from 川村さん (2001年10月22日 22:49)
私の考えでは、このケースの女装というのは、「女装した自分=自分の思い通りになる女性」ということが根底にあって、あくまで女性を求めているわけです。ですから当人にとっては同居を許せない、むしろ葛藤の原因となる「女性との恋愛」と「フェチ的女装趣味」とが、現実には自分の中に共存できてしまうということが起こります。
そして、エロティシズムの本質のひとつには禁止の侵犯ということがあります。背徳感といってもよいのですが、女装に対する後ろめたさと、フェチ的・エロティシズム的女装趣味とは、この点でつながっているわけです。ICD10 に示されているように、TG や TS の中にも、いわゆる既往症として「フェティシズム的服装倒錯症」を持つ人がいます。もっとも、こういう人達の場合、頻繁に女装をしていると次第に女装に対する後ろめたさがうすれてきます。背徳感というのは一種の非日常性ですから、女装が日常化すると、どうしても女装に伴っていた性的興奮がうすれてくるのですね。
ですが、川村さんのように女装に伴う敗北感が強く身体化(内面化)してしまっている場合、禁止の侵犯がそのつど「禁止の再生産」をしているので、必ずしも女装を日常化させることが解決につながるとは限りません。むしろ、同じことの繰り返し(悪循環)に陥る可能性のほうが大きいかもしれません。かといって、ご自分に対して女装を禁止しても、やはりその禁止のゆえに、女装に対して強いエロティシズムを感じてしまうということになりやすいと思います。
だからここで、倫理的・道徳的な観点から「それはやめなさい」ということには全く意味がありません。むしろ、ご自分の欲求・欲望の内実を突き詰めて、それをとことん追求するべきだろうと思います。でもそれは、「女装を楽しむ」ということではありません。
この場合、原理的には実際に女性と接することの中から、女装よりも大きなエロティシズムを得ることが出来ればよいわけです。つまり女装の動機となっている性的欲求(純粋に生理的なそれではなくエロティシズムに対する欲求)を満たし、なおかつそのための方法として女装以上のものを見つければ、川村さんの中での「フェチ的女装趣味」の価値は相対的に低下するわけです。
例えば、同じ金銭的投資をするなら、それをいわゆる風俗産業の方に振り替えてみるというのも、一つの手だと思います。あくまでも想像ですが、川村さんはおそらく、性的な面に関してかなり真面目な方なのではないかと思うんですね。こういう問題を抱えているご本人には、あまり自覚がないのかも知れませんけど、今でも童貞ということは、例えばソープランドの経験もないわけでしょう。ご自分の女装に対する後ろめたさと違って、具体的な他者としての女性をお金で「買う」ということに拒否感があるのではないでしょうか。仮に「買春」に魅力を感じていても、それを思いとどまらせるような倫理観・罪悪感を併せ持っているのではないかという気がします。たぶんこういう傾向は、内省的・内向的な人に多いのではないかと思うのですが、ここで私が「真面目」と書いたのはそういう意味です。
でもそこをちょっと「決意」して(^^;)、たとえばイメクラでOLスタイルの女の子と接してみる。上に書いたような性格だと、その時にかなり緊張感を伴うかも知れません。でも、そのへんは女の子の方がリードしてくれるはずなんです(というか、それができないお店なんか2度と行かないことです)。
「生身の」女の子と性的に接するということにはいくつか意味があって、女装も含めて一種のイメージ的な遊びばかりばかりしていると、イメージが勝手に膨らんで、現実の(生身の)女性から乖離したイメージに性的興奮を覚えるようになる。それが度が過ぎて、現実から乖離したイメージでしか性的興奮が得られなくなると、男性は現実の女性の前でかなりシンドイ思いをしなければならなくなるでしょう。「フェティシズム的服装倒錯症」には、そういう危険があると思います。もちろんイメクラも文字通りの「イメージ遊び」なのですが、この場合には必ず生身の女の子が存在することが前提になります。それは一種の歯止めになると思うんですね。
