りゅこ倫に出会った


from 高橋 宏さん (2001年12月27日 10:13)

はじめまして。小林よしのりの戦争論に関連して「公」と「個」についての意見を検索していたら、龍子さんの「公の根拠としての私」をみつけました。「公と私と文化」「国家とアイデンティティ」も読みました。たいへん興味深く読ませていただきました。正直に言うと感動してしまった。インターネットの砂山の中で砂金をみつけたような気持ちです。興奮のあまりこんなことまで書いてしまっています。僕はインターネットに書き込みをすること自体はじめてなのに!僕も「公」と「個」について考えてみたことを文章にしてみました。E-mailで送らせてもらいたいと思います。ぜひ龍子さんのご意見を聞かせてほしいと思います。でもうまく送れるかな?時間がかかるかもしれません。


「国」を越える「公」

 高橋さん、はじめまして。過分なお褒めをいただいて恐縮しています。どうもありがとうございます。

 高橋さんの考察をメールでお送り頂き、早速拝見しました。まったく異論もなく、考える道筋もしっかりとしたみごとな考察で、お世辞抜きに素晴らしいと思います。私信扱いで送られてきたので、こちらの勝手で公開出来ないことを残念に思います。でも、何点か感想など書かせてくださいね。

 高橋さんはまず「公」(=「共同体」)とは何かという事を考えるところから始めているんですけど、これが何かの辞典から引っ張ってきた言葉というのではなくて、ご自分の実感として「公」の意味本質を取り出しているんですね。これが、現象学風にいうと、きとんとした「『公』の本質直観」になっていることに驚かされます。たぶん、私が考えても同様の結論に至っただろうと思います。小林よしのり氏の『戦争論』に書かれている藤井中尉のエピソードに関する考察も同様です。

 それから小林よしのり氏は、「共同体」の最も大きなレベルは「国」だから「公」=「国」なのだという。そして、「世界」が「公」になり得ない理由として彼は慣習や文化の相違をあげて「公共心」が違うから無理なのだという。それに対して、高橋さんは、「国」の場合よりも難しいけれども「世界」だって「公」になりうる、少なくともその可能性はあるとお考えになる。私は、これも高橋さんに賛成です

 例えば、日本はかつて数百の藩に分かれていたわけですね。そういう時代に「日本」という単位は「公」にはなり得なかったわけです。もし、小林よしのり氏が江戸時代に生まれていたら、彼は「公」=「藩」が限界で、「日本」は「公」になり得ないと考えたかもしれません。だけど少なくとも現在では、仮に「藩」を「都道府県」に置き換えたとしても、そういう「公」の限界付けは誰も認めないでしょう。

 高橋さんの考察では「公」の本質が言い当てられているわけですけど、この本質は「国」あるいは地域や人種などの具体的な制約とは無関係です。「公」=「共同体」の本質である何らかの「絆」があると認められれば、どんな範囲でも「公」たり得るし、逆にそれが認められなければどんなに狭い範囲でも「公」にはなり得ない。それだけのことですね。

 そして、その「絆」というのは、歴史を見る限りでは常に宗教や政治単位(藩や国家)を越え出る性質を持っています。これも江戸時代の日本を例に取ると、江戸時代というのは「藩」という政治単位で分かれていたわけです。だけど少なくとも中期以降には、海運の発達によって国内貿易がかなりの規模で行なわれています。政治的には二百数十の藩に分裂していたけれども、流通・経済の分野では統一が進んでいました。現在では、「日本」を「世界」に、「藩」を「国」に置き換えた規模で、同じような現象が起こっています。

 ヘーゲルはこの経済活動の領域を「市民社会」と呼んで「国家」と対置するのですが(もう一つ「家族」というカテゴリーもあります)、近代初期は一応は「市民社会」が「国家」の枠の中に収まっていました。もちろん当時も貿易はあったのですが、現在ほどには国家間の相互依存性が高くなくて、だからこそブロック経済なんかも可能だったわけです。だから当時は一応は、ヨーロッパのあちこちに「市民社会」があり、それぞれの「市民社会」の上に「国家」があるという形を取っていたと考えることが出来ます。

現在では通常、市民というと「市民権」みたいに政治に参加する人というイメージがありますが、それはヘーゲルでは「国家」に属する話です。彼のいう「市民」はいわゆる「シトワイヤン」ではなく「ブルジョワジー」で、契約などを通じて商業活動をする人、もっと広い意味でいえば経済活動をする人です。要するに、ここでの「市民社会」というのは利益を追求する領域を意味します。そして、そこで起こる利害対立の調整を行なうのが「国家」です。もちろん、同一人物が一面では「シトワイヤン」であり、別の一面では「ブルジョワジー」であり、同時に「家族」の一員でもある、ということもあり得ます。高橋さんの表現をお借りすれば、「ある個人にとって複数のレベルの「共同体」が同時に成立するという状況もあり得る」ということですね。

 だけど、現在ではこの考え方ではやっていけませんね。日本の場合も貿易をやめたら経済が立ち行かなくなります。これはアメリカや西欧諸国も同じですし、アメリカはしばらく前から、東アジア地域との貿易額がヨーロッパ相手の貿易額を追い抜いています。だからアメリカとしても、アメリカ一国で孤立できないことはもちろん、「欧米」という範囲の中だけで経済活動を完結させることも不可能です。この経済的な相互依存性のために、いまや先進国同士の戦争は事実上不可能になっていますね。例えばもし仮に、いま日米が戦争をすると、どちらも経済的に立ち行かなくなるでしょう。

