from 山田さん (2001年06月21日 23:36)
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> なるほど原則的にはその通りでしょう。しかしこれだけでは「自由」につい > てのあまりにナイーブ過ぎる考えにならないでしょうか。もしこれが私文書に > 記載された性別でしたら当人の好きにすればよいわけで、そこに国家が口を挟 > む理由はないと思います。ですが、戸籍という公文書について、こうも簡単に > 全く同じ事がいえるとは思えません。 |
う〜む。
どうも神名さんは、自己決定と自己決定権と自由はほぼ同じ意味で使っていらっしゃるようですね。そのあたりの誤解が、この問題についての種々の見解を生んでいるのかも知れません。
私は、自己決定と自己決定権を分けて使っていますし、自由と自由権も同じ解釈としては捉えません。自己決定が自由と言えるかどうかも、事例によりけりでしょう。
私はこの問題を「人権としての自己決定権」で考えたらどうなるか、という視点でお話ししています。
しかし自己決定権は、たとえばアメリカの場合、私権すなわち民法上の権利として出発しました。1992年の連邦最高裁判決で、それが人権としても認められることになったわけですが、日本では人権としてはおろか、民法上の権利としてもそれほど定着している権利ではないようです。
人権は憲法上の権利ですから、国家の制定する法律(国法)との関係で問われる権利です。戸籍の変更を申請するかどうかという選択の自由は、そもそも国法で禁じられてはいません。ですから国法と個人との無関係な関係においては、それは単なる自由であり、権利ではありません。
その意味では、あらゆる自己決定が自己決定権につながるわけではないのです。
国法が個人のある自己決定を禁止し、それが個人の人格的自律に欠かせないものであるとき、その自己決定は権利として保障すべきと訴えるべきとなります。
それから私文書の性別は好きにできるという点についても一言。
私文書だから何でも書けるというのは、正しくありません。契約書面などは立派に私文書ですが、だからといって好きなことを書いて良いものではありません。
民法1条に言う信義則、90条にいう公序良俗に反することは書けないのです。戸籍上も男性、見かけも一見して男性と分かる人が女性と記せば、書面の契約効果はなくなる可能性があります。たがらこそ、性別はおろそかにできないのです。
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> 性別というのは、現実に個人を特定する際のメルクマールの一つとして機能 > しているわけで、それは国家や社会といった共同体を営む上で、いわば他者と > の関係の上で必要な項目とみなされているわけです。もちろん当事者の立場か > らいえば、それだからこそ戸籍の変更もしくは訂正の必要性が感じられるわけ > ですが、申請を受けた側(この場合には国家)としては、「これは本人の自己 > 決定ですから」といわれて、無条件に「はいそうですか」というわけにはいか > ないでしょう。 |
「自己決定だから」保障するのではなく、「自己決定権だから」保障しなければならないのです。
厳密に言えば、戸籍の性別はそもそも自己決定で登録されるものではありません。
ですからその変更も自己決定で可能になるわけではありません。それは戸籍法113条が示しているとおりです。
ここで言わんとすることは、自己決定だから重要なのではなくて、人権だから重要だということです。自己決定と自己決定権はここでは意味が異なります。
登録時の医師の証明が現在の医師の証明で覆されながら、戸籍法113条の「錯誤」の解釈がGIDの変更理由を認めないとき、GIDの性別変更がその人の人格の健全な育成に欠かせないものと見なされれば、変更を拒否している家庭裁判所、あるいはそれを黙認している行政を、人権侵害として訴えることができます。その根拠を自己決定権(侵害)と呼べばそうなります。
私はまだそれを自己決定権と見なせるかどうか分かりませんので、13条の幸福追求権で主張した方が良いとも感じますが。あるいは25条の生存権違反でも訴えることができるかも知れません。
専門的なお話で、一般の方々にはわかりにくいかも知れませんが、生存権は社会権と呼ばれ、同じ人権でも自由権とは区別されています。戸籍の性別変更は裁判所ないしは行政に作為を請求するものですから、これが権利なら自由権でなくむしろ社会権に近いものです。ですから自由の観点からは性別変更を正当化できませんし、GIDの性別変更は性別の自由とは別のものだと思います。
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> さらにいえば、戸籍の訂正が法的な手続きの問題でもある以上、もしかした > ら実質的には「医師の証明」を追認する形になるかもしれませんが、国家は何 > らかの「判断」を、例え形式的にでも「しなければならない」のではないでし > ょうか。 |
人権が制限されるのは、公共の福祉の観点からそれが好ましくない場合だけです。
