人権と唯名論/実在論


from 真樹子さん (2001年10月02日 00:50)

真樹子です 亀レス申し訳ございません

前後しますが、人権に関する実在論/唯名論の話から、

ただし今回は、真樹子さんは「人権」については私の考えを「唯名論」といい、「性別」については「実在論」といい、お一人で両方の役割を果たしているので、これはちょっと珍しい例だと思います(^^;)

論理的一貫性という点では、本音をいえば、人権も唯名論的に考えたいわけですよ(^^;)、わたしも。ただ、個人の尊重ということを考えたとき、私の知る限りでは、天賦人権説に代わるスキームを知らない、あるいは考えつかない、ということなんです。
 人権という考え方そのものが、西洋近代の歴史的文化的産物であることは、今更いうまでもないことでしょうし、ここ数十年ならともかく、何百年後の人類がこういう考え方をしているかどうかは、定かでない訳です。現在でも、今話題のイスラム原理主義者のように、西洋近代にいうような人権の捉え方をしていない人はいくらでもいるわけですね。
 さらに、天賦人権説にも大変危険な側面があって、今でも「アフガニスタン市民の人権擁護のために」攻撃を正当化する人も多々いるわけですが、仏革命時にも人権なり理性の名の下に殺戮行為も繰り返されたわけですね。フェミニズムの中でも、第三世界フェミニズムに関わっている人の中には、人権の名による植民地化の問題に意識的な人もいます。神名さんの言葉を拝借すれば「人権真理教」ということになるのでしょうが、非常に原理主義的な天賦人権説に対しては、私は大変警戒的にならざるをえません。
 このため、私も天賦人権説自体の根拠あるいは限界という点については、非常に唯名論的というか、相対主義的に考えていて、そのため、人権の実在論といっても、純粋なそれではありません。むしろ、「構築された」天賦人権説と呼んで頂いてかまいません。
 にもかかわらず、私が当面の間、この天賦人権説をとらざるを得ないのは以下の理由によります。すなわち、人権そのものを唯名論的に考えると、多数者の意思により少数者のもつ権利の内容がいくらでも書き換えられてしまう恐れが拭えないわけですね。それを防ぐには、今のところ、各個人が生来的に人権を与えられていると、アプリオリに措定する以外に方法がない。
 もちろん、人権もその具体的内容は時代や文化によって変わりうるものですし(天賦人権説が唱えられた当初は、人権といっても財産権と参政権、抵抗権くらいしかなかったわけで、プライバシーの権利なんかはずっと後になって出てきたわけですね)、市民の大方が認知しないような権利は果たしてそもそも権利と言えるか、という問題があるのは事実です。
 しかし、女装の自由なんかもそうですが、これとて多くの市民に認知されているとは言い難いわけですが、多数者が認めていないからそもそも保護の必要がないと言われれば、私たちは法的な意味での女装の根拠を失ってしまうわけです。であるから、女装にしても表現の自由なりプライバシーの権利が生来的に与えられていて、それを行使しているという言い方をせざるをえないわけです。(なお、念のため言っておきますが、「女装の自由」を一般の市民に認知させていく時の言葉をどうするか、という問題はまた別の問題です)
 というようなところが、私が天賦人権説をとる理由ですが、お読みになっておわかりになるとおり、これは努めて実用的かつ防御的な理由からであって、人権真理教とでもいうべき原理主義的な立場に対しては、私は非常に批判的であることを、申し添えておきます。

 で、ここから政治の問題に移りますが、私のかつていた団体もそうだったのですが、この国ではどうもある政策課題があると、非常に原理主義的な人権至上主義と、そもそも政治には一切関知しないとする積極的な政治的無関心とに二分されてしまうようです。

