from 真樹子さん (2001年10月06日 01:56)
自由や権利についてはまだまだ私もわかっていないところが多く、この問題に関わる限り探求は一生続くのでないかと思います。
| > | 真樹子さんの考え方と「人権真理教」との違いは、天賦人権説をあくまでも「人権が天から与えられたということにしよう」と見るか、「本当に天から与えられているんだ」と見るかの違いですね。 |
というのは非常に的を得た言い方で、これ以上付け加えることはないのですが、そういう意味で市民革命期の天賦人権説と、現在(市民運動業界でなく、法学業界に)流通している天賦人権説は、異質なのでないかと思います。日本の憲法も、11,98条の「侵すことのできない永久の権利」という表現で、こういう立場をとっていると、私は考えていますが。ただ、
| > | そこに欠けているのは、民意を問う手続きです。ただし民意、あるいは多数意見がイコール「正解」なのではありません。そこに民主主義に対する誤解があると思うんですけど、民主主義の基本原則は「多数決」ではありません。何が皆にとってよいこと(一般意思)かを考えるのが民主主義です。ただし、どうしても意見がまとまらないときには多数決を取らざるを得ません。しかし「一般意思」と「多数意思」とが必ずしもイコールだという保証はありません。 |
という点について、おそらく立場の違いは、私が人権の存在そのものについては、民意とは全く切り離されたものと考えているところにあると思います。すなわち、後の自由の話とも関係してきますが、権利そのものは生来的に、個々人がもっている。そして、民意が関係してくるのは、それを公共の福祉のために制限する段階になってであって、それ以前に権利そのものは民意と独立して存在している、というのが私の立場です。
制約の段階では、一般意思と多数意思の話はそのまま当てはまると思います。しかし、計数的な多数派の意思の反映でなく、「一般意思」すなわち民主的な政治過程を経た上でもたらされた合意であったとしても、それが特定の個人の権利を侵害するということは依然あり得るわけですね。すなわち、以前にも話題にしたこともある民主主義への懐疑というか、民主的な権力への懐疑なわけです。
このような場合、その特定の個人を救済するには、権利そのものは民意とは切り離して考えなければならない、と考えるわけです。すなわち、権利の存在の問題と制約の問題は混同されてはならないということです。(そして、そういう救済を行う機関は、違憲立法審査権をもつ司法府ということになりますが、それがきちんと機能しているかは別の問題です)
ただ、こういう再構成された天賦人権説をとるとしても、
| > | 「天賦人権説」では、「それはコーランの教えと違う」といわれたらそれまでです。 |
という難点があるのはそのとおりで、コーランでなくとも第三世界の人権に関わるとき、避けて通れない問題なわけです。そして、これに対する反論というものは、私は不可能であると思います。
これに対し、いわゆる「先進国」の活動家が、いわゆる「途上国」における人権侵害に対して、天賦人権説の下に大手振って非難したり行動に出たりするわけですが、結局そこには「文明」「未開」の対立軸を持ち込んでしまうことになる。むしろ「先進国」の活動家がなすべきことは、富の偏在をもたらしかかる人権侵害の遠因になっている「先進国」自身の社会経済システムに対する批判でないか、というようなことが言われていたりします。
話を元に戻すと、天賦人権説によって、すべての国の人に人権が認められたとしても、そこには当事者適格の問題があって、政教分離なり民主政なりの制度を整えていくのは、当事者である当該国民ということになります。その限りで、人権の根拠、あるいはルールとして、人権を天賦のものと考えようとすることに関しての「民意を問う手続」は、措定できると思います。
一方、自由についてですが、
| > | 女装の(法的な)根拠を探すのではなくて、女装を法的に禁止する根拠が見つからない限り「できる」と考えた方がスッキリするでしょう。 |
と考えているのは私も同じです。女装の法的根拠云々という話は、あくまで条文に照らし合わせた場合の話です。
