可能性の解釈


from ひろかさん (2001年05月20日 09:43)

 龍子さん,別に新緑の季節だからということもありませんけど,またむくむくとネットで稚拙な文章をあげるようになってしまいました。
 そして,龍子さんの応接間(Vistors' Room)でのゲストとの対談に割り込むようで申し訳ありませんけど,お許しください。
 話題は真樹子さんの「戸籍訂正について」です。

 真樹子さんの

戸籍上の性別の問題が当事者の社会生活上での性別の問題である以上、既存のジェンダーを巡る議論との関わりは避けられないからです。

のご意見ですけど,わたしの乏しい経験から考えて,たぶん当たっていないと思われるのです。
 たしかに「社会生活上の性別の問題」ではあると思います。
 ですけど,社会『生活上』で必要不可欠に性別を問われる事項とは実は結婚,というより出産・子づくりに関わること,およびたとえば「男性が子宮ガン,エストロゲン不足から起こる更年期障害などは発症しない」ため婦人病の名目での健康保険適用はあり得ない,また生存率についての性差がある以上,リスクの公平負担にもとづく生命保険料に多寡がある,などに限られていると思います(一応,犯罪などによる収監などは除きます)。

 なにより忘れてもらいたくないのは,戸籍の続柄記載の書き換えを求める人物の社会『生活上』の形態は,MtFの場合女性のそれとして認知されている,という前提が暗黙のうちにあります(これは SRSを要件にしようとしまいと同意していただけると思います)。
 ではその「認知」とは何でしょうか?
 わたしに言わせれば,逆に昨今かなりの場面で,ジェンダーフリーは達成されています。
 地域にもよりますけど,男性であっても化粧はもとより,仮にスカートをはいて街を闊歩しようとファッションとみなされる場合もあります。ただし,通常は彼らは性別自覚も男性でしょうし,周囲の認知も男性でしょう。
 まして,性差に基づく特殊要件を必要とする場合や,サービスの受給者が一方の性別を強く望む場合を除いて職業選択〜就業では"公式には"ジェンダーレスになって(規定されて)いるのです。
 ところが,たとえば GID者が戸籍の謄抄本や住民票を請求したり,免許を受けたり更新したりといった行政に出向きそれらのサービスの提供を受けに行ったその時点まで,窓口の人に MtFの場合女と認知,相手にしてみれば誤認,までされながら書類が出てきて「あれっ?」ってことになる(免許証面に強いて性別記載はありませんけど申請書には性別欄がある)。
 つまりそこまでの『認知』がありながら,そうなったとき,いわば性別記載を最も求める行政の立場ではどんなにがんばったって,自他(担当官と当人)ともに男性と扱わざるを得なくなってしまう。
 戸籍上の続柄記載を書き換える,何よりもの理由はそういったいわゆる混乱の回避,そして,もし申し述べることが許されるなら,当人の自尊心の公的な(?)保護だとわたしは思うのです。

 さて,そこに,左程重要ではない SRS要件が浮き彫りになります。それが真樹子さんのだされたれいでもあるのです。
 やはり申し立てにまで至る当事者の場合,その属す性別集団,つまりコミュニティを持っています。カミングアウトしてある場合も含めて,女と認知されている場合,その「女集団から」,すなわち男社会からではなく!,「同じことができる」ことの要請が出ます。一例は「いっしょにお風呂に入ろ(^o^)丿」みたいな例です。
 カミングアウトがある場合は,受け入れられている集団にも心の準備みたいなものはあるでしょう。でも,たとえば公衆浴場,温泉などそれ以外の集団の一部としてそのコミュニティがあって,当事者個人があるとき,SRSなしの人物がそういった場に混在することは,たぶんジェンダーフリーがもっと進もうとも,そういったパラダイムの変化は起こりづらいことだと思います。
 これは,仮に男性コミュニティの中でも同じではないでしょうか?
 というより,実のところは男性の方がその意識は強いとわたしは実感してますけど。
 たとえばプレオペ,胸あり MtFが男湯に入ってきたら(当人にはかなりの覚悟),当人以上に困惑していると思います。
 周囲に「(認知上の)同性と同じことができるはず」と思われていることができない,つまり,これが神名さんの言われる「可能性」の縮小だと思います。

