from 山田さん (2001年06月12日 16:10)
最近、戸籍の性別訂正と人権というテーマで
某所で話をしてきました。
そこで議論されたこと、了解されたことなどを元にお話ししたいと思います。
まず、神名さんの、
| > | ところで自己決定権というのは、言葉は新しいですが、これ |
| > | は要するに「自由」のことですね。 |
という了解で自己決定権を性別訂正の根拠とするのは、GIDが求める戸籍の性別訂正の本来の趣旨からはずれるように思います。
なぜなら、GIDにとって、性別は自己決定できる類のものではないからです。
ここでいう自己決定の内容は「自由=選択」という意味です。カント的というのでしょうか。
一般の男女が、自己選択した性別で生きているわけではないように、GIDもまた、自分の性別がアプリオリに決定されており、選択の結果ではないことを感じているのではないかと思います。
その点から、GIDの戸籍の性別訂正は自己決定権の問題ではありません。
「自己決定権」の内容については、いろいろな学者がいろいろな角度から分析を試みていますが、そのために学説も多様化し、かえって解りにくくなっています。
当面は、自己決定権よりも幸福追求権という形でその権利性を表現した方がよいでしょう。
私は、個人的には戸籍の性別変更は、「ある種の自己決定権」で説明できると思いますが、前述したカント的な視点ではありません。それを説明するにはもう少し勉強したいので、今はまだうまくお話しできませんが。
また、SRSを要件とするかどうかについてですが、
GIDの生き難さの本質が、外見というよりは他者認識と自己認識のずれにある以上、外見を基準にすることは意味がありません。
むしろ人権侵害に当たる可能性があります。
他者認識と自己認識のずれが修正されるべき種類の、端的に言えばそれが個人の人格的自律に欠かせないものであるならば、それは人権として保障されなければなりません。
そうすると、外からどう見えるかを、国家が判断すべき性質のものではなくなります。
SRSを要件とすべきでないというのは、そういう論理によります。
逆にSRSを要件にするというのは、GIDが抱えている悩みが人格に関わりのないことを告白するものとなり、
社会通念上、今そこまでして性別表記の訂正を認める必要はないのではないかという意見を生んでしまいます。
SRSを要件としない主張は、法理としてGIDに人権を保障するならば、社会の了解や実現性はともかく、妥当ではあります。
まず自己決定についてですが、
| > | GIDにとって、性別は自己決定できる類のものではない |
というのは、もしここでいう「性別」が性自認の意味ならば、おっしゃる通りだと思います。性自認(の内容)というのは「認識」の内容ですから、これは当人にとっては、いわば「やって来るもの」であって、恣意的に決められるものではありません。そういう意味では、GIDの当事者に限らず誰にとっても「自分の性別が何であるか」と言うことは自己決定の対象ではありませんね。
もっとも、私は「自己決定権」を根拠に戸籍の性別訂正の実現を求めて行こうといっているのではなくて、これは元々は、真樹子さんとのやり取りの中で、ジェンダーフリーに関する話題のほうで出てきたものです。ただ、あえて、
| > | 私は、個人的には戸籍の性別変更は、「ある種の自己決定権」で説明できると思いますが |
についての私の考えを述べるとしたら、こういうことになります。まず上述の通り、性自認の内容は自己決定の対象ではありませんが、しかし戸籍訂正の申請を行なうかどうかということは自己決定の問題だといえるわけですね。性自認の性別で公に生きて行くということは、単に希望をかなえるとか自己実現といった問題に留まるものではなくて、そういう自分の在り方をこの社会の中で引き受けて行く決意をすることだと思うのです。
その決意が実現するかどうかはまた別問題ですけれども、少なくともまずそう決意するということ、それ自体は内面的自由の問題、自己決定の問題になると思います。自分の戸籍の性別変更を求めて行くのか、それとも、性自認は身体の性別と異なるけれども自分が置かれた状況を考えて戸籍の性別変更はやめておこうと考えるか、それは本人の決意(自己決定)の問題として考えなければならないでしょう。
