言論統制


from 井上 けんなさん (2001年09月18日 18:50)

最近、「某掲示板(笑)」へのわたしの書き込みが反発を招いています。
(有り体に言えば「New Trans Gender Cafe Gold の とらんすじぇんだー
ーーさばいばる」ですが、そこでは「某」がはやっているようなので……)
言葉足らずの面があるのは否定しませんが、感情的にわたしへの憎悪を
ぶつけて馬鹿呼ばわりする方があるのには参ります。

中には直接メールで、わたしばかりではなく「ここの掲示板はかなりレベル低い
です。ひろか氏、神名氏など、言葉は一見立派そうですが、法律の基本的素養に
欠けています。(Yoko氏)」などとこき下ろす方もいらっしゃいます。
(ちなみにこの引用は合法です(笑))

同じサイトの別の掲示板には、またも

の発言)ような行為は、今後一切お止めいただきたいと思います。(「一当事者より」氏)

というような書き込みがなされました。

どうも日本では、国語教育に討論、意見陳述、ディベートなどが取り入れられて
いないためか、個人の意見と個人の人格を区別する習慣がなく、「反論する人物」
を敵視する傾向があるために、正常な議論が行われない傾向がありますね。
気に入らない人を罵倒したり、発言を封じ込めようとすることが、平然と行われて
いるのは困ったことです。(気に入らない意見にいちいち傷ついていたら、とても
生きていけないと思うのですけれど……)

わたしはどういうわけか日本では珍しく、小学校・中学校を通じて「ディベート」
を重視する教師に恵まれ、物事の真実の姿を見極めるためには反対意見をぶつけ
合わなければならない、と考えているので、なにか一つの意見に凝り固まって
いる集団を見つけると石をぶつけたくなってしまいます(単にあまのじゃくとも言う)

高校時代に制服を廃止するかどうかが生徒会で議論になったとき、はじめは
「賛成者が少ないだろう」と踏んで「制服擁護論」を展開していたところ、徐々に
擁護論一辺倒になってきたので途中から意見を変えて「制服廃止論」の先頭に立ち
結局廃止に持ち込んだことがあります。こういうのは周囲の理解を得にくく、
いろいろ悪口を言われる羽目になるわけです。しかしわたしとしては、
「ある意見一色」になることがもっとも恐ろしい、という気持ちが根底にあるので、
もっと討論すべきだと思えば、たとえ持論と反対の意見であっても擁護することに
なります。

いま「某掲示板(笑)」で話題になっている「ガイドライン」や「リアルライフテスト」
にしても、無用論や希望的観測からは何も生まれないと思うわけで、わたし自身は
以前からガイドラインの「非人道性」や「リアルライフテスト」の理不尽さについては
さんざん言及してきたのだけれども、今回は「医者の立場」等々を織り交ぜて、少々
反論を試みているのですが……。一個人がいろいろな意見を交えることに関しては、
なかなか理解が得られませんね。

これから性別変更訴訟などでも様々な問題点があぶり出されてくることでしょうが、
「反対する側はどう出るか」を常に徹底的に考えて「想定問答」をやっておかないと
相手の論理に巻き込まれて反論できなくなってしまうと思います。

たとえば先の高裁判決のように、最初から高飛車に「人の性は生物学的性すなわち
染色体で定まるのであるから」などとやられて(文章は判決文そのものではなく大意)
きちんと反論できず、脳の構造や遺伝子などに活路を見いだそうとすればするほど
「生物学的性重視」という相手の思うつぼにはまるわけで、
そもそも人の性とは何か、を様々な文献や実例を用いてきちんと論証しない限り
将来に通じる「大きな判決」は引き出せないと思うのですが、そうした議論は
このサイトを除いて見たことがありません。(あったとしても、個人の希望を尊重す
べきだ、というような「個人の意見」ばかり。その論拠が憲法の条文だけでは弱すぎる)

そうした意味でも、物事の意味を根本から問い直す、ことが求められるわけで、
これからもいろいろなご意見を聞かせていただきたいと思っています。
最後はファンレターになっちゃいました。


「哲学する」ことの意味

 おっしゃる通りで、「反発」は山のようにありますけど、「反論」と呼ぶにふさわしい意見はありませんでしたね。Yoko氏の場合、あの人は引用と情報の所在を書くのは得意ですけど、法律の条文をどのように解釈するかという見解を見たことがありません(笑)。私はこの人物については「遠吠えくらい好きにさせてやれ」と思っていて、既に相手にしていません。それから「一当事者より」氏の場合には、言ってることの内容は耳タコの愚痴で、とりたてて目新しいことは何もありません。ただ、けんなさんが医師という職にあるために、あれは埼玉医大への恨みまでまとめてぶつけられている感じですね(^^;)。

