RE:人権の存在根拠


from 真樹子さん (2001年10月07日 17:56)

1.人権について

>>私が人権の存在そのものについては、民意とは全く切り離されたものと考えているところにあると思います。
 そう考えると、人権が「本当に天から与えられているんだ」という話になってしまうんです(^^;)。つまり、「人権」でも「神」でも、それを政治原理の中に、民意とは無関係に客観的に存在している「超越項」として置いてしまうと、その根拠を問うこと自体が不可能になりますから、人権の原理的な確かめ直しというのは出来なくなります。

ちょっと「民意」というものがいろいろな意味で使われているようですので、整理しましょう。
 私が「人権の存在そのものについては、民意とは切り離された」と言ったときの「民意」は、「参政権」ないしは「立法権」の意味です。すなわち、憲法の定めたルールの枠内で行われる立法活動に反映される民意ですね。
 一方、前回「その限りで、人権の根拠、あるいはルールとして、人権を天賦のものと考えようとすることに関しての「民意を問う手続」」と言ったときの「民意」は、「憲法制定権」のことです。すなわち、憲法そのものの権威を正当化する「民意」ですね。
 さらに、憲法の定めたルールに従って憲法を改正する時の「民意」、すなわち「憲法改正権」というのもあります。
 そして、私が人権について民意と切り離されたといったのは、あくまで立法権についてで、憲法制定権及び憲法改正権について言っているのではありません。
 ただ、憲法改正権の範囲については争いがあって、憲法改正の限界という形で議論されています。これについては、天賦人権説からは、基本的人権に関する条項は、これを廃止する方向での改正は不可能ということになります。もっとも、日本に将来革命か軍事クーデターが起きて、人権条項を持たない憲法が制定される可能性というのはあるわけですが、これについては憲法学を離れた議論ですので、ここでは扱いません。
 これに対し、上記3つの民意を区別しない考え方もあって、丁度神名さんがたびたび引用されているルソーの流れを汲む考えな訳ですけど、いわゆる国民主権に関する人民(people)主権論ですね。これは、憲法制定権、立法権、憲法改正権いずれも個々の顔の見える国民が握っていて、それらの意思(一般意思)によって立法なり憲法制定/改正なりを行うという考え方です。
 この説においては、人民のもつ権力は万能で、従って憲法改正の限界も観念されません。おっしゃるように、人権そのものの廃止も可能です。そして、人権の根拠としての天賦人権説もとられず、その代わりに人民の意思がこれに代わります。そして、民主主義のプロセスについても、ルソーもそうですが、人民主権論では直接民主制が原則になります。
 これに対し、私の立場では国民主権は、一般化抽象化された国民(nation)が、国家権力の正当性を保障しているにすぎないことが前提になっています。そして、この説では、少なくとも立法権については、個々の顔の見える国民の意思の反映の場ではなく、代表民主制が原則ということになります。人権の根拠としては、論理必然ではありませんが、天賦人権説と親和性をもつといえます。
 なお、憲法の条文で「国民の総意」という文言が使われているのは、天皇の地位に関する1条であって、人権関係については97条に「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」という記述はあっても「国民の総意」という文言は使われていません。
 ここからは評価の議論に移りますが、確かに天賦人権説が「人権真理教」とでも言うべき原理主義に陥りやすいのは確かです。これに国民主権に関するナシオン主権を加えると、民意と乖離した人権言説が跋扈する、ということも否定できません。しかし、この説に立っても国家権力の正当性は公開討論の場(public forum)の確保により担保されるわけですから、そこは運用の問題ということになります。
 これに対し、人民主権論及び人権の根拠を人民の意思におく説は、プレビシット(人民独裁)を帰結する恐れがあります。前回も言いましたとおり、人民の意思でも誤ることはありうる、ということです。結局、ナシオン主権論はエリーティズム、プープル主権論はポピュリズムと言われたりしますが、人権保障の担い手として「民意」をどれだけ信頼できるか、というのが対立の根底にあるように思えます。
 ただ、今の小泉政権なんかをみても、国民の一般意思としても、いわゆる構造改革論議の中で、憲法改正により9条はともかく、強い国家をつくるためには私権を制限することやむなしとする空気が次第に醸成されつつありますが、TGなんかにしても、かかる人民の意思の前では権利を制限されてやむなしとしてよいものか、私は疑問に思います。