それからこんなことを勧めておいて何ですが(^^;)、あらかじめ書いておくと、そういうお店は何度か行くとたぶん「むなしくなる」と思います。なぜかというと、それは結局はお金を通じたその場だけでの付き合いであって、「これは本当の付き合いではない」ということが、直観的にでもわかるからです(あるいは既にそういう直観があるから行かないのかもしれませんが)。風俗産業では、相手の女性の「全体」を自分のものにすることは出来なくて、それはあらかじめ挫折するようになっているんです。
ですが、それは「フェチ的女装趣味」の場合でも同じことで、その場合には妄想の中の女性を相手にしているわけですから、この場合の欲望も必然的に挫折せざるを得ません。ICD10 では、「フェティシズム的服装倒錯症」について、「いったんオルガズムが起こり性欲喚起が止めば、衣服を脱いでしまいたいという強い欲望が起こる」と書いていますが、これは性的欲望が満足されたからというより、むしろ必然的な挫折を見せつけられることによる(そんな方法をとってしまったことに対する)自己嫌悪だと思うんですね。
同じことならなぜイメクラなど勧めるのか、と思うかもしれませんが、これは結局は、ここに書いたことを頭で理解するのではなしに、実感として感じ取ることが必要だと思うからです。頭で理解するだけで充分なら、川村さんの「フェティシズム的服装倒錯症」はとっくに治っているはずです。それが出来ないのは、エロティシズムへの欲求が、女装という手段と強固に結び付いている(その結び付きが内面化・身体化している)からです。それは何らかの「経験」を通じて、いわば「身体で覚え直す」ほうが効果的だと思うからです。
少し詳しく書いておくと、エロティシズムへの「欲求」というのは、その解決のために必ず何らかの形をとらざるを得ません。具体的な形をとった「欲求」を「欲望」といって、川村さんの場合には現状では、エロティシズムへの「欲求」が、女装への「欲望」という形をとって表れてしまう。この場合、「欲求」を抑圧すると他の面で無理が出るので、別の「欲望」という、「欲求」が流れ出る水路を新しく開鑿する必要があるわけです。しかも(当たり前ですが)それは「女装」よりも魅力を感じられるものである必要がある。それは、川村さんの場合には、単にソープランドでセックスをするよりも、イメクラのようなところの方が向いているのではないかと(とりあえず今回は)思ったわけです。
それでイメクラにハマってしまうと、それはそれで別の悩みになりかねないわけですが、そこでは生身の女性から得られるエロス(の一部)を経験できるだけで、相手の女性の全体性には手が届かない。そこで得られるものとえられないものとが実感できたら、とりあえずこの段階の目的は達したということです。その時、自分にその先を求める気持ちがあるという事が(もちろん今でもなんとなくは直観できているんですが)はっきり自覚できると思います。そうすると、結局は個人的な付き合い、いわば風俗での「ウソの付き合い」ではない「本当の付き合い」としての恋愛しかありません。
男性は(というよりも人間は)エロティシズムへの「欲求」だけでなく、「自分が自分として認められること」への欲求を必ず持っています。恋愛というのはエロティシズムだけでなく、後者の欲求が満たされるという予感を必ず含んでいて、これは「フェチ的女装趣味」によっても、風俗産業に行くことによっても絶対に満たされない種類の欲求なんですね。恋愛はこの自己承認の欲求に水路を開いてくれる。少なくとも、ここまで到達しないと本当に満たされた感じがしないと思うんです。
友人関係になれたという「好きな女性」といっしょにいると、満たされた感じがして楽しいでしょう(たぶん)。エロティシズムへの「欲求」だけではなくて、彼女に対して「自分が自分として認められること」への欲求があると思う。そうなったら素晴らしいだろうな、とかですね。もしかしたら、エロティシズムへの「欲求」だけなら「フェチ的女装趣味」によって満たすほうが(その時は)上に感じられるかもしれません。でも、彼女と会って満たされている感じというのは、女装によっては代替できないし、もし代替出来るような気がしたとしても、それはそのつど挫折せざるを得ない。そして人間は、エロティシズムが満たされるだけでなく、自己承認の欲求が満たされることによって、より大きなエロスを得ることができる。最終的には、そのことが「実感」として納得できればよいのです。