公共の福祉というのはたいへん曖昧な概念で、それの判断基準については個々の人権ごとに異なるものがあり、何が公共の福祉かは簡単には表現できません。しかしそれは少なくとも「社会的コンセンサス」というようなものではないと思います。常識とかコンセンサスで人権が制限されるなら、人権がそもそも権力の防波堤として発達してきた意味がありません。GIDの性別変更が個人の尊重、ないしは人間の尊厳に欠かせないものであるならば、誰がなんといおうと憲法上に認められた人権として保障されなければならないと思います。
SRSを性別変更の要件とする視点は、GIDの病理解釈の問題でなければ、どうも民法における90条の公序良俗規定に負っているように思いますね(大島先生の論理)。憲法上からは、これは少々(どころか大いに)難アリと感じます。
TNJについては、長くなりましたので後日。
| > | どうも神名さんは、自己決定と自己決定権と自由はほぼ同じ意味で使っていらっしゃるようですね。 |
そうですね。それについては、まぁ私の「誤解」というよりも「無知」なんですけど(^^;)、それにはとりあえず2つほどの理由があります。
ひとつは、この「自己決定権」というのは、真樹子さんとのやり取りの中で真樹子さんの方から出てきた概念なんですけど、それについて私がまだよく判らない、ということです。ふたつ目に、その判らない理由として、私は「権利」なり「人権」なりが、それ自体として存在しているような仕方をしているもの、客観的な存在物だとは考えていないということです。
話が飛びますが、そのあたりの山田さんと私との違いが、山田さんの、
| > | 常識とかコンセンサスで人権が制限されるなら、人権がそもそも権力の防波堤として発達してきた意味がありません。 |
という言葉に表れていると思います。そもそも(例え形式上の事とはいえ)人権について定めている日本国憲法が「日本国民の総意に基いて」存在しているわけですから、私の考えでは、常識やコンセンサス、あるいは民意に基づかない人権は原理的に存在しないだろうと思います。別のいい方をすれば、コンセンサスに沿わない人権は「人権」ではない、ということです。
ただし、ロックのような「天賦人権説」に拠るのならば話は別で、この場合は神の創造物である不完全な人間が、天与の(神から与えられた)人権を変更することはあり得ないということもいえるでしょう。しかしそれなら、自己決定権が連邦最高裁判決で人権として認められるということもあり得ないということになります(ここでちょっと最初の話にもどすと、私の「自己決定権」についての「無知」はそれを支える原理の不明瞭さに由来しています)。
もし、「天賦人権説」のような宗教的な権威の保証を必要としない人権があるとしたら、それはルソーのいう「一般意思」(普遍意思)を考えなければならないでしょう。この前提に立った場合にのみ、私個人の考えとしても、
| > | GIDの性別変更が個人の尊重、ないしは人間の尊厳に欠かせないものであるならば、誰がなんといおうと憲法上に認められた人権として保障されなければならないと思います。 |
という事がいえるだろうと思います(つまり、個人的には私もそれが一般意思として妥当であろうと考えています)。しかし、ではそれを実現するための現実的な条件は何かというと、少なくとも、
の2点は必要ではないでしょうか。
もしこうした手続きを無視してもよいと考えるならば、その考えは「一般意思」の名のもとに恐怖政治を実現させてしまう可能性を常に孕んでいます。フランス革命直後の恐怖政治はまさにその典型ですし、スターリニズムの常套句である「人民の名において」というのも同じことで、これは民主主義とはいえないでしょう。
その危険を避けるためには、定められた手続きを無視することは出来ません。つまり、誰かが(例えば、山田さんなり私なりが)ある政策について「その実現は一般意思に沿うものである」と考え、それを「誰がなんといおうと」実現を強行することは、この社会では許されない、ということです。
ある政策が「一般意思」に沿うものであるかどうかを決めるのは誰でしょうか。法学者でしょうか、それとも政治家たるべく特別な教育を受けた人達でしょうか、あるいはその都度の問題に直面している当事者でしょうか。いずれにしても、それを限定してしまえば、これはアリストクラシー(もしくはそのバリエーション)ということになってしまいます。
山田さんがおっしゃる事は、人権についての憲法解釈という意味ではわかるのですが、民主主義における「手続き」ということが欠けているのではないかと思うのです。「誰がなんといおうと」というのは、私の考えでは、GID当事者を含むこの社会の成員の全員にとって、かえってマイナスなのではないでしょうか。
ただ、「人権についての憲法解釈」についていうならば今回の、
| > | 戸籍の性別変更は裁判所ないしは行政に作為を請求するものですから、これが権利なら自由権でなくむしろ社会権に近いものです。ですから自由の観点からは性別変更を正当化できませんし、GIDの性別変更は性別の自由とは別のものだと思います。 |
というのは「なるほど」と思いました。これは山田さんが前々回の、
| > | GIDにとって、性別は自己決定できる類のものではない |
ということから一貫して主張なさっていることで、よくわかります。そしてその具体的な中身は、(法律家や医師の助けを受けるとしても基本的には)当事者自身が語らなければならないことであって、そのための工夫をきちんと積み重ねて行かなければならないのだと思います。
