「本質直観」と「内観法」の違いについて


from mori さん (2001年06月30日 10:59)

神名さん、こんにちわ、moriです。

■神名さんが、ご自分の考え方そのものがズレていないかを確かめるためにも、これからも竹田先生の「現象学」哲学講座に継続して参加されるとの趣旨は、良く理解でしました。奥義を極めようとされる求道者の風貌が感じられ、感銘しました。
たしかに、竹田哲学講座には、大川隆法の「幸福の科学」に対する竹田青嗣の「幸福の哲学」とでも言えるカリスマ性が感じられるので、私も継続して参加できたら良いと思っています。しかし、色々と都合があり、次回の西先生の「現象学の復権」という講座を受けて、本質直観のやり方に納得がいったら、哲学講座の参加は止める積りでいます。その後は、自分で、現象学の考え方を、生活の中で生かしていけたらと思っています。それまでは、何卒、よろしくお願い致します。

■さて、話は少し変わりますが、現在「本質直観」について勉強している所ですが、これまで理解したところでは、昔、本で勉強した「内観法」に良く似ている気がしてならないのです。「内観法」ですと、たとえば、「親」という言葉を示され、瞑想的に自分の、「親」に関する過去の経験を思い出し、その記憶を整理していく・・・という感じでやっていくのだと記憶しています。そうすると、やり方としては、よく似ているという気がするのですが、如何でしょうか。「本質直観」と「内観法」の違いについて、教えていただけたら、幸いです。以上


「本質直観」と「内観法」

 「幸福の哲学」というのは、その意味によっては言い得て妙という気がするんですけど、カリスマ性・・・。う〜ん、確かにそういうものを感じている人は、mori さんに限らず見受けられるように思いますね。私も感じていないといったら、ウソになります。ですがその反面、思想とか哲学というのは、そういったある種の権威に依存しないというか、少なくとも依存すべきではないものだと思うのです。

 私の場合でいうと、性についての既存の説(フェミニズムのような)にまるで説得力を感じなくて、それで自分で改めて最初から考えようと思いました。その方法というのは、あらかじめ自分(達)に都合のよい結論を用意してそれを補強するのではなしに、性について「ありのまま」に見ようと思ったのです。この段階での「ありのまま」というのは、禅の影響です(笑)。

 だけど、そこで西洋哲学と同じ「主観と客観は一致するか」という問題が私の内に生じてしまいます。つまり、「ありのまま」とはどういうことなのか、という疑問です。私が現象学に興味を持ったのは、現象学だけが唯一その問いに答えているからです。少なくとも「竹田さんの現象学」だけは、この解けない難問を解いていて、「なんだ、こんな考え方があるなら、誰かもっと早くに教えてくればいいのに」と思ったほどです。

 ところで、これが親鸞でしたら「本当に念仏を唱えたら極楽に行けるかどうかなんて私は知らない。私は師匠の法然がそう言ったから信じるので、師匠にだまされて地獄に落ちても後悔しない」といって泰然としていられるのでしょう。けれども、私はそうはいきません。これはあくまでも内容(そこに説かれた方法)の問題であって、誰が、あるいはどういう人がそれを説いたかは問題ではありません。

 私がこういう考え方をするのは、かつて武術に親しんだためかも知れません。有名な先生だから、とか、古い伝統のある流派だからという理由で道場を選んでも、斬られて死んでしまったら何にもならないのが剣術ですから(^^;)、結局は「そこでどれだけ有効なことを教えているか」だけが問題になります。私は哲学についても、これと同じ考え方で選んでいるようです。

 ところで、「本質直観」と「内観法」についてですが、正直なところ、私はこの「内観法」について知りません。言葉としては知っているのですが、その内容を知らないのです。

 まず、私は直接に「内観法」をテーマにした本を読んだ事がありません。それから、話によって「内観法」の内容が違うという事があります。例えば、白隠でしたか隠元でしたかが体を壊して(というより、今でいう心身症のようなものかと思いますが)、それを「内観法」で治したという話があります。これは「甘露」が自分の身体に染み渡るようなイメージを持つようなもので、一種の自己暗示療法のようなものですね(^^;)。

 広辞苑で見ると、

ない‐かん【内観】
〔仏〕精神を集中して心中に自己の本性や真理を観察すること。また、その修行。
〔心〕(introspection) 自分の意識体験を自ら観察すること。内省。

ないかん‐ほう【内観法】
心理学の研究方法の一。研究者による観察法に対して、被験者が自分の経験を内観し報告する方法。

とあります。ここでは仏教用語の方は措くとして、心理学の用語に着目すると、フッサールの師である、心理学者のブレンターノの記述心理学が連想されます。

 記述心理学(内観心理学・純粋心理学)でも「自分の意識体験を自ら観察する」わけですが、この内観によって体験の中の一般的なもの(形相・本質)を取り出すこと、それが本質直観(本質観取、形相的還元)だということになると思います。

 例にあるような「親」についての「記憶の整理」が、どのようなものか判らないのですが、もしそれが「親」(という概念)の本質を取り出すような作業であるならば、「本質直観」と同じではないかと思います。

 ・・・と、ここまで書いてから気がついたのですが、これについては先月に出版された『哲学的思考 −フッサール現象学の核心』(西研・筑摩書房)に詳しく書かれていますね(^^;)。

 認識の客観性の意味を根底的に問い直すための「方法」。根底的な思考法としての哲学。フッサールにとって、内観心理学(純粋心理学)が単なる心の解明にとどまらずそうした課題を引き受けうるものとなるとき、それは超越論的現象学となり、「哲学」となる。そして心理学的還元も、超越論的還元へと深化するのである。

(上掲書 P160)

 この本の142ページ「4.心理学的−現象学的還元」以降をお読みになれば、両者の違いはかなり理解出来るのではないかと思います。

L.Jin-na


PREVIOUS VISITOR's ROOM INDEX NEXT
前の書き込み / Visitor's Room / インデックスページ / 次の書き込み