哲学にはまりそうです。


from 高橋 宏さん (2001年12月28日 19:45)

「現象学」って何だかわからなかったので、『「どう解く」の系譜』を読みました。うわあ〜これは大作ですね。一生懸命になって読みました。哲学の本は読みかけたことはあるのですが、文章が難しくて気力が続かずまともに読み切っていません。でも西研さんの「ヘーゲル 大人のなり方」だけは確か昔(10年以上前だと思う)読んだ覚えがあります。哲学書らしくないわかりやすさ(僕の偏見でしょうか?)で、おもしろくて、著者に対してかなりの好感を持ったような気がするのですが、肝心の内容をすっかり忘れてしまいました。
哲学に興味はあるんです。『「どう解く」の系譜』で探究心を刺激されてしまいました。早速、図書館に行って「はじめての哲学史」「哲学の味わい方」を借りてきてしまった。(「ヘーゲル 大人のなり方」も、もう一度読もうと思ったのですがみつからなかった。)ああ、どんどん深みにはまってゆくような気がする・・・。もちろん好きではまっていってるんですけど。(^^)
僕は今までに心理学の本なら多少は読んできました。お気に入りはアルフレッド・アドラーです。心理学者というより思想家みたいなところを持っていると思います。本人の書いた本はちょっと読みにくいので、「アドラー心理学入門」(岸見一郎/KKベストセラーズ)、「アドラー心理学トーキングセミナー」(野田俊作/アニマ2001」)がお勧めです。野田俊作さんの講話会(のようなもの)に誘われたことで僕はアドラーの考えを知りました。というより野田さんはアドラーのひ孫弟子(そんな言葉あったっけ?)にあたる人らしいのですが、自身も自分の思想をもっているので僕の知っているのは野田流アドラーなのかも知れません。
最初の講話会で「僕と同じことを考えている人がいる!!!」と思って驚きました。実際には彼の話があまりにも深く腑に落ちたので僕もはじめからそのように考えていたような気がしたに過ぎないのかもしれません。後になって全く同じ考えではないこともわかってくるのですが、そのときは主観的にはそう思ったのです。いずれにしても僕にとっては衝撃的な出会いでした。(いまは距離をおいてしまっているのですが。)これらの本の中に「共同体感覚」という言葉がでてきます。これがキーワードだと思います。

普段の僕はこんなにおしゃべりではないんだけど、なんかちょっと躁状態になってるみたいです。次々に書き込みされて困っていませんか?忙しかったらコメントは書かなくていいですよ。


哲学書がわかりにくい理由

 偏見ではなくて、哲学書というのは普通はわかりにくいものなのです(^^;)。少なくとも私は、そう思っています。その理由の一つは、普通は疑わないような当たり前のことを疑って掘り下げているからですね。それは、それぞれの哲学者なりに疑う理由があってやっていることなんですけど、哲学書を見ると、そのモチーフがわかりやすく書かれていることは滅多にありません。そのために読者は、著者である哲学者と問題意識を共有することが難しいのです。これが第一の理由です。

 2つ目には、特殊な用語が多いことと、また同じ用語でも哲学者によって意味するところのニュアンスが異なっている、ということが挙げられます(これは哲学だけではなく社会科学などでも同じことがいえるようですが)。例えば、これは昨日も書いたことですけれども、「市民社会」という場合、ルソーだったらこれは政治参加の領域を意味します。だけどヘーゲルではこれは経済活動の領域の意味で使われています。そうすると、各哲学者が用語に込めている意味は、前後の文脈から判断するしかありません。場合によっては、それでも判断できずに、その哲学書が書かれた時代背景の知識を必要とする場合もあります。だけど、上に書いたような理由で、本や哲学者のモチーフがわかりにくいので、用語の意味も判断しにくい。逆が、用語がわからないから文脈が読み取れない。哲学書を読もうとする場合、往々にしてそういう悪循環を起こしやすいように思います。

 ですから、いろいろな哲学者を取り上げて片っ端からわかりやすい説明を付している『はじめての哲学史』は、哲学書を読む際の優れた手引きになります。私の経験では、哲学書はあらかじめアウトラインをつかんでおくと、それだけでもいくぶんかは読みやすくなるからです。

