from 高橋 宏さん (2001年12月28日 19:45)
普段の僕はこんなにおしゃべりではないんだけど、なんかちょっと躁状態になってるみたいです。次々に書き込みされて困っていませんか?忙しかったらコメントは書かなくていいですよ。
2つ目には、特殊な用語が多いことと、また同じ用語でも哲学者によって意味するところのニュアンスが異なっている、ということが挙げられます(これは哲学だけではなく社会科学などでも同じことがいえるようですが)。例えば、これは昨日も書いたことですけれども、「市民社会」という場合、ルソーだったらこれは政治参加の領域を意味します。だけどヘーゲルではこれは経済活動の領域の意味で使われています。そうすると、各哲学者が用語に込めている意味は、前後の文脈から判断するしかありません。場合によっては、それでも判断できずに、その哲学書が書かれた時代背景の知識を必要とする場合もあります。だけど、上に書いたような理由で、本や哲学者のモチーフがわかりにくいので、用語の意味も判断しにくい。逆が、用語がわからないから文脈が読み取れない。哲学書を読もうとする場合、往々にしてそういう悪循環を起こしやすいように思います。
ですから、いろいろな哲学者を取り上げて片っ端からわかりやすい説明を付している『はじめての哲学史』は、哲学書を読む際の優れた手引きになります。私の経験では、哲学書はあらかじめアウトラインをつかんでおくと、それだけでもいくぶんかは読みやすくなるからです。
そういう「ややこしさ」があると、いっそ哲学辞典が欲しくなるんですけど、実際に哲学辞典を見るとその説明が抽象的に過ぎて、かえって意味が判らなくなることも珍しくありません(笑)。そのために、哲学というのは傍目には、なにやら敷居の高い世界のような印象を受けてしまいがちです。
だけど、哲学というのは実は簡単なことで、何か問題が起こったときに、その問題の根本を掘り下げて考えるということです。そのためには、自明と思われていたことも疑い直さなくてはなりません。竹田青嗣氏は、その著書の『自分を知るための哲学入門』(ちくま学芸文庫)の「まえがき」の中で、「哲学とは何か」について次のように述べています(P8)。
それから「哲学の方法」については、やはり次のように簡潔にまとめています(『言語的思考へ 脱構築と現象学』の帯から)。
「物語を禁じ手にし」というのは、言い換えればフィクションに依存しないということです。逆の例でわかりやすいのは宗教ですね。宗教というのは神話や伝承といったフィクションを前提に成り立っていて、この前提としての神話や伝承を疑うことを禁じ手にしています。哲学では逆に、前提を疑うことを方法として用い、フィクションを禁じ手にします。それから宗教では、教祖も絶対視されますね。キリスト教も仏教も儒教も、後年になって思想的にはそれぞれ発展を見せますが、キリストや釈迦や孔子を疑うということは禁じ手にされています。だけど哲学ではソクラテスやプラトンやアリストテレスなどに対しても、彼らのいうことがおかしいと思ったら彼らを批判することができます。そういう意味で哲学は、宗教と違って「開かれた言語ゲーム」になっているという特徴があります。
次の「抽象概念」というのは、要するに時代や文化が違いに関係なく普遍的に見られる概念ということです「一」と「多」とか、「善」と「悪」とか、そういう概念はどんな時代、どんな文化にも存在しますね。逆にいうと「原罪」や「仏性」といった特定の宗教の内部でしか通用しないような概念は使えない(少なくとも前提としては置けない)ということです。そうしないと、時代や文化を越えた「普遍洞察=普遍了解」を確保することも不可能になってしまうからです。
哲学を学び始めるにあたって私がお勧めするのは、上に挙げた竹田青嗣氏の『自分を知るための哲学入門』です。竹田さんの著作は本によって難易度が異なりますけれども、「それぞれのレベルなりに」とてもわかりやすいという共通点があります。竹田さんは元々は文芸批評から出発した人ですが、哲学書に対しても文芸批評の視点で接しているかのようなところがあります。重箱の隅をほじくるような細かい字句の解釈にとらわれないで、逆に本を丸ごと一冊、あるいは哲学者を丸ごと一人視野に納めてしまう。この本(この哲学者)のモチーフは何か、この本においては(この哲学者にとって)は何が問題だと考えられ、それについてどう考えたのかということの「芯」を捉えて示してくれます。「要するにこういうことだよ」という形で教えてくださるので、とてもわかりやすい。それが竹田さんや、竹田さんと長年一緒にやってきた西研さんの特徴です。
私の場合には、性同一性障害という自分の問題を考えるために哲学を学び始めたのがきっかけで、今から4年ほど前の話になります。性同一性障害というのは、基本的には個人的な性質ですけれども、それが自分と社会とのつながりを阻害するように働いてしまう。そうすると、「個人」と「社会」をどのようにつなげて考えるかということが問題になります。それで、「個」と「公」についても考えざるを得なくなるんですね。
アドラーについては私は知らないのですが、まだ読んでいない本で(^^;)うちにあるのが、高橋さんもお読みになった『アドラー心理学入門』(岸見一郎・ワニのNEW新書/KKベストセラーズ)です。フロイトやユングに比べると、アドラーに関する本は極端に少ないので、これはやっぱり重なりますね。よい機会ですし、せっかく入手した本ですから、私もできるだけ近い内に読んでみようと思います。
