偏見と差別の本質


from 井上 けんなさん (2001年10月14日 19:36)

こんにちわ。
最近、偏見の社会心理学に関する本を読んでいます。
まだかじりかけなので、きちんとしたことはかけませんが、
ちょっと面白い記述を見つけたので披露させていただきます。

人は2つのカテゴリーに分けられると、自分の含まれる方を
ひいきして他方を差別する性質がもともとあるらしいです。
(それが青組と緑組みたいな、それ自体 なんの価値観をも
含まないグループ分けであっても)

たとえばその場の誰がどちらのグループに属するかわからない
ような状況であっても、お金を分配する実験をすると、
本当はみんなに同じだけ行き渡るようにするのが一番合理的
でありそうなものなのに、実際には自分のグループになるべく
多く、他のグループにはなるべく少なく分配されるような方法
を選ぶのだそうです。
(細かい実験法は省略します)

そして、ランダムにグループに分けられた場合でも、
(例えば2色のカードを無作為に各人に配る)、2つのグループ間に
差があるように感じ、グループ内の成員同士は似通って
いるように感じるのだそうです。

これにはいかにも心理学らしい実験も載っていて、
たとえば線分の長さを比較させる実験で、なんの先入観も
与えないときにはその差が平均1センチぐらいに感じられる
のに対して、短い方にA、長い方にBというラベルをあらかじめ
付けておくと、それだけで長さの差が平均2センチぐらいに
感じられるのだそうです。

だから「ある集団に名前を付ける(カテゴリー化する)」と
その瞬間、その集団は他の集団とは実態以上に異なったものと
認識されはじめ、しかも集団に属する個人個人は、実態以上に
「等質なもの」と認識されるのだそうです。

これが差別と偏見の底流を流れる人間のものの感じ方の
本質だとしたら、差別そのものは決してなくならないわけです。
(これは龍子さんの哲学と同じ内容の、心理学的なアプローチに
過ぎませんが)


個人と集団、差別・いじめ

 おもしろい事例のお話、どうもありがとうございます。

 一応、最初に私の考えを書いておくと、差別はカテゴライズを利用して行なわれますけど、カテゴライズが差別の本質ではないということになります。この区別を立てた上で私なりに考えてみると、

だから「ある集団に名前を付ける(カテゴリー化する)」と
その瞬間、その集団は他の集団とは実態以上に異なったものと
認識されはじめ、しかも集団に属する個人個人は、実態以上に
「等質なもの」と認識されるのだそうです。

 これは人間が世界分節を行なう上での、ある根本的な性質だと思います。「分節」というのは、区別されたもの同士の間に何かしらの差異を認めて行われるものだというのが、一番の根本ですね。そして、おそらくはそのことを経験的な前提として、あらかじめ分節された事物を見ると、そこにやはり何かしら差異が「あるはずだ」と受け取ってしまうのだと思います。現にグループ分けが行なわれている以上、そのグループ分けには何らかの意味や動機があるはずだと考えてしまう。実際にはそういう意味や動機が存在していなくても、「あるはずだ」と考えて、それを読み取ろうとしてしまう。人間の認識には多かれ少なかれ、そういうバイアスがかかっていると思うんです。

 こういう「長さの異なる2本の線分」といったカテゴライズの場合には、偏見とはいえるかも知れませんが、いわゆる差別の問題とは直接の関係はありません。差別の問題は、まず「人間がカテゴライズされる」ということ、そして「自分自身がそのいずれかのグループに属する場合」(少なくともいずれかのグループに何らかのシンパシーを感じる場合)に生じるわけですね。

 その差別の動機は、以前から書いているように、直接にはアイデンティティ補償にあるのだと思います。自我の安定化と言い換えてもよいと思いますが、人間には様々な手段を用いて自我の安定を図ろうとする性質があります。そして人間のアイデンティティの根拠として、古今東西を問わず用いられているものの一つに、帰属意識というのがありますね。個人としての自分はたいした存在ではなくても(むしろ、そうであればあるほど)、自分が属する集団を価値あるものとみなすことで、そこに属する自分もやはり価値のある存在なのだと考えようとする。そのことの良し悪しは別にして、人間はそういう考え方のクセを持っています。

 日本人について言うと、例えば自分がどういう企業に属しているかということがアイデンティファイの上で大きな影響力を持っています。おそらく欧米ではもっと「個人」という意識が強くて、「自分がどういう優れた能力を持っているか」が先に立っているような印象を受けます。つまり日本人は、自分が一流企業に属しているということが先にあって「だから自分は優れた人間だ」と考えやすいのですが、欧米では自分は優れた能力を持っているという意識が先に立って「だから自分はより優れた企業や地位に迎えられる価値がある」と考えやすいと思うんですね。

 もっともこれは程度の差であって、日本人も欧米人もどちらの意識も持っているとは思いますし、日本でも鎌倉時代や戦国時代であれば、むしろ「個人」の意識の方が強かったと思います。腕に覚えのある武士は、自分を今よりも優遇してくれる武将の下につこうとしたわけです。だから自分が所属する「組織」が問題なのではなくて、あくまでも「誰」に認められてその家来になったかということが、自己意識の核になっています。武士が組織人になるのは、安土桃山時代にその萌芽が見えて、完全に意識が切り替わるのは江戸時代です。ヨーロッパでは近代に入って「個人」という概念ができたのに対して、日本では逆に江戸時代になって「個人」がなくなってしまった(^^;)。それが今でも続いているわけです。そうなると、

