from 真樹子さん (2001年05月20日 00:54)
神名龍子様
戸籍上の性別訂正(#52)について拝読させていただきました。いくつかの点について感想を述べさせていただきます。
1.まず、戸籍訂正問題と、いわゆるジェンダーフリーについて
| > | 現在のこの日本の社会には、戸籍上の性別訂正を難しくさせている要因が幾つかあると思います。 |
| > | まずひとつは、様々な言説による「性別の相対化」です。代表例としては、「ジェンダーは恣意的に作られたもので根拠がない」とか、「性別はきれいに男女に分ける事の出来ないグラデーションをなしている」というようなものがそれに当たります。あるいは、行き過ぎたジェンダーフリーの考えもこれに含めてよいでしょう。 |
との点について、私は本来いわゆるジェンダーフリーを支持する立場の者で、神名さんの立たれる立場とは相容れないところもあり、この点については正面からバトらせて頂くべき、とも思ったのですが、よくよく考えてみるとジェンダーフリーの立場を貫くと、戸籍上の性別訂正もしくは変更については、
というのが素直な論理的帰結なわけですね。これは誰が言ったというわけでなく私の創作ですが、戸籍訂正問題がもう少し世間に認知されるようになれば、女性問題などに長年取り組んできたフェミニストの方々から逆にこのような批判が出て来かねないわけです。
ただ、そこで性差というものは絶対的に存在しており、そのことを前提に(いわゆるジェンダーフリーとは関係なく)性別変更を認めるべきとか、あるいはTSの特殊性をことさら強調して、例外的に扱うべきというのも極論に過ぎ、当事者コミュニティはともかく多くの支持を得られないように思います。戸籍上の性別の問題が当事者の社会生活上での性別の問題である以上、既存のジェンダーを巡る議論との関わりは避けられないからです。
もっとも、ここで戸籍訂正の問題をジェンダー(あるいはジェンダーフリー)の問題として扱うべきか否かという議論をするなら、水掛け論になりますのでやめておきますが、ただ一つ言えるのは、どうもジェンダーフリーの立場から戸籍訂正を認めるべき、と説く人の多くは、上記の矛盾を素通りして、ほとんど教条的にジェンダーフリーを唱えているように見受けられることです。言い換えれば、既存のジェンダーフリーに関する諸問題と、自分たちの問題がどのように関わっているのかをよくよく説明しないまま、流行に乗るだけでジェンダーフリーを名乗っているとさえ見受けられるということです。(念のため申し添えておきますが、私はGID研究会には出席していませんので、そこでの発言について言及しているわけではありません)そしてそのことがGIDに関する社会的認知を遅らせ、むしろ性別変更の阻害要因になっているという意味で、私は神名さんと結論を同じくします。
ここで結局問題になるのは、誰のための戸籍訂正か、ということだと思います。一方で、誰のためのジェンダーフリーか、という問題も同次元に関わってくると思います。これは共に、集団としてのTSや性マイノリティ一般のためという訳でなく、ましてやジェンダーフリーの運動家のためではなく、個々の当事者個人がいかに生きやすくするか、憲法の言葉で言えば「個人の尊厳」をいかに保つかということなわけですが、ジェンダーフリーはその手段であって目的ではない以上、ジェンダーフリーを目的とするような運動は結局のところ道を誤るのでないかと思います。
2.手術要件について
| > | ですが、性に関する現在の一般的な通念からすれば、SRSを経ないうちに戸籍上の性別表記の訂正をするということには、残念ながらまだまだ強い抵抗があるでしょう。 |
| > | ありていにいえば現在では、そこまでのコンセンサスが得られるという事は考えにくい。「あらゆる問題を解決しなければならない」と考えることと、「すぐにもあらゆる問題を解決できる」と考えることとは別です。 |
という点について、前記の「当事者」が誰か、という問題と関係してくるわけですが、さしあたり戸籍「訂正」は、GIDを持つ者(本人がSRSを望むか否かは別として、俗にTSと自認する人)の問題であり、SRSの有無は戸籍訂正の要件の問題、ということを前提にさせていただきます。
この点、神名さんをはじめ、SRS要件派の人の多くは、その弊害があることは認めるが、社会通念がまだまだ「ちんちんのついた女性」(MTFの場合)を容認するところまで至っていない、ということだろうと思います。
しかし、社会通念がどうこうと言うなら、性別変更が認められないのは、東京高判なんかで染色体云々という話が出てくるように、外性器が変わったところで、法的性別を変更することそのものに社会が理解を示していない(と、少なくとも裁判所は判断している)からでないでしょうか。言い換えれば、外性器がちょっと変わったところで、「あんたは元男なんだから、法律上の性別まではちょっとね」(MTFの場合)ということだと思います。