現在は「そういう『政治家』を出すためにどういう条件が必要か」ということから考えなければならない

というのは全くその通りで、私が権謀術数に長けた「君主」の出現を待っているというのでは全くなく、ましてや私がその任につくべきというわけではなく(苦笑)、当事者ひとりひとりが、かかる「政治家」を支持するかしないかを自分の責任で考え、もししないばあいであっても、「反発」をぶつけるのでなく、ましてや揚げ足取りではなく、対案に裏打ちされた「反論」を提示するという習慣を、身につけていくということではないか、と思います。  これは何のことはない、教科書的な意味でのデモクラシーの倫理なわけですが、ただ政治はどこでも大なり小なり汚れたものですので、そういうリスクも計算に入れて立ち回れる、ということも一方では必要になってきますが…。この国のTG業界の「政治家」が「売名行為」だの「TSを食い物にしている」だの言われるのはまだかわいい方で、最も民主主義的といわれている米国の大統領選挙では、もっとえげつない誹謗中傷がなされていましたから。

 次に、ガイドラインと戸籍変更の関係ですが、「医療と司法の判断基準は異なるべき」と言っているのは、私は戸籍変更に手術を要件としない立場なので、医療機関にかからなくても、一定期間性別を変更しての生活が継続していれば、司法独自の判断によって戸籍変更を認めることを許容する、というのがもともとの考えです。ガイドラインに則った治療の後に、屋上屋を重ねる形で司法独自の審査を求める方向では全くありません。

 最後に、性別の話は蒸し返しになるので、最小限にとどめますが、現象学については私の方が不勉強で、非常に初歩的な誤解をしていた可能性もありますね。ただ、

「性別がどのように、どんなものとして私達の意識に現れているか、またそれはなぜか」

という問題意識には納得がいきますが、#56「ジェンダーとは何か」を改めて読み返したところ、その根拠は「妊娠・出産」や「性衝動」という生物学的なものであったり、なお実在論的な枠組みを抜け切れていないように思えました。また、神名さんはかねてから構築主義系のフェミニズム批判を大々的に展開されていますが、本質主義を本格的に批判した文は少ないように思えます。もちろん先日のダイアモンド博士批判(v113,v114)は読ませていただいておりますが。
 私が唯名論/実在論の話を持ち出したのはこういう点についてなのですが、続編を書かれるとのことなので、その時にもう少し立場を明確にされることを期待しています。


「存在の根拠」と「存在確信の根拠」

 真樹子さんの考え方と「人権真理教」との違いは、天賦人権説をあくまでも「人権が天から与えられたということにしよう」と見るか、「本当に天から与えられているんだ」と見るかの違いですね。前者であれば、私は反対しないんです。それは人権実在論ではなくて、「人権」概念をどのようなものとして考えているかということですから、中身が「天賦人権説」であっても、それが皆で採択したルールだという自覚さえあれば、さしあたり問題ありません。

 ただし中身が「天賦人権説」であっても、それが皆で採択したルールとして成立すればよいのですが、それは「天」というフィクションの上に構築されたフィクションですから、異なる宗教が入り混じって存在しているような国、特に日本と違って宗教が細かな生活規範と切り離せないような国の場合には、「天賦人権説」自体がある宗教と相容れないという事が起こります。これは先進国を除けば今でもほとんどの国に存在する事情でしょうし、イスラム原理主義もその一例に過ぎません。「天賦人権説」では、「それはコーランの教えと違う」といわれたらそれまでです。

 これをどう解決するかというと、さしあたっては政治(司法・行政・立法)の判断根拠から、宗教原理を排除するしかありません。これが政教分離の元々の意味だと思うんですが、思考によって差別されない(市民としての権利に差がつかない)とか、法律の良し悪しをそれが経典に合致しているかどうかで判断しないとか、そういうことですね。近代合理主義というのは、こういう考え方も含んでいるはずで、バチカンでも主要な役職に就く場合には1970年代まで「私は近代主義者ではない」という宣誓が必要だったのです。

 「人権」の実在というのは、確認不可能なフィクションです。ただ、人権をフィクションだと考えると、人権は否定可能だということになりますから、そこに不安を感じる人もいて、どうしても人権を実在と考えたくなる。ですが、本当に人権を大切だ、必要だと思っているのなら、その理由をきちんと提出して、出来るだけ普遍性を持つような形に人権思想を鍛え上げる努力が必要だと思います。「人権」の実在というフィクションを置いて、人権に疑問を持つことを禁止してしまうと、その作業がおろそかになってしまいます。これは、かえって危険な思想だと思います。

