from 真樹子さん (2001年06月04日 19:21)
真樹子です
2.のSRS要件については、もはやあまりコメントすることはないのですが、次々に新しい論点が出てきますね。
戸籍の記載事項の話に戻りますが、念のために言っておきますが私とて戸籍の性別欄(続柄欄)を廃止すればジェンダー関係の諸問題がすべて解決するとまでは、全く思っておりません。
むしろその逆で、実体法的な両性の平等(公的空間におけるジェンダーフリー)が進んだ最後に消え去るものであるかも知れません。
戸籍を始めとする公的書類の記載の社会的効用は、大ざっぱに言ってしまえば社会制度を適用する際の基準、ということになりましょう。日本においては、宗教というのはいかなる公的書類にも記載されていないのですが、国によっては宗教により適用される法律が異なる(婚姻について、イスラム教徒に一夫多妻を認め仏教徒に認めない等)ことがあるわけですが、このような場合公的書類に宗教を記載する必要があるわけですね。
これと同様に、性差を基準とした法律なり社会制度なりが存在する限り、住民票の本籍欄のように記載をしないことを選択できるようになっても、全面廃止とまではいかないと思っています。
ただ、性差を基準とした法律なり社会制度の根拠については、確かに“性別の本質は、エロス的な「関係」”“人々の性別に関する様々な関心”には違いないと思いますが、もう少し厳密にいえば、それを「公的な」書類に記載するに値するか否か、という社会的合意ということになると思います。
この点、日本においては個人の宗教は公的な関心の対象ではなく、性別は公的な関心=利益の対象たり得ている。これと個人のプライバシー(広義・狭義)の衡量では、まだ前者の方が優位に立っている、といえましょうか。だからこそ私も先日「究極的には」と、控えめに述べているわけです。
とりあえず“戸籍の様々な記載事項の中で、性別概念を含めた「続柄」と、その他の記載事項との間に、どのような基準で線引きをしているのでしょうか”という点については以上でよろしいでしょうか。
ただ、
| > | そして、この「他者に対して語ってしまう身体」は戸籍の記載事項よりもずっと日常的な存在でもあります。パスできない人、パートタイム TG、Xジェンダーは、戸籍に性別(続柄)の記載がなくなったら、生きやすくなるでしょうか。私はそうは思いません。例えば、誰かが「パスできない人」(私もそうですが)を見て「変な人」だと思う。そこで「パスできない人」が「続柄」記載のない自分の戸籍を見せても、それで相手の評価が変わるという事は、まず期待できません。なぜかというと、相手が「パスできない人」(例えば私)を見て「変な人」だと思うのは、私の戸籍に何が書いてあるかという問題ではなくて、それが、私の「外見」をこの社会の性規範に照らしての判断だからです。 |
という点については、おそらく神名さんはTGはパスすべきもの、という無意識の規範を前提にしておられるようにお見受けします。実際に私の知り合いのTSの人にも、生まれつきの女性より女性らしい人もいて、そのような人は戸籍にしてもむしろ「男性」であることがおかしいように見えるのですが、中にはそうでない人もいて、そのような人がGIDの診断なりSRSなりを受けて、いざ裁判所で戸籍訂正の審判を受けて、謄本を見せられて「女」になりました、といわれたところで、「本当に女なのか」といぶかることになる、というわけですね。
この点、このような人にも戸籍訂正を認めるのか、という議論に関わってきますが、(大島教授も「性的外観の変容」を要件にしているが、パスするか否かまでは不明)例えば身長190で肩幅もでかくオッサン顔のMTFTSは、戸籍訂正したところで、ほとんど意味はない、言い換えれば戸籍訂正はTSというだけでなく、パスできるTSだけの問題、ということになってきかねません。
ここで参考になるのは身体障害者の例で、今日では車椅子に乗った人を街で見ることは全然珍しいことではありませんが、以前は施設の中で一生のほとんどを過ごしたり、あるいは義足を使って健常者に「パス」しようと努力したということです。これが車椅子のまま街に出ることができるようになったのは、社会インフラの「バリアフリー」化と同時に人々の意識も(一朝一夕というわけでは全然ありませんが)、変わったからであると思います。
