戸籍訂正について(3)


from 真樹子さん (2001年05月30日 00:26)

真樹子です

1.ジェンダーフリーとプライバシー権

 また、「人格」領域における自己決定とは、性別の「公示」の有無に関わらず、その人が何であるかを他者から「強制」されないという事に他なりません。したがって、もし男性であるという公示によって、私生活で「男性」である事を強制されるとしたら(そういうことは事実あるわけですが)、それは「公示」が悪いのではなく、「人格」領域に対する「強制」が問題の本質なのです。

という点について、おそらく私がいささか舌足らずだったために誤解を招いたようですね。
 ここでプライバシー権の問題について補足させていただきますと、20世紀初頭にアメリカの判例法理で確立されたところの「プライバシーの権利」は、「ひとりで放っておいてもらう権利」であり、その後その内容として、自己情報に関するコントロール権としての狭義のプライバシー権や、堕胎の自由などいわゆる自己決定権などが言われるようになるのですが、いかんせん日本ではこれらが別々に輸入されたことから、二つを別個に論じられ、混乱が起きると思っています。
 この点、私も自己決定権侵害、神名さんの言葉で言えば“「人格」領域に対する「強制」”が本質であることに異論はなく、戸籍の性別に限らずジェンダーをめぐる多くの問題の核心がここにあると思っています。そして、狭義の情報プライバシー権についても、ただ男であるか女であるかを公示するから問題であるのでなく、それが人格の本質にかかわる情報に関するものであるからこそ問題なわけです。
 ただ、戸籍の問題に関しては、本籍記載や続柄記載に関する情報プライバシー権の問題が従前からなされており(戸籍上性別記載と続柄記載はご存じの通り、「長男」等と記載され同一なわけですが、続柄記載廃止の観点からこの記載を廃止するという議論は前からあるわけです)、こちらの方が確立した議論を援用できるため、こちらを前面に出した議論をしたつもりでした。

 もっとも、

部落問題と性別とでは、決定的な違いがあります。それはいわゆる部落の人間が「出身地」以外には他の人間と何ら異なった「しるし」を持たないのに対して、性別は「見ればわかる」(普通は ^^;)という事です。

点については、少々異論があります。どっちともつかない容姿を好む人、あるいはパスしたくてもパスできない人(私も含め(苦笑))というのは現実に存在しますね。あるいはフルタイムの異性装を望まない人もいます。性自認についてもどちらとも区分されたくないと感じている、いわゆるXジェンダーの人もいます。「性のグラデーション」は、私がこの目で見た範囲においても実在するわけです。戸籍「訂正」がたとえ後述のSRS要件なしに認められたとしても、まだ漏れる人というのは確実に存在するわけです。また、ノーマルの女性で外見も女性ですが、公的書類にわざわざ性別を記載されたくない、と言っていた人もいます。
 この点、戸籍の性別記載が廃止になったところで、私的領域において、男の格好をしようが女の格好をしようが中性の格好をしようが自由であり、女の格好をしてはいけないということには決してなりません。むしろその自由を尊重するためには、究極的には「訂正」でなく「廃止」が必要である、といっているわけです。
 戸籍訂正を巡る議論の中で、よく訂正が本則で廃止は応急措置という言い方をする人もいますが、「公」の領域におけるジェンダーフリーの観点からいうと、また適用対象の一般性普遍性からいうと、廃止が本則であるように思えます。
 もっともこちらはいつ実現できるかはわかりませんが…。また念のため言っておきますが、「訂正」を求める運動は誤っていると主張したり、同時並行的に「廃止」を求める運動をするつもりは全くありません。

巷には「脱・近代」という言葉もありますが、しかしよく考えてみると、私達の社会は近代理念の何割かを実現したに過ぎなくて、「脱・近代」どころか、実はまだ「近代の完成」さえ見ていないのではないかと思います。「人格」と「社会的役割」、「私」と「公」の境界設定でさえ、いまだこれほどに曖昧なわけで、