 真樹子さんが例に挙げている、フランス革命でいうと、あれはその前にルソーが明確に天賦人権説を否定しているにも関わらず、人権宣言で天賦人権説を採ってしまっています。そして、恐怖政治につながって行くわけですが、理由は簡単で、人権が実在だとしたら、その人権は客観的に把握することが可能だという話になってしまうからです。そうすると、自分の人権概念が「真理」だと思いこむ人が出てきて、考えの違う人々を粛清するようになる。人権の代わりにマルクス主義を置けばスターリニズムになりますが、構造は同じです。

 そこに欠けているのは、民意を問う手続きです。ただし民意、あるいは多数意見がイコール「正解」なのではありません。そこに民主主義に対する誤解があると思うんですけど、民主主義の基本原則は「多数決」ではありません。何が皆にとってよいこと(一般意思)かを考えるのが民主主義です。ただし、どうしても意見がまとまらないときには多数決を取らざるを得ません。しかし「一般意思」と「多数意思」とが必ずしもイコールだという保証はありません。ここまでは全部、ルソーが『社会契約論』で書いています。

 ルソーの考えをさらに強化しているのがヘーゲルで、例えば彼は『法の哲学(法権利の哲学)』で、結婚は両性の合意にのみ基づくという、日本国憲法に書いてあるようなことも書いています。これは当時のプロシャの慣習でも現実には認められていなかったはずなんですけど、原理的にはそうでなくてはおかしいという主張を、彼ははっきりと打ち出します。私もまだまだ勉強中ですけど、「自由」や「権利」の考え方は、近代哲学に立ち戻って確かめ直すのがよいようです。

 思いきり立ち戻ると、ロックの前にホッブズという人がいます。彼は最初に自然状態(社会や法がない状態)を考えるんですけど、そこに「自然権」という考え方があります。これは「天賦」の権利でも、(法がないわけですから)法に保証された権利でもなく、法的禁止もないという意味で、ただ単に「できる」ということです。

 でもそれは究極の自由なのではなくて、むしろ弱肉強食の世界ですね。そこで利害対立の調整のために一定の我慢をする。それは皆が同じ条件で我慢する。これは裏返せば、理由のない禁止はしないということと、禁止のないように差をつけないということです。もちろんこれも「天」にその根拠があるのではなくて、皆の約束としてそうする。なぜかというと、そもそも私達は「自分達で」社会を作っているのだって、「天」の命令で社会生活を営んでいるわけではないからです。

 私は後に出てきたロック(天賦人権説)よりも、このホッブズの考え方の方が原理的には強いと思っていて、なぜかというとフィクション(天)を前提に置かないからです(彼のいう「自然状態」は歴史的事実としては存在しなかったかもしれませんが、これは歴史的フィクションというより、人間の本性を指摘した一種の思考実験と見るべきでしょう)。

多数者が認めていないからそもそも保護の必要がないと言われれば、私たちは法的な意味での女装の根拠を失ってしまう

というのは、この「一般意思」と「多数意思」の混同で、それは「多数意見」ではあっても「一般意思」ではありません。なぜかというと、例えば私が女装をすることで誰かの権利を侵すという事はあり得ませんから(^^;)、「禁止」の根拠がないからです。私が売れっ子のニューハーフだとして、同じお店の誰かのお客さんを取っても(それは一種の利害対立ではありますが)、それはそのお店の中で解決する種類のトラブルですね。公的には、そのお客さんが別の従業員のお客さんだということは法的に保護される種類の「権利」ではなくて、それは自由競争の範疇の話ですね。お店の中では問題でも、それは社会一般における「悪」とは言えませんから禁止できない。逆に、私の女装を不快に思う人がいたとしても、不快に思うこと、あるいはそれを表明することはその人の権利です。だけど、私の女装を禁止する(強制的に女装をやめさせる)権利は、その人にはありません。

 女装の(法的な)根拠を探すのではなくて、女装を法的に禁止する根拠が見つからない限り「できる」と考えた方がスッキリするでしょう。そして誰かが「女装を法的に禁止する根拠」を持ち出して来たら、それが正当な根拠といえるかどうかは、上の原理に立ちかえって確かめ直すことができる。別に女装に限らず(^^;)、あらゆる事についてそれが可能なのが近代市民社会なのだと思います。

