RE:国家と自由


from 真樹子さん (2001年08月26日 00:53)

真樹子です

 本日は大阪でミルトン・ダイアモンド、橋本秀雄、蔦森樹、東優子の各氏によるシンポジウムがあって、ダイアモンド博士によると、近年の性科学によれば性自認は生まれつき決定されているというのは確実で、それをふまえたうえで身体について、生活について、十分な情報を得た上での本人の自己決定を尊重すべき、ということで、一方違う文脈ですが、蔦森氏が、私は性別は無根拠であるということを前提にやってきたが、ただそれを貫くと、例えば最近の(SRSを行う)医療機関の方々の努力を無にしてしまうことになる、とか言っていて、科学的には社会構築主義/本質主義の論争は決着がつきつつあるのだろうけど、問題はその次にあるのだろうと、まさにジェンダー論そのものが転換点にさしかかっていることが感じられた一日でした。(もしかして聞き違えがあるかも知れませんのでその点はご容赦下さい)

 それはともかく、前回v109へのレスです。

1.国家について

まず、国家についていうと、そもそもの前提(原理)が違うわけです。これはいわば、イギリスとドイツの違いですね。

というのは全くその通りで、私は確かに英米系の思想の影響がかなり強いですね。
 ちなみにマルクスもかなりその辺は勉強しているわけで、国家観(マルクスに関しては革命以前のそれ)に関しては重なり合うものがあると思います。蛇足ですが、誤解を解いておくと、私はマルクス(主義)に関して特別の思い入れも、また特別の反感もありません。世代的にそういう位置にいます。
 それはともかくとして、英米系の思想史は国家を敵視するものが多いというのは確かにその通りで、ピューリタニズムに始まり近年の新自由主義、リバータリアニズムに至るまで、国家による干渉をいかに防ぐか、という発想が通底しているのは確かでしょう。リバータリアニズムの一派なんかは納税や社会保障費の納入を拒否し、すべて私的自治の範囲で処理すべきとし、まさに国家からの自由のみを認めるものもありますが、さすがにこれでは社会的不公正が拡大しすぎるため、私がこの立場をとるわけではありません。
 ただ、英米系の思想の特徴は、国家への不信というより、厳密には権力への不信ではないかと思います。権力分立という考えは、モンテスキューが有名ですが、もともとはロックの発想ですし、アメリカ憲法の厳格な三権分立や違憲審査制、情報公開制度等、権力は常に濫用されるということを前提にした制度が、英米法のあちこちにみられます。
 ドイツ系の思想では、あまり詳しく書くとボロが出そうですが、ご指摘にあったヘーゲルやウェーバー、はては革命が起こったあとのマルクスの国家も含めて、国家が正常に機能する条件があればそれでよいというきらいがありますが、英米系の思想ではこのようなことはなく、いかなる権力も濫用されうるという性悪説が通底しているわけです。また、民主主義との関係でも、フランスなんかも含めて、政府が民主的にコントロールされていればそれでよしという考えが大陸系の考え方には強いですが、英米ではある意味、民衆の選択でさえ失敗することを前提に制度が組まれているわけです。
 この辺は西洋といっても決して一枚岩ではないことの証拠で、アジア文化圏にいるとなかなか気づかないところですが、興味深いところですね。

2.表現の自由について

 この論点については、どんどん先走って議論されるので、こちらがなかなか追いつけないのですが(^^;)
 前々回v108の、軍服について「悪」と書いたことにつき、再度釈明しておきますと、私は別に国家がこういうものを取り締まれとか、そういうことを言っているわけではありません。ドイツ憲法なども引き合いに出しましたが、私自身、もし取締りを行うとすると、弊害のほうが大きいのでないかと思います。すなわち、権力は常に濫用される、ということですね。だから、国家が取締りを行うとしたら、言論のリングが壊される「明白かつ現在の危険」がある場合に限られると思います。
 ですから、私の発言の趣旨は、表現者はあくまで個々人の道徳の次元において、表現の自由を守る、あるいはその前提となる平和を守るという心構えが必要だ、という、あくまで一個人の意見です。