 私が前回言おうとしたのは、「私」と「公」の境界設定は場面場面において相対的である、ということだったのですが、そのことはさておいて、情報プライバシー権や自己決定権に関する既存の議論の浅薄さは、まさに「私」と「公」の区別の認識の欠如に起因するのでないかと思います。そもそも西洋近代におけるプライバシーや自己決定についての議論は少なめに見積もっても、200年近くの議論の蓄積があるところ、日本においてまともに議論がなされたのは戦後以降でしかないわけで、この問題を個人のわがままとしか捉えないものの見方がある一方で、自己決定権肯定論者の中にもはなはだナイーブな、公共性を全く考えない自己決定万能論みたいなのがあって、議論の未成熟さが目に付くように思えます。
 性別と自己決定権の問題については、以前よりまとまったものを書くつもりではいるのですが、私自身もこの辺の壁に阻まれて、なかなかうまく言えないところもあります。この辺はまたおいおい書き込ませていただきます。

2.SRS要件について

私の考えでは、この2つの意見はそれぞれ、現状がいかにあるかという認識(ザイン=存在)と、今後どうあるべきかという実践目標(ゾルレン=当為)という、異なる立脚点を持っていると思います。

 というのは、おそらくその通りでないかと思います。もう少し厳密に言うなら、私を含め非要件派の人は、社会一般の認識につき楽観的であり、また理想主義的ということになるのでないかと思います。

>SRSを要件としてでもまず救える人を救うべき、という主張もまた、おおかたの当事者に支持されているとは言い難いと、現時点で私は認識しています。

 と私がこの前書いたのは、昨年12月に行われた、「戸籍と性別」というイベント(TNJ主催)での認識なのですが、今年3月のGID研究会は私は出席していませんので、その差が出ていると考えられます。
 12月の方は、観客席が圧倒的に非要件派(狭義のTGやフェミニストの運動家?)の人で占められ、非要件派のパネラーである角田由紀子氏らの発言に大きな拍手が寄せられる一方、大島教授や「まず救える人を救うべき」と主張する虎井まさ衛氏らの発言には拍手が少なかったという状況があって、非要件派である私でさえ異様さを感じざるを得なかったのですが、3月の方は出席した人に聞いたところ、12月には出ていなかったTSの観客も多く、おっしゃるような状況になったものと思います。この3ヶ月の間に急速な当事者の意識変化が起こるとも考えられませんので、推測ですが、恐らく両日の観客層の違いがあるのではないかと思います。

そしてこのことを前提にしても、私の認識において

戸籍訂正は出来るだけ多くの当事者が認められた方がよい、しかし現状で現実味があるのは対象をポストオペに限った場合であろう

という点に差はありません。

加えて、

「すべての当事者」が全員一挙に認められるということは事実上困難ですから、これはやはり手順というか、段階を踏むしかない。

という点についても、現実的な手段としてはやむをえない、と思っています。

 ただ、問題はその具体的な方法です。
 ここで、非常に制限された要件をもつ立法が定立されるなら、その改正に幾十年の歳月がかかることもありえようし、現に欧州諸国の性転換法でSRS要件を持つ場合、それが撤廃されたという例はないわけです。
 そこでもし非常に拙速な形で、制限的な立法が行われようとするなら、立法に対する反対運動も起こりうるでしょうし、その場合は「蜘蛛の糸」が切れる懸念もあります。
 この点、私見では、立法上の要件は最小限に止め、後は司法又は行政上の判断により臨機応変に門戸を広げていくのが望ましいと思うのですが、一方で日本の司法や行政にそんなことができるのならとっくに現行法(戸籍法113条)で戸籍訂正が認められている、という批判も飛んできそうですね。
 大島案のように厳格な要件を設けるとしても、一定期間後に見直す規定を設けるなり、ノンオペTSあるいは狭義のTGの訂正への道筋は明示される必要があると思います。

 さらに、当事者の運動の進め方についても論じておきますと、まず制限的な要件の下で実現を図ろうとする当事者は、その実現後の、さらなる拡大への道筋についても一定のビジョンを持ちかつ提示する必要があると思いますし、そのことによってそのほかの当事者の信頼を得て欲しいと思います。
 反対にSRS非要件派についても、過度に観念的・非現実的な言動は慎むべきであろうし、ましてや制限的な要件であっても実現を図る運動家の人に対する、正当性を欠く批判は許されるものではないと思います。
 また、SRSを要件とするか否かという点に拘わらず、特定の団体のみがその他の当事者の団体・個人に対して合意形成の手続を踏むことなしに運動を進めるなら、それ以前の問題として大変な不信感が惹き起こされるだろう、ということです。以前「TGの日」を巡って、当事者コミュニティを二分する大バトルがありましたが、そのことを考えるならポストオペか正規手術か云々より前に、ここで蜘蛛の糸が切れることを懸念せざるを得ない、とも思えます。


