戸籍訂正について(2)


from 真樹子さん (2001年05月24日 01:25)

真樹子です
大変ご丁寧なレスありがとうございます。

1.ジェンダーフリーについて

 ジェンダーフリーがらみのところでは、全く反対の立場からトンネルを掘り進んでいたところ、それが貫通したような感動を感じました。
 私も、その人が持っている個性を否定するような形でのジェンダーフリーというのは誤った考えであり、だからこそ前回にも「ジェンダーフリーは個人の尊厳のための手段であっても目的であってはならない」と書いたわけです。
 もっとも、個性としての性差が尊重されるべき領域と、性差による差別をなくすべき領域の境界というのは実はことのほかあいまいで、戸籍訂正の問題もまさに、この境界設定の問題として捉えられるのでないかと思います。すなわち、「私」と「公」の境界設定の問題としての、「プライバシー」の問題としてです。この点、神名さんが

 私の考えでは、この答えは簡単で、近代以降の人間というのは、「社会的役割」と個人的な「人格」とが分離しているのが特徴です。そして、「ジェンダーフリー」ができる限り推し進められるべきなのは、「社会的役割」においてなんです。それは、実はいまさら「ジェンダーフリー」を唱えるまでもなく、近代市民社会の原理の内に、あらかじめ含められている。逆にいえば、ジェンダーフリーというのは、近代市民原理の延長上に必当然的に現れた考えです。それを推し進めつつ、暴走させないためには、きちんと原理を取り出して、ジェンダーフリーを無原則な思想として流通させないという作業が必要なのではないでしょうか。

と書かれているのは、基本的には妥当すると思います。
 すなわち、「公」=「市民社会」においては、可能な限りの平等が推し進められるべき、というのが近代市民革命以後の法の基本原理であったわけですが、これに対し例えばある人がそのライフスタイルにおいて、男性的な生き方をするか女性的な生き方をするかというのは「私」の領域に属する、といえます。
 そして、この「私」の領域においては、私もジェンダーフリーを強制することはできないのではないかと思います。なぜならば、この領域でのジェンダー(いわゆる性自認や、性役割でも私生活上のものが含まれる)については、個々人の生物学的、環境的その他諸条件により形成されると考えられ(ここで私も、神名さんとは程度は若干異なるかも知れませんが、いわゆる社会構築主義と本質主義の折衷的立場に立ちます)、その諸条件を前提に各人が自己の行動につき意思決定する自由を保障することが、その人に快楽を与え、その人の個人の尊厳を保つことと考えられるからです。(もちろん、ジェンダーフリー的な私生活のスタイルの選択を否定するものではありません)
 そして、この私生活におけるライフスタイル等の選択につき干渉されない権利が、広義のプライパシー権(いわゆる自己決定権)であり、一方、この私的領域に関する情報をコントロールする権利が狭義のプライバシー権といわれるものです。
 このことを前提に戸籍の問題を考えてみますと、これはまさに「公」の領域と「私」の領域を結ぶ紙なわけですね。
 すなわち、戸籍簿及びそこから派生する公的書類は、その人が男性ジェンダーに属する人か女性ジェンダーに属する人かを、市民社会に向かって公示する表象なわけですが、この表象と実在としてのその人の属性が一致していない場合、どのような要件のもとで書き換えを認めるか、というのがそもそもの戸籍訂正の問題なわけです。私が戸籍訂正の問題を一次的にジェンダーフリーの問題でなく、狭義のプライバシーの問題として捉えるのはそのためです。
 ただ、ここまでならそれほど大きな問題ではないのですが、広義のプライバシー権(自己決定権)を問題にする時、やはりジェンダーフリーということを考えざるを得ないのでないかと思います。すなわち、戸籍簿をはじめとする公的書類は私事を公の領域に公示する表象であると同時に、公の領域にあって私の領域を規律する存在であり、例えばMTFの場合、その人が男性であると公示されることにより、その人の市民社会的生活だけでなく私的生活においても「男性」であることを強制される、ということがしばしば起こりうるわけです。これは何も難しいことを言っているのでなく、トイレとか公衆浴場とかそういうところを見ても明らかです。そして、私の領域におけるライフスタイルの選択の自由を十分に保障するには、究極的には戸籍を含む公的書類のジェンダーフリー化を進め、性別の記載は廃止すべき、というのが私の持論です。
 もっとも、現在の性別二元的に構築されている法制度などの社会的インフラのすべてを改築することは非現実的な話なわけで、そのインフラの中でGID当事者が少しでも生きやすくするための現実的な技術として、戸籍の「訂正」という議論が出てきているのだと理解しています。すなわち、戸籍訂正とジェンダーフリーの関係は、戸籍訂正は本来はジェンダーフリーとは矛盾するが、緊急避難的措置として認められるべきであり、また戸籍訂正は公的書類の性別にジェンダーフリーを適用することそのものではないが、そのことを考える端緒にはなりうる、という考えです。

