内に篭ってしまったら


from ひろかさん (2001年09月19日 07:33)

 神名さん,井上けんなさん,Visitors' Roomのメッセージ,読ませていただきました。
 一時,活発に"某掲示板(笑)"でご発言されていたので,期待していたのですけど…。
 わたしは神名さんやけんなさんがご自身で HPを立ち上げていらっしゃることにも期待を抱いてはいますけど,こんどのメッセージのように,ウチに篭ってしまうのはちょっとまずかったのではないかと懸念してしまいます。
 こんでの話題にも上っていた,また"別の掲示板(爆)"のオピニオンリーダーの「遠吠え」にも近いのかも…,とさえ思ってしまうのです。
 なぜあのかたが,あのように一箇所でだけオピニオンリーダーとなれるのかと考えると,あのかたは神名さんが指摘されるように,自分の意見を言わないこと,そして書き込まれるメッセージに対して,GID者を責める相手を口汚く,というより人がいえないような言葉を使って攻め立て,ようは当事者に「やさしい」人を演じているから。
 プライバシーに対するまちがった解釈と理解,そしてその教祖としてひとところに台頭しているからだとわたしは思います。

 と言うこと自体,わたしもウチに篭っている形になりかねませんけど,だからこそわたしはどんなに罵られようとも,体験や社会の情勢を報告してきて,そのことでどんなに非難されても,打たれ強いと皮肉を言われても,陰でメール交換をして書き込み方針を探ったりもせずにやってきました。

 また,けんなさんはもしかして誤解をされたかもしれませんけど,わたしはガイドラインについて手放しに歓迎しているわけでもなければ,全面非難しているわけでもありません。
 あの場で問題になった,第二段階治療とリアルライフテストの順序についてであっても,手術へいたる関門についても同様です。ただ,幸か不幸か幾人かの状況を眺めてもきました。気は引けますけど名を出せば埼玉医科大のことに精神神経科にかかっている人の言葉や,院外2ndオピニオンの扱われ方についても,たしかに仄聞でこそあれ耳にしてきました。

 けんなさんはディベートということにお詳しいと自負されています。
 ディベートについて,わたしの理解は自分の内心の本当の信念とは別に,役割として選択した意見者として,たとえ詭弁と言われようとも相対する意見を同様に持つ相手と,あくまで討論で闘う,一種の格闘技だと思います。
 極端な話,わたしが「性転換などもってのほか」との意見を与えられ,別の誰かに与えられた「性転換も許されるべき」という議論さえ,交わせるものだと思っています。
 だからこそ,少しぐらいの非難は覚悟で"掲示板(爆)"に,非当事者なのかな?FTM絶対反対派の人が現れたとき,賛成こそしませんでしたけど,彼に真剣に付き合い,結果的にそういった意見の継続のより所が少しずつ露になったのではないかとも思います。言い出しっぺの書き込みの中に…。
 これはある意味,ディベートに持ち込むことの残酷さだとも思いますけど,分かり合え得る人の中に篭ってしまうことは,結局自体のいかほどをも打開しないと思うのです。

 これは神名さんが某オピニオンリーダーを見限ったこと,お互い忙しい立場でもあるんですから,もちろんそれが妥当な選択肢だと思います。
 ですけど,持論もひとつの論であれば他者の論もまたひとつの論だと思うのです。
 「なぜ相手にこちらの真意が伝わらないのだろう」と考えて,当事者と自称する人とも理解し合えない中で(意思統一などとは思っていません),現在の日本人の多数に納得ずくでわたしたちの性別を本当のものとみてもらうにはおぼつかないと思うのです。

 金八先生のわたしのすきな教え(~_~;)に「彼も人也,我も人也」というのがあります。

 たった数時間の事件で世界中に戦争やむなしと思わせた事例が起こっています。けれどもたとえばマドンナがコンサートで表明したように,また日本でも国会前で抗議デモをした人もいるそうですが「報復は新たな報復を生む」と気がつく人も,数日経てば立ち上がってくるのです。

 わたしは,内に篭って,互いが小さな井の中で大声をあげていても,その井戸にふたをされればそれで終わりだと思います。それに当然ながらとなりの井戸とは地下水層でつながっているのでしょうけど,分かり合えることには至れないと思います。
 一方の大海をふたすることはできないでしょう。
 泳ぐ者はおぼれるかも,漕ぎ出す者は難破・漂流するかもしれません。
 だけど,泳ぎだすしかないんじゃないでしょうか?
 そして,漕ぎ出してしまったら,いずれかの島なり大陸にたどり着くことをめざしてこぎつづけたほうがよいようにわたしは思います。


反発されて篭もったのではなくて(^^;)

 あのですね・・・(^^;)、けんなさんはウチへの投稿に先立って【New Trans Gender Cafe Gold】の掲示板に反論を投稿されていますし、私もこの投稿があちらへのものでしたら、あちらでお答えしますよ(笑)。