「漸進的SRS非要件派」統合案

1.ジェンダーフリーとプライバシー権

 今回は、まず「公」と「私」の区別という事から入ろうと思うのですが、私は両者の間の境界線というのは、それが固定されたものであれ、状況によって変化するものであれ、截然とは引けないのではないかと思うんですね。もっともこれは、前回に自分の意見を述べた後で考えた事なんですけれども。

 強いていえば、真樹子さんの「『私』と『公』の境界設定は場面場面において相対的である」に近いと思うんですけど、これ(ここ)は「公」の場面であるとか「私」の場面であるというように、常にある場面なり領域なりが「公」か「私」のどちらか一方に属すると考えたら、必ず話が錯綜するだろうと思います。といっても、やはり私達の意識は、さまざまな場面を「公」や「私」に分類している事は確かなわけです。

 それで、むしろ「公」と「私」を両極に持つ直線を想定し、様々な場面がその直線上のどの当たりに位置するかという考え方をした方が、より現実的に思える。例えば「職場」はこの直線上でかなり「公」に近いところに位置していますが、「公100%」という事はまずありません。つまり「職場」といえども「私」の要素が全く存在しないわけではない。また、職場の同僚と連れ立っての無礼講となれば、多分に「私」の比率が高くなるわけですが(直線状では「職場」よりもずっと「私」に寄ったところに位置するわけですが)、文字通りの「無礼講」であることはまずあり得なくて、幾分かの「公」の要素を残しています。

 つまり、この「公」や「私」は、あくまでも一種の「理念型」なのであって、現実の日常場面においては「公」だけあるいは「私」だけの場はほとんどないといってよいでしょう。

 ところで自己決定権というのは、言葉は新しいですが、これは要するに「自由」のことですね。例えば、カントでいうと、よい事をするにも他人から命令されてするのでは奴隷と同じで、「善」を意思することが「自由」だというわけです。別に善だけが自由の対象だというのではありませんけど、「自由=自己決定権」は少なくとも西欧では、ホッブズ以来の400年近く前から(日本でいうと江戸時代の初めくらいから)検討されてきたと言ってもよいと思います。そういう意味では、日本では戦後以降ではなく明治時代からその議論はあったと思うんですけど、いずれにしても日本での「自由=自己決定権」に関する議論の歴史が、欧米に比べれば浅い、というのは、おっしゃる通りだと思います。

 では、この「自由」が保障される条件は何かというと、いろんな言い方がありますけど、要するに「他者との利害対立が発生しない限りにおいて」という事ですね。各人が自分の自由を追求すると、利害の対立が発生しますからその対立は調停されなければなりません。「自由」はその調停に必要な「最低限の制約」は受けざるを得ないわけです。

 一切の制約から免れた「完全自由」というものを考えたら、これは秩序ある社会の否定になってしまいます。「はなはだナイーブな、公共性を全く考えない自己決定万能論」というのがこれに当たると思うんですけど、でもそれは理想の世界(社会)でも何でもなくて、ただの弱肉強食の世界ですね。よほどナイーブな性善説に立つ人か、極端に自己中心的な人でもない限り、これはほとんどの人が容易に想像できると思います。

 先ほどの「公−私」の直線で考えると、「完全自由」を求めた場合にトラブル(他者との利害対立)が発生する頻度が高い場面ほど「公」に近い(つまり「自由=自己決定」に対する制約が多い)場面だと言えます。もちろん、完全な「公」の場面や、完全な「私」の場面(=弱肉強食の世界)は現実には存在しませんが、程度問題としては「公」や「私」が成立するわけですね。