自己決定権についても、二つ考え方があって、個人の行動すべてに、一般的に自己決定権を認める考え方と、個人の人格的自律に関する事項にその範囲を限定する考え方があります。前者はおっしゃるような法的な禁止がない限り何をしても自由、という考えに根ざしており、後者はどちらかといえば、財産権や表現の自由のような「古い人権」に対して、自己決定権を新しく創設された権利、と理解する考え方であるように思えます。
前者は喫煙の自由や服装の自由といった「周縁的」といわれる人権の保障、あるいは未成年者や知的障害者などの権利保障に厚い反面、殺人の自由を認めるのかとか、あるいはそういったものに対する制約を広範囲に認める結果、生殖や身体の処分といった「中心的」なものに対する人権の保障に薄くなる、と言われます。後者は逆に「中心的」なものにつき絶対的に近い保障を可能とする一方、「周辺的」といわれる権利や、未成年者や知的障害者の権利の保障に薄くなります。
私は、自由なり権利自体は、他者との関係でなく、個人が個人であるというだけで存在していると考えていますから、実益の話はともかくとして、前者の考えに親近感を持ちます。(もっとも、他者との関係では、当然のことですが制約される場合があります)
これに対し、人権を天賦のものでなく、市民の一般意思により根拠づけられるとする考え方は、論理的には後者の考え方を導くように思えますが、どうでしょうか。
次に、性別の話に移りますが、現象学については私もだいぶ昔にかじったことはあるのですが、
| > | 一方、現象学の場合には、それらはすべて「私」の主観にたいする現れです。 |
という点をポスト構造主義(相対主義、唯名論)へと連なる流れにおいて理解していましたので、神名さんの一見実在論的に見える論調に「???」と思ったということがあったと思います。
ただ、一方でそういう認識そのものも言語により構築されているのでないか、という疑念は依然つきまとうわけです。神名さんの場合は言語による解釈を、直接知覚の後に置くわけですが、以前私が徹底して構築主義的に考えている、と言ったことがありますが、おっしゃる「構築主義の立場を取る人といえども、一般に女性が妊娠・出産する(少なくともそういうポテンシャルを持っている)存在であることを認識できない、ということはない」という点についても、言語がなければ認識できない、と考えることは依然可能であると思います。これ以上は神学論争になりますが…。
フェミニズムについては、有名な「エコフェミ論争」が構築主義と本質主義の論争といわれていますが、エコロジカル・フェミニズムの論者は「女性は子供を産み育てるから平和を望む。だから好戦的な男性原理に基づく社会から平和な女性原理に基づく社会へ」とか言っているのですが、よくよく読んでみると、必ずしも生物学的な本能によって、この「女性原理」が決定されているのではなくて、むしろ社会的に構築された「女性の文化」を尊重する、ということなんですね。実際、ジェンダーの分化について引用されているのはジョン・マネーだったりするわけです。エコロジカル・フェミニズム自体がカルチュラル・フェミニズムの一派な訳ですから、ある意味当然かも知れません。
結局、この論争の争点は、政策論として性差をなくすことによって個人を尊重するか、性差の存在を認めた上で個人を尊重するか、という点にあって、構築主義/本質主義の論争というのはむしろ誤ったものの見方であるように思えます。
逆に言えば、今日の「ジェンダーフリー」論争においても、性差の起源が何かというところに捕らわれると、かえって見えるものが見えない気がします。
なお、ダイアモンド氏の講演会のレポートは、「セクシャルサイエンス」に掲載されています。
http://www.medical-tribune.co.jp/ss/ssOct02.htm
ただ、氏の言う「出生時には予め性別のバイアスをもって生まれる」「性別違和に気づいたときは十分に情報を得た上で自ら決定すべき」というテーゼが抜けていたり、一部不完全なところがあります。
ここでは紹介されていませんが、同性愛についても、氏の自説というわけでなくその場で紹介されていただけですが、やはり脳神経のある部分が異なるとか、遺伝子が異なるとかいう有力説があるそうです。
