from 匿名希望者さん (2001年11月04日 12:49)
私は、残念ながら神名さんおっしゃるところの、「女装よりも大きなエロティシズム」を夫に与えることができなかったようです。
結婚当初、私はその事実すら受け入れることができず、私の対応が悪かったのだろう、女装したのはたまたま刺激がほしかっただけだろう、などと別の理由を自分に言い聞かせてきました。結婚後数年は、そのまま受け入れたり、いやがったり、多少歩み寄ったり、何も感じないようにしたり、無視したりと、いろいろな行動をとりました。受け入れていたのはほんの2、3年ですが。結論から言えば、私が何をしても夫の本質的な行動は変わりませんでした。
夫はひんぱんに「うつ」状態になります (本人がそういっています)。私は、表面的な理由はいろいろあるにせよ、女装についての問題を解決しようとしないためにそのような状態が頻繁におこるのではないか、と思っています。夫自身は、現在はそのことについて触れないようにしているそうです (過去何年もそうでしたが)。
夫は自分では女装癖を治したいと思っているようですが、対策はほとんどとっていません。私が離婚を申し入れ、「治したいと言っているのに誠意が見えない」といったときに一度、神経科 (or精神科) の門を叩いたのですが、診察時の会話が他の患者さんに漏れ聞こえるような病院だったためか、その1回だけで終わりました。
このような状態のフェティシズム的服装倒錯症者の気持ちを楽にし、かつ周りを傷つけない方法はないものでしょうか ?
お時間のあるときにご意見をお聞かせください。
匿名希望者
(夫に対しては女装にまつわる恨みつらみや悲しみがあり、私自身、そのような感情をうまく昇華したいものだと思っています。)
また、今回の場合はご主人についてそういう事がわかっただけではダメで、これは本質的にはおふたりの「関係」の問題なのです。ですから「匿名希望者」さんの性生活観も知る必要があります。もちろん変な意味でうかがうのではなくて、両者の間のどこにどんな解決すべき対立点があるかがわからないと、具体的に踏み込んだ回答は不可能だからです。
カウンセリングについて学ぼうと思って何か本を読んでも、そこにはあまり具体的なことは書いてありません。それに、精神科や神経科に限らず、医師やカウンセラーには守秘義務がありますから、具体的なことは書こうと思っても書けないんですね。そういう意味では、「診察時の会話が他の患者さんに漏れ聞こえるような病院」というのは最悪です。
人間は誰でも、自分の内面を深く内省してそこに潜んでいるものを自覚することは難しいものです。まして、それを人に聞かれるというのは、並大抵の決意では出来ないのが普通です。それを聞き出したり読み取ったりするのが、精神科医やカウンセラーの腕の見せ所なのですが、他に誰が聞いているか判らないような状況では仕事になるはずがありません。そういう病院は、医師としての心得も、精神科医やカウンセラーとしての最低限の心得もないと考えてもよいだろうと思います。
ご主人の鬱状態は、「女装についての問題を解決しようとしないために」というより、女装癖を治したいけれどもその方法がわからない、ということだと思います。つまり何が悩みかという事は自覚しているけれども、その解決方法の見当がつかない。そういう「行き詰まり感」がひとつ。それから、自分の女装癖が自分でもどうにもならないものだと了解しているにも関わらず、一方ではそれが自分の責任だと、心のどこかで思っている。そういう自責の念はあるけれども、解決方法が判らないわけですね。
私の考えでは、このケースはフェティシズム的服装倒錯症ウンヌンよりも、まずは鬱状態を何とかする方が先だと思います。鬱状態は自殺願望に結びつくことがあるからで、鬱というのは基本的には自責の念から起こりますから、他人を責めるよりも自分を責めてしまう。一般に、「真面目な人が鬱になりやすい」というのもそのためだろうと思います。
私の推測では、おそらくご主人はご自分の女装癖について、それが社会一般の通念から外れていることもご承知だと思いますが、それ以上に具体的に「匿名希望者」さんの恨みつらみや悲しみを感受していて、それがいっそう悩みにつながっているのではないかと思います。
