人権からみたガイドライン


from 真樹子さん (2001年09月25日 01:18)

 「人権」から見たガイドライン、と書くと、おそらく神名さんは即座に戦闘モードに入られるんだと思いますが(^^;)、TGカフェで話題になっていたガイドラインについて、私なりに考えてみましたので、お邪魔します。もちろん私が「人権真理教原理主義」を信奉するテロリストだと思われるのでしたら、「某掲示板」でだれかさんが乱発されているように、「発言禁止」にしていただいてもかまいませんが(笑)。
 なお、TGカフェに参加しなかったのは、私も毎日ネットチェックしているわけでなく、私が見たときはすでに議論が相当煮詰まっていて、参加するタイミングを失ってしまったからで、日和見というわけではありません。私のデフォルトは籠もりでなく外出ですので、外に出てバトルを闘うのが性分です。(ちなみに私の女性デビューは女装クラブでなく、神戸の街中でした(^o^))
 ですから、この発言はTGカフェとは直接の関係はなく、EONのv126(井上けんなさん)v127(ひろかさん)に対する神名さんのレスへの横レスです(ああややこしい^^;)。

 ガイドラインネタは決まって泥仕合になるので、あんまり好きではないんですが、ホルモン療法にせよ性別適合手術にせよ、とりあえず身体処分に関する自己決定権の問題、という問題の立て方をとりあえずさせて下さいね。この辺、恐らく神名さんは人権について唯名論的な立場をとられますので、そういう権利が社会的に認められるか、みたいなところから出発されるのでしょうが、私は人権については実在論である天賦人権説をとりますので、とりあえず何か権利を措定しないと話を始められないわけです。
 ただ、ガイドライン不要派の人などはこの自己決定権を槍にして、ガイドラインの存在そのものがナンセンス、と来るのですが、これは私のとる立場ではありません。
 しかし、ガイドラインによる自己決定権の制約は一体何だろうか、と考えると、ミルの他害原理(権利同士の抵触)というより、パターナリズムに基づく制限、ということでないかと思います。
 すなわち、平たく言えば自己決定に基づくGID治療によって逆に当事者自身が傷つくことを防ぐ、というのがガイドラインのそもそもの趣旨、だと思うんですね。実際問題として、MTFTSだと思って10代からホルモンやったけど、20代になってTSでなくてゲイ男性だと自覚して、今はホルモンやめて男性として生活しているとか、手術を受けて女性として生活を始めたが、結局適応できなくて再度男性への手術をしたとか、それならまだましな方で、あげくの果てに自殺してしまうとか、そういう例はいくらでもあるわけで、そういう自己決定による自傷を防ぐ、というのがガイドラインの存在意義な訳ですね。また、適切なガイドラインに基づいた治療なら、仮に社会倫理上の理由での自己決定権の制約を認めるとしても、社会的にもその正当性を説得しうるわけです。
 その意味で治療に関して何らかのガイドラインを設けることそのものについては、私は反対しない立場です。私のとる立場ではありませんが、自己決定権万能論を唱える人からは、そもそもそういったパターナリズムを認めることがナンセンス、ということになるでしょうが、そういう人自身はそれでよいとしても、社会の規範として自己決定の万能ということを行き渡らせるのはどうかと思います。ただ、私も現行のガイドラインが正当なものであるとは思っておらず、改訂の余地は大きいと思います。(要件の各論の話はここでは長くなるので割愛します)
 もっとも、ガイドラインがどういう手続で決められたかというのは別の問題で、埼玉医大の功績は非常に大きいわけだけども、私から見れば96年に突如天下ってきた印象は否めない。また、現在の改訂作業も特定の団体のスタッフを除いて、一般の当事者の声は反映されているとは言い難い。また当事者の側も、ご指摘の通り「反発」はあっても「反論」がない。等々いろいろな事情が重なって、医療の側と当事者の側に不信感が累積している、そんな状況ではないかと思います。ガイドラインの趣旨が当事者に対するパターナリスティックな保護にあるとしたら、より当事者の声が反映されるべきではあるべきですが、今のような状況ではどこまで有意義な改訂がなされるのか、疑問の余地なしとはできません。
 私と神名さんとでは、問題に直面したときの解決の仕方も違っているのかも知れませんが、物事の根源に立ち返って考えるのと同時に、こういうときにビジネスライクに、当事者の意見を集約して、最大多数の最大幸福を求めて医療の側と交渉できる、そういう「政治家」がTG業界にはいないのが一番問題でないか、という気がします。戸籍法改正の立法になると、ますますそういう人間が、それも複数必要なのですが…。(念のため言っておきますが、これは「自分たちが正しい」と思う人たちだけで集まり、一方的に主張する人間ではなく、むしろその逆です。相手がどう出るかをよく見極めた上で自分の主張を通せる、また引くところは引く智略家という意味です)
 それから、GID治療に関する諸問題は、ほとんどは埼玉医大が悪い、ということではなく、要するに診療機関があまりに少ない、という点に起因していますね。ガイドラインを厳しくして対象者を絞るのも、端的に物理的なキャパの問題があるからで、埼玉医大を批判するなら他の病院にジェンダークリニックを作る運動をすれば、という点では全く同感です。全国に二桁できれば自由競争も働くし、どこもおかしなことはできないだろうし、逆に埼玉はFTM専門になっても、それはそれで存在価値があると思います。
 もっとも競争といえば、いわゆる「ヤミ」や海外を考えると、すでに競争状態にあるわけですが、国内ガイドライン病院の存在価値は、結局の所、戸籍訂正が認められた場合、「正規の」医療を受けた、と患者が言える点にありそうですね。
 私の賛成するところではありませんが、判例をよく読んでみると、平成12年の東京高裁も例の「染色体主義」の他に、この方が国内の主治医の反対を押し切って、海外で手術を受けたことを相当マイナスに見ていて、ああいう結果になったんだろうと思います。裁判所は今後、戸籍訂正を認めるとしても、国内で正規の医療を受けたことを相当重要視していく気配がみられますし、立法になっても要件として明文で規定される可能性もなしとは言えません。
 私見では、そもそも手術を戸籍訂正の要件としない立場に立ちますが、治療のガイドラインと戸籍訂正の要件の関係については、