ただ、性の分化についての理解はともかくとして、性別の自己決定に関する理解や、自然は多様性を好むということ、それゆえにnormalな男性・女性という言い方を廃しtypicalという言い方を提唱するなど、氏の考えから参考にすべき点は多々あります。
そして、私も自分とこのHPで書きましたが、氏は生物学的諸条件と自己決定の問題は、論理的に相関しないと考えているのでないかと思います。この点は、上記の性差の論争にも一定の示唆を及ぼすのでないかと思っています。
| > | 私が人権の存在そのものについては、民意とは全く切り離されたものと考えているところにあると思います。 |
そう考えると、人権が「本当に天から与えられているんだ」という話になってしまうんです(^^;)。つまり、「人権」でも「神」でも、それを政治原理の中に、民意とは無関係に客観的に存在している「超越項」として置いてしまうと、その根拠を問うこと自体が不可能になりますから、人権の原理的な確かめ直しというのは出来なくなります。そして、
| > | 「天賦人権説」では、「それはコーランの教えと違う」といわれたらそれまでです。 |
ということが難問として現れてしまう原因もここにあります。神の存在というのは証明不可能なフィクションですから、異なる「物語」を持つ宗教同士の論争は必ず水掛け論になります。天賦人権説も「人権」をそういうフィクションとして扱うという点では同じことですから、やはり第三世界の人権を考える場合に、宗教戦争と同じ問題が出てきてしまうわけです。
これはちょうど、かつてのヨーロッパで「自明のこと」だったキリスト教の世界感が、異なる文明に触れて相対化されていったのと同じ構造を持っています。いまは、「キリスト教の世界像」が「人権」に置き換わっているだけで、やっていることは同じなんです。
これを解決するためには、フィクションをフィクションとして自覚することが必要で、では私達の社会がなぜ「人権」というフィクションを採用しているかというと、「人権」がそれなりに「よいもの」だと思われているからです。極端にいえば、社会の成員の全員が「もう人権というフィクションはやめようじゃないか」といったら、その社会では「人権」は廃止可能です。もし、そういう場合に「人権」が民意に反して社会の成員を束縛するものだとしたら、この場合も、それはやはり人権とはいえないでしょう。
真樹子さんの危惧はわかるのですが、日本国憲法といえども、それ自体が(実際の制定の経緯はともかくとして ^^;)「国民の総意」に根拠を持っているわけです。だから、「国民の総意」によって人権を廃止しようと思ったらそれも可能なわけで、この場合には違憲立法審査権のような制約もありません。つまり、「人権」の根拠を考える場合には、法制度という閉じた体系の中で完結させることは不可能でなのです。そこで、「人権」を無前提に「動かし得ないもの」だと考えたくなる。その気持ちは判りますが、結局は「その考えの根拠は何か」といわれたら、「天賦人権説」というフィクションだけが唯一の根拠だという話になりますから、そこでお終いです。
私の考えでは、「人権」というのはそれなりによく出来たフィクションで、その根拠は人間の「かくありたい」という欲望に根ざしています。欲望する存在としての人間の本性から取り出されたのが「人権」で、私はこれは「コスト」の問題だと思います。 すでに何度も書いていますけど、各人が無制限に自由に振舞うと利害の衝突が起こるので、その調停手段として自由の制限がどうしても必要になります。ですが、この場合の「自由の制限」は、専制君主が自分だけ勝手に振舞うためではなくて、そもそも利害衝突の原因だった「皆が自由に振舞う」ことの、現実的条件の確保を目的としています。皆が「できるだけ」自由に振舞うためにこそ、最低限の自由の制限が必要とされる。人間が社会生活を送る上で、各人が何をそのためのコストとして我慢するかを考えれば、同時に、逆に「これだけは譲れない」ということも出てきます。
