from 井上 けんなさん (2001年08月27日 04:42)
ミルトン・ダイアモンド氏の説に代表されるように、最近は「性自認は先天的に、もしくは遺伝子的に決定されている」という立場での論議が盛んです。
先に精神神経学会が出した「法的な性別変更」に関する要望書でも、脳の構造が違う可能性云々と述べられていたように思います。
脳の構造(や、それを決定する遺伝子)が異なるのだということにしてしまえば、素人目にはわかりやすく、法的性別変更に関する一般の合意も得られやすいことは十分理解できるのですが、まだ何も証明されていないのに「構造説」を鵜呑みにしてしまうのは危険だと常々訴えてきました。
人間の心理を扱うときに、その働きの違いを神経細胞の構築の違いに求めようというのは、ソフトウェアの演算結果の違いをハードウェアの違いに求めようとするような危うさがあります。
たしかにコンピュータによってハードウェアの構造は違うかもしれないけれど、それは上で走るソフトウェアの性格の違いを何も証明することはできないと思うのです。
わたしは、人間の心理は脳というハードの制約の元に、社会と個人との絶えざるインタラクションの結果徐々に発達していくものという立場をとっています。(これも「構造説と同様、信仰の域を出ませんが)
発達心理学を少しかじってみれば、「性自認」「性同一性」というものは、単一の構造ではなく、さまざまなレベルの事象からなる複雑な心理的過程であることがわかります。
例えば、自分が「男か女か」という「知識」は2,3歳頃には獲得されていますが、おとなになっても性別はかわらないとか、異性装をしても反対の性別にはなれないとかいうことは5,6歳までわからないし、男であっても女のような振る舞いをすることがある、というようなことはもっと大きくなるまで理解できません。
こうした時間的に長期にわたる階層的な理解すべてが、出生前にすべてプログラムされているとはにわかに信じがたく、少なくとも(社会学習理論のように)社会的働きかけを通じて徐々に獲得されていくと考えた方がわたしには信憑性があると思えます。
わたしが生物学的構造説をとらず社会学習理論にこだわるのは、構造説でGIDであることを最終的に証明するには生物学的な構造の異常を何らかの医学的検査によって明らかにする必要が生じるのに反して、後者では人格とは人間の心理そのものであると考えるので心理学的アプローチ以外の証明を必要としない点にあります。
GIDの原因を脳の構造の異常に求めれば、将来、科学の発達水準によって診断基準が規定され、その時代の科学で構造異常が証明できないならば治療が受けられないと言う事態も予想されます。心理的な性別がその人の性別そのものであると考えれば、構造上の異常があろうとなかろうと関係なく、本人の意志が優先されることになります。
人間が社会的動物である限り、個人にとって、心理社会的性別の方が生物学的性別よりも大切であり優先されるべきではないでしょうか。
私がそこで述べた、「第3回GID研究会で、脳梁の形状と性同一性障害との関連を調べた結果の発表」というのは具体的には、岐阜大学工学研究科・紘仁病院精神科性医学部・三重大学医学部放射線科による『男性、女性、GID患者の脳梁の主軸方位の差の検定』を指しています。この発表の趣旨は、脳梁の主軸方位にGID患者の特徴を発見したというものですけれども、学問的な研究発表の中では最も反論が多かったものですね(^^;)。
確かに非当事者である男女と、MTF・FTMとの間には、各カテゴリー間での分布の違いは認められました。ですが、個々の当事者をみると、普通の男性と変わらない MTF や、普通の女性と変わらない FTM がいて、とくに後者が多かったのが印象的です。また、構造に違いが見られるとしても、その構造の違いがどのようにして性自認に影響を及ぼしているのかということの因果関係はまったく説明できていないわけですね。
精神神経学会の要望書では、「生物学的基礎を有していると考えられ、性同一性障害における生物学的性別は、身体と脳においては、不一致であると推測される」とあるように、「と考えられ」とか「と推測される」という形で、断言を避けています。これは、きわどい表現ですね。断言口調で書いてしまったら明らかに嘘だという事になりますから、これはぎりぎりの表現だと思います。
ちなみに、私が生物学的構造説をとらない理由は、科学(自然科学)的な見解をいくら積み重ねても決して「人間にとっての意味や価値」の問題に踏み込むことが出来ないからです。さらにその理由も簡単で、前回の直接知覚の話にも関わるのですが、人間は知覚のレベルでは意見が一致するけれども、「意味」や「価値」のレベルでは意見が統一できないからです。だから、物事が「いかにあるか」という、たとえば天体の運動なんかについては意見が一致します。月が「どのように」地球の周囲を回っているかについては統一見解が期待できるわけですが、月が「何のために」地球の周囲を回っているかという問い(目的論)には、統一見解は期待できません。むしろ、自然科学はそういう問いを排除することで信憑性が保たれているわけです。ただ、生物学や進化論のように「生命」を対象にしていると、どうしても目的論的な問いを呼び込みやすいのか、こういう分野ではかなり意見が割れることがあるようですね(同じ理由で、社会科学ではそれがさらに顕著になるんですけど ^^;)。
したがって、構造説は性同一性障害のような、生きる「意味」や「価値」と不可分な問題を解き明かすことは「原理的に不可能」で、無理にそこに踏み込もうとすれば、その構造説は必然的に自然科学である事から逸脱せざるを得ないだろうと思います。自然科学といえども、それを支える根底は人間の認識ですから、これは現象学的な視点からはっきり断言できます。ですからこれは、どうしても心理学や哲学の問題として扱わざるを得ない性質の問題ですね。この意味からも、
| > | 人間が社会的動物である限り、個人にとって、心理社会的性別の方が生物学的性別よりも大切であり優先されるべきではないでしょうか。 |
というのも私は全く同意見です。一部の当事者や医学者の、性自認を何らかの物質的基礎に結び付けようとする議論も、司法が示す「染色体主義」も、この観点が欠落しているという点では同じで、自然科学に頼ろうとする限りは論点がズレて行かざるを得ないと思うんですね。それで私は、「染色体は人権を保障しない」なんていうんですけど(笑)、人間が社会的な「生」を送り、その「生」からさまざまな「意味」や「価値」を汲み取って生きているという事には、誰も異論はないと思います。自分の染色体から生きる「意味」や「価値」を汲み取っている人はいないでしょう。たぶん、裁判官の中にもいないと思います(笑)。
ただ、昨今では性差否定の思想(ジェンダーフリー)が幅を利かせるようになってきて、それが「男女共同参画」という形で行政を侵食しているために、性に関する判断に及び腰になる人が増えている。一方にはそういう状況があって、これもまた裁判官も例外ではないと思います。
| # | この「男女共同参画」というのは、単なる社会的な権利の「男女平等」ではありません。たとえば三重県ではこの「男女共同参画」に基づくものという位置付けで、小学生の「道徳」の授業(五年生)で、男女を見分けること自体を否定するような授業をしています(どうしてこんなものが、よりによって「神の国」発言の森首相のときに成立したのか、とっても不思議です ^^;)。 |
まして、そういう思想を当事者が一緒になって担いでいるようではどうしようもなくて、これは GID 当事者にとっては自己否定につながってしまう。ですから根本的に、「男(女)であること」の生きる上での意味の重要性についても、きちんと取り出した上で主張していかないと、「心理社会的性別を優先する」という発想自体が「男女共同参画」によって否定されかねない、危険な状況があるんですね。いずれ、この危険性についても、さらに「男女共同参画」の実態を調べた上で取り上げたいと思います。