 でも,

神名さんをはじめ、SRS要件派の人の多くは、その弊害があることは認めるが、社会通念がまだまだ「ちんちんのついた女性」(MTFの場合)を容認するところまで至っていない、ということだろうと思います。

とはこととは,わたしは上で異にしています。

性別変更が認められないのは、東京高判なんかで染色体云々という話が出てくるように、外性器が変わったところで、法的性別を変更することそのものに社会が理解を示していない(と、少なくとも裁判所は判断している)からでないでしょうか。言い換えれば、外性器がちょっと変わったところで、「あんたは元男なんだから、法律上の性別まではちょっとね」(MTFの場合)ということだと思います。

「その染色体云々を,一般にだれが確認したというのですか!?」という言い方もあるかもしれませんけど,それもちがいます。
 SRSを要件とすること,それは当人の意思の固さ,主張の一貫性を客観的にみることのできる事実とは結局のところ,手術くらいしかないのです。
 と同時に「生物上の生れの性別を秘匿する」目的でもありません(「知られたくない」というのはそういった文化の中にいるからだと思います)。
 もっとも性別にこだわる行政の場で「変り得ない」と信じられているがゆえに,人物特定の一要素になっている性別が,いついかなるとき,不意打ちを受けてもその性別でいてほしいはずです。もっとありていに言えば「元に戻りたがってほしくない」わけです。さらに言えば「変えたがってほしくない」のです。
 最後のは当人が受け入れられない。でも,「戻りたがらない」のは当人も心情的にそう思っているでしょうし,そこなら「望むところでもある(人が多い)」わけではありませんか?
 そこに「社会通念」のスパイスを効かせるなら,一般(下世話な場合は除いて)に「手術した」と聞くと「私にはできないこと」という反応が来ると思います。
 それはファロセンタリズムを持ち出すまでもないことです。また,女性でもそういう(手術までしちゃったの!みたいな)反応をします。そして,それは金銭的に「できない」でもありません。
 したいと思ってもできないこと,人には必ずあります。
 たとえば,転職・離婚など。そして,そのひとつが性転換でしょう。
 これは生命的な負担という意味ではなく,性器を再構築してまで異性に属すことへの危惧,これはよほど幼年からそういう生活にある人であってもその性別であったから得られたこと,得られなかったことで±の相殺を試みて「まっ,いっかぁ」としている場合が多い。だから,「一線は越えない」と行動もまた相殺決算をするのではないかと思います。
 そんな中で,社会参加以上の性転換を決行したというのは

TSの特殊性をことさら強調して、例外的に扱うべき

というのではなく,GID者をも受け入れる側の要請のひとつなのではないかと思うのです。
 つまるところ,SRS要件を含めるべきというのも,社会通念の先読みみたいなものだと思うのですがいかがでしょうか?


法律と社会通念について

 う〜ん、どうでしょうか。確かに、浩加さんが指摘されているような事はあると思うのですが、しかしだからといって、「戸籍上の性別の問題が当事者の社会生活上での性別の問題である以上、既存のジェンダーを巡る議論との関わりは避けられない」ということが、「当たっていない」というのは、私はちょっと言い過ぎではないかと思うんですね。

地域にもよりますけど,男性であっても化粧はもとより,仮にスカートをはいて街を闊歩しようとファッションとみなされる場合もあります。ただし,通常は彼らは性別自覚も男性でしょうし,周囲の認知も男性でしょう。

というような場合は、これは性同一性障害の問題ではありませんから別問題だと思います。それで、MTF の場合でいうと、フルタイムの TGTS が化粧をし、スカートをはいて街を闊歩していて、それが認められるのは、別にジェンダーフリーが実現しているからというわけではないでしょう。女性が女性として当然の姿で歩いていると思われているだけですし、また当人もそう思われたい、ということだろうと思うんですね。