 埼玉医大の悪口はずいぶん前から聞きますけど、私にはその大半は病的な被害妄想に聞こえてしまう。これはかえって「病院の悪口」になるのかも知れませんけど(笑)、たとえば大きな病院で長いこと待たされるのは、昨日・今日に始まったことでもなければ、性同一性障害に限った話でもないでしょう。このことで文句を言うとしたら、私はむしろ、ジェンダークリニックを開設しない「他の大学病院や総合病院」を責めればいいのにと思うんですね。だけど一方で、ああいうのを読んでしまったら医師は躊躇もするだろうな、とも思います。一度ジェンダークリニックを開いてしまったら、病院は「性格が悪い」という理由で患者を選り好みすることは許されないでしょうから(^^;)。

 あと、治療の意味が当事者に理解されていないということも大きいのではないかと思います。たとえば、カウンセリングは数をこなせばよいというものではなくて、毎日受けたら早く終わるということはありえません。だけど、そういう基本的なことを、どれだけの当事者が知っているのかは非常に疑問に感じます。ただしこれについては、医師の説明不足に由来する知識不足なのか、当事者の焦燥感に由来する誤解なのか、(カウンセリングの現場を知らないので)私にはわかりませんけれども・・・。

 「ガイドライン」や「リアルライフテスト」にしても、「この点は問題だから、このようにして欲しい」というのなら判ります。そういう意見の中には、検討に値するものもあるだろうと思うんですね。だけどいきなり無用論は極端すぎると思う。だったらどうして最初から「ヤミ」でやらないのか、その理由が私には全く理解できません。たとえ埼玉医大だろうと「ガイドライン」をなくしてしまったら正当な医療行為として認められないことくらい、ブルーボーイ裁判の判例を見るだけでもわかるだろうと思うんですね。

 議論や思考の方法には、大雑把にいって2種類あって、1つはあらかじめ結論が決まっていて、その結論に都合のよい事実ばかり並べ挙げる方法です。これを「直観補強型」とか「信念補強型」とか呼んでいるのですが、実際には「事実」でないことまで並べ立ててしまう例がほとんどです。

 もう1つは、ものごとを根本に立ちかえって考える方法で、まともな哲学なら必ず取る方法です。自分が自明と思い込んでいることを前提にしたり、習慣的な考え方でものごとを考えたりすると、どうしても行き詰まってしまうことがあります。そういう時には、この習慣的な考え方や自明に思えていたことを疑い直す必要があって、それが「哲学する」ということだと思うのです。

 一般には「哲学」というと、わけの判らないことをゴチャゴチャいっているだけのものというイメージがあります。何か実生活から離れた、深遠・高尚な領域なのだと考える人もいます。実際にそういうイメージ通りの学者もたくさんいると思うんですけど(笑)、そういうのは「哲学」ではなくて「哲学学」です。哲学というのは生きる上で必要な技術(アート)です。自分でものを考えるための技術であり、困ったときに役に立つ技術です。ですがおっしゃる通り、ものごとの意味を根本から問い直す人は、実際にはほとんどいませんね。いろいろな本を読んで、それを鵜呑みにしている人はたくさんいますけど、自分の頭で考えるという事をしません。

 ですからこれは「議論」以前の問題で、なぜかというと「直観補強」なら《受け売り》でもできるわけです。だけどそれは「自分のいっていることが正しいんだ」という以上のことをいえませんから、最終的には水掛け論にしかなりません。そうなったら数の多いほうが勝つに決まっていますから、GID に未来はありません。

 けんなさんや私のように、GID 当事者に都合の悪いことを言うと悪役にされるわけですけど(笑)、そうしなければ「反対する側はどう出るか」という想定も、最初から自分達に都合のよい展開しか考えられなくなってしまいますね。しかしもちろん、それでは何の意味もありません。

たとえば先の高裁判決のように、最初から高飛車に「人の性は生物学的性すなわち
染色体で定まるのであるから」などとやられて(文章は判決文そのものではなく大意)
きちんと反論できず、脳の構造や遺伝子などに活路を見いだそうとすればするほど
「生物学的性重視」という相手の思うつぼにはまるわけで、