集団に属する個人個人は、実態以上に「等質なもの」と認識される

ということが起こります。「いじめ」というのもこのような「個人」の均質性を前提としていて、そこから少しでもはずれると「いじめ」の対象にされます。人並み以上に優れていても、また逆に劣っていても、集団の中の均質性からはずれているとみなされれば、いずれも「いじめ」の対象にされるわけですね。

そういう意味では、「差別」と「いじめ」は対照的なもので、「差別」が差異を前提とした異なるカテゴリー間で行なわれるのに対して、「いじめ」はカテゴリー(集団)内部での均質性を前提としているわけです。これが何を意味するかというと、「差別」をなくすためにカテゴリーそのものを否定しても、無意味な大集団が出来るだけですから、そこでは今度は「いじめ」が発生するということです(^^;)。

 欧米には「いじめ」がないという説もあって、さすがに「ない」というのは言い過ぎなのかもしれませんが、しかし「個人」がそれぞれの能力で競争することを前提としている社会では、日本に比べれば「いじめ」は少ないかもしれません。昔はこうした「いじめ」の原因として受験戦争を挙げるのが流行っていましたけど、これはむしろ逆で、それが本当なら「いじめ」は中学・高校よりも、予備校の方が深刻なはずです。ですが実際には、「いじめ」は中学・高校の問題であり、その場合にも受験を目前とした3年生になると、むしろ「いじめ」は減る傾向にあります。

 結論としていってしまうと、人間が世界分節を行なう存在であり、そのために必ず何らかの価値観を必要とする存在である限り、人間の「差別的な心性」それ自体をなくすことは不可能です。ただし、現実の「行為」としての「差別」や「いじめ」に及ぶかどうかは別問題で、それにはいくつかの条件があります。

 そのひとつは、アイデンティティの根拠を集団への帰属性に求めないということで、一言でいえば「個人の確立」という事になります。現在では、アプリオリに「個人は尊重されるべきだ」という言説が流通しているので、かえって個々人が自己の確立をするための努力の必要性が見落とされていると思います。むしろ、昔の職人の世界のように「一人前」か「半人前」かという区別が、個人の技量に応じてなされていた世界の方が健全なのではないでしょうか。

 それから、目的意識のない(あるいは希薄な)集団では、「いじめ」といった行為が起こりやすいということですね。例えば、「学級(クラス)」というのは自分達が集団を作っていることの必然性が感じられないにも関わらず、集団であることを強く意識せざるを得ないものです。そういう状況では、たえず自分達の一体性を確認する必要に迫られます。その歪んだ形での発露として「いじめ」があるわけで、受験という個人的な目標が意識の中で大きな比重を占めるようになると、「学級」という集団の重要性は相対的に低下します。そして、それと比例して「いじめ」も減って行きます。

 それから、同じことは「反差別」についてもいえるわけで、いわゆる「対抗主義」は、結局は自分を「被差別者」とか「マイノリティー」、「弱者」という形でカテゴライズしているわけですね。これは差別の反動形成であって、実は手法としては差別する側と同じことをしているわけです。「反差別」という名の「逆差別」だといってもよいでしょう。差別する側と同じカテゴライズを共有しつつ、ただ彼我のカテゴリーについての価値観を逆転させているに過ぎません。

 この場合には、差別される集団への帰属意識がアイデンティティの根拠に置かれてしまっているので、自分(達)がいかに差別されているかということを耐えず言いたてて、告発・糾弾し続けていないと自我の安定が保てないという、一種の強迫神経症のような病的な状態に陥ってしまうわけです。ですが、これをやっている限りは絶対に「個人」としての自己の確立は不可能で、必ず悪循環に陥ってしまいます。これは問題の本質的な解決につながらない、非常にまずい方法です。

 ポストモダンのような現代思想からは、自我とかアイデンティティというのは悪者扱いされていますが(^^;)、近代が「個人」という概念を提出したモチーフは、人間がどのような集団に属しているかによって決定されてしまうことによる不自由さからの解放だったと思います。人間の本質が「何に属しているか」によって決定されてしまうと、自己決定ということはなくなってしまうわけですね。実際に職業ひとつとっても、昔は生まれた家柄によって制約されてしまうということがあったわけです。それから、宗教や人種や民族といった共同体に関係なく(といってもそれらの存在を否定するのではなしに)、誰でも「市民」としての権利は対等だということ。これらは、今では当たり前のことのように考えられていますが、あくまでも「個人」という概念の上に成立しているわけです。

 それで、制度上は人間を「個人」として扱うようになったわけですが、人間の意識の方がまだ制度に追いついていない。多かれ少なかれ、帰属意識によってアイデンティファイする心性が残っているわけです。こういう観点からいうと、対抗主義というのはむしろ中世的・反動的な思想で、少しも「進歩的」ではないんですね(^^;)。

L.Jin-na


PREVIOUS VISITOR's ROOM INDEX NEXT
前の書き込み / Visitor's Room / インデックスページ / 次の書き込み