そもそも、ドイツをはじめSRSを要件としている欧米諸国は、ファロセントリズム(男根崇拝)が強い国々であり、であるからこそこのような要件を加えることが社会的合意として要件とされたのであると思われます。
この点、日本については、男根崇拝がないなどとは言いませんが、欧米とは状況がことなりますし、またSRSの有無はともかくとして、GIDがGIDとして社会に認知されつつある中、戸籍訂正の問題のうちSRS要件をことさら取り上げる方が、かえって議論を不必要に紛糾させているように思います。言い換えれば、SRSを要件とすることにより戸籍訂正に向けた社会的合意を目指すより、GIDを認知させることにより社会的合意を目指す方が、当事者の運動の不要な分裂が起こり結果的に立法が遅れることや、またSRSを要件とすることから発生するさまざまな弊害と比べれば、はるかに社会的コストが低いのではないかということです。
一部の論者には、完全自己申告という人もいますが、私も含めSRS非要件派の人も大多数はGIDの診断は要件づけているわけで、決して現実無視の理想論を唱えているわけではありません。
この点はおそらく水掛け論になりかねませんが、大島教授も原則はSRS要件としつつも、例外を認める方向で改説されているようですし、医療の専門家の間ではSRSにこだわる人はほとんどいないのではないかと思います。
1.戸籍訂正問題と、いわゆるジェンダーフリーについて
まず誤解のないようにお断りしておきますと、私はジェンダーフリーそのものを否定しているわけではありません。真樹子さんが引用された私の表現の中にも「行き過ぎたジェンダーフリー」とあるように、あらゆる分野に無制限にジェンダーフリーを唱えることを否定しているわけです。例えば、参政権や就職の問題などでは、男女に間に差があるのはおかしい。もちろん職業の場合には、具体的な職種によっては性別を問われる場合もあるわけですが、基本的には男女の差を言いたてるのはおかしいと、これはおそらくほとんどの人が、そう考えるだろうと思うんですね。
しかし、あらゆる場面で性別や性差を否定するのは行き過ぎだというのが、私の考えです。なぜかというと、性差の否定を主張する種類のフェミニズムでは「性差=性差別」を前提にしているために(これは特にラジカル・フェミニズムに顕著ですが)、「性差別の解消=性差の解消」という結論が出てくるからです。しかし、これは「差別とは何か」を考えていない見解です。差別は差異を利用して行なわれるけれども、差異そのものは差別の本質ではありません。逆に、男女の関係でいえば性差が両者の幸福の源泉になっている場合もあるわけですね。GID の当事者も、自分が男(女)であると認識しているにもかかわらず、「男(女)としての可能性」を閉ざされている事に問題があるわけです。
ですが、「行き過ぎたジェンダーフリー」の論理的帰結としては、真樹子さんの表現をお借りすれば、
という事になってしまう。つまり、あらゆる男女差を否定してしまう事は、戸籍の問題だけではなく、性同一性障害そのものの否定になってしまうわけです。それだけでなく、この考え方を敷衍してあらゆる差別を考える場合、あらゆる差異の否定、多様性の否定になってしまいます。そのため、本来の動機としては自由や平等を求めるための思想であったはずのものが、あらゆる価値秩序を否定する、抑圧的な思想に転落してしまうということが起こります。
真樹子さんがおっしゃる「ほとんど教条的にジェンダーフリーを唱えている」というのは、ここでいう「行き過ぎたジェンダーフリー」とおそらく実質的には同義だと思います。
| > | 既存のジェンダーフリーに関する諸問題と、自分たちの問題がどのように関わっているのかをよくよく説明しないまま、流行に乗るだけでジェンダーフリーを名乗っている |
というのは、本当にそのとおりだと思いますね。「説明しない」というより、理解できていないままに受け売りでものをいっているという感じで、こういうものは既に思想としての力を失っているとさえ思います。ところが、そういう主張をする人達に限って、一方で「差異の否定」をしながら、もう一方で「多様性」ということをいう。これは現代思想にありがちな矛盾の一つだと思うんですけど、「ジェンダーフリー」にしろ、他の理論(例えばクィア理論)などにしろ、そういった矛盾も「込み」で取りこんでしまっているわけです。そして、これもやはり「矛盾を素通りして」済ましている。こういう根本的な原理をきちんと突き詰めて考えて提示できなければ、最終的には行き詰まる事になるでしょう。
