from 会津里花さん (2001年11月17日 18:28)
こんにちは、だいぶご無沙汰していました。
最近、あっちこっちに遊びにでかけてすっかり「野良猫」みたいになってる「じゃっきー」ですけれど、お店は辞めちゃったんですよー(;_;)
でも、その代わり、他の多くの出会いがあって、楽しいです。
鬱になることも多いけど……
ところで、悩みがあります。
私、トランスするまで「女装」ってほとんどしたことがなくて、かろうじて3年くらい前から「下着」だけはせめて、ということにした程度でした。
その後、男ものは一切捨てて全身女ものだけで暮らす、ある意味「フルタイム」になったんですけれど、そうなってから最初の就職先でパンツルックだけで通したら、それ以後もなんだかスカートをはくのが好きになれません。
そりゃ江角マキ子とか身長がおんなじくらいだし、お手本にしようかな、とも思うけど、タイプが違うから……と引いちゃうし、他にこれといってお手本にしたいと思う人もいないし(母は死んじゃったし姉はいい年だし)、ニッセンのカタログ見てもいいのがないし(お水服は少しはそろえたけど、それで昼間っから外出する気にもなれないし)、お友達とお店に買い物に出かけるのもなかなかチャンスがないし気が引けるし(たとえば、せっかく相手はパスしてるのに、私みたいにデカイ女が一緒にいて「あのおっきい人、ホントは男じゃん?!」とか思われたら、悪いじゃーん(;_;) 他のお客さんたちが微妙に「引く」のがわかっちゃったりして)、……
あ! 書いてたら気がついた!
↑の最後の行。「他のお客さんたちが引く」って、どういうお店に行くかですごく反応が違う!
安売りのお店だと、誰も気にしないで一心不乱にお値打ち物を探してるから、○。
でも、20代前半の若い子が行くようなお店に行くと、確実に引かれちゃうから、×。
あっ、なんだー、「純女さんだから」とか「こっちはトランスだから」とか、気にすることないじゃーん。
要は、その場に「相応しい」かどうか、それだけが基準なんですよね。
やだ、自己完結してしまった。
……
最近、ここ2年ほどの間に時代がすっかり良くなってきて、「T's」で差別する場面はとても少なくなってきました、たとえば私が住んでる保守的な地方都市でも。
だから、それでも「差別?」という気がする場面って、なんだかこちらに原因があることが多いような気がします。
私がEON/Wと出会ってからもう3年ぐらいたちましたけれど、龍子さんが「差別」について騒ぎ立てないように戒めているのが、また一つわかったような気がします。
あ、あとね、NHKで「古武術」をやっている人が出てくるのを見て、実際に体を動かしているところを見るチャンスがあったんですよ!
動きが美しかったー♪
龍子さんが書いている文章を「身体感覚」で捉え直すのに、とても良いチャンスになりました。
ではでは〜(^^)/~~~
そーゆーことです(笑)。里花さんのように、これが「深く納得できる形で」見えてくることが大切で、T's の中にそういう人がもっと増えなくちゃいけないんですよね、本当は。
里花さんと実際にお会いしたのは今年の3月なんですけど、モデル張りにバシッと決めてイケちゃうタイプですね。私だと似合わないけど(^^;)、里花さんの身長だとそれが出来てしまう。それはそれで「他のお客さんたちが微妙に『引く』」かも知れないけど(笑)、「引く」意味がぜんぜん違う。私だったら、自分が見劣りするから「引く」でしょうね、きっと(^^;)。
だけど、自分がコンプレックスを持っていると、周りが「なぜ引くのか」の意味を間違えてしまうんです。「自分が T's だから引くんだ。これは差別だ!」ってね。でも、それは周りが差別しているんじゃなくて、自分で自分が T's であるこにとに引け目を持っているからです。そういう気持ち(価値観)が自分の中にあることに気付かないまま、それを周囲の人間に対して投影してしまう。この勘違いは、自分自身の内面を省みない限り解決できません。
100年くらい前の哲学者・社会学者でゲオルグ・ジンメルという人がいるんですけど、彼が『現在と将来における売春についての覚え書き』(ちくま学芸文庫『ジンメル・コレクション』所収)の中で面白い事を書いています。貧しい街娼は差別されるのに、なぜ高級売春婦に対しては世間は(サロンに出入り出来るなど)寛大なのか。
