素晴らしい考察です。


from mori さん (2001年12月11日 20:54)

神名さん、こんばんわ、樹が陣営HP管理人のmoriです。
ここへは時々きてますが、書きこむのは久しぶりです。
最近の「りゅこ倫」
■2001年11月25日■「悪」とは何か
■2001年12月01日■「道徳」とは何か
■2001年12月06日■「欲望」とそれに先立つもの
を拝見し、その考察の充実振りには、驚いています。
その内でも『「道徳」とは何か』は素晴らしい考察であり、以前の「どう解くの系譜」に繋がるものが「ようやくできあがった」と感心しました。
その考察の中で、特に、「我考える、ゆえに我あり」の「我」が存在するはずだというのは確信である。この「私という確信」を「自我」と呼ぶ。」という説明が実に良くわかり、大変参考になりました。ありがとうございます。これからも頑張ってください。
(追伸)小森介さん、お元気ですか。こちらを訪問されたら、上で紹介した『最近の「りゅこ倫」』を、是非見てください。参考になりますよ。以上


「自我確信」について

 mori さん、HPではお久しぶりです。どうもありがとうございます。

 mori さんはご存知の通り、最近掲載した3つの内、『「道徳」とは何か』は今年の3月の考察で、先日まで掲載するのを忘れていたものです。今になってこのコーナーを読み返してみると、以前に mori さんへのお答の中で予告していますね。『「悪」とは何か』も9月の考察ですから、実際には最近の考察は『「欲望」とそれに先立つもの』だけですね(^^;)。

 私は、現象学の以前にほとんど仏教ばかりやっていたためか、「我=自我」の存在を素朴に前提にするというのは、すごく抵抗があるんです(笑)。それで、やはり現象学的に考えても、「(我)考える」が直接の体験で、「ゆえに我あり」はそれに基づく確信、いわば「自我確信」とでもいうべきものだろうと思います。元のラテン語(コギト エルゴ スム)ではまた違うのかもしれませんけど、少なくとも日本語訳の「我考える、ゆえに我あり」に関しては、そう考えざるを得ません。

 ただ、この考えは最近のものではなくて、昨年6月の『「私」という確信 』です。たしか、mori さんが、「フッサール AND 道元」というキーワードで検索して、このHPをご覧いただいたきっかけになった考察ですね。ただ、以前よりもシンプルに表現できたのかも知れません(^^;)。

L.Jin-na


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