2.SRS要件について

 念のために言っておきますが、私もSRS要件付きであっても、立法による解決の可能性があるなら、これに反対の立場をとる者ではありません。誰も救われないよりも、たとえ国内の「正規の」SRSを受けた人だけであっても救われるなら、その方がましであるからです。
 ただ、そういう妥協をすることにより数々の弊害が起こりうることが容易に予見できるにもかかわらずそれを考慮することなしに立法を行い、法案成立後にさらに改正のための労力を費やす結果になるのなら、現段階で問題点を洗い出す方がコストが安くつく、という考えです。

まず細かいところですが、

大島教授(神戸学院大学・法学)のお考えは、私の理解では、「戸籍訂正」はポストオペに限られていたと思います。SRS を受けていない場合には、パスポートなどの表記だけ変えるというものではなかったでしょうか。

原則論はそうです。ただ、ネット上ですが
http://www.medical-tribune.co.jp/ss/ssMar01.htm
に、

大島 いま申しましたのは原則論。例外として私があげるのは,高齢のFTMが長年にわたるホルモン療法を受けた場合は実質的に生殖能力がなければ,認められるのではないか。これが大島が例外的に容認する場合の1つの例です。

という発言があります。なお、大島教授はSRSの効果について、外性器の外観より、生殖能力の喪失に重点を置いておられるようです。
 私見では、この点リプロダクションの権利の問題が生じると思いますが、ここでは論じません。

>戸籍訂正の問題のうちSRS要件をことさら取り上げる方が、かえって議論を不必要に紛糾させている
のは確かですが、この場合に「紛糾」しているのは誰かというと、社会ではなく当事者でしょう。つまりこれは、社会的コストの問題ではなく、当事者内部の問題です。私の考えでは、「認められやすい人から認められてゆく」ことで、まずは少しでもはやく救われる人が出てくる事が必要で、みんな(それがGIDの診断という緩い条件付きであっても)が横並びに一斉に戸籍訂正を認められるべきだという見方に、既に現実味を感じられないのです。

 確かに、私がかなり当事者内部の事情に囚われているのは確かです。これは私が少し前まで、とある当事者団体においてこの問題につき働いていたことに起因すると思いますが、法規範が「法律の存在理由に照らして、それは社会的な混乱を避け得る」ものでなければならないのはその通りで、「公共の福祉」の視点と言いましょうか、当事者性から遠く離れた視点も同時に持つべきとは思います。
 ただ、民主主義における政策決定のプロセスとして、当事者のおおかたの合意がない法案に、一般社会に対する説得力を期待することはできないということです。もちろん、当事者のいないところで、専門家や官僚によって、「ふってわいたように」戸籍訂正が認められるようになるなら、それこそが最も社会的コストが低い解決ということができ、現にそのようなことを待ち望んでいる当事者も数多いわけですが。これは別に皮肉でなしに。
 神名さんはこの点、SRSを要件とすべきでないという主張が当事者をも説得できていない、とおっしゃっていますが、同様にSRSを要件としてでもまず救える人を救うべき、という主張もまた、おおかたの当事者に支持されているとは言い難いと、現時点で私は認識しています。
 むしろ、ある友人がこの問題を「蜘蛛の糸」と言っていましたが、ポストオペの当事者の人がこの問題について先頭にたって運動を進めるとして、その人が万が一SRSを要件とすべき、と言うなら、激しいバトルの果て、まさに後に続く人を振り払う衝撃で糸は切れるのではないか、ということです。
 この点を解決するには、結局のところ地道に社会に向かってGIDを認知させていく以外に方法はないわけですが、ただ、それには恐ろしいほどの時間と労力がかかることは否めません。また、TS固有の問題として、当事者が前面に出て活動することがはなはだ困難である、という事情もありますね。
 一方で、こういう議論をこねくり回している間に、まず最初に救われるべき人の「生」が一日一日失われている、ということを、私も含めてSRS非要件派の人は自戒すべき、とは常々感じるところですが…。