つまり、一口に「性別」といっても、その中で何が自己決定し得る問題であり、何がそうではないのか、まずはその区別を立てる作業が必要かと思います。
むしろ結論としては山田さんがおっしゃることに異論はありませんし、私も「最終的には」そこに持って行きたいわけです。もっとも、後述するように、外見が全く問題ではないとするとGIDが抱える問題の本質から外れてしまうと思いますが。
ではなぜ私が段階論をとるかというと、山田さんも最後におっしゃっているように、「社会の了解や実現性はともかく」という部分をどうするのかということが、現実問題として残るからです。 GIDの生き難さの本質が他者認識と自己認識のずれに由来するのは確かですね。ではその「ずれ」は何に由来しているのかといえば、これは多分に「外見」によっているわけです。逆に、もし外見が問題ではないとしたら、当事者が性自認に合わせた服装をし、あるいは性自認に合わせた身体を求めることの意味を否定する事になるでしょう。別の言い方をすれば、どのような外見が他者認識と自己認識のずれを呼び寄せるのかを、当事者自身が「知っている」ということです。また、
| > | 逆にSRSを要件にするというのは、GIDが抱えている悩みが人格に関わりのないことを告白するものとなり、 |
とありますが、その「GIDが抱えている悩み」には多かれ少なかれ身体違和(性別違和)が含まれています。したがって、外見(身体)と人格とを全くの別ものとして切り離して考えてしまうと、かえってGIDが抱える問題(法的な問題に限らず)は解けなくなってしまうと思います。当たり前ですが、身体を抜きにしてはGIDという概念それ自体が成立しないからです。これが例えば「思想および良心の自由」といった問題でしたら、外見(身体)を全く無視して考察を進めることも可能かもしれません。しかしGIDに関しては、この点で問題の質が異なります。
そうしますと、法理としてはともかく、現実問題としてこの外見の問題をどう扱うのかということを考えざるを得ません。「社会の了解」を考える場合には、外見は問題ではないとはいえないわけです。外からどう見えるかは、確かに、国家が判断すべき性質のものではないと思います。しかし一方で、「人々が外からどう見るか」についても、そこに国家が介入できるのかという疑問もあります。
私の考えでは、おそらく国家というものは「人々が外からどう見るか」について直接的な干渉は出来ないだろうと思います。国家に出来るのはせいぜい、できる限り他者認識と自己認識のずれを少なく出来るような「条件」を整えるということで、それ以上の事をすれば、個人の内面に踏み込まざるを得なくなるからです。戸籍上の性別訂正についての私の位置付けは、あくまでもこの「条件の整備」であって、「他者認識と自己認識のずれの修正」そのものではないと思うんですね。後者は、各人がその生の中で取り組むべき問題であって、国家が保障する性質のものではないと思います。
では、他者認識と自己認識のずれの修正はどのように行うかというと、現実には当事者は、そのずれを外見の修正によって埋めているわけです。それによってある程度の自他の認識のずれは埋められるわけですが、しかし戸籍という壁に突き当たってしまう。これは当事者や医師が勝手に直すわけにはいきませんから、国家に対して「どうにかしてくれ」というしかありません。それが当事者が戸籍訂正を要求するそもそもの動機であったはずです。
極端にいえば、元の性別の姿のままで戸籍上の性別だけが変わっても、人格的自律という観点からも意味がありません。したがって、外見を基準にすることに意味がないというのはあくまでも程度問題として論じるべきことで、完全に外見の問題を無視してしまうと、かえって問題の本質から離れてしまうと思います。少なくともGIDにおいては、人格の問題と身体の問題とは不離の関係にあって、無関係な問題ではないからです。
もちろん、法理の面からは、という前提で考える限りではおっしゃる通りだと思いますから、それを実現する方法について、これからも考えて行きたいと思います。