誤解のないように書いておきますが、これは「匿名希望者」さんが悪いという意味では、決してありません。それに私には、この状況で「悪者探し」をすることが解決に結び付くとも思えません。
ただ、「匿名希望者」さんがご自分の恨みつらみや悲しみを有形・無形に表現していて、それをご主人が直観的にでも感じ取っている、そのことが彼の自責の念を維持しているということは、充分に考えられます。ですから、誰が悪いという事は抜きにしても、そういう悪循環はどこかで断ち切る必要があるわけです。それは、どちらの側のアクションによるものでもよいのですが、もし「匿名希望者」さんの側からそうしようと思ったら、ご自分がある程度はご主人の女装について納得できなければなりません。
でも、「匿名希望者」さんに対して単にそういう注文をしても難しいでしょう。ですから、どうしたら「ある程度の」納得ができるか、その条件を考えることが必要になります。ちょっと具体的な状況が判らないので、私の方もあまり具体的に書けないんですけど、例えばご主人の女装について、ご主人が耐えられる程度のルールを作る、とかですね。
「匿名希望者」さんの立場からすれば、こういうご相談をなさろうとしたわけですから、ご主人の女装が基本的には嫌なのだと思います。なぜ嫌なのか、どういう事が嫌なのかを考えてみて、多少は我慢できても「これだけはやってくれるな」という事があろうかと思います。女装の回数とか、女装してもよい状況の限定とか、どういう女装ならよい(我慢できる)とか、ですね。一方、ご主人の側としても「できるだけそうしたいけれども、ここから先は自信が持てない」という事があるだろうと思います。お互いに、相手を責めるのではなしに(もうひとつ、ご主人の場合には、気兼ねして出来ない約束をしたりもしないで)、本心を語り合うことが必要だろうと思うのです。
その上で、「これだけはなんとか守れそうだ」という線で、双方が納得する形でルールを作る。もちろんご主人はそのルールは守る。守るための最大限の努力をする。そのかわり、ルールの範囲内では、「匿名希望者」さんは我慢する。しばらくは、それでやってみるというのも、一つの方法だろうと思います。
この時に大切なことは、このルールは変更可能なものだということです。つまり、お二人の合意で作ったルールですから、どちらか一方が不都合を感じたら、ルールの変更を申し出ることができる。そういう「ルール変更」のためのルールを、一緒に決めておく必要があります。そうしないと、一方がルール変更を申し出たときに「これはあの時にあなたも合意したルールではないか」といって、もう一方がルール変更に応じないという事が起こりかねません。
ルール変更は、具体的にはいろいろ考えられますけど、ご主人の方が実際にやってみたら意外にきつくて、もう少しルールを緩めて欲しいという場合ですね。それから、基本的にはご主人も女装をやめたいと思っているわけですから、自信がついたら制限事項を追加するという形でルール変更があってもいい。必要なことは、これが二人の合意によるルールであり、それは2人の話し合いで変更可能だということ。それから、何のためのルールかという事を忘れないこと、です。
繰り返しますが、これはフェティシズム的服装倒錯症の対策ではなく、鬱状態の対策として述べています。このルールは、ご主人の女装についての、おふたりの意見のすり合わせの結果として存在します。ルールが変更されたとしても、それがその都度のおふたりの意見のすり合わせの結果であることには変わりありません。それによって、ご主人はルールの範囲内である限り、女装をしても現在よりは気が楽になる。
ただ、これでフェティシズム的服装倒錯症の問題そのものがなくなるわけではありません。ですから、ご主人が安心しすぎて、制限付きとはいえ「女装公認」に居座ってしまっては困ります(そうなったらお二人の関係は現在の状態に戻るか、さらに悪化するでしょうから)。ただ、「フェティシズム的服装倒錯症者の気持ちを楽にし、かつ周りを傷つけない方法」の例としては、こういうことも考えられる、という事です。