私の考えでは、この答えは簡単で、近代以降の人間というのは、「社会的役割」と個人的な「人格」とが分離しているのが特徴です。そして、「ジェンダーフリー」ができる限り推し進められるべきなのは、「社会的役割」においてなんです。それは、実はいまさら「ジェンダーフリー」を唱えるまでもなく、近代市民社会の原理の内に、あらかじめ含められている。逆にいえば、ジェンダーフリーというのは、近代市民原理の延長上に必当然的に現れた考えです。それを推し進めつつ、暴走させないためには、きちんと原理を取り出して、ジェンダーフリーを無原則な思想として流通させないという作業が必要なのではないでしょうか。
ところで、
| > | ただ、そこで性差というものは絶対的に存在しており、そのことを前提に(いわゆるジェンダーフリーとは関係なく)性別変更を認めるべきとか、あるいはTSの特殊性をことさら強調して、例外的に扱うべきというのも極論に過ぎ、当事者コミュニティはともかく多くの支持を得られないように思います。 |
ここがちょっと気になったんですけど、性差が「絶対的に存在」しているという、この「絶対的」の意味ですね。例えばこれが、いわゆる本質主義のように、ジェンダーレベルでの性差がセックスレベルの性差に一元的に還元出来るという意味でしたら、それはまったくおっしゃる通りだと思います。そして、そういう主張は「既に」市民権を失っているのではないかと思うんですね。
一方、「社会構築主義」のように、ジェンダーを完全にセックスと切り離し得ると考えるのも極論に過ぎて、やはり説得力を持たないと思います。なぜかというと、これは哲学の世界では既に古典になってしまった「身心二元論」のバリエーションなんです。両者が全く別原理だとすると、それでは現実に「男女のジェンダー」が、それぞれ「男女のセックス」と対応関係にあるのはなぜかという問いが出てきます。どんな種類のフェミニズムであれ、この問いにはまともに答えられないはずです。現在のフェミニズムが近代以前を、つまりジェンダーの歴史をまともに扱っていないのも、ここに理由があります。内容は違っても、どんな時代、どんな文化にもジェンダーが存在しているということ、それ自体は普遍的ですから、この問いに答えると「ジェンダーの必然性」を証明する事になってしまうからです。これは、フェミニズムが抱え続けている難問(アポリア)なんですね。
現実的に考えるならば、男女にはやはりセックスレベルの性差が存在しており(この事は誰も否定しないだろうと思いますが)、それに起因する傾向の違いを持つという事が一つ。次に、それが自然環境や文化・文明の発達という制約の中で、それぞれにジェンダーを形成してゆく。これがジェンダーがいかなる時代・文化にも普遍的に存在し、なおかつ異なる内容を持つことの合理的な理由でしょう。あらかじめ、性差の否定を「目的」とするなら別ですが、素直に考えたらこれくらいの説明が最も妥当だろうと思うんですね。
ただ、ひとつ気を付けなければならないのは、これはあくまでも男女の「一般論」としての傾向を説明するものであって、あらゆる男女に該当するわけではないということです。言いかえれば、「一般論と個別論を混同してはならない」ということです。例えば身長を例にすると、「男は女よりも背が高い」というのは一般論としては成立しますが、個別論としてはどんな男女の組み合わせでも「男は女よりも背が高い」が成立するわけではありません。両者はそもそも話の前提が違っているわけで、どちらが誤りだという問題ではありません。
しかし、性別二元制を絶対的なものといいたい人は、一般論をもってあらゆる個別の男女に押し付けるでしょうし、逆に性別二元制を否定したい人達は、個別論に見られる例外をもって一般論そのものを否定しようとします。ですが、これは一般論と個別論の混同という点では、おなじ誤りを犯しているわけです。性差の存在を認める事と、「妥当な範囲でのジェンダーフリー」とは、決して相反する問題ではありません(「行き過ぎたジェンダーフリー」においては、個別論から一般論への越境が行われますが、これは話の前提を摩り替える「詭弁」に他なりません)。
「TSの特殊性をことさら強調して、例外的に扱うべき」という主張も私の採るところではなくて、私の考えでは、TS が抱える苦痛は、むしろあらゆる人間が持つ「常に可能性に向って自分を投げ入れる」という構造に根ざしています。この同じ構造を持っていながら、性自認の性としての「男(女)としての可能性」を閉ざされているために、常に絶望せざるを得ないような存在の仕方をしていること。それが GID の問題の本質(核)です。この苦痛の解消とは、他の人達と同じように「可能性をめがける」ことが出来るようにするための作業です。もちろんそれは、「可能性の実現を保証する」こととは別で、あくまでも人並みに「自分の可能性に挑戦出来る」ことを保証すると言うに過ぎません。
| > | この点はおそらく水掛け論になりかねませんが、大島教授も原則はSRS要件としつつも、例外を認める方向で改説されているようですし、医療の専門家の間ではSRSにこだわる人はほとんどいないのではないかと思います。 |