ですから、「人権」というのは、地球の引力みたいに人間の意思に関係なく存在するものでもなければ、憲法に書いてあるからその通りにするというものでもありません。そうではなくて、人権の必要性というのは各人の内側から取り出すことが出来る、あるいはそれをすり合わせたところに成立する。それを明文化して「皆で守りましょう」というのが憲法の人権に関する条文です。ですから、不足があれば新たに人権を作ることが出来るし、もっと既存の人権についても不都合が感じられ、より良いアイデアを出す人がいたら作り変えて構わない。なぜなら、そもそも人権は人間が作り出したフィクションであり、その必要性が人々に対して「妥当」する限り存在し続けるものだからです(これは、自由についての最後の部分の問いへのお答えにもなっていると思います)。
| > | ただ、一方でそういう認識そのものも言語により構築されているのでないか、という疑念は依然つきまとうわけです。 |
確かに認識にはしばしば言語が伴いますが、必ずしも言語が認識を規定するわけではありません。
かつてヨーロッパの形而上学には、「真理」は論理によって到達可能であり、したがってその論理の結論である「真理」も当然、言葉によって言い当てることが出来るという考え方がありました。それで「反・真理主義」のポストモダン思想などでは、当然「反・ロゴス主義」を伴うようになるわけです。
ここでさらに注釈をしておくと、現象学がポスト構造主義(相対主義、唯名論)へ連なる流れというのは、実際にそういうことを言ったり書いたりする学者がいるわけですが、現象学に対する誤解から出ています。例えば現象学をやったひとで、ポストモダンなどのフランス現代思想に名を連ねる人としてサルトルやレヴィナスなどがいますけど、彼ら自身があまり現象学を理解していなくて、客観存在を自分の思想に混在させたりしています。
一方、ポスト構造主義の立場から現象学を批判している人もいて、その代表例はデリダという人ですけど、現象学を「真理」を目指す学だと言っています(笑)。ですが、この批判もやはり現象学の誤解に基づくもので、これは現象学でいう「妥当」と形而上学の「真理」とを混同しているところから来ています。それで、デリダは現象学批判の手段に、言語についての懐疑主義を使います。
ここまでが前振りなんですが(^^;)、何故こんなことを書くかというと、真樹子さんの今回の疑問は、ちょうどこのデリダの現象学批判と重なっているからです。
ですが、まずそもそも「意識への現われ」というのは言語だけではありませんね。目に映った「像」も、昔通った小学校の校舎を思い浮かべるのも、すべて「意識への現われ」です。視覚だけではなく、五感によって知覚できるものはすべて「意識への現われ」となります。
もちろん、人間はそれを言語によって表現することが可能です。そして実際に、自分の意識に現れた「ある感じ」を言語に表したら、自分自身がその言語表現にとらわれてしまうということもあります。ですが、逆に「ある感じ」をなかなか上手く言い表すことが出来なくて、もどかしい思いをしたことはありませんか?
人間は自分の「意識への現われ」を言語にすることが出来ますが、必ず言語が人間の認識を規定するというわけではありません。「ある感じ」をなかなか上手く言い表すことが出来ないとき、その「ある感じ」と言語表現との間に食い違いを感じて、「いや、そうじゃないな、上手く言えないな」とか「今度はかなり言いたい事が表現できた」とか思うでしょう。そういう意味では、むしろ「ある感じ」が「言語表現」を規定し、あるいは「ある感じ」と「言語表現」とがうまく対応していると思えるかどうかを、自分の中で審査しています。
もちろん、「だから言語は正確な認識を保証する」というのではありません。現象学でいう認識やその言語表現は、そもそも客観を言い当てるものではなくて、自分の「意識への現われ」を表現するものです。
上は発話(パロール)の話ですが、言語(ラング)もまたある意味で人間の精神の在りように規定されているといえます。人間は言語によって世界分節を行なうともいえますが、ではその言語はどのように作られているのかというと、これは結局は人間の分節の必要性に支えられているわけです。つまりここでも人間の「欲望」が底板をなしていて、それ以上はさかのぼれません。
よく、言語は恣意的なものだという話があって、これもソシュール言語学から来ていると思うのですが、これは何の恣意性の話かというと、語の発音の話しですね。例えば、犬を「イヌ」と呼ぶか「ドッグ」と呼ぶか、そこには何の必然性もなくて、ただ、犬を「いぬ」と呼ぶと言うことが身の回りで共有されていたら話が通じる、というに過ぎません。