 ここで人権の存在根拠というお題に戻ると、私の説においても憲法制定権に民意が反映されることは否定されませんので、人権の実証的な意味での存在根拠は、憲法制定に至る歴史、ということになります。このことは前述の97条に書いてある通りです。もっとも、押しつけ憲法論が大手振って出てくるほど、この国の場合は、この辺がひどくあいまいにされていて、そのため「人権」概念が混乱する事態が起こっているといえそうです。

2.現象学について

>> ただ、一方でそういう認識そのものも言語により構築されているのでないか、という疑念は依然つきまとうわけです。
 一方、ポスト構造主義の立場から現象学を批判している人もいて、その代表例はデリダという人ですけど、現象学を「真理」を目指す学だと言っています(笑)。

デリダくらい知ってますよん(^^;)。もちろん前回「デリダがこういっています」と言ってもよかったのですが、本当はデリダはこう言ってない云々の話になると面倒なので…。神名さんもフッサールやハイデガーの文献を引いているわけでなし、一応以前もこれからも自分の言葉ということで議論を進めます。

ジェンダーの話に戻りますが、genderが言語学上の名詞の分類から来た言葉であることはご承知の通りだと思いますが、現在流通しているジェンダー論の殆どは性別は言語により構築されているというのを前提にしていると思います。で、

 もし性別の分類が言語の恣意性によるものだとしたら、逆に、性二分法は言語や文化の違いによらず普遍的に見られるという事実を説明することが出来ない

との点ですが、インドのヒジュラやネイティブ・アメリカンのベルダシュを、神名さんは性別二分法のサブタイプでしかないというふうにおっしゃっていますが、これ自体がちょっと恣意的な解釈ではないでしょうか。私は現地に行ってフィールドワークをしたわけではないので、これ以上は何とも言いかねますが、「普遍的」と言い切ってしまわれる所に、私は留保をはさまざるを得ません。
 このことをさておいても、もし言語の認識において性別二分法が普遍的に見られるということであれば、これは構造主義ということになります。

3.ダイアモンド氏の学説について

>>氏は生物学的諸条件と自己決定の問題は、論理的に相関しないと考えているのでないか

というのは、私の個人的な解釈です。従って私が説明責任を引き受けますが、これは何も難しいことを言っているのではなくて、Aさんが生物学的に染色体はXY(男性型)、外性器は男性型、脳は女性型、性自認も女性型だとしても、Aさんが社会的に男性として生きていくか女性として生きていくかはAさんの自己決定に委ねられている、ということです。すなわち、Aさんは染色体や外性器を基準に男性としての生き方を強制されるべきでないのと同様に、脳や性自認を基準に女性としての生き方を強制されるべきでないということです。性自認が女性であるとすると、多くの場合社会的性別について女性を選択すると思いますが、社会的リスクを考えて男性を選択する可能性はなおあります。余談ですが、戸籍法113条の訂正請求の主体は、「本人」でなくて「利害関係人」ですから、法的な性別の基準をどこに認めるにせよ、本人の意思によらず(親族や公益の代表者たる検察官によって)訂正請求がなされる、ということは法文上はありうるわけですね。だから、性別の基準の話と自己決定の話は、実務上も分けて考えるべきでないかと思います。
 私が生物学的諸条件と自己決定が切り離されていると言ったのは、こういう意味においてです。

なお、ダイアモンド氏の説は、出生時には性別についてはバイアスをもって生まれるがその後環境によって変わりうる、という折衷説です。あえて性自認と自己決定を結びつけるとしたら、この辺が根拠になるのでしょう。私がそこまでダイアモンド氏の信奉者というわけではありませんが、一応紹介者としての補足です。