医療の専門家はどうか判りませんが、大島教授(神戸学院大学・法学)のお考えは、私の理解では、「戸籍訂正」はポストオペに限られていたと思います。SRS を受けていない場合には、パスポートなどの表記だけ変えるというものではなかったでしょうか。
| > | 外性器がちょっと変わったところで、「あんたは元男なんだから、法律上の性別まではちょっとね」(MTFの場合)ということだと思います。 |
確かに、(残念ながら)現在の司法の判断はおっしゃる通りだと思います。しかし、だからこそプレオペの戸籍訂正が認められることは、なおさらに難しいだろうというのが、私の判断です。理由は簡単で、例えば公衆浴場のような場合ですね。女湯の脱衣場に男性器のついた人が入ってきたら、混乱するなと言う方が無理だと思うからです。それは「ファロセントリズム(男根崇拝)」の強弱の問題ではなくて、ごく普通の常識に照らして、そう判断できる。
私が戸籍訂正の要件として SRS にこだわるのは、医学的に染色体が問題となるとかそういうのは別にして、「日常生活上のあらゆる場面」でフルタイムに女性(MTF の場合)として振るまい、それで無用の混乱を引き起こさないことを条件として考えているからです。なぜかというと、戸籍に記載された性別はその人の「法律上の性別」ですから、上記のような混乱を引き起こしても法律上は制限できないという事が起こるわけです。その可能性が否定できない以上、プレオペの戸籍訂正が認められるとは考えにくいわけです。
ですから大島教授の案のように、使用する場面の限られたパスポートなどの性別表記の変更は、プレオペであってもかまわない。これは社会通念と TS の実存的要求との、それなりの合理性を考えられた「すり合わせ」だと思います。
それから、社会通念というのは時と共に変化する(より正確には、変化しうる)ものですから、私の意見はあくまで「現状において」という条件付きの案です。
| > | 戸籍訂正の問題のうちSRS要件をことさら取り上げる方が、かえって議論を不必要に紛糾させている |
のは確かですが、この場合に「紛糾」しているのは誰かというと、社会ではなく当事者でしょう。つまりこれは、社会的コストの問題ではなく、当事者内部の問題です。私の考えでは、「認められやすい人から認められてゆく」ことで、まずは少しでもはやく救われる人が出てくる事が必要で、みんな(それがGIDの診断という緩い条件付きであっても)が横並びに一斉に戸籍訂正を認められるべきだという見方に、既に現実味を感じられないのです。そして、認められやすい人から認められてゆく」ことで「実績」を築いてゆき、戸籍訂正の枠組みを順次広げてゆく。何故こういう考え方をするかというと、社会通念の変化というのは、たいていは「なれ」の問題だからです。だから、時間をかけて段階的に枠組みを広げてゆくことに現実味を感じる。
ただ、稀に例外はあるわけで、それは何かというと、人々を納得させるようなパラダイム変換が起こった場合です。昭和20年の終戦なんかは、その極端な例だろうと思います。ですから、「GIDを認知させることにより(SRSを要件とせずに戸籍訂正を可能とすることの)社会的合意を目指す」ための、充分に説得力のある具体的な方法が示せるのでしたら、私も反対はしません。私に限らず、この場合には反対する当事者は一人もいないのではないかとさえ思います。
ただ、これまでに私が考えてきた限りでは、そういう方法はちょっと見当たらないんですね。残念がら、他の方からも出ていない。だから、GID研究会でも、そういう意見に対して当事者からも批判の声が挙がるわけで、この場合、当事者を説得できない意見が社会的に通用するとは思えないのです。具体的な方法がない以上、それは思想として成立ませんから、それが「SRSを要件とせずに戸籍訂正を可能とする」という案を、私が採らない理由です。
そうは言っても、現在の司法の判断が、真樹子さんと私と、どちらの方針も受け入れていないという点では同じですね。
ただ、私の場合には、戸籍や法律が人間の社会生活のために存在する以上、その判断は「医学(自然科学)」における「存在(ザイン)」ではなく、実存的な「意味」を根拠に置くべきだということと、法律の存在理由に照らして、それは社会的な混乱を避け得るものでなければならないという2点が基本方針になっています。言いかえれば、最低限「非当事者の不利益にならないこと」と、出来る事なら「非当事者・当事者の共通の不利益を避けること」。そこに、説得の契機を置いています。つまり、目が世間の方を向いているわけですけど、真樹子さんのご意見は、私の印象では当事者内部の事情の方に目が向いているように思えます(そこで見えているものはおっしゃる通りだと思うのですが)。
おそらくそれが、お互いの意見が分かれる原因になっているのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