非対立的「戸籍訂正のドミノ倒し」案

1.ジェンダーフリーについて

ジェンダーフリーがらみのところでは、全く反対の立場からトンネルを掘り進んでいたところ、それが貫通したような感動を感じました。

 そうですね。私はよく「意見のすり合わせ」というような事を書きますけど、ジェンダーフリーに関してはそれが本当に上手い形で出来たと感じています。ただ、私が前回書いた事は2〜3年前から書いている事で、「社会的役割」と個人的な「人格」の分離については、100年ほど前の哲学者・社会学者であるG・ジンメルの見解を参考にしています。

(参考『「支配」と「文化」の社会学』菅野仁/『行為と時代認識の社会学』(小林一穂[編著]・創風社)所収)。

 この「人格」、真樹子さんの表現でいう「『私』の領域」において、ジェンダーフリーを強制することはできないというのは全くおっしゃる通りでしょう。あえて付け加えるならば、固定化されたジェンダー概念もまた同じ理由で、この領域に対しては強制できませんね。なぜなら、「人格」とは自己決定の領域でもあるからです。

 

>ジェンダーが個々人の生物学的、環境的その他諸条件により形成される

というのも私は全く同意見で、これはやはり、社会構築主義と本質主義のどちらか一方だけに還元できる問題ではありませんね。もちろんこれは個人におけるジェンダー様式という話であって、社会的なジェンダーについては歴史的・文化的な蓄積を問題にしなければなりません。しかし、その「社会的なジェンダー」は、個人におけるジェンダーを考える際の「環境」の一部をなしているわけです。そうして、男女それぞれ全体としての傾向が現われ、それがまたその社会におけるジェンダーとして認識される。ですから、ジェンダーそのものは決してなくなりませんし、またその内容を固定することも出来ない。ジェンダーの具体的な内容は、巨視的には常に変化し続けているわけです。ジェンダーの存在そのものが普遍的である反面、時代や文化によってその内容が異なる事実は、おおよそこのような考え方で説明出来ると思います。

 ただ、

戸籍簿をはじめとする公的書類は私事を公の領域に公示する表象であると同時に、公の領域にあって私の領域を規律する存在であり、例えばMTFの場合、その人が男性であると公示されることにより、その人の市民社会的生活だけでなく私的生活においても「男性」であることを強制される、ということがしばしば起こりうるわけです。

という点については、私は異論を持っています。これは「戸籍訂正は本来はジェンダーフリーとは矛盾する」という問題ではなくて、私の目にはむしろ、「戸籍を含む公的書類の性別の記載は廃止」と、「『人格』領域における自己決定」という原則の間に矛盾があるように見えます。

 まず、真樹子さんが例に挙げられた「トイレとか公衆浴場」は、「『私』の領域」ではありません。自宅のトイレは別ですが、公衆トイレや駅やデパートのトイレ、それに公衆浴場などは不特定多数の他者と共有する、文字通りの「公」の空間です。

 また、「人格」領域における自己決定とは、性別の「公示」の有無に関わらず、その人が何であるかを他者から「強制」されないという事に他なりません。したがって、もし男性であるという公示によって、私生活で「男性」である事を強制されるとしたら(そういうことは事実あるわけですが)、それは「公示」が悪いのではなく、「人格」領域に対する「強制」が問題の本質なのです。

 ところで、これがいわゆる部落問題に関してでしたら、就職の際の差別を防ぐために、現在では履歴書に本籍を記載しないということが普通に行なわれていますね。この場合にも、「本当に部落差別が存在しない世の中になったら履歴書に本籍を記入しても問題ないはずだ」といえます。しかし実際には部落差別がそう簡単になくならないために、便宜的解決方法として、このような処置をとっているわけです。

 真樹子さんの「戸籍を含む公的書類の性別の記載は廃止」というご意見は、一見するとこれと同じ事を言っているように見えるのですが、部落問題と性別とでは、決定的な違いがあります。それはいわゆる部落の人間が「出身地」以外には他の人間と何ら異なった「しるし」を持たないのに対して、性別は「見ればわかる」(普通は ^^;)という事です。