ジェンダーフリーという和製英語は、この語感は私は全然好きではないのですが、おそらくこのバリアフリーから来ているジェンダーフリーという発想は、公的な制度だけでなく人々のまなざしについても広まらなければ、戸籍訂正なり廃止なりと言った議論も無意味であろう、と思います。もちろん、それなりの時間がかかる話ではあると思いますが。
最後に社会運動について、私が短い間ですがとある運動団体に関わった経験から申しますと、集会のような開かれた場でなくとも、“概して「ゾルレン(当為)」の方が「受ける」傾向”というか、それしか考えない人が多く、具体的な政策論を突き合わせ、合意形成を図るという訓練が、少なくとも社会運動系の人たちには足りないように思いました。
とおっしゃっているように解釈しました。別のいい方でいうと、「究極的」を「最終的」という意味に取ったので、「それは最終的には戸籍の性別廃止が実現されなければ本当の解決にはならないのだ」という意味に受け取ったわけです。それで、前々回に続いて、「その問題については、戸籍の性別記載は本質ではないんだ」(「人格」領域に対する「強制」が問題の本質である)という意味でお答えしました。ですが、私の解釈とは逆に、控え目な表現として使われているという事ですので、この件については了解しました。
ところで、私が「TGはパスすべきもの、という無意識の規範を前提にして」いるというのは、「TG」の意味にもよりますが、おそらく何か誤解があると思います。
最初に書いておきますと、私は、現在の日本で正規の治療によって SRS に至った人は、少なくとも「それなりのレベル」にはあるだろうとは考えています。なぜかといえば、SRS に至る過程で RLT (RLE) があるからです。
しかし私は、医師が RLT にどのような基準を適用しているのか知らないわけですけど、必ずしもパスまでは要求していないのではないかと思うんですね。もちろんパスできたらそれに越した事はないんですけど、しかし治療の目的に照らして、私なりにどの当たりを「最低限」の基準にするかと考えると、必ずしもその必要はないだろうと思う。治療の目的である QOL を考えた場合、客観的に他者から見てどうかという事は問題の本質ではなくて、
| > | 例えば身長190で肩幅もでかくオッサン顔のMTFTS |
であっても、その人がそういう自分を、自分の人生の中で引き受けて生きて行く事が出来るかどうか。それが問題だろうと思います。逆にいえば、他者から見て、
| > | 生まれつきの女性より女性らしい |
と見えるような TS であっても、本人が自分の顔を鏡で見て「こんな男顔は嫌だ」と思ったら、これはどうしようもありません(彼女が子供の頃から長年に渡って、その顔で男扱いをされてきたとすれば、そういうこともありえます)。ですから、前者(ノンパス)について、
| > | そのような人がGIDの診断なりSRSなりを受けて、いざ裁判所で戸籍訂正の審判を受けて、謄本を見せられて「女」になりました、といわれたところで、「本当に女なのか」といぶかることになる |
ということは当然ありえるわけですが、しかしその場合でも、彼女自身が「疑問を持たれるような自分」を引き受けて生きて行く事が出来るなら、私はそれはたいした問題ではないと思います。むしろ パス出来るからOKだとか、ノンパスだからダメだという考え方をしてしまうと、肝心の QOL という問題が抜け落ちてしまうわけで、それではそもそも(正規であれヤミであれ)何のための SRS なのか、という事になるでしょう。
いい方を変えれば、そういう人達に対して、「戸籍の性別記載が存続しようが廃止されようが、いぶかしげな目で見られる事になりますよ。それでもそのような自分を引き受けて生きて行けますか」という事です。別に、脅しとしてこのような事をいうのではなく、また「だから SRS をあきらめなさい」といいたいのでもありません。
ただ、SRS を受けようと、例え戸籍の性別記載が廃止されようと、そういう問題がついて回るであろうという事は、事前に知っておくべきだということです。それを承知で、「それでも今よりよい」という人に対しては、少なくとも私は、その人を思いとどまらせる事は出来ません。ただ、その人の責任において自分の人生を生きていってもらうより他にないわけです。私は前回、
| > | 「自分の外部にある敵と戦う」という形でしか語れない「正義」というのは、(中略)そういう思考法によって「自由」が確立出来るとは思えません。 |