#56「ジェンダーとは何か」を改めて読み返したところ、その根拠は「妊娠・出産」や「性衝動」という生物学的なものであったり、なお実在論的な枠組みを抜け切れていないように思えました。

 これは学問の種類から説明する必要があるんですけど、まず、自然科学の場合には客観世界の存在を前提にしているわけです。これは心理学の場合も同じで、客観的に「世界」があるということも、その中に「私」を含めた人間がいるということも、その「私」や他の人達が心を持っているということも、あらかじめ前提とされています。簡単にいえばいずれも「世界」や研究対象が客観的に存在しているということを前提にしているわけです。

 一方、現象学の場合には、それらはすべて「私」の主観にたいする現れです。だから皆さん各人が、自分の主観にもそのような現われがあるかどうかを、自分の意識を内省することで確かめることが可能です(その結果、異論が出ることもあります)。

 私が挙げている「妊娠・出産」も、「生物学的なもの」つまり客観存在(実在)としてのそれではなくて、ただ「そういうものとして認識しているでしょう」ということです。そして私の考えでは、構築主義の立場を取る人といえども、一般に女性が妊娠・出産する(少なくともそういうポテンシャルを持っている)存在であることを認識できない、ということはないと思う(^^;)。

 もちろん「女性はそれだけの存在ではない」という申し立てはあり得ます(そしてそれは私も正しいと思います)。ですが、いくら構築主義者でも、「妊娠・出産は社会的に構築されたもので実は男にも出来るんだ」という人はいません。もし仮にそういう主張をする人がいても、誰も納得しないでしょう(^^;)。したがってこれは、主義主張に関係なく成立する認識ではないでしょうか。

 もちろん、事実としてはあらゆる女性がそのようなポテンシャル(可能性)を持っているわけではなく、例外が存在します。ですが、この段階ではあくまでもジェンダーの発生論的現象学として述べているので、「現代の医学でなら不妊症がわかる」といった話は繰り込んでいません。
 そして実際には、不妊症の女性であってもそれが子供の頃からわかるわけではないので(ふつうは)、たとえ暗々裏にでも、自分の人生にそれらの可能性を繰り込んで想定しています。だからこそ、自分が不妊症だと判ったときに、なにがしかの精神的な動揺を伴うのです。あるいは、ある種のフェミニスト女性がその可能性を自ら放棄するときに、例えば「決意」といった形で心の構えを必要とします。女性にとって妊娠・出産がそれなりのウェイトを占めている/いたという事実(それが良いか悪いかは別にして)を、これら(動揺や決意など)が逆に照射しているように思います。
 ただ、最近の話に限っていえば、そのウェイトがかなり減ってきているとは思います。もちろん人にもよるのですが、その理由を簡単にいうと、#56「ジェンダーとは何か」の後半に書いた『女性の身体特性は「彼女」が「社会的存在」であることの可能性を否定しない』という了解が女性の間に広まり、そのために妊娠・出産のウェイトが相対的に低下しているのだろうと思います。ただしこれは発生段階ではなく、その後の変化の話です。

 それからもうひとつ、これはあくまでも「男女二分性」という世界分節に根拠として挙げているのであって、様々な時代や文化における性別役割の直接的な根拠としてあげているのではないということです。私の考えでは、それはせいぜい性別役割の一部の原型を形作るに過ぎない。ですから、まったく無関係とは思いませんが、しかし逆にいえば、「ジェンダーレベルの性差」を「身体レベルの性差」に一元的に還元して考えることは不可能である、ということです。

神名さんはかねてから構築主義系のフェミニズム批判を大々的に展開されていますが、本質主義を本格的に批判した文は少ないように思えます。

 この理由はもっと簡単で、批判対象(本質主義を本格的に主張する人)がほとんどいなかったからです(^^;)。

 例えば、フェミニズム批判派の中に『父性の復権』の著者の林道義氏がいますけど、彼にしても、実際には本質主義を唱えているわけではありません。彼の説でも、父性や母性を「本能」のように扱って「必ずあるはずだ」みたいなことを言っているわけでもありません。もともと彼はユング系の心理学者ですから、ジェンダーを身体に還元する説が出て来るはずがありませんし、実際に彼の本を読んでも出て来ません。