 私が、戸籍訂正を含めた様々な T's の問題について、「既存のジェンダーを巡る議論との関わりは避けられない」と思うのは、それがごく日常的な生活場面の問題につながっているからなんです。公衆浴場の例は、私が SRS を戸籍訂正の要件と考える理由の、判りやすい例として出したものですけど、本当はもっと些細なことまで、いろいろな可能性が閉ざされているということがあるはずなんですね。それは普段は意識しないような、日常の生活面での様々な事柄について、かなりの割合でジェンダーが関係しているという事実とつながっています。

 以前から述べている通り、私はジェンダーレベルのあらゆる性差を否定しようという考えには反対ですし、そうである限り、普通の人達(=非当事者)と同じように、性自認と他者から認識される性別とが一致している事が望ましいわけです。これが、私が前回書いた、人並みに「可能性をめがける」ことが出来るようにするということの意味です。

ということは、原理的には「身体の性別にあわせて性自認を変える」という解決策もありえるわけですが、そのための確実な方法は今のところありません。また、もしそういう方法があるとしても、これは人格改造になってしまいますから、SRS 以上に倫理的な問題になってしまいます。そうすると、性自認に外見(TG の場合)や身体(TS の場合)をあわせるという方法を取らざるを得ないわけですね。

 そういう意味で、そもそも SRS の是非や戸籍訂正の是非について考える場合に、「既存のジェンダーを巡る議論との関わりは避けられない」ということは、これは必然的だと思うんです。そして、この場合に従来のような、性差否定のジェンダー論をフェミニズムあたりから借りてきて展開すると、それは論理的帰結として、かえって性同一性障害の当事者にとっては自己否定になってしまう。性同一性障害の当事者が、性差にこだわっていないというのは矛盾以外のなにものでもないからです。これは逆にいえば、性差否定とは異なる(むしろ対抗し得る)ジェンダー論が必要だということです。そして、それは当事者の実感の中から必ず取り出す事が出来るはずなのです。

 そして、それは性差否定論者を除けば、非当事者と当事者が共有している感覚であるはずです。その根拠はすごく簡単で、性差否定論者が何といおうと私達は(非当事者も当事者も)、「あの人は男(女)だ」という認識を持つことが出来るし、またその認識が非当事者と当事者の間で食い違う事ことも、まず「ない」といえる。そういう事実があるからです。

 以上の理由で私は、性同一性障害の当事者は、非当事者と共有している「性別感覚」をベースとして、性差否定論よりもずっと説得力のあるジェンダー論を持ち得るはずだと、確信しています。


 以上は、ひろかさんと私との間で意見が分かれる部分について述べたわけですけど、でも、結論としてはそれほど違いはなくて、「SRS要件を含めるべきというのも,社会通念の先読みみたいなもの」というのは、全くその通りですね。

 近年は「弱者救済」のような考え方が強いので、つい「『弱者』の立場に立って」という言い方が力を持ってしまいやすいんですけど、しかし『弱者』といえども、決して「特権階級」ではないはずです。やはり法律(近代法)というのは、どこか全体のことを考える面を持つものだと思います。これは別に「全体主義」という意味ではなくて、法律というのは利害の調整のためにあるのですから、どちらか一方だけの事しか考えないような立法とか司法判断というのは、かえって不当なわけです(社会の成員が皆、市民として平等であるという基本原則から外れてしまいますから)。私が、『弱者』は(もちろん「強者」も)「特権階級」ではないというのは、そういう意味です。

 そうすると、立法に期待するのであれ、司法判断に対してであれ、法律について考える場合、私達は「社会通念」というものをあらかじめ繰り込んで考えなければならない。世の中には様々なマイノリティや、その他いろいろな立場が存在するわけで、それぞれが自分たちの都合のよい法律ばかり要求していたら、世の中というものは成り立たないからです。

L.Jin-na


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