と書きましたが、この考えはここでも生きていて、「自分の外部にある敵」ではなく、自分自身の問題になります。それを避けていたら、「自分の外部」をどんなにいじってみても、決して問題は解決しないでしょう。
もうひとつ他者の視線についてですが、私の考えではこれも同じ問題を共有していると思います。まず、T's がどうのというカテゴリーの問題をはずして個人レベルの問題としていうと、他者とよい関係を作れる人は、比較的にたやすく「人々のまなざし」に受け入れられます。
これは以前にもどこかで書いたと思うのですが、私は哲学を学ぶ場でカミングアウトしていて、先生の一人はいわゆる「在日」なんです。だけど、普段はお互いにそんな事を気にしない。別に「寛容」とか「共生」といった問題ではなくて、これはそもそも「気にならない」のです。なぜかというと、先生の方は私の何をご覧になっているのか判りませんけど、私からすれば、先生の思想の深さとその射程が問題であって、先生の国籍については通常は関心外なわけです。先生がたまたま、ご自分の国籍に関係した事例を挙げたときに「ああ、そうだった」と思い出すくらいですね。
だけど、もし仮に私が自分の性質(GID)を充分に引き受ける事が出来なくて、それに引け目とか劣等感を持っていたとします。それで、誰か私に悪意を持つ人がいるとしたら、その人は、私が引け目に思っている部分を敏感に察して突いてくるでしょう。「オカマに生きる資格はない」とかいわれるかも知れないわけです。この時に、そういう事をいう相手が悪いというのは簡単ですが(事実その通りなのですが)、それは自分の弱点をかばうだけで、解決にはなりません。またいつか、同じような場面で同じような目に遭う可能性を、常に抱え続けて生きて行かなくてはならないわけで、その事自体が、自分自身にとって辛く感じられると思うんですね。
ですから、他者視線の持ち方に対して注文をつけるのではなくて、要するにこれも、「自分がどう生きるのか」という問題になります。誰かに対して「この人と一緒に居ると楽しい」と思ったら、その相手の身体の障害、国籍、人種、民族、性別、年齢、見た目の美醜(行為が醜いのはだめですが ^^;)等々、そんなものは気にならなくなるでしょう。正確にいえば、それは相手が持つさまざまな要素の、ごく些細な一部分に過ぎなくなります。一般に「欠点」とされているような性質を持っていても、それを相対化できるような何かを持つ事が出来ればよいので、それは自分自身の問題ですね。相手に「私のこの部分は気にしないで、相対化して見てくれ」といってもダメで、そう見られるような自分を作るのは、あくまでも自分自身が引き受けるべき作業です。それをせずに、都合のよいときだけ「自己決定」といっても、誰も納得してくれないわけで・・・(^^;)。
自分の性質にどこか引け目を感じている人、つまり自分自身を受け入れられない人に、他者を受け入れられるはずもなく、他者を受け入れられられない人が、他者に受け入れてもらおうというのはムシがよすぎる話です。そこを「仕方がないじゃないか」と甘えてしまったらお終いで、外側にばかり注文をつけていたら、みなさん離れて行ってしまいますね。かつての部落問題のように、「ヤバそうだから近寄らないようにしよう」という話になってしまうわけです。その結果、告発・糾弾に熱心な人達が問題を一人占めして、ますます告発・糾弾を自分達のアイデンティティにして行く。それで以前におっしゃっていた、運動の目的化に拍車がかかるわけですね。でも、そういうのは私達は嫌なわけで・・・(笑)。
T's は、性自認の問題以外では、あまり自分達の内面を問題にして来なかったのではないかと思います。例えば QOL という言葉は、皆無ではないにしても、性自認とかジェンダーといった用語に比べたら、ほとんど登場しません(私もほとんど使いませんけど ^^;)。それに比べると、「外部」への言及は多いですね。だけど本当は、「性」より「生」を問題の前面に置いてこなければいけなかったのではないかと思います。私達にとっての最終的な解決とは、「生」の問題以外ではあり得ないと思うからです。
そういう意味では、少し前に文庫版になった『五体不満足』(乙武洋匡・講談社)なんか、すごく参考になると思うんです。事情が異なりますから、そっくり真似しろとはいえませんし、また彼みたいに自分の問題を「特徴」ではなくて「特長」だなどと思う必要はないと思うんですけど、少なくとも彼は自分自身の「生」を引き受けている覚悟と明るさがありますね。それが彼の「特長」だと思います。