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金持ちは内心の「やましさ」を貧乏人や街娼に投影して差別する。ところが差別される側にも、自分達を劣った者と見るような価値観が内面化されていて、それを他人に投影している。そのために対立関係が生じている。互いが、それぞれ自分の思い込み(投影・錯覚)を真実だと思い込んでしまうと、この対立関係は「対立的な行為」として顕在化します。この表面化した現象だけを捉えて問題視しても、お互いに「相手が悪い」というだけで、水掛け論になってしまうでしょう。従来の反差別運動というのは、こういう方法をとってきたわけですけど、正確に言えばそれは「反差別」ではなくて「差別 vs 逆差別」になってしまっていると思うんですね。
これをゲーム理論になぞらえていうと、双方とも自分たちの関係(対立関係)をゼロ和ゲーム(ゼロサム・ゲーム)として捉えているわけです。つまり、自分たちが得をすれば相手がそのぶん損をし、逆に相手が得をすればそのぶん自分たちが損をするという考え方で、片方の利得ともう一方の損失の和が「ゼロ」になるのでこの名前があります。要するに幸福の奪い合いですね。
だけど人間同士の関係が、常にこんな類型(ゼロ和ゲーム)にしか当てはまらないはずがありません。富も幸福も、必ずしも奪い合うものではなくて、互いが協力し合うことで双方とも、より多くの富や幸福を得る方法があるはずです。
私が考えているのは、「囚人のジレンマ」というタイプのゲームです。プレイヤーは互いに「協調」と「裏切り」という選択肢を持っていて、相手が「協調」を選択したときに「裏切り」を選択すると最高得点が得られます。だけど、それでは相手が次は「協調」を選択してくれなくなるので結局は点数が伸びなくなってしまう。そうすると、目先の欲にとらわれずに双方が「協調を選択するのが、長い目で見ればどちらにとっても得になる。そういう類型のゲームです。
私が「ゼロ和ゲーム」を前提とした糾弾・告発型の運動(対抗主義)に批判的なのは、世間と T'sとの関係を「囚人のジレンマ」のゲームにしたいからです。でも、これはお互いが疑心暗鬼に陥っていると実現しないタイプのゲームです。それを避けるためには当然、私達は「理解」される必要があるわけです。しかもそれは、これまでにない(対抗主義を前提としない)方法で、相手(世間)に届く言葉を必要とします。私がフェミニズム等を参考にせずに、ゼロベースで T's の問題を考えざるを得なかったのも、そのためなのです。
話を戻しますけど、お友達と買い物に出かけるのも楽しいですよ。私も今月一度、お友達(純女)とお台場のヴィーナスフォートまで足を伸ばしまして(私は一人で買い物に出ると、いつも新宿で完結してしまうのです ^^;)、「この毛皮の手触り、サイコー」なんて盛り上がってきました(笑)。彼女もそうらしいんですけど、一人で買い物に行くと、いつも同じようなものばかり買ってしまうんですね(^^;)。でもお友達と一緒だと、それまでの自分の好みとは違ったものでも「似合う」といわれるとその気になったりします(笑)。私も今回、それで少しだけ服装の趣味が変わったかも…(^^;)。
>NHKで「古武術」をやっている人が出てくるのを見て
う〜ん、誰でしょう。うちにはテレビを置いていないので判りませんが、もしかしたら、甲野善紀師でしょうか(直接に師事したことはありませんが、私が強く影響を受けたお一人です)。動きが美しいと思えるのは、その動きに無駄がないからですね。最小の動きで「早く」動く。それが結果として、瞬発力等に頼らずに「速く」動くための方法になります。だからスポーツと違って、歳をとっても衰えないんですね。
何年か前に、初めて日舞を見た時に、全く同じ原理の動きをしているのを見て感銘を受けたことがあります。たくさんの人が舞台に上がったのですが、私が古武術の基準で見て「上手い」と思った人を挙げていったら、「それはみんな名取だ」といわれました。動く原理も評価基準も、全く同じなんですね。