繰り返し「妥当」と「真理」の違いについて

1.人権について

 「参政権」というと憲法改正の際の国民投票もからみますから(憲法制定権及び憲法改正権はその一部と考えられますから)それは別にして、「立法権」については当然、憲法の枠内でしか行使できません。したがって、これは天賦人権説を取らなくても(私の意見でも)同じことになります。問題は、

>>天賦人権説からは、基本的人権に関する条項は、これを廃止する方向での改正は不可能ということになります。

という部分で、これが私が前回指摘した、根拠を問えない「超越項」ということになります。人権そのものか、人間に人権を与えた「何か」が超越項として置かれていて、人間はそれに逆らえないということになる。この部分が宗教と同じ無根拠な「物語」だということを、私は再三に渡って指摘しているのですが、それを無視されたまま同じ主張をなさっているように見受けられます。

 私が言いたいのは、そういう「物語」(フィクション)を用いても何の保証にもならないということです。結局は皆で「もうそういうフィクションは終わりにしよう」と言い出したら簡単にひっくり返るのは同じことで、天賦人権説が人権を、真樹子さんが危惧するような事態から守ってくれるとは思えないんですね。私はむしろ、そうならないために、人権の必要性(またどのようなものが人権として必要と感じるか)を、各人が自分の内面から取り出して納得する必要があり、「人権はお終いにしよう」という心変わりを防ぐためには、それが今のところ考えられてきた原理の中で一番強いということです。

 それから、確かに憲法の条文中(第2条以降)には、「国民の総意」という文言そのものはありません。この言葉は、あとは昭和天皇の憲法公布の詔勅にあるだけですね。ただ、前文中には、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、(中略)この憲法は、かかる原理に基くものである」とあるので、これを「国民の総意」という形に省略しました(もっと簡単にいえば「民定憲法」ということなんですが)。

2.現象学について

 まぁ、とりあえずデリダについては、真樹子さんの知識の範囲がわからないのと、他にここを読んでいる人のためということで。それと、フッサールについては、たぶん引用するとなおさらわからなくなります(^^;)。フッサールはかなり広範囲の文脈をわきまえないと理解が難しくて、部分的に引用すると、かえってその解説その他で面倒なことになると思います(引用するメリットがない ^^;)。

>> このことをさておいても、もし言語の認識において性別二分法が普遍的に見られるということであれば、これは構造主義ということになります。

 その構造主義自体が、ソシュール言語学の影響を受けて成立しているわけですが(^^;)、構造主義もソシュールの言語学も、研究対象が客観的に存在しているとみなした上で、その対象が「いかにあるか」を見るという点では同じです。

 しかし私の見方では、「性別二分法の普遍性」そのものが重要なのではなくて、何故そうなるのかという、確信成立の条件(認識の根拠)を問うことにあります。一般に(性別の問題に限らず)現代思想における相対主義が、なぜ言語を問題にするかというのは前回書きましたが、もう一度簡単に繰り返すと、かつてヨーロッパでは言語が「真理」を言い表すことが出来ると考えられていたからです。さらにいえば、それは人間の認識(主観)が正確に客観(真理)を認識することができるかという「主観客観一致問題」にたどり着きます。

 もちろんそれを証明することは不意可能で、なぜなら人間は誰でも自分の主観(認識)から抜け出して、「主観」と「客観」を比較することは出来ないからです。なぜこんな問題が出てくるのかというと、そもそも問題の前提が間違っているからです。この問題はまずそもそも「主観」と「客観」が別のものとして存在しているということを前提にしているわけです、「客観」が存在するということ自体、人間は自分の「主観」を抜け出して確認することが出来ません。では、それにも関わらずなぜ人間は「客観」の存在を素朴に信じているのか。

 簡単にいえば「客観」があるという存在確信も、あくまでも各人の「主観」の中で妥当しているに過ぎないということです。目の前の「タバコ」が客観的に存在しているかどうかは原理的に確かめられませんが、自分がいま「目の前にタバコがある」と認識しているということ、それ自体は確かです(それが認識の通り「タバコ」かどうかはわからない)。