 世界の大半の国は(そして少なくともすべての先進国は)、多国籍企業に象徴されるように、いまや流通・経済の面では国境などないも同然です。だからアメリカが、あるいは西欧諸国がどうなっても日本は関係ないとはいっていられない。彼らがコケたら、日本の経済にも深刻な影響が及ぶことは避けられないからです。日本という「国」からいきなり「世界」は無理でも、少なくとも何カ国かに共通する利害というのは考えざるを得ない時代になっているわけです。そういう意味では既に、「公」の範囲を「国」をもって限界とする、という考え方は成り立たない状況になっています

 経済というのは、ただ儲ければいいというのではなくて、例えばどこか1箇所に富が集中したらそれまでですね。少なくとも資本制の下での流通や経済というのは「活発に流れていること」が大切です。資本制というのは放置しておくと貧富の差が開くのですが、一人勝ちを許すと、結局はその勝者も含めてガタガタになってしまう。だから、完全な平等というのではなくても、あまり貧富の差が開き過ぎないように調整する必要があります。国内的にはそれは「国」の役目ですが、現在ではそれと同時に国家間でも調整の必要があります。その調整が可能になるためには各国が何らかの共通の利害を認識していることが必要で、それは一種の国際的な「公」の意識、あるいはその根拠だといえると思います。

 それから、今年の10月末に発売になった『戦争論2』や、西尾幹二氏の『歴史と科学』(PHP新書)等を読んで思ったことですけれども、個人のアイデンティティの根拠を共同体(国家や民族)に置くというのは、考え方としては逆だと思うのです。「国民国家」は近代以降の産物ですけど、アイデンティティの根拠を共同体(国、民族、宗教等)に置くという考え方それ自体は、近代以前からあるものですね。ですが、そこから考え始めると「どういう国の在り方がよい在り方か」ということを考えられなくなります。どんな国でも「国」は「国」だ、そこにアイデンティティの根拠を置くべきだ、と考えたら、どんな「国」であれ自分の国である以上それを認めるべきだという話になってしまいますね。

 だから、近代哲学では「個人」をスタートとして物事を考えるわけです。そして人間に共通だと考えられる諸性質を取り出す。それでたとえば、人間は自由を求めるものだという共通性を取り出したら、そこから「自由を大切にするような国の在り方が望ましい」と考えることが出来ます。国家主義や民族主義というのは、この考え方が顛倒しているわけです。これは左翼でも同じことで、どういう国が望ましいかという事はどこかで誰か(例えばマルクス)が決めて、それを実現するために社会改革に貢献するのが正しい生き方だ、ということになってしまう。実はどちらも「個」と「公」を別ものと考えていて、「共同体主義」という点では共通しています。どちらの考え方においても、近代哲学が「個人」を思考のスタートに置いた、そのモチーフがまったく理解されていないのです。

 「国」であれ他の何か(規模の大小を問わず)であれ、自分が所属する共同体を愛したり、それをアイデンティティの根拠に置いたりすることを、他からの要請ないし命令で実現しようとすると、必ず抑圧的な社会になります。また、だからといって現代思想のように共同体やアイデンティティといった概念を否定するのも、あまりに短絡的な考え方です。これはいわば、人間が価値観を持つことそのものを否定しているわけで、これもやはり別の意味で人々の実感に沿わない、抑圧的な思想になります。そうではなくて、人々が自発的に共同体を愛するような、共同体が皆にとってよいと思われるような、そういう共同体の在り方とはどのような在り方なのか。その「愛される条件」を考えることが大切で、それは「個人」から出発して考えなければわからないことですね。それが上手く行くと、「公」が「個」の中で育つわけです。

これはついでですが、『歴史と科学』の中で西尾氏は、フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を引用して、現象学が科学を否定する思想であるかのような説明をしています。ですが、これは西尾氏の希望的観測に基づく誤読です。現象学は「科学=真理」のような考えは否定しますが、科学そのものを否定しているわけではありません。むしろ『危機』では、科学が持つ普遍性の根拠もきちんと説明されています。

 私は長年に渡って司馬遼太郎の愛読者なので(笑)「日本」は好きなんですけど、そのことと、日本という「国」だけを「公」と考えろということは、まったく別問題です。「日本」の独自性を必要以上に強調しすぎると、どうしても小林よしのり氏のように「反米」感情につながって行きます。だけど、一方では彼は韓国に対して「反日感情を持ち出さなければ国内がまとめられない」と批判している。韓国の反日感情と、小林氏の反米感情とどこが違うのかしらと思いますけど、私にはどちらも感心できません。

 現実的な条件として、日本もアメリカも、あるいはイギリスもドイツもフランスも、もはや一国だけでは存在し得ないのですから、「国」を越えた「公」が成立しないはずはありませんね。逆にいえば、「国」を越えた「公」が成立しない限り、いずれの国も没落を免れないでしょう。ただ、現在は「公」が「国」を越え出て入るけれども、それはまだ「全世界」にまでは及んでいません。「国」と「世界」の間というところですね。でも、共通の利害という事を考えれば、「公」を現在よりもより広く取り得るような条件を考えて行くことは出来ると思うのです

L.Jin-na


PREVIOUS VISITOR's ROOM VISITOR's ROOM INDEX NEXT
前の書き込み / Visitor's Room 01' / Visitor's Room 02' / インデックスページ / 次の書き込み