 ですから、見た目に「公示」された性別の姿をしている人は、書類上の性別の記載を廃止しても意味がありません。また、性自認の性別の姿でいる限りは、戸籍の性別訂正が認められれば、これもやはり問題ないわけです。これは下記で扱う問題ですが、戸籍訂正の要件に SRS を含めたとしても、大島案のように、SRS を受けていない場合には、パスポートや保険証などの表記だけ変えるという方法もあります。

 要するに、「戸籍を含む公的書類の性別の記載は廃止」をしなくても、書類上から発する問題は解決のしようがあるわけです。それよりも、性別が「見ればわかる」ものだという事実にどう対処するのか。そちらから発生する問題の方が、日常的に頻繁に起こり得る問題でもあるわけで、「戸籍を含む公的書類の性別の記載は廃止」というのは、上に挙げた部落問題の例とは違って、問題の本質的解決にも便宜的解決にもならないのではないかと思います。

 巷には「脱・近代」という言葉もありますが、しかしよく考えてみると、私達の社会は近代理念の何割かを実現したに過ぎなくて、「脱・近代」どころか、実はまだ「近代の完成」さえ見ていないのではないかと思います。「人格」と「社会的役割」、「私」と「公」の境界設定でさえ、いまだこれほどに曖昧なわけで、それは真樹子さんも感じてらっしゃるわけですね。私は、そこをもっと突き詰めて考えた方が、問題の本質が見えてくるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。


2.SRS要件について

 話の順番が前後しますが、

 神名さんはこの点、SRSを要件とすべきでないという主張が当事者をも説得できていない、とおっしゃっていますが、同様にSRSを要件としてでもまず救える人を救うべき、という主張もまた、おおかたの当事者に支持されているとは言い難いと、現時点で私は認識しています。

これは、見方によってはその通りかもしれませんね。それでまず、私達の認識のどちらが正しいかではなく(いきなりこれをやると水掛け論になりかねませんので)、この異なる意見がそれぞれ何に立脚しているのかについて考えてみたいと思います。

 私の考えでは、この2つの意見はそれぞれ、現状がいかにあるかという認識(ザイン=存在)と、今後どうあるべきかという実践目標(ゾルレン=当為)という、異なる立脚点を持っていると思います。

 「SRSを要件とすべきでないという主張が当事者をも説得できていない」のはなぜかというと、「現在それが認められると期待できるような状況にあるか」という問いに対しては、多くの当事者が否定するだろうという事です。これは具体的には、今年の3月末の第3回GID研究会で得られた感触がベースになっているのですが、「現状認識」という点では、これが多数派になるだろうと思います。事実、当日「TSとTGを支える人々の会」から、SRS を受けていない人の戸籍変更も認めよという要求がありましたが、これもその場で他の当事者からの反論を受けています。

 一方、「いかにあるべきか」というゾルレンの問題としていえば、それは出来るだけ多くの当事者が認められた方がよいというのが、当事者における圧倒的な多数意見になるでしょう。私自身もそれに反対するものではありませんし、上記の反論者に直接質問しても同じなんです。彼女(MTF)も、「プレオペの戸籍訂正は金輪際認めてはならない」といいたいわけではなくて、ただ現状では無理だといっているに過ぎません。

 つまり、ザインとゾルレンを区別した上で両方に触れるならば、

戸籍訂正は出来るだけ多くの当事者が認められた方がよい、しかし
現状で現実味があるのは対象をポストオペに限った場合であろう

というのが、最も多数を占めるだろうと思います。

 ただ、ここではすべての当事者が「当事者」という一枚岩であるという前提で語っているわけですが、これは今後の紛糾(当事者の)によっては、2枚にも3枚にも割れる恐れもあるわけです。それも、対立的に割れてしまう。つまり「すべての当事者」というカテゴリーではなく、プレオペを切り捨てた「ポストオペ」というカテゴリーの当事者と世間一般との合意という事が考えられます。これは、なまじ実現の可能性が高い(条件的に容易である)から始末が悪くて、これをやられると、ポストオペとプレオペの間で「蜘蛛の糸」が切れてしまう。ポストオペの間でも、正規の治療としての SRS (埼玉医大や岡山医大による手術)とその他(いわゆるヤミ)との間で亀裂が入るかもしれません。私としては、むしろこういった「対立的な亀裂」によって「蜘蛛の糸」が途中で切れることの方を憂慮しています。