しかし、分節のしかたについては、どうでもいいという意味での恣意性はなくて、むしろ必要性の問題です。子供だったら魚類を全部ひっくるめて「さかな」と呼ぶだけでそれ以上の分節の必要を感じないかもしれません。ですが、大人になるとさらに「さかな」を「たい」や「まぐろ」などに分類することを覚えますし、漁師や魚屋さん、魚類の学者などは、それぞれの分野においてさらに詳細な魚の分類が必要になります。もちろん、この分類ということも世界分節の一部です。
もし性別の分類が言語の恣意性によるものだとしたら、逆に、性二分法は言語や文化の違いによらず普遍的に見られるという事実を説明することが出来ないでしょう。魚の分類、あるいはもっと単純に言うと、虹を何色に分けて認識するかということでは、文化や時代によって認識者(人間)の興味・関心が異なりますから、これはおそらくご存知のように、多様性が見られます。逆にいえば、性二分法の普遍性は、人間が時代や文化(や言語)の違いを超えて、性に対する共通した興味・関心を持つことを意味すると考えないと、説明がつきません。
| > | 結局、この論争の争点は、政策論として性差をなくすことによって個人を尊重するか、性差の存在を認めた上で個人を尊重するか、という点にあって、構築主義/本質主義の論争というのはむしろ誤ったものの見方であるように思えます。 |
| > | 逆に言えば、今日の「ジェンダーフリー」論争においても、性差の起源が何かというところに捕らわれると、かえって見えるものが見えない気がします。 |
後半部分についての私の考えは逆で、「政策論として性差をなくすことによって個人を尊重するか、性差の存在を認めた上で個人を尊重するか」が争点であっても、「議論の土台となる前提」が必要だという点では同じだと思います。
どちらの意見の論者も、アプリオリに自分の意見が正しいと考えて、そこから出発すると、上に書いた宗教戦争と同じ構造の論争になるからです。逆にいえば、それを避けるためには、両者に共通する認識が必要で、そこから意見が発展して行かないと、これは必ず水掛け論に終始します。
それから対抗主義を取らないこと。同じことなんですけど、最初にフィクションを置いてそこから出発すると、自分が拠って立つフィクションを死守することが目的化してしまって、まともな話し合いになりません。あと「政策」の話であるからには、対象範囲があらかじめ限定されていることを自覚するということですね。
近代の市民原理の重要な一つに、人種や宗教や性別などによらず、市民としての権利は対等だということがあります。ですから、性別においても「性別の違いによらず」市民として対等ということがいえなければおかしい。ところが実際には、男女を見分けることさえ悪いことだみたいな「ジェンダーフリー教育」が、男女共同参画法に基づくものという位置付けで、三重県の小学校で行われていたりするわけです。この男女共同参画法から、ますます事態は悪くなっていて、いまやジェンダーフリーといえば「行きすぎたジェンダーフリー」を意味するような状況です。
だけど、この考えだと、世界中の人間は皆、肌の色も言葉も宗教も統一されなければ、差別や争いはなくならないという話になります。実際にそういう考えも数十年前にはあったわけですが、それが今でも「性別」に関してだけ残っているわけです。これは近代の「平等」ということも理解していなければ、差別の本質についてもまるで考えられていない、あまりにナイーブ過ぎる発想です。
最後に、性別と脳や遺伝子については、前回に書いていますので省略します。ただ、
| > | 氏は生物学的諸条件と自己決定の問題は、論理的に相関しないと考えているのでないかと思います。 |
というのはおかしな話(真樹子さんではなくダイアモンド博士が)で、彼は性同一性障害は IS の一種というようなことを言っているわけですね。そうすると、性自認は生物学的諸条件と相関し、自己決定は相関しないという、その違いはどこから導き出された結論なのか、という問題があります。そもそも、性自認と生物学的諸条件との相関性も、論理的に解明されているわけではないでしょう。あまりに科学的な根拠に乏しい恣意的な説なので、少なくとも医学者としての彼は、私は信用できません。
