from 会津里花さん (2001年07月18日 16:01)
龍子さん、こんにちは!
いつも(と言いながら、このところちょっとご無沙汰ぎみだったので、週に一度は来るように気をつけるようになりました(^^;←あ、別に「ギム」とかそういうことじゃなくて、「ダメじゃーん、目を離しちゃ」っていう感じ)。
そしたら、ほらほら、やっぱり見つけた♪
「お龍さんの徒然草」に「『目を覚ませ!』単行本化決定」が書かれているのを読み、今さっそく地元の書店に「予約」しました。
なんか、すっかり常連になってしまって、きっと店員さんたちの間では「ちょっと変わった人」として有名になっていることでしょう(^^;
龍子さんの文中、
| > | 私の考えでは性同一性障害は、誰でも(非当事者でも)各人が内省することによって自分の内から取り出すことの出来るような、人間に普遍的な性質から構成されている。ただ、構成のされ方が特異な現れ方をしているのである。このことをなんとか、わかりやすい形でまとめ上げてみたい。 |
共感!
「かたち」だけで入っても、かたちのないもの(「意味」とか「価値」)だけで入っても、なんだか同じことばっかり繰り返しになっちゃうんですよね。
さて、今日は(少し長くなっちゃうかしら?)あと二つほど。
☆「漫画」の「予約」のこと書きましたけれど、私がかれこれ25年以上(←「四半世紀」とも言うんですよね〜〜……うう、年取ったぁ〜〜(;_;))注目しつづけている漫画家の萩尾望都さんの作品に動きがあるので、ご紹介。
*ずばり「女装」というのとはニュアンスの違う視点ですけど……
1)『残酷な神が支配する』連載終了(「PF」7月号)→8月に17巻刊行(たぶん完結) 途中、男女の双子が両方とも女の子の格好をしていた、というエピソードが出てきたりしますけれど、この人の作品はかなり多くの部分に「ジェンダーの揺らぎ」を含むものがあるのです。
2)『海のアリア』文庫化、8月刊行予定
これははっきりと「ジェンダー」について扱った作品ではありませんけれど、ある男の子が「君は死んで、楽器になった」といわれる、という「アイデンティティーの揺らぎ」の問題が現われます。
どこかでつながってるなー、と思うんですけど……
因みに、この作品「ASKA」で連載されて、いったんコミックで刊行されたんですけれど、その後なぜか絶版になり、今回文庫で復活!なのです。
で、同じ「ASKA」に連載された作品
3)『あぶない丘の家』……確か今でもASKA文庫で発売中
この作品では、なんと第1巻で、主人公の少年(マヒコ)に、千何百年も前に落ちてきた隕石の「生贄」にされた少女(エヒメ→魔的な存在になってしまっている)が、「憑依しよう」としたら逆に少年に「吸収されてしまう」というエピソードが(^^;
萩尾望都さんは決してT's好きとかそういうことを前に出した作品を書いているわけではないけれど、私にとっては自分自身と重ねてしまうくらい、ジェンダーも含めて「アイデンティティ」のことを考える上で重要なキーパーソンです。
(ちょっと異常なほど拘っていると、自分でも思うんですよ;けれど、それが「私」を読み解くキーワードになっている、と思えて仕方ありません)
☆「欠席届」
わけはごにょごにょごにょ……なんですけれど、7/24〜7/31か8/1ぐらいまで、「灰色の丘」をくぐって来ることになりました(by 手塚治虫)。
それだけ、わけわかんないかもしれませんけれど、とにかくお伝えしたくて。
しばらくは外も出歩けなくなってしまいますけれど、9月ごろにはチャンスがあればどこかでお会いできれば、と思います。
その節はどうかよろしくお願いいたします。m(__)m
ではでは、龍子さんも、お体に気をつけて、これからも貴重な情報・鋭い考察、剣の道に磨きをかけられますよう(^^;
(^^)/~~~
先にちょっと(? ^^;)ジェンダーの話をすると、私の場合は基本的には「意味」や「価値」から入るんです(笑)。だけど、ジェンダーの場合にはやっぱり身体が基本にある。といっても、身体に対する意味付けや価値付けということなんですけど、身体抜きにはジェンダーも考えられないんですね。
簡単にいうと、こういう事になります。ジェンダーというのは、その内容は時代や文化によって異なるけれども、人間が「男」と「女」とに二分されるということ、それ自体は普遍的ですよね。まぁ、ヒジュラのような存在は報告されていますが、それとてあくまでも女性性のバリエーションに過ぎません。いかなる時代や文化においても、「男」と「女」のどちらとも共通点を持たないような、純粋な意味での「第三の性」の存在は知られていません。
仮に、本質主義が主張するように「ジェンダーが本能のように身体と不可分な関係にある」とすると、その内容が時代や文化によって異なるという事実を説明できません。一方、構築主義で主張されているように「ジェンダーは恣意的に作られたものであって身体レベルの性別(セックス)とは何の関係もない」とすると、性二分性の普遍性が説明できないわけです。ということは、本質主義と構築主義とは、どちらも間違っている(笑)。
この「本質主義 vs 構築主義」というのは、要するに近代哲学史に見られる「身心一元論 vs 身心二元論」とまったく同じ構造を持っています。つまり、私も既に「身体」についての考察で述べたように、両者の内のどちらが正しいかということは真の問題なのではなく、実はこの対立構造それ自体が仮象の問いなのです。
私の考えでは、ジェンダーは「身体レベルの性別」に根拠を持っていますけれども、しかしそれは本能のように身体そのものにセットされたものではありません。そういう意味