 さて、戸籍には通常の意味での「プライバシー」に関わる事が記載されています。「本籍記載や続柄記載」はもちろんのこと、氏名や生年月日も含めた戸籍のあらゆる記載事項が、当人にとっての「自己情報」の性格を持っています。したがって(これは真樹子さんの持論ではないかもしれませんが)、「戸籍そのものの廃止」という意見でさえ、全く同じ根拠から主張できるわけです。

 そうすると、真樹子さんは戸籍の様々な記載事項の中で、性別概念を含めた「続柄」と、その他の記載事項との間に、どのような基準で線引きをしているのでしょうか? 私が「続柄記載廃止」に納得できない理由として、まずこれが判らないという事が一つですね。

 それから性別の「見ればわかる」という事について、これは前回に出来るだけ単純な例を書いたので今回の異論は予想できていたのですが、パスできない人、パートタイム TG、Xジェンダーといった「性のグラデーション」は、私の眼から見ても確かに実在します(実在という言葉の意味にもよりますが、そういう人は確かにいるわけですね)。また、戸籍はその図られざる機能として、性別二分法の再生産の一角を担当します。しかし、逆にいえば、性別二分法を戸籍に一元的に還元する事は出来ない(性別二分法が戸籍によって発生したわけではない)ということです。

 私の考えでは、性別二分法の本質はまったく別のところに存在します。性別の本質は、エロス的な「関係」であって、書類上の記載事項でも役割でもありません。つまり、まず先に「男はこういうもの」「女はこういうもの」という概念が独立して存在し、その両者を併せて「性別」が出来たというわけではないんですね。生物学的にはそう考えてもよいのかも知れませんが、この考え方をジェンダーに当てはめる事は出来ません。

 なぜかというと、ジェンダーレベルの「性別」は一種の価値概念であって、男だけ、女だけでは成立しないからです。ジェンダーレベルでは「男」も「女」も異性との比較なしに、独立して存在出来る概念ではありません。そういう意味でジェンダーレベルの「男」や「女」は相対的な関係概念です。別の言い方をすれば、生物学的な性別が肉体という「モノ」についての概念であるのに対して、ジェンダーレベルの「男」や「女」は、「男というコト」、「女というコト」というような、「コト」についての概念なんです。だから例えば、「あなたの性自認を証明するモノを出しなさい」といわれたら、誰でも困ってしまう。診断書だって医師の所見を記してあるだけで(性同一性障害における医師の所見とは、カウンセリング等において見聞した「コト」に基づく判断や解釈ですから)、「性自認そのもの」を客観的に示す事は出来ません。

 ただ、一般には「男というコト(ジェンダー)」は「男というモノ(セックス)」と、「女というコト」は「女というモノ」と、それぞれ一対一の対応関係で理解されます。それは当然で、男女それぞれのジェンダーは、男女それぞれの肉体と全く無関係に成立したわけではないからです。さらに言えば、人間が肉体(身体)を持つ存在である以上、これは避けられない事です。特に「他者にとっての身体」という視点からいえば、身体というのは、自分が何者であるかを、多かれ少なかれ、また好むと好まざると「他者に対して語ってしまう」ような存在ですから。

 そして、この「他者に対して語ってしまう身体」は戸籍の記載事項よりもずっと日常的な存在でもあります。パスできない人、パートタイム TG、Xジェンダーは、戸籍に性別(続柄)の記載がなくなったら、生きやすくなるでしょうか。私はそうは思いません。例えば、誰かが「パスできない人」(私もそうですが)を見て「変な人」だと思う。そこで「パスできない人」が「続柄」記載のない自分の戸籍を見せても、それで相手の評価が変わるという事は、まず期待できません。なぜかというと、相手が「パスできない人」(例えば私)を見て「変な人」だと思うのは、私の戸籍に何が書いてあるかという問題ではなくて、それが、私の「外見」をこの社会の性規範に照らしての判断だからです。

 戸籍その他の公的書類への性別記載は、そういった人々のあり方を反映しているに過ぎません(誰もがどうでもよいと思うような事柄は、最初から記載事項として指定されませんから)。人々の性別に関する様々な関心が公的書類への性別記載を要請しているのであって、逆ではありません。公的書類への性別記載が廃止されたからといって、人々の性別に関する様々な関心が失われたりはしないわけで、この二項は一方的な影響関係にあります。