というのは全くその通りで、これは「染色体主義」を認めてしまっているわけですね。だけどこれでは、「GID 当事者が戸籍の性別を変更したいと思うのはなぜか」とか、「そもそも GID とは何か」という、最も根本的なところが抜け落ちてしまっています。これは結局、自分(達)が何であるかということをほとんどの当事者が考えてこなかったということです。ゲイ思想やクィア思想、フェミニズムなどの「受け売り屋さん」はたくさんいましたけど、肝心の性同一性障害についてはほとんど考えられてきませんでした。そのツケが、だいぶ貯まってきたという感じです。

 それに、脳の構造や遺伝子に GID 特有の特徴が見つかったとしても、その物的な構造と性同一性障害との因果関係は説明不可能でしょう。また、万が一にも証明できた場合には、その人は ICD 10DSMW などの診断基準に照らして、「性転換症」や「性同一性障害」ではなくなってしまうわけです(IS になりますね)。そして、これらの診断基準に適合する「性転換症」や「性同一性障害」の人達(脳の構造や遺伝子に GID 特有の特徴が見られない人)は切り捨てられてしまうことになります。一口で言えば、これは「性同一性障害」にとっては何の解決にもなりませんね。

ついでに、これは心配事としていうのですが、もし既にガイドラインに則って SRS を受けた人について、あとから「実はこの人の脳と遺伝子に性別上の問題がありました」というと、この SRS は「誤診断に基づく手術」という事にならないのでしょうか?(^^;)

 「人の性とは何か」について考える場合、これは「私達が性というものをどのように生きているか」という問いとして立てなければ意味がありません。そしてこの場合の「私達」が GID 当事者だけを指すのではなく、誰にとってもこういうものだという事が(つまり「性」の意味本質が)取り出せたら、これは世間一般に対して説得力を持つはずです。GID 当事者の戸籍訂正の動機も、そこから立ちあがっているはずなんですね。また、そうすることで「染色体主義」に異議を唱える根拠が得られるわけです。

 ですから「染色体主義」に乗せられてしまうのは論外として、他に、性別を相対化しようというのも、(以前から主張している通り)これは GID 当事者にとっては自己否定になってしまいます。なぜなら、本気で性を相対化できると考えているのなら「自分の性別」にこだわる必要もないはずだからで、そういう人が GID になるというのは背理だからです。また、「多様性を認めろ」とか「障害は障害ではなく個性だ」というのも、誤魔化しに過ぎません。GID が単なる個性だと思っていないからこそ、当人自身がそれを解決したいと願っているわけです。こういう誤魔化しをいくら並べても、理解されるはずもなく、したがって認められることもありえないでしょう。こういうのは、世間に流通している言葉をただ借りてきているだけですね。

 だけど「性同一性障害」について掘り下げて考えられていないので、トンチンカンな話になってしまう。なぜ「性同一性障害」について掘り下げて考えられてこなかったかというと、GID 当事者が抱える「生き難さ」の理由を常に自分の外側に求めたからです。だけど、世の中がそういうものとして見える理由は、突き詰めて行けば自分の内側にあるわけです。「結局は自分が悪いんだ」と言うのではなくて(そういう悪者探しは保留して)、自分にとって世界がそのようなものとして見えるのはなぜか、ということですね。それは自分が持つ価値観や、自分自身の「かくありたい」という欲望と相関関係にありますから、自分自身のことがわからなければ絶対に解けない問題です。それを考えるのが、「哲学する」ということです。

 「哲学する」ことには特別な資格は必要ありませんし(学位を別にすれば、そもそも哲学にはいかなる資格も存在しませんし)、本当は誰でも出来ることだと思うんです。事実、私が西洋哲学を学び始めてから、まだ4年も経っていませんし、哲学に取り組み始めてからほんの2〜3ヶ月で、だいたい今のような感じでものごとを考えられるようになっています。それに、私は中学・高校はいわゆる劣等生でしたし(特に理数系と英語は落第レベルでした ^^;)、大学にも進んでいませんし、どう考えても私が他の人達よりも頭がよいということは、絶対にあり得ないんですね。

 これは皮肉でもなんでもなくて、私よりも頭のよい人達がゾロゾロ出てきて、私を追い越して行くというのが理想です。そうやって、ものごとを根本に立ち返って考える人が10人でも20人でもいいから出てきて議論が展開されたら、今のような混迷はないだろうと思います

L.Jin-na


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