from 山田さん (2001年06月15日 02:30)
| > | しかし戸籍訂正の申請を行なうかどうかということは自己決定の問題だといえるわけですね。 |
それと自己決定権がどこで重なり合うのですか?
申請を行うかどうかは、もちろん誰にとっても自己決定の領域だと思いますが、その申請を受け付けるかどうかが問題にされているのです。
具体的には、特定の申請の内容について、国家が判断することが自己決定権の侵害になるなら、国家はそれを判断してはいけないということです。
性別訂正に関しては、出生時に医師の証明によって登録されたわけですが、同じように医師の証明によって性の変更が認められるならば、国家はそれを拒否する権限があるのかどうかが問われていると思います。
| > | むしろ結論としては山田さんがおっしゃることに異論はありませんし、私も「最終的には」そこに持って行きたいわけです。もっとも、後述するように、外見が全く問題ではないとするとGIDが抱える問題の本質から外れてしまうと思いますが。 |
これが最終的なものかどうか、私には今ひとつ分かりかねるところがあります。
というのは、ドイツの憲法裁判所の判決の概要を読んでみますと
ドイツの性転換法が何故SRSを要件としたかが理解されるからです。
これはやはりGIDの本質に対する認識の問題だと思いますが。
GIDというのは、というよりGIDにおける戸籍の性別訂正に関しては、当初の記載に錯誤があったかどうかが、解釈上問題になりますね。
ドイツでは、この場合(といっても出生登録簿ですが)、錯誤無しと解釈します。
そして「その後」、性が転換していったものと捉えるのです。
すると性別訂正を認めるためには、「いつ」その人の性は転換を完了したか?という時期が特定されなければなりません。
それを手術完了期、とするのです。
このようなGIDの理解に立つならば、戸籍の性別訂正の条件にSRSを要件とすることの妥当性が生まれます。
というより、必要不可欠の条件になりますね。
当然、人権にも配慮したものとして認められます。
| > | GIDの生き難さの本質が他者認識と自己認識のずれに由来するのは確かですね。ではその「ずれ」は何に由来しているのかといえば、これは多分に「外見」によっているわけです。逆に、もし外見が問題ではないとしたら、当事者が性自認に合わせた服装をし、あるいは性自認に合わせた身体を求めることの意味を否定する事になるでしょう。別の言い方をすれば、どのような外見が他者認識と自己認識のずれを呼び寄せるのかを、当事者自身が「知っている」ということです。 |
私がこの説明で分からないのは、
では何故真樹子さんがおっしゃっていたように、TNJのとある集会での金城弁護士(でしたっけ?)の主張が、圧倒的拍手を持って支持されたのでしょう。
SRSがGIDにとって必要不可欠の治療方法ならば、SRSを要件とすることに否定的な感情を持つ必要が全くないのではありませんか?
むしろSRSを要件とすることによって、手術に保険が認められるようになり、今までの五分の一以下の費用で外見を変えることができるのですよ。
その集会に参加していた多くの人々は、GIDではなかったのでしょうか。
外見の変更は必要かも知れないが、不可欠とはいえない、と多くの当事者は感じているのではありませんか?
| > | 具体的には、特定の申請の内容について、国家が判断することが自己決定権の侵害になるなら、国家はそれを判断してはいけないということです。 |
なるほど原則的にはその通りでしょう。しかしこれだけでは「自由」についてのあまりにナイーブ過ぎる考えにならないでしょうか。もしこれが私文書に記載された性別でしたら当人の好きにすればよいわけで、そこに国家が口を挟む理由はないと思います。ですが、戸籍という公文書について、こうも簡単に全く同じ事がいえるとは思えません。
性別というのは、現実に個人を特定する際のメルクマールの一つとして機能しているわけで、それは国家や社会といった共同体を営む上で、いわば他者との関係の上で必要な項目とみなされているわけです。もちろん当事者の立場からいえば、それだからこそ戸籍の変更もしくは訂正の必要性が感じられるわけですが、申請を受けた側(この場合には国家)としては、「これは本人の自己決定ですから」といわれて、無条件に「はいそうですか」というわけにはいかないでしょう。
おそらくは、山田さんもそれが直観的にでも判っていらっしゃるから、
| > | 同じように医師の証明によって性の変更が認められるならば、国家はそれを拒否する権限があるのかどうか |
というように、「医師の証明」をその条件として考えられているのではないかと思います。もしかしたら「自己決定」という言葉の意味が私達の間で異なっているのかもしれませんが、少なくとも当事者の「主観的な決定」だけではだめで、医師の証明という一種公的な判断を必要とするということは、山田さんも認めていらっしゃるわけですね。それは私文書と異なる、公的な文書の特徴だと考えられます。そこでは、実質的には「医師の見解に従うだけ」という事になるかも知れませんけれども、少なくとも形式的な手続き上は「国家の判断」が介在する余地が発生し得ると思います。