 そうすると、仮に「続柄記載廃止」を実現したとしても、性規範や性別二分法は他のさまざまな分野において日常的に再生産が続くわけですから、この日常的な「外見」の問題、つまり他者の「視線」の問題をどうするのかということは、ほとんど丸ごと残ってしまうわけです。そういう意味で、性別も含めた続柄記載廃止は問題の解決にならないのではないかと思うんですね。

 また、だからといってジェンダーそのもの、あるいは性規範そのものをなくしてしまう事も、原理的に不可能です(内容を編み変える事は可能ですが)。人々が性的な視線(必ずしもスケベ心の視線だけではなく、もっと広い意味での)を持っている限り、人は人によって性的な視線で見られる事を避けられません。どんなに自分が性的に「無」でありたいと思っている人でも、例えばアセクシャルという定義がされたとたんに、それはその人が職業でも身長でもなく「セクシャリティにおいて何であるか」という視点で見られた事を証拠立てるわけです。一言でいえば、人は何らかの形で性的な存在である事から「常に逃げ続ける事は出来ない」ということです。

 こういう事を書くと反発する人も多いんですけど、私は「人間が性的存在である事から逃げるべきではない」というゾルレン(当為)を語っているわけではなくて、好むと好まざるとそういう端的な事実があるという事を述べています。

 また、自分が他者の目に「性的存在」と映ることそのものを、自己情報に関するコントロール権という概念によって制限できるかというと、これはまったくの背理になります。何故ならば、これは他者の内面に対する規制であり、他者の認識に対する直接のコントロールを意味してしまうからです。ですが、これをやろうとすると、今度は自己中心的で「はなはだナイーブな、公共性を全く考えない自己決定万能論」になってしまいます。

 これは、逆に「自由」のない近代以前のヨーロッパであれば、国家ではなく、宗教(キリスト教)によってそれなりに可能でした。キリスト教では「性的欲望をもって他者を見たら姦淫したのと同じだ」といい、懺悔・告戒によって人々の内面を見張る事が出来たからです。だけど、現代では(特に非キリスト教社会である日本では)これに賛成する人は、まずいないでしょうし、社会原理の上からも、近代〜現代の社会では無理だと思います。

 ですから(真樹子さんは当然ご存知だと思いますが)近代社会では、国家(法)は人々の行為を規制し、内面を規制しません。その、行為の規制もそれが他者の利益を侵害する場合(利害対立を引き起こす行為)に限られます。簡単に言えば、他者を性的な目で見ても規制されませんけど、痴漢と言う「行為」は取り締まりの対象になるわけです。

 では、どうすればよいのかというと、話を元に戻すようですけど、「自由」に関わる問題と言うのは結局は「調停」の問題ですね。その事を忘れて、自分の「外部」に強力な「敵」や「悪」を想定し、それを自分(達)の不幸や不自由の理由にしてしまうと上手くありません。例えばマルクス主義やフェミニズムは、自分たちの外側に「資本家」や「男」という敵概念を創りだし、それに対抗しようとしてことごとく失敗しているわけです。だけど、「自分の外部にある敵と戦う」という形でしか語れない「正義」というのは、逆説的に「敵」の存在に依存しているわけですから、そういう思考法によって「自由」が確立出来るとは思えません。

 調停は、人間だと行為の問題になるんですけど、法的には運用の問題ですね。例えば「続柄」で言うと、戸籍の「続柄」はなくなりませんけど、嫡子と庶子(非嫡出子)との相続の不平等は民法の改正によって解決が図られましたし、こうした一つひとつの問題に対処して行く方が、結局は着実な解決を迎えているわけです。


2.SRS要件について

 昨年12月のTNJ主催のイベントで圧倒的に非要件派が盛り上がったというのは、今年3月のGID研究会での森野代表の発表態度を見て、容易に想像がつきました(ただし、TNJでのアンケートの集計結果を発表された野宮さんは、アンケート結果という「事実」についての発表に留まり、抑制の効いた態度に終始されていたと記憶していますが)。