 そういう「ややこしさ」があると、いっそ哲学辞典が欲しくなるんですけど、実際に哲学辞典を見るとその説明が抽象的に過ぎて、かえって意味が判らなくなることも珍しくありません(笑)。そのために、哲学というのは傍目には、なにやら敷居の高い世界のような印象を受けてしまいがちです。

 だけど、哲学というのは実は簡単なことで、何か問題が起こったときに、その問題の根本を掘り下げて考えるということです。そのためには、自明と思われていたことも疑い直さなくてはなりません。竹田青嗣氏は、その著書の『自分を知るための哲学入門』(ちくま学芸文庫)の「まえがき」の中で、「哲学とは何か」について次のように述べています(P8)。

  1. ものごとを自分で考える技術である。
  2. 困ったとき、苦しいときに役に立つ
  3. 世界の何であるかを理解する方法ではなく自分が何であるかを了解する技術である。

 それから「哲学の方法」については、やはり次のように簡潔にまとめています(『言語的思考へ 脱構築と現象学』の帯から)。

  1. 物語を禁じ手にし、
  2. 抽象概念を論理的に使用して、
  3. ものごとの普遍洞察=普遍了解のための「原理」を提出する、
    という方法を基本原理とする。それが哲学という言語ゲームの基本ルールである。

 「物語を禁じ手にし」というのは、言い換えればフィクションに依存しないということです。逆の例でわかりやすいのは宗教ですね。宗教というのは神話や伝承といったフィクションを前提に成り立っていて、この前提としての神話や伝承を疑うことを禁じ手にしています。哲学では逆に、前提を疑うことを方法として用い、フィクションを禁じ手にします。それから宗教では、教祖も絶対視されますね。キリスト教も仏教も儒教も、後年になって思想的にはそれぞれ発展を見せますが、キリストや釈迦や孔子を疑うということは禁じ手にされています。だけど哲学ではソクラテスやプラトンやアリストテレスなどに対しても、彼らのいうことがおかしいと思ったら彼らを批判することができます。そういう意味で哲学は、宗教と違って「開かれた言語ゲーム」になっているという特徴があります。

 次の「抽象概念」というのは、要するに時代や文化が違いに関係なく普遍的に見られる概念ということです「一」と「多」とか、「善」と「悪」とか、そういう概念はどんな時代、どんな文化にも存在しますね。逆にいうと「原罪」や「仏性」といった特定の宗教の内部でしか通用しないような概念は使えない(少なくとも前提としては置けない)ということです。そうしないと、時代や文化を越えた「普遍洞察=普遍了解」を確保することも不可能になってしまうからです。

 哲学を学び始めるにあたって私がお勧めするのは、上に挙げた竹田青嗣氏の『自分を知るための哲学入門』です。竹田さんの著作は本によって難易度が異なりますけれども、「それぞれのレベルなりに」とてもわかりやすいという共通点があります。竹田さんは元々は文芸批評から出発した人ですが、哲学書に対しても文芸批評の視点で接しているかのようなところがあります。重箱の隅をほじくるような細かい字句の解釈にとらわれないで、逆に本を丸ごと一冊、あるいは哲学者を丸ごと一人視野に納めてしまう。この本(この哲学者)のモチーフは何か、この本においては(この哲学者にとって)は何が問題だと考えられ、それについてどう考えたのかということの「芯」を捉えて示してくれます。「要するにこういうことだよ」という形で教えてくださるので、とてもわかりやすい。それが竹田さんや、竹田さんと長年一緒にやってきた西研さんの特徴です

 私の場合には、性同一性障害という自分の問題を考えるために哲学を学び始めたのがきっかけで、今から4年ほど前の話になります。性同一性障害というのは、基本的には個人的な性質ですけれども、それが自分と社会とのつながりを阻害するように働いてしまう。そうすると、「個人」と「社会」をどのようにつなげて考えるかということが問題になります。それで、「個」と「公」についても考えざるを得なくなるんですね。

 アドラーについては私は知らないのですが、まだ読んでいない本で(^^;)うちにあるのが、高橋さんもお読みになった『アドラー心理学入門』(岸見一郎・ワニのNEW新書/KKベストセラーズ)です。フロイトやユングに比べると、アドラーに関する本は極端に少ないので、これはやっぱり重なりますね。よい機会ですし、せっかく入手した本ですから、私もできるだけ近い内に読んでみようと思います。

L.Jin-na


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