from mori さん (2001年06月22日 19:03)
神名さん、こんばんわ moriです。
●先日(6/16)の竹田/西先生の「現象学」講座では、これまでの私の考察結果を思い切って、両先生ならびに神名さんにお渡しでき、本当にうれしい気持ちになりました。ありがとうございました。
●さて、これまで、現象学の基礎知識(還元とか確信成立の条件等)および、価値や意味に関する考え方も、大分、分かるようになりました。
そこで、今度は、本質直観をもう少し勉強したくなり(そのためにはフッサールの「イデーン」を勉強すれば良いらしい)9月からの、西先生の「現象学の復権」講座を申し込もうと考えています。もし、ご一緒になったら、又よろしくお願い致します。
●そこで、一つお聞きしたいのですが、神名さんは、いつまで、現象学講座の勉強を続けられる予定でしょうか、目安でもあれば教えて頂けませんでしょうか。神名さん位に理解ができれば、後は自分で考えて行けるので、特に講座で勉強する必要はないように思われますが、如何でしょうか。以上
私は本質直観は竹田青嗣さんの『はじめての現象学』(海鳥社)で覚えました。あの本は本質直観の実例が出ているので、その点とても判りやすかったと思います。他に小浜逸郎氏の著作にも、本質直観の実例という形でもお世話になりました。西研さんの新刊、『哲学的思考 −フッサール現象学の核心』(筑摩書房)もなんとか読み進んでいます。
私がいつまで現象学講座の勉強を続けるかということですが、今のところ終了予定はありません。というのは、次のような理由です。
私がこのHPに書いている考察など、普段はひとりで考えているのですが、そうすると2つの不安が出てきます。1つは、考える方法です。つまり本質直観のことなのですが、とりあえず身に付いたとはいっても、そのやり方が知らず知らずの内にズレていったりしないかという不安があるわけです。
もう1つは、考える内容です。ご存知のように、私は性について考察しているわけですが、自分一人で、あるいは性同一性障害の当事者だけでものを考えていると、世間との間で考え方に開きが出てきてしまうのです。先日もその事に触れたのですが、1箇所に集まった人間がお互いに「そうだ、そうだ」と言い合っていると、事実がどうあれ、そこで言われている事が現実味を帯びてくるという事があります。現象学では「間主観性」というんですけど、まず現実があってそれを認識するのではなく、お互いに「これが現実だ」という事を確かめ合うことで「現実味(リアリティー)」が生じるわけです。
そういう事を続けていると、自分一人だけの、あるいは性同一性障害の当事者だけで共有されるような「現実」を作り上げて、その中に閉じこもってしまう危険があります。それもたいていは、自分たちにとって都合のよい「現実」を作ってしまう。様々な種類のマイノリティが、「自分たちはマジョリティによって虐げられている」という告発・糾弾に走りがちなのも、このためだと思います。だけどこういうのは一種の「関係の病」ですね。そういう不健全さから自分を遠ざけておきたいという気持ちが、私にはあります。
私は、社会と対立するための理論武装をしているわけではなくて、社会との間に(あるいは一般的な性規範との間に)「共通了解」を築き上げることが目的ですから、自分がそういう「独善的独我論」に陥ることは避けなくてはなりません。そのためには、私が性同一性障害であることを知っている非当事者の中に身を置くこと、当事者コミュニティの外側に開いた回路を保っていることが必要です。そうすることによって、自分の言葉がどれだけ通じるのか(通じないのか)とか、世間と私との間で考え方にどれくらい開きがあるのかを計ることが出来ます。
ということですね。勉強の程度についていえば、私の場合は本質直観が出来るという事が大切だと考えていて、だからいまだに文献の読解は苦手ですけれども(笑)、それなりのレベルでは必要なことはだいたい身に付いたと思っています(あくまでも私の目的に照らしての「必要」ということですけど)。それがおかしな方向に変質してしまわなければ(それを確認し続ける事が出来れば)とりあえず充分だと考えています。後者についていえば、勉強の他に、1ヶ月に何度かはそういう環境に身を置くことが自分にとって必要だと考えていて、その「環境」としてもあの講座は私にとってはうってつけなのです。そういう意味では、フッサールが何を考えたかということだけではなくて、私にとっては他にも得るものがある貴重な場なのです。