 よく考えてみると、「構築主義 vs 本質主義」という図式自体が必ずフェミニズム側から言われることで、フェミニズム側から「本質主義」のレッテルを貼られる人はいても、自ら「私は本質主義者だ。本質主義の方が構築主義よりも正しい」と主張する人は見当たらないのです(^^;)。「本質主義」という言葉を使わなくても、ジェンダー(の内容)を身体的性別に還元するためのまともな論理展開をしている論者がいないんですね。そういう意味で、「構築主義 vs 本質主義」というのは、実はフェミニズム側の一人相撲じゃないかとすら思います。

 強いていえば、石原慎太郎氏などは、身体的性別とジェンダーとを固く結び付けようとはしていると思います。ですが、やはり彼もジェンダーが身体的性別に還元できるとは思っているわけではなくて、むしろ単純に、男(女)とは「〜であるべきだ」といっているに過ぎないのです。いわば彼は、既存のジェンダーに対する自分の固定観念を心情的な表現で主張しているだけで、そこには何の論理性も見られませんし、そもそも彼がジェンダーの成り立ちについてまともに考えたことがあるとも思えません。少なくとも私には、あれを放っておいても同調者が増えるとは思えませんし(^^;)、ミもフタもない言い方をすれば、批判するだけの価値も感じません。

 それで、比較的最近になって私がやっているのは、いわば新・本質主義とでもいうべき司法の「染色体主義」や、ご指摘のダイアモンド博士に対する批判です。特に後者の場合には、当事者の中にも同調者が出始めているようですから、今はこちらにも本腰を入れなくてはという気になって来ています(それから、脳(特に脳梁)の形状についての説もありますね)。

 とりあえず、今のところ私が理解できないのは、脳梁の形状に関する説やダイアモンド説に同調する当事者も、その大半は自分の脳の形状や、自分の染色体のことなんか知らないだろうに・・・、ということです。ああいう説を支持しておいて、実際に脳や染色体を調べたら自分は該当者ではなかった、ということになったら、一体どうするつもりなんでしょうね?(^^;)。

 それと、私はダイアモンド博士の著書を読んだことはないのですが、おそらく彼はゲイについての研究は未経験ではないかと思います。というのは、実は脳梁の形状に関する説などはゲイについても同じことが言われているからで、こうした身体的特徴から見た「性同一性障害とゲイの違い」という説は、ダイアモンド博士の説に限らず、私は全く見たことがないんです。

 ということは、性同一性障害(MTF)と、性自認が身体と一致しているヘテロの男性とを比べて、一定の割合で性同一性障害の当事者に共通する(脳や染色体などの)身体的特徴が見つかったとしても、実はゲイの男性も同じ特徴を持っている可能性があるわけです。そうすると、それらの身体的特徴は性自認とは関係なくて、それはむしろ性的指向との相関関係で考えるべきだという話にもなりかねません。少なくとも私が知る限り、これまでの説ではその可能性を排除したものはないと思うんです。そうするとこれは、科学的な考察としても非常に杜撰なものだといわざるを得ません。

 性自認に関する考察なら、性同一性障害とゲイとの比較研究は欠かせないと思うのですが、そういう研究成果を見たことがない。もしかしたら、これは現在、ゲイが精神疾患に含まれていないために医学の対象になっていないからかも知れませんが、もし性同一性障害の身体的特徴がゲイにも見られるとすると、今度はゲイの医学上の扱いが問題になってしまう。その場合には、ダイアモンド博士は、自分の説を引っ込めるか、そうでなければゲイをもインターセックス扱いせざるを得ないことになります。あるいは、ゲイにもない「性同一性障害だけの」身体的特徴を発見しなければなりません。

 現象学的には認識(性自認)を物質(脳や染色体)に還元できないのは当然ですが、それだけでなく科学や医学の論理からいっても、ダイアモンド説はかえって余計な問題を増やしているんじゃないかと思います。

L.Jin-na


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