さらにいえば、戸籍の訂正が法的な手続きの問題でもある以上、もしかしたら実質的には「医師の証明」を追認する形になるかもしれませんが、国家は何らかの「判断」を、例え形式的にでも「しなければならない」のではないでしょうか。
いわばその前例となるのが、正式な治療としての SRS だったと思います。この場合、山田さんが前回おっしゃったように、もし外見の問題が個人の人格的自律と切り離して考えるようなものだとしたら、この SRS が母胎保護法違反にならないという判断の根拠をどこに求めたらよいのでしょうか。確かに、人の外見がどう見えるかは、国家が判断すべき性質のものではありませんし、また私が前回述べたように、国家は人々がどう見るかという事についての直接的な介入も出来ません。しかしそれは、「人々がどう見るか」について国家がまったく無頓着でよいという事とは別問題だと思います。この場合、少なくともある当事者に対して、「外見」という問題の解決がその当事者の人格的自律にとって欠くべからざる(そして他に手段がない)方法であると医師が認め、それを国家が承認(追認?)することで、初めて合法的な SRS というものが実現するわけです。
SRS が医療行為であり、戸籍変更が法的手続きであるという違いを除けば、両者の問題は基本的にパラレルである、もしくはパラレルであるべきだというのが、私の考えです。
ところで、この「医師の証明」についてですが、先月16日付の日本精神神経学会の『性同一性障害の法的性別に関する緊急要望』では、
| 上述した理解に基づき、性同一性障害を有する者の医学的性別を考えた場合、男性ないし女性のいずれかに断ずるのは容易なことではない。しかしながら、少なくとも、精神科医により性同一性障害と診断を受け、性別の自己認識が明らかにされ、適切な医療手段として性別適合手術がなされ、身体的性別を性別の自己認識に一致させた者については、性別の自己認識に従って、医学的に性別を判断するのが妥当だと考える。もし、この医学的に判断された性別と不一致なものに法的性別が判断されるなら、その判断は性同一性障害に対する医学的理解が欠如したものと言わざるをえない。 |
となっています。つまり現状では、原則的には「医師の証明」を得られるのは正規の治療として SRS を受けた人に限られるということになります。つまり、山田さんの、
| > | 性別訂正に関しては、出生時に医師の証明によって登録されたわけですが、同じように医師の証明によって性の変更が認められるならば、国家はそれを拒否する権限があるのかどうかが問われていると思います。 |
というご主張と、SRSは戸籍訂正の要件として不可欠なものではないという考えとは、とりあえず現状では両立する余地がありません。したがって法理がどうあれ、今のところは「SRS不要論」は現実的な選択肢たり得ないと考えるのが妥当かと思います。
もちろん私は、上の「緊急要望」の引用箇所の中で、強調箇所の直前に「少なくとも」という一語が入っている事を見逃したり、故意に無視しているわけではありません。それどころか今後、段階的に戸籍訂正の対象枠を拡大して行く上では、この「少なくとも」という一語はなくてはならないものだと考えています。しかし前後の文脈から判断する限り、これが「SRSは戸籍訂正の要件として不可欠なものではない」という主張を直ちに実現するために書かれた文章ではない事は、見て取る事ができると思います。
それから、
| > | 外見の変更は必要かも知れないが、不可欠とはいえない、と多くの当事者は感じているのではありませんか? |
についてですが、これは既に私は、真樹子さんとのやり取りの中で述べています。もちろん、当日その場にいなかった私には、なぜSRS非要件論が圧倒的に支持されたのかといわれれば、最終的には「その時の参加者に聞いてくれ」というしかないのですが。
ただ私にいえる事は、それはTNJの集会においては「その集会に参加していた多くの人々」の多くが感じている事だったかもしれませんが、しかしその一事をもって「多くの当事者」という一般論に置き換える事は出来ないということです。これも既に真樹子さんとのやり取りの中で述べたように、今年三月に開かれた第三回GID研究会では、SRS非要件論に対して当事者から反論が出され、現実路線の方がより多くの支持を集めていたからです。
これは先般の真樹子さんとのやり取りの中で述べた事の繰り返しになりますが、「多くの当事者」は
と考える人が一番多いだろうと思います。