 ただ、けんなさんは別にしても、私に関しては基本的に「篭り」がデフォルトの姿勢なんです。必要があれば今年の1月の【Trans Sexual Forum in Japan】の騒動のときみたいに討って出ることはありますし、先日の【New Trans Gender Cafe Gold】への私の投稿も、あれは基本的には「裕希さん」へのお答えのためです。正確にいうと、ひろかさんが「裕希さん」にレスをつけて、それがちょっと誤解されたようなので、私の方から少し付け足しをさせていただいたという感じです。

 そちらの話が一通り済んでいるから元に戻ったので、反発があったから引き篭もったわけではありません。あくまでも私の知る範囲での話しですが、「既に相手にしていない人」約1名を除けば、誰も私を名指ししていないでしょう?(^^;)。

 では、篭もって何をしているかというと、考え事をしたり、そのための勉強をしたりしています。昨日、「ツケが貯まった」という話を書きましたけど、できることならそのツケを私が全部払い切ってしまえるくらい考え抜きたいですね(いや、自分でも大それた目標だとは思うんですけど、それくらいのつもりでいないと、たぶん私は息切れしてしまう ^^;)。

 それから、これも私のデフォルトが「篭り」だということに関係しているんですけど、私は必ずしも直接の討論という形でのディベートはやりません。そもそも「ディベート」というのは、あらかじめ自分が担当する結論があって、相手が何を言おうと自分が担当する結論を主張するものでしょう。だけど、そこで必要とされるのは「直観補強型」の思考ですね。私の性(しょう)に合わないんですよ、これは(^^;)。

 それよりも、出来るだけ多くの人が納得できるような考えを鍛え上げ、そのために必要ならば持論を変えることさえあります。それが私の方法です。弁証法でいう「止揚」をしてゆくわけですね。だって、「考える」以前から存在していた結論なんて、たいしたものであるはずがないでしょう(笑)。

 そうでなかったら、あとは「善を意思せよ」みたいにわかりきったことをいうしかない。だけどそういう場合には今度は「どういう条件があればそれが可能になるのか」という具体的な条件が考えられていない、ただの空念仏に過ぎないわけです(そうでなきゃ、坊さんの説教で世の中とっくに平和になっているはずです ^^;)。

当事者と自称する人とも理解し合えない中で(意思統一などとは思っていません),現在の日本人の多数に納得ずくでわたしたちの性別を本当のものとみてもらうにはおぼつかないと思うのです

というのも、私の考えではそうではなくて、当事者の中にも非当事者の中にも「わかりたくない人」がいると思うんですね。もちろん、そういう人達についても「なぜ相手にこちらの真意が伝わらないのだろう」と考えることは必要です。ですが、それがわかれば必ず即座に相手を説得出来る、とは限りません。

 その理由は簡単です。相手と「よい関係」を持ちたいと望んでいない限り、人間はその相手との間に共通了解を持ちたいという動機が働かないからです。だから私は、「まず当事者」ではなくて、それぞれ自分の身の回りの人間関係(相手が当事者か非当事者かを問わず)のことをいうのです。

 私は、当事者間の理解なしに一般の理解が得られないとは思いません。だけど、個人的な人間関係が上手く持てない人達が集まったところで、その集団が社会を相手に「よい関係」を築けるとは、絶対に思えない。理由は簡単で、自分達が他者との関係が上手く作れないことの原因を、集団内部で正当化してしまうからです。「自分達は正しい、世間は間違っている」という信念を作り上げ、お互いに補強し合うわけです。

 そして、一度これをやると、今度はそこから抜け出すことが難しくなります。仲間からは裏切り者として糾弾されるし、そうでなくても、そういう集団に属することでかろうじて安定を得ていたアイデンティティが、その支えを失うからです。そういう人達は、よほどの踏ん切りがつかない限り集団の外側の声に耳を貸さない、「わかりたくない人」達になってゆくわけです。

 私はこういうのは、言葉による説得よりも、むしろ実際にやって見せた方が早いと思います。「早い」といっても、こういう集団が一気に解散に至るわけではありませんけど(^^;)、他者と「よい関係」を取り結んで、どんどん自分の世界が広くなってゆく。そのことの楽しさや、他者(多くは非当事者)から認められることによって得られる安定感。それを実例で示す人が当事者の2〜3割くらいになったら、残りの人達も羨ましがるんじゃないかと思う。「わかりたくない人」には、「理」よりも「利」を示した方がわかりやすいでしょう。そしてそのためには、まず自分自身の考えを、実効性のある考えに鍛え上げて行かなくてはなりません。