3.平等について

 一番最初のv105でも書きましたが、日本の憲法もまず自由の原理の表明である13条があって、その修正原理として平等を規定した14条があるわけで、自由と平等、あるいは公正については私も特に異論はありません。
 一部の市民運動では、これが転倒していて、かえって人間の自由の抑圧になっているという認識も共有できます。
 平等といっても、基本的には機会の平等(形式的平等)がまずあって、それを修正する立場からは結果の平等(実質的平等)という考えが出てきたわけですね。機会の平等を保つとしても最終的には強者による独占を生じ、最終的には機会の平等すら保てない。だからそこに国家が出てきて修正する。昨今のマイクロソフトに関する裁判なんかが典型ですね。これが平等という概念の本来の姿なわけです。
 一方、神名さんは「絶対平等」と呼んでおられますが、一部の論者は「結果の平等」までを求める。極例を挙げると、一部の小学校の運動会で行われている、みんな一斉にゴールのひもを切る(笑)ということになりますが、私もこれでは個人の創意工夫の余地が無くなる、と思っています。
 ただ、具体的な政策となるとことのほか境界は曖昧で、アファーマティブアクションやポジティブアクション(共に、少数者に就学や就労の機会を優先的に与える制度)なんかがどちらに当たるのか、その辺は「国家からの自由」「国家による自由」と同様に、社会的合意がどの辺にあるかということになるのでしょう。

 専業主婦の話に戻ると、「現実条件が許す範囲で、それをできるだけ減らさないまま、他の人達に対する条件の向上によって偏差の過剰さを修正する方向で考えたい」というのは私も異論はないのですが、今起こっている議論は、国家財政の負担をいかに減らすか、という財務省サイドの主張ばかりが目立つように思います。私は見直し派にたつわけですが、なんか一人一人の生活者の視点が欠けているような感じで、一抹の懸念は抱いています。

*    *    *

 あと、同性婚について述べておきたかったのですが、あまり長居すると他の人が書きにくくなってもいけませんので、ひとまず撤収させていただきます。
 ゲイの人の中にも、婚姻制度そのものの廃止を唱える人も少なからぬ訳ですが、現実的には私も現行婚姻制度に同性婚を加える、またはドメスティックパートナー制の導入あたりが落としどころかと思います。
 対立の構造は、戸籍訂正/廃止とパラレルなような気がします。


本質主義および社会構築主義の誤謬

 ダイアモンド博士の「近年の性科学によれば性自認は生まれつき決定されているというのは確実」というのは本質主義で、蔦森樹さんは「性別は無根拠であるということを前提にやってきた」という社会構築主義の立場をとるわけですね。これは、どちらも自分が拠って立つ主張こそが科学的に正当だと主張しているわけでしょう。しかし、私から見れば、どちらも真理主義に過ぎません。ただ、ダイアモンド博士の場合はあからさまな真理主義で(笑)、蔦森さんの場合にはポストモダンの相対主義と同様、「真理なんかない」といいながら結局は自分の外部に真理を措定してしまっている、という違いがあるだけです。

 ダイアモンド博士の説でゆくと、「ものごころがついた頃」から性別違和を持っていたというケースの説明にはなりますけど、「思春期前後」に性別違和を自覚したという場合には、これはどうなるのでしょう。そういうのはニセの GID だというか(笑)、実は性別違和は「ものごころがついた頃」からあったのだが本人がそれを自覚していなかっただけだ、という話になるしかないと思います。でも後者だとそれは性「自認」ではありませんね(^^;)。彼の「性自認は変更不可能」という説自体があくまでも経験則であって、性自認とは何かとか、性自認が構成される原理について明らかにしたわけではありませんから、なぜ「性自認は変更不可能」なのかという説明もないでしょう。こういうのは、科学的に何かを解明したとは、とても言えないと思います(これはハイデガーの存在論からは簡単に解ける問題なのですが)。

 一方、蔦森樹さんの場合にはしばらく前に、その著書である『男でもなく女でもなく』(勁草書房)を改めて文庫版(朝日文庫)でも読みましたけど、基本的な見解は以前から変わっていないようです。だけど、「性別は無根拠」というなら、GID はその無根拠なものにとらわれて苦しんでいるだけだという話になるわけですね。彼はそういうことをあからさまには言わないでしょうけど(笑)、しかし論理的な帰結としてはそうなる。そこは文庫版の追加分でも全く解決されていないんです。だけど、たぶん昨日もそうだったかと思いますが、現在の彼が著書のタイトルに反して女性的な装いをしているのはなぜかといった、自分自身の言動の不一致について、まったく考えられていません。

