によって)わかるわけですね。
心理学の岸田秀氏は「人間が本能が壊れたから文化をつくった」と主張されていますが、これはたぶん話が逆で、文化を作った分だけ本能が壊れたのだろうと思います。そう考えないと、文化というのは一世代やそこらで作れるものではありませんから、文化ができる前にホモ・サピエンスという種が滅んでしまう(^^;)。もっともこの順逆さえ無視すれば、性に関して文化が本能の代替をしている、というのは妥当な考えだと思います。
では、性に関する文化(ジェンダー)はどうやって出来たのかというと、すでに身体レベルの性別・性差は認識されているわけですから、それをどのように制度化するかという問題になります。身体を露わにしないとか、性行為を他の個体の目にさらさないとか、いろいろあると思いますが、制度(文化)の中で性に関する部分、あるいは性を軸とした部分(性別役割など)というのは、必ず作られます。なぜかというと、「性」が人間にとって必ず興味・関心の対象になるものだからです。この、性に関する制度(文化)が、つまりはジェンダーです。
| # | もっとも、実証的には男女(雄雌)の文化的な傾向の違いというのは、人間以前に既に存在しているという見方も可能です。たとえば、チンパンジーが小枝を使って蟻を釣って食べるとか、稀に狩猟に近い事をする例もあるそうです。虫食の原猿を除けば、サルというのは草食動物ですから、蟻釣りや狩猟はチンパンジーの本能だとはいえません。そこで、こうした狩猟等にはレクリエーション的な意味があるのではないかという学者もいるのですが、これをやるのはなぜかオスだけなのだそうです。ですが、チンパンジーの内面の考察は出来ないので(^^;)、私の見解の中ではそれは「不明」という扱いで留保されています。(参考:『サル学の現在』、立花隆、文春文庫) |
もともと性二分制で捉えていた身体レベルの性別(セックス)を、制度的(文化的)にどう扱うかということからジェンダーができるわけですから(逆にいえばジェンダーとは制度に組み込まれたセックスですから)、必然的にジェンダーも性二分制をとってしまう。これが、時代や文化を越えて、性二分制がジェンダーにおいても普遍的に見られることの理由だろうと思います。
もちろん、そもそもの身体的な性別という次元で既にインターセックスという、性二分制にとっての例外が存在するわけです。ですが、その数が少ないために、「二分法でだいたい間に合う」という事だったのだろうと思います。医学的な検査の手法が発達した現代と違って、外見上が「男」か「女」のどちらかに見えたら、それはインターセックスとは認識されないわけですね。例えば単に不妊症の女性として扱われたりしたのではないかと思います。ですからインターセックスは、現代よりもその存在が把握された人数が、人口に比してずっと少なかっただろうと思います。それでもなお、例外的存在と認識された場合はどういう扱いになるかというと、必ずしも無視されるのではなく、特殊な存在として神聖視されたり逆に排除されたりするような制度が作られることもあったのでしょう。