 自分の考えがどの程度の実効性を持つかということは、実際に試してみればわかります。先週末も1泊で哲学の合宿に参加して、夜遅くまでバイクの話しや漫画(描く方)の話で盛り上がってきました(笑)。皆さん、私の GID は知っているのですが、それが気にならなくなってゆくんですね。別に、「気にしないで欲しい」と注文をつけたわけではなくて、人間は相手が「こういう人」だとわかると、その一つ一つの属性(GID だとか在日だとか)が気にならなくなって行く。相手のイメージの中で相対的に小さくなって行くわけです。

 それは、相手を抽象的に「人」と見るからではなくて、むしろ「こういう人」という具体的な情報がたくさんあったほうがいい。逆にいえば、そういう情報がないときに限って、「彼も人也,我も人也」という形で自分を納得させなければならなくなるのです。だけど、そこでいわれる「彼も我も」という「人」は抽象概念であって、人格がありませんよね。

 最近、倫理問題に関していわれている「他者」とか「外部」という用語もそうですけど、人間は抽象概念としての「人(他者)」に対して気遣いの必要を感じるようには出来ていません。もちろん「そうせよ」と教えられた結果として博愛主義者になる人もいますけど、「それはあなたの個人的な価値観であって」といわれたら、どうしようもありません。

 たとえば、「報復は新たな報復を生む」ということは、先進国の首脳もとっくに知っています。ただ、そこから何が出てくるかというと、過去のヨーロッパのハイジャック事件やペルーの日本大使館の事件のように「犯人皆殺し」という結論が出てくるのです。理由は簡単で、犯人を裁判にかけて刑務所にいれると、その釈放要求のための新たなテロが起こるからです。「報復は新たな報復を生む」からこそ、その芽を事前に刈り取ってしまう。

 テロは国際認識においては「犯罪」ではなく「戦争行為」です。また、テロリストの側も自分達を「犯罪者」ではなく「戦士」「兵士」だと思っていて、だからこそ「ジハード」(聖戦)という言葉も出てくるわけです。つまり、お互いに「戦争」だと思っている。ただ、この「戦争=テロ」は戦時国際法に則ったものではありませんから、捕虜の保護その他の規定は適用されませんし、(戦争だから)刑事裁判の対象にもなりません。良くも悪くも、これが(日本以外の)先進国間での現在の共通認識になっていて、だからこそNATOもあれだけ素早く結束を見せるわけです。

 戦争はなぜ起こるのか。もちろん、「軍事力があるから」・・・ではありません(戦争があるから軍事力が必要とされるのです)。簡単にいえば利害の対立があるからです。そして現代では、他に解決方法が見当たらない場合に戦争になります。戦争というのは、手段としてはとてもコストパフォーマンスが悪いので、出来ればやりたくない。つまり、戦争を決意した時点で、既に他に方法がないと思われているわけです。したがって、戦争は単に「戦争反対」の掛け声ではなくなりません。他にもっとコストパフォーマンスに優れた代案が存在する場合に限って、それが戦争に勝る選択肢として注目されることになります。

 たとえば現代では、先進国間ではほとんど戦争が起こりません。これは昔のブロック経済と違って、お互いが経済的に依存しあっているために戦争が「起こせない」からです。例えば、いま日米が戦争をすると、お互いの経済がボロボロになるでしょう(笑)。そういう条件があって初めて戦争が回避できるわけです。私の予見では、戦争に反対する人達がいくら立ち上がっても、彼らが戦争に勝る代案を提出できない限り(残念ながらその可能性は限りなくゼロに近い)戦争になるでしょう。

 さらに、なぜ有効な代案が出せないかというと、イスラム原理主義と近代欧米社会の間に、それを考えるための共通の土台がないからです(あくまでもイスラム原理主義の話であって、すべてのイスラム圏がそうだというのではありません)。もっとも、だからこそ抽象的な「人」とか「他者」になるのでしょうが、有効な代案たりえないという意味で、残念ながらこれは思想としては無効なんです。

 私の提案としては、開戦は避けられないという想定の上で、「戦争の規模を出来るだけ制限する」ということに絞られます。つまり「的外れな報復」や「無差別な報復」をしないで欲しいということです。個人レベルでも、イスラム原理主義だけでなく、イスラム教徒が襲われるということが、これはすべての先進国でありえるわけです。そういう混同をしないということですね(マスコミは正確な情報を流してキャンペーンを張れといいたい)。それから、東京大空襲のような民間人を大量に巻き込むような攻撃方法をとらないこと。核使用にいたっては論外で、チェルノブイリの原発事故でも影響を受ける日本は、極東に位置する国としてアフガニスタンでの核使用には強硬に反対すべきでしょう。幸か不幸か、現代ではかなり兵器が発達していますので、制空権を押さえた上で、できるだけ攻撃対象を絞った必要最小限のピンポイント攻撃に徹して欲しいと思います。戦争といいつつ、ほとんど砲火が交えられる事なく、大半の時間が情報収集に費やされるような「静かな戦争」。現実的な案としては、私にはこれくらいしか思いつきません。

L.Jin-na


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