ですから、いわば当事者の「一般意思」としては「外見の変更は必要かも知れないが、不可欠とはいえない」というのは成立しているといえると思います。ただ、私が再三に渡って繰り返しているのは、「それが直ちに実現可能か」ということが問題になるといっているのであって、私とても「非要件論」に反対しているわけではありません。ただ、その実現には時間がかかるといっているのです。ですから、非要件論の正当性を並べるだけでは私への反論にはなりません。もし「段階論」に対する反論を述べられるのでしたら、非要件論を条件としても戸籍訂正が短期間の内に実現できるという主張と、そのための現実的な条件が揃っているという事を示して頂く必要があります。
それからこれは愚痴のようになるので、今まで書かずにいたのですが、TNJは異論を持つものを歓迎しない性質を持っています。例えば、一昨年のいわゆる「4月4日問題」の時に、私がこのHPにTNJ批判を掲載したら、それまでメールで送られてきたTNJの集会の告知が来なくなりました。それから半年ほどして、今度は【New Trans Gender Cafe Gold】
(http://www.netlaputa.ne.jp/~mike/ntgc/trancont.html)のとまとさんが『創』という雑誌にTNJ批判を含んだ記事を書いたら、そちらでも集会告知の書きこみが止まりました。逆にいえば、TNJの集会の参加者のほとんどは(全員ではありませんが)、少なくともあまりあからさまにはTNJを批判しない人達だという事です。ですからTNJの集会で述べられたことについては、その参加者の多くが支持をしても不思議では在りません。しかし「TNJの参加者」イコール「当事者一般」ではないのですから、戸籍訂正が非要件論で直ちに実現出来るという考えが「当事者一般」の意思だといえるわけではありません。この事は、第三回GID研究会での反応が裏付けていると思います。
しかし、これではまだ山田さんのご指摘へのお答えには足りませんね。山田さんのご指摘からすれば、「それにも関わらずなぜ当事者があんなにTNJの集会に集まるのか」と重ねて問えるわけですから。
これもある程度は、真樹子さんとのやり取りの中で述べたことですが、まず基本的な考え方の枠組みの違いということが大きいと思います。TNJの場合には、他の様々な社会運動にも見られるような「かくあるべし」という理想論が非常に強い。差別運動でも公害問題でもそうなんですけど、そういう論法を採ると「個人の解放」と「社会の変革」がひとつながりになってしまうんです。今の「この私」の問題を解決するためには、社会の矛盾を徹底的に解消しなければならないという、70年代くらいに流行ったスタイルです。それは「この私」の問題解決だけではなく、必然的に「みんな」の問題解決とイコールになってしまう。
そうすると、「かくあるべし」という当為(ゾルレン)と、現状が「いかにあるか」という存在(ザイン)の区別がつかなくなってしまう。この考え方からすれば、私のような段階論は「一部の者立ちだけがいい思いをする」という、許し難い不平等な思想にしか見えないでしょう(笑)。一方、私から見れば、戸籍訂正が非要件論で直ちに実現出来ると考えるのは、あまりにも能天気すぎます。SRS を要件に含めて考えてさえ、広範な理解を得るための具体的な「落としどころ」が見つかっていないのですから。
もちろん、「みんな」の問題がすべて同時に解決するような、そのための具体的な方法があり、現実的な条件を踏まえて考えてもそれがすぐに実現可能だというのでしたら(その説明に説得力を感じられたら)、私も反対しません。しかし実際には、そんな現状認識を持つ人は、当事者といえどもそんなにいません。少なくとも、一人ひとりに対して「そんな事が本当に可能かと思うか?」と尋ねたら、大半の人は否定するでしょう。しかし、人間にはその一方で「場の雰囲気」に従ってしまう癖があって、皆が理想論で盛り上がっているところで反対意見を述べるというのは、かなり度胸を必要とする作業です。何割かの人達が拍手をしたらそこで一人でシラけている方が難しくて(それは少なくともある程度の自覚的な意思の強さが必要で)、例え話を聞いていなくたって周囲に合わせて拍手をしてしまう。そして、それがアホらしいと思う人達は次回から参加しなくなってしまうわけです。
もうひとつは、当事者が情報を渇望しているということですね。ある程度の情報はインターネットで得られるものですが、インターネットを使っていない人もいますし、TNJの場合には医師や法律家といった専門家の方面にも太いパイプを持っていますから、そこで得られる情報に大きな魅力を感じるという人は多いでしょう。
また、当事者同士が直接に顔を合わせることが出来るというのも、(TNJに限らず)自助グループの集会の大きな魅力です。特に、普段は身の回りに他の当事者がいないというような環境に置かれている人にとっては、これは大変な魅力です。身の回りに理解者がいないということは、日常生活の中で当事者の種々の可能性を著しく制限します。中にはほとんど「絶望」とか「どん底」という人も珍しくありません。そして人間はそういう状況には耐えられるようには出来ていません。そのため、当事者同士が直接に顔を合わせる自助グループの集会は、いわばそれだけで「癒しの場」としての機能を発揮してしまうのです(それが悪いというのではありません)。