  1. 法律上の要件と医療上の要件は別個独立である,
  2. 法律上の要件は医療上の要件に比べてゆるやかであるべきである

と考えます。詳しくは、籠もりモードになりますが、私のHPに掲出してあります。(なお、ご批判は私の所でお受けいたします)

* * * * *

 話は変わりますが、先ほど人権のところで「実在論」「唯名論」ということばを使いましたが、先月のバトルでお互いこのタームが出なかったのは不思議です。すなわち、神名さんは、性別を実在論的に考えられている一方、私は唯名論的に考えている。そこが根本の対立でなかったかと思います。
 もっとも、こういったところで問題が解決するわけでなく、これは神学論争ですから決着がつかない。近代以前の中世、もっと遡ればギリシャから続いている論争で、最近のロゴス批判なんかもこれの反復にすぎず、ジェンダー論の諸対立も見事にその枠に収まるわけですね。
 だから、実在論・唯名論でバトるのはほとんど無意味なことで、神名さんはしばしば「いかによく生きるか」という形で表現されていますが、物事の本質は別の所にあるのではないかと、私も考えています。

 それから、ディベートの話が出ていましたが、おっしゃる「直観補強型」というのは、むしろ英語圏の思考の特徴だと思います。大学の時、英語の論文の書き方の授業で、ネイティブスピーカーの先生が、「日本語の論理は起承転結で、結論を後回しにするが、英語ではそれはダメで、まず結論を述べてから、それを理由づける書き方をする」と教わったことがあります。また、英語の文献を速読したり要約するときも、パラグラフの第一文だけを読んでいく、という手法があります。私も論理をたてた議論をするときはこういう思考になりますが、その辺神名さんと私とでは英米系と大陸系の差があるのかも知れません。

それでは


「存在の根拠」と「存在確信の根拠」

 意見が合う合わないに関係なく、真樹子さんのように物事を掘り下げて考える人の存在は貴重なので、ウチではそういう人を「発言禁止」にするようなことはしません。もったいない(^^;)。また、ご存知の通り私は「天賦人権説」は否定する立場なのですが、しかし今回はこれはあとで、「実在論」と「唯名論」の話の方に回すことにしましょう。

 そういうわけで「前提」は別にして(笑)、結論だけを拾って行くと、ガイドラインについての基本的な考えでは、私達の間に特に違いがあるとは思えません(もしかしたら、その具体的な内容については意見が分かれるのかもしれませんが)。