私自身はどちらの性別でも結婚生活の経験がありませんから、あまり偉そうなことは言えないんですけど、ただ、こういう特殊な(?)問題に限らず、日本の夫婦は「話し合う」という事が上手く出来ないのだと思います(さらにいえば、これは「夫婦」に限らない問題なのかもしれませんが)。だから離婚が増えるだけでなく、形だけ夫婦という「家庭内離婚」という日本独特の問題が起こったりします。
日本では、なんとなく「察する」とか「わかっているはずだ」という方法で人間関係を運ぶことが、いくらでも見られます。ですが、個々人の価値感が多様化してくると、それでは追いつかなくなります。どうしても言葉による意思の疎通がこれまで以上に必要になりますし、すでにそういう状況になっていると思うんですね。だけど、意見が対立したときに話し合ってルールの落としどころを作る、ということの訓練ができていない。これは大半の日本人がそうだろうと思います。でも、例えば夫婦なら夫婦という関係を維持して行くためには、これからでもなんとかその方法を模索して身につけて行かなければならないと思います。
私は先月、たまたま機会があって『家族を「する」家』(藤原智美・プレジデント社)という本を読んだのですが、その中で、夫婦の寝室は家庭のヘッドオフィスであるという箇所が、特に印象に残っています。欧米では、子供は夫婦の寝室へは立ち入り禁止で、大人同士の付き合いで寝室まで見せるというのは非常に親密な関係だということの証なのだそうです。日本だと、親が子供の部屋に入れないという事も多いようですし、日本で夫婦の寝室というと「舞台裏」を見せるような気がしてついつい隠してしまう。だからちょっとこの感覚はわかりにくいと思います。ですが、欧米での夫婦の寝室というのは、いわば会社の社長室・会長室のようなものですね。社長や役員は部下のオフィスに立ち入るけれども、社員は社長室や会長室に自由に出入りすることは出来ません。それから、訪問客でも社長室や会長室に通されるのは、信用され重視されている人物や取引先に限られます。そして会社がいかにあるべきかという事も、重役会議という事もありますが、社長と会長が話し合って決めていたりする。そこでは社員に聞かせないような話も交わされます。
夫婦というのもまったく同じで、たまたま恋愛関係になったからといって、そのことが結婚して夫婦生活が上手く行くことを保証するわけではありません。そのつど、共同して解決すべき問題というのがあって、その解決が上手く行かなければ、夫婦(あるいは家庭)がおかしくなる。子供がいる場合でも、問題解決の話し合いの中には子供に聞かせたくない話もある。これは当然でしょう。
そして近代以降は、夫婦といえども基本的には「個人+個人」です。そして、ただ個人が二人いるだけではなくて(たまたま個人が二人居合わせるのが夫婦なのではなくて)、これは社会の最小単位としての「共同体」です(日本では社会の最小単位を「家庭」と考え勝ちですが、「夫婦」が基本なのです)。だから夫婦という共同体の運営は、ふたりが話し合って行なってゆく。それが原則です。したがって、利害や意見の衝突が起こった時には、そのつど話し合ってルールを作ったり作り変えたりして調停して行くことになるのです。逆にいえば、最近話題のDV(ドメスティック・バイオレンス)のように生命身体の安全に関わるような場合は別にして、それぞれの家庭がどのようにして運営されるかという事は、外側から強制力を持って「こうすべきである」とはいえません。
必要があれば「外側」に対して相談は出来ますが、そういう方法を使っても、最終的には自分たちの合意によって自分たちのルールを作って行く。それすらも不可能なくらいに、二人の意見やその元になる価値観が違いすぎたら、これは離婚もやむをえないでしょう。ですが、まずは夫婦という関係の運営のためのルール作りを試みるという事が先決だと思います。
ただ、さらに具体的なことがわかったら、それに合わせてこの意見も少し変わるかも知れませんが・・・。