 さて、性別についても同じことで、性別が「客観」としてあるかどうかは確認不可能です。ですが、時代や文化を超えて、人々が性別を二分法で認識しているということはいくらでも確かめられます(他の時代や文化の文献に当たればよいわけですから)。

 ここで、前回の続きとして念を押しておくと、性二分法の普遍性を指摘することと、性別の実在を指摘することとは違うということです。上の「タバコ」と同じで、性別が「客観」的・二分法的に存在しているかどうかは確かめられないからです。ただ、性二分法が普遍的であり(反証があればいくらでも出してください)、それは人間の世界分節の原理という面から説明ができる、ということなんです。

 その原理を前回は「欲望」を書きましたが、もっと簡単に「必要」といってもいいでしょう。性別を単純に二分して、それ以上の分節の「必要」を感じないということです。その際に、性別は言語により構築されていようと、その言語自体がやはり人間の必要に応じて作られ使われているわけです。

 また、性別が言語によって構築されているから間違いだともいえません。もちろん、言語が客観的存在としての「男」と「女」に対応しているという「言語名称観」のような主張に対しては間違いだといえます。人間が「客観」を認識できない以上、言葉が「客観」と対応関係にあると断言することは不可能だからです。こういう批判は「客観」や「真理」の存在を前提とする説に対しての批判としては意味を持ちますが、現象学に対しては無意味です。

ですが、性別を性二分法で認識し、その認識が人々に「妥当」しているという事実に対して、それは「間違い」だとはいえません。なぜなら、これはどこかに「正解」が存在するような問題ではないからです。

 構築主義の立場に立つ人には、性別についての認識が異なる仕方で妥当しているのかも知れません。ですが、どちらの認識が正しいのかと考えたら、これは絶対に答えが出ません。なぜかというと、この場合の「正しい」は、「客観」としての性別を確認するという、原理的に不可能な方法によってしか確かめられないからです。

 構築主義者が二分法以外の仕方で性別を認識しているとか、あるいは性別それ自体が認識できないとしたら、その理由はやはり構築主義者の内面に求める以外にありません。そこには、構築主義者に独特の「必要」が感じられているということなんです。ですから問題は、「どちらの認識が正しいか」ではなく、認識の違いが何に由来するかです。それは簡単に言えば、構築主義者に独特の「必要」が、他の人々には共有されていないということですね。

 さてこの状況で、構築主義者に独特の「必要」が、他の人々にも共有されるとしたら、その方法は大雑把にいって3つあります。ひとつは、自分達の「必要」が他の誰にも「妥当す」するものだということを納得させるという方法です。もうひとつはこれとは似て非なるもので、納得させるのではなく押し付けるという方法です。これがさらに2つに分類できて、ひとつは、自分達の認識こそ「真理」だという方法ですが、こういう超越項を持ち出す方法はかつてマルクス主義などで使われた方法で、今ではほとんど無効ですね。もうひとつは罪障観強迫という方法で、なにかと「弱者」や「マイノリティ」あるいは差別問題などを持ち出して「こんなに気の毒な人達がいるのに何とも思わないのか」とやる方法です。これは今でも引っかかる人が、それなりにいます(^^;)。

 私の考えでは、構築主義はこれまでにさんざん性差の相対化をやってきたわけですが、では二分法に代わる魅力的な提案をしてきたかというと、これがぜんぜん出来ていないわけです(ちょうどポストモダンが社会批判ばかりしていて魅力的な提案が出来ないのと同じです)。もちろん、構築主義者の内輪で受ける案はあるのでしょう。しかしそれが人々の生活実感に響いて「なるほどこれは性別を二分法で考えるよりもいい」と説得力を持つことはほとんどなく、いわゆる性二分法の再生産が続いているわけです。そして、上に書いた通り、それを「間違い」だという根拠はありません。説得力を持たない「真理」を持ち出せば、今度は立場が逆転して、構築主義者の方が相対化されてしまうでしょう。

L.Jin-na


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