 上に述べたザイン(現状認識)を与件として、できる限りゾルレン(出来るだけ多くの当事者が認められた方がよい)を実現するにはどうしたらよいか、ということを考えなければならないわけですから、「蜘蛛の糸」がどこで切れるにせよ、私達はこうした「対立的亀裂」を避けなければなりません。これが方針の一つですね。

 そうすると、私の考えでは、「すべての当事者」が全員一挙に認められるということは事実上困難ですから、これはやはり手順というか、段階を踏むしかないと考えるわけです。つまり、一度どこかで線を引いたらそれが固定されるとは考えずに、可能性の高い人達をして「一点突破」せしめ、そこを足がかりにして突破口を広げて行くという方法で、これは戦争における用兵と同じですね。攻めやすいところから攻めるしかないわけです。私も、

 誰も救われないよりも、たとえ国内の「正規の」SRSを受けた人だけであっても救われるなら、その方がまし

ということを考えているわけですが、それで終わりというわけではありません。個人的な事ですが、私はニューハーフとして働いた事があって、その業界にいわゆる「ヤミ」手術をした友人が多いのです。ですから、なんとか彼女達の戸籍訂正を認めて欲しいと思うのですが、しかし順番としては、「正規の」SRS を受けた人が最初だろうと、これは埼玉医大で最初の SRS が行なわれた時からそう考えていました。

 つい先日、日本精神神経学会が「医者が診断した性別と戸籍上の性別を一致させるべきだ」として、戸籍の訂正を認めるよう法務省などに対して緊急提言を提出することを決定したという報道がありました。この「医者が診断した性別」という事を考えても、やはりガイドラインに沿った治療を受けた人が、順番としては最初だろうと思うんですね。

 では、いわゆる「ヤミ」の人達はどうするかというと、順番は前後しますけれども、やはり正規の診療ノ受診は必要だろうと思います。その上で医師が、「この人だったら最初からウチに来ても SRS に至ったであろう」という診断書を出せば、要件としてはそろうわけです。それで、「正規の」SRS を受けた人に準じた扱いを受けるという事になるのが、最も無理がない判断だろうと思うんですね。ただ、「準じて」という以上は、準じる「もと」の事例が存在しなければしょうがないわけですから、そのためにも「正規の」SRS を受けた人達には、できるだけ早い内に戸籍訂正が認められてもらわなくてはなりません。

 それから、プレオペの場合ですが、これはやはり現在の一般の認識のままでは困難ですから、おっしゃる通り、

地道に社会に向かってGIDを認知させていく以外に方法はない

と思います。ただ、これは多少の皮肉も交えて、しかし事実の指摘として言うのですが、日本人は既成事実に弱いですね。事前には大騒ぎしても、一度成立してしまった事については、成立前に比べると抵抗感が薄れるという性質があります。ですから、プレオペの道を開くための「GID の認知」には、むしろポストオペの戸籍訂正の事実も、その実現の暁には一役買ってもらいます(笑)。そのことが、

TS固有の問題として、当事者が前面に出て活動することがはなはだ困難である

という、その困難をフォローするための一助にもなるでしょう(私は他に TG の、TG としての諸活動にも期待するところが大きいのですが)。

 つまり私の考えでは、先に戸籍訂正を認められた人達が、その事実によって次のグループの人達の道を開いて行くという「非対立的な段階論」があり得るだろうという事です。逆にいえば、これは段階を踏まずに一挙に解決できるような簡単な問題ではないということで、私が「SRSを要件とする」というのは、まずはこれを突破口としようという「第1手」について述べているわけです。そこから「戸籍訂正のドミノ倒し」が始まるような・・・。

 ただ、ここに書いた「手順」は、私の眼から見てもまだまだ中身が貧弱ですね。出来る事なら、激しいバトルを繰り広げて「蜘蛛の糸」を切ることにエネルギーを使うのではなくて、皆さんの知恵で、この「戸籍訂正のドミノ倒し」をもっともっと工夫・充実させていただきたいのです。こうしたらもっと次の段階への移行がスムーズになるだろうとか、そういうアイディアを皆で出し合ったら、地道なようでもそれが結局は一番の近道になるのではないかと思います。

L.Jin-na


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