 それから、TG 業界に「政治家」が必要というのも、考えとしては理解できます。ただし私は、仮にそういう人が出てきたとしても、現状では当事者自身がその「政治家」を引きずり下ろしてしまうのではないかという危惧を強く感じます。T's には様々な問題があるわけですけど、そういう問題を一挙に解決できる(解決すべきだ)と考えている<ロマンチスト>ほど声高になるもので、そういう人達の目には現実的な考え方は耐えがたいものに映るでしょう。たぶん、現在は「そういう『政治家』を出すためにどういう条件が必要か」ということから考えなければならないような状況なのだと思います。

 それから治療のガイドラインと戸籍訂正の要件の関係については、2番目の「法律上の要件は医療上の要件に比べてゆるやかであるべきである」というのは私も賛成です。ただ、1番目の「法律上の要件と医療上の要件は別個独立である」というのは、タテマエないし原則上はそうなると思いますが、現実の手続きにおいては戸籍訂正を扱う行政もしくは立法が、医師の見解に頼る部分がどうしても出てきてしまうだろうと思います。逆に、そういう部分がないとすると、行政ないし司法独自の面倒な審査過程を設定せざるを得ないのではないかと思うんですね。そうなると、SRS の後にさらにその段階で時間がかかるということになりかねないと思います。

 私は、とりあえずはこの二つの可能性を併用してくれるといいなと思っていて、ガイドラインに沿った SRS の場合には医師が提出する(あるいは医師が発行し当事者が提出する)書類によって審査がきわめて簡単に行なわれれば、それに越したことはないと思います。それと同時に、ガイドラインに沿わない SRS の場合には行政ないし司法独自の審査を設定し、ガイドライン遵守の場合よりは手間や長い期間を要するのは仕方がないとしても、それなりに戸籍訂正の可能性が開かれる。そういう2本立てくらいを考えたらどうかと思います。

* * * * *

 「実在論」と「唯名論」についてですが、私は性別を実在論的に考えているわけではありません。これは現象学に対するありがちな誤解です。現象学は、相対主義や懐疑主義(現代だとポストモダンや分析哲学等)からは「実在論」とか「真理主義」と批判され、逆に実在論や真理主義からは「相対主義」とか「懐疑主義」あるいは「唯心論」だといって批判されるんですね。ただし今回は、真樹子さんは「人権」については私の考えを「唯名論」といい、「性別」については「実在論」といい、お一人で両方の役割を果たしているので、これはちょっと珍しい例だと思います(^^;)。

 ここでいう「実在」というのは「客観存在」と言い替えてもよいと思うのですが、この「客観存在」があるかないかを問うことは、おっしゃる通り果てしない「神学論争」になります。なぜかというと、人は誰でも自分の主観(意識)の外に出て「客観存在」が「ある」とか「ない」とかを確かめることが不可能だからです。では、何が与えられているかというと、「意識への現われ(主観)」です。繰り返しますが、私達は自分の主観(意識)の外側に出ることは出来ません。

 この原理からいえば、性別どころか目の前のパソコンでさえ、その実在を究極的に証明することは不可能です。パソコンが目に見え、触れることが出来ても、人間には錯覚や幻覚、あるいは幻肢のように、視覚や触覚・痛覚の誤りがあることを私達が知っているからです。他の人とパソコンの実在を確かめ合っても、「確かにパソコンがここにある」という他者の言葉は幻聴かもしれません。その可能性を完全に排除することは不可能です。

 ですが、幻覚か現実かはわからなくても今現在、自分の目の前にパソコンが見えているという事実は疑えない。そして触ってみるとグニャグニャしていなくて、ちゃんと固い・・・とかですね。そういう知覚を通じて、私達は目の前のパソコンの存在を確信しているわけです。主観の外に客観存在としてのパソコンが実在するか否かを問うのは無意味で、「客観」もまた主観の内部における妥当として成立しているのです。

 ですから、「パソコンが実在している」ということは証明不可能なのですが、しかし、なぜ「パソコンが実在している」と自分が確信しているのか、その根拠を内省して取り出すことは可能です。つまり、「存在」の根拠の証明は不可能でも、「存在確信(存在妥当)」の根拠を説明することは出来るということです。もちろん「実在論・唯名論でバトる」というのは「存在」の根拠を(あるいは根拠の有無を)問うことであって、それが不可能なことはわかっていますから、現象学ではそもそもそういう問いを立てません。