 もう一つ言ってしまうと、TNJに限らず、社会運動系の集会というのは、概して「ゾルレン(当為)」の方が「受ける」傾向があります。「ゾルレン」だけを述べていたら、それは皆が望む事、口当たりのよいことばかり言うわけですから、人気は出ます。

 それと、これは人間一般の「認識」の癖なのですが、1箇所に集まった人間がお互いに「そうだ、そうだ」と言い合っていると、事実がどうあれ、そこで言われている事が現実味を帯びてくるという事があります。現象学では「間主観性」というんですけど、まず現実があってそれを認識するのではなく、お互いに「これが現実だ」という事を確かめ合うことで「現実味(リアリティー)」が生じるんですね。特に「ゾルレン」についてこれをやると、例えば「我々が立ちあがれば革命は明日にでも成る」という話にだって発展しかねません(笑)。

 繰り返しますが、これは非要件派だけの話ではなく、私も含めた人間一般の「認識」の癖です。ですから、当然私も例外ではありえないわけで、そのために私はこの問題に関して、当事者コミュニティの外側に開いた回路を保つように心がけています(そうしないと、今度は自分の判断が信用できなくなるからです ^^;)。

 しかし、この件に関して私達の間では、前提となる認識としての、

戸籍訂正は出来るだけ多くの当事者が認められた方がよい、しかし現状で現実味があるのは対象をポストオペに限った場合であろう

「すべての当事者」が全員一挙に認められるということは事実上困難ですから、これはやはり手順というか、段階を踏むしかない。

についての一致は確認できたと思います(そしてこれは、おそらく私達二人の間だけで生じたリアリティではなく、もう少し開かれた関係の中でも共有し得る認識だと思います ^^;)。また、真樹子さんの、

立法上の要件は最小限に止め、後は司法又は行政上の判断により臨機応変に門戸を広げていくのが望ましい

というのは、今は少し考えが変わっているところもありますけど、基本的には昨年、私も同じ事を考えました。

  1. 「法律」では大枠だけ決めておいて、具体的な要件は別に「政令」で定める

  2. 「法律」の条文中で SRS を要件として明記するけれども、それに「前号に掲げる者のほか、政令で定める者」の1項を加える

というような形ですね。ただ、1番目のように条文中に要件が何も書かれていないというのは悪く考えれば、事実上誰も性別変更が出来ないような要件を行政が定める事が出来る、という事でもあるんです(つまり、行政が性転換法(仮名)を有名無実化できる)。少なくともその可能性を排除できないわけです。それと2番目についても、現在の国会議員の積極性を見ると、むしろ政令任せにした方が要件の幅を広げるのに時間がかかるかも知れないという不安も生じてきて、あまり自身を持ってお勧めできなかったのです。

 そういう意味では、これは私は気がつかなかったんですけど、真樹子さんの「一定期間後に見直す規定を設ける」という案が最も「ベター」ではないかと思いました。もちろんこの場合でも、見直しの結果かえって要件が狭まってしまうという可能性はゼロではないのですが、その可能性が最も小さいとは言えるのではないかと思いました。

 それと、この「見直し規定」は必ず条文中に含める事が必要ですね。先日、ちょっと日本国憲法の成立について読んでいたら、あれも制定の当初は何年後かに見直しをするという話があったそうですね。でも、その年数を経ても当時の内閣は見直しを実施せず、そのまま現在に至っています。戦後日本にもそういう「前科」があるわけで、口約束や政令まかせでは危なくて仕方がないと思いました(笑)。

 これならば、極端な理想主義者を別にすれば、もはやSRS要件派もSRS非要件派もないと思います。SRS要件派といっても、SRSを要件として固守し続けようという人は(少なくとも当事者の中には)いませんでした。これは先日も書きましたけれども、今年のGID研究会の後の懇親会で、何人かの「SRS要件派」の人達と会話を交わしたときの感触です。その経験から言えば、私も含めて「SRS要件派」は「漸進的SRS非要件派」とほとんど同義と思われるからです。

戸籍訂正は出来るだけ多くの当事者が認められた方がよい、しかし現状で現実味があるのは対象をポストオペに限った場合であろう

という共通認識の元に、私達両派は「漸進的SRS非要件派」としてまとまる事が出来るのではないでしょうか。

L.Jin-na


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