 T's の中に社会構築主義を支持する人がいるのは、それなりに理解できて、なぜかというとセックスとジェンダーを一対一対応(男=男性/女=女性)で結び付けて例外を認めないというのは、T's にとっては困るわけです。社会構築主義はその結び付きを否定するから、一見するととても魅力的に見えるんですね。

 ですが、この立場を取ると GID 当事者が自分の性自認に基づいてジェンダーを選び取ることの根拠も否定してしまう。これは単なる自由の問題、つまりどちらのジェンダーが好きかを自己決定的に選び取るという問題ではありません。ジェンダーは単なる自己選択的なライフスタイルとは違って、ジェンダーがジェンダーであることの意味というものがあるわけです。性自認と関係なく自由に選べるものは、「トヨタの自動車を買うかホンダの自動車を買うか」という問題と同じで、そもそもジェンダーとは呼びません。ですから、ジェンダーを他のライフスタイルと同じように自由に選べるようにしようというのは、ジェンダーとは何か、自分が何を求めているのかという根本的な問題を忘れた、問題のすり替えなのです。

 自分の性自認に基づいてジェンダーを選択するということは、自分の性自認が他者に認められることにも不可分につながっています。もし、ジェンダーをジェンダーでなくして(性の概念から切り離して)しまえば、性の概念から切り離された「何か」を自由に選択できるようにはなります。しかしそこからは、自分が認識する自己の性を他者に認められるという観点にはつながってゆかない。これは GID に由来する精神的な不安を解消する手立てにはなりません。

 多くの T's にとっては、自分にとって「動かしがたいもの」である性自認によって、選択するジェンダーが決定されているわけです。だけど、自分が「女」だと思うから「女性」のジェンダーを選ぶということ自体が、社会構築主義ではナンセンスとされてしまう。これは、GID 当事者の実感からは乖離した考え方で、この問題から目を逸らすと、蔦森さんのような主張になるわけです。だけど、真理主義の(あるいは「真理はない」といいながら真理を隠し持っている)社会思想では、この「実感」という事を無視してしまいます。その「実感」もまた社会的あるいは歴史的に形成物の所産に過ぎず、自分達の思想の中にこそ真理があるという言い方ですね。

 そうすると、GID 当事者の「かく在りたい」も同じ理屈で否定できてしまうわけです。だけど、GID 当事者がGID 当事者として声を上げることの根拠は、「誰も認めてくれなくても GID に由来する精神的苦痛は確かに私の中にある」という、まさにこの「実感」にあるわけです。この精神的苦痛が存在するという事実だけは、誰がどのような理屈を持ち出しても否定できない。

 突き詰めて考えて行くと、社会構築主義はけっして性同一性障害への理解を示すものではなく、むしろ当事者にとっては自己否定につながってしまう考え方です。当事者の「かく在りたい」を取り出してみると、本質主義にも社会構築主義にも当てはまらないことがわかる。その点では、ダイアモンド博士のような本質主義の変奏のような主張の方が、まだ分があるわけですけど理論自体の欠陥は如何ともしがたい(^^;)。それで、繰り返しになってしまいますが、結局はどちらの説も支持できない、というのが私の今のところの結論になっているわけです。

対立の構造は、戸籍訂正/廃止とパラレルなような気がします。

というのは、まったくその通りだろうと思います。この点は、けっきょく今回も解けませんでしたね(笑)。私の考えでは、T's の自己実現を可能とするための、ジェンダー論的な側面においての根拠は、「ジェンダーの発生」や「ジェンダーとは何か」という点にはありません。したがって「性別は無根拠である」という前提からは、私達の未来を紡ぎ出すことは出来ません。こういうのは例えば、資本制が様々な矛盾を抱えているという理由で、資本制そのものをなくしてしまえというのと同じ考え方です。ですが、ジェンダーの選択を問題とする場合には、ジェンダーそのものを「無根拠」という事は出来なくて、これは T's の「かく在りたい」に照らして考えたら、本末転倒といわざるを得ません。

 私の考えでは、T's の「かく在りたい」を実現するためには、ジェンダーそのものを否定する事なく、ジェンダーとセックスとの一義的な結び付きを緩めることが必要です(この結び付きを完全に「解体」するとジェンダーがジェンダーとは言えなくなりますから、これはジェンダーの否定と同じです)。そしてその根拠は、私が「56.ジェンダーとは何か」の後半で述べた、その後にジェンダーがどのような変容をとげたかという点にあります。それについては、いずれ「56.ジェンダーとは何か」の続編という形で詳述できると思います。

L.Jin-na


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