 そして、この「妥当」が「真理」と異なるのは、常に編み変えられる可能性を持っているという事です。どんなに目の前のパソコンの実在を確信していても、次の瞬間に目が覚めて「夢だった」という可能性があるからです。あるいは、パソコンだと思ったらよく出来た「パソコンの模型」だったということもあり得ます。その時には「パソコンの存在妥当」が編み変えられるわけです。

 私が「性別二分制の普遍性」というのは、「性別二分制の普遍妥当性」という意味においてです。そして「ジェンダーとは何か」はその成立の根拠の解明を試みたものです。性別が実在かどうかを問うのではなくて(それは答えの出ない問いの立て方なので)、なぜ時代や文化を越えて性別二分制が普遍性を持っているのかということの理由(性別二分制という確信成立の条件)を問うのです。私が構築主義と本質主義の両方を批判する理由もここにあります。両者はそれこそ「実在論・唯名論でバトる」枠内でジェンダー論の対立を繰り広げるに過ぎない思想だからです。

 一方、「人権」についても実在か否かを問うことには(同様の理由で)意味がありません。しかし「人権」が実在であろうとなかろうと、私達が「人権という概念」を持っているということは疑い得ない事実でしょう。ですから、この「人権という概念」を私達がどのような意味内容(意味本質)において把持しているか、ということが問題になります。

 私の「性別二分制の普遍妥当性」についての意見は、構築主義の立場を取る人には「実在論」に見えるでしょう。構築主義の立場からは「性別二分制の普遍妥当性」の根拠を示す作業が「性別二分制の固定化」のように見えてしまうために、私の意見が本質主義と混同されやすいからです。しかし逆に、本質主義の立場を取る人の中では、同じ私の意見を「性別の相対化」だと見る人のほうが多いだろうと思います(笑)。性別を「意識=主観への現われ」として扱う点に引っ掛かりを感じるからです。

 ですが私は、そんな対立の外側で「性別がどのように、どんなものとして私達の意識に現れているか、またそれはなぜか」を考えているに過ぎません。私が問いたいのは、徹底的に意識に向って問い詰めるような「生活上の性別の意味」であって、そこを抜きにして「いかによく生きるか」を考えることはできません。なぜかというと、客観的な「よい生き方」というものは存在せず、それはあくまでも欲望相関的なものとして考えられなければならないからです(ここでの「欲望」は人間の存在可能性の意味なので、例えば「清く正しく生きたい」と願うことも「欲望」のうちに含んでいます)。

井上けんなさんが、「ジェンダーとは何か」を「認知」の問題として読まれているのが印象的でした。心理学の場合には自然科学と同様、まだ素朴な客観存在が前提されていると思うのですが、モチーフとしてはかなり理解されていたと思います。現象学では、認識の対象(客観存在)ではなく、認識の構造を問題にするので、心理学と重なり合う部分も多いからでしょう。

 また、私の「人権」についての見方も、天賦人権説(いわば人権実在論)の立場からすれば「人権」の否定に見えるのかもしれません。逆に「人権を疑え」という人達(人権真理教の反動形成のような人達)からは「いや、それは妥当という形で成立(存在ではなく)し得るんだ」という私の意見を、人権実在論のようにみなすかもしれません(^^;)。

 ですが、私が扱っているのはあくまでも「存在確信(存在妥当)」や「意味本質」の問題であって、答えの出ない「客観存在」(の有無や把握)の問題ではありません(もちろん「折衷」でもありません ^^;)。いわば「問いの立て方そのものの変更」なのです。「最近のロゴス批判」も、ポストモダンを援用したジェンダー論も、いずれも「実在論・唯名論でバトる」レベルの思想に過ぎません。もちろん「実在論」や「唯物論」への立脚も同様です。

 それと、直観補強型が英語圏の「思考の特徴」というのも疑問で、それは単に論文の「構成の問題」ではないかと思います。論文に限らず、一つの文でも同じことがいえると思います。日本では「AだからBはCだ」というところを、欧文ではよく「BはCである、なぜならAだから」という言い回しを用いますね。ですが、表現として結論を最初に置くのと、思考として結論を最初に置くのとは、また別問題ではないでしょうか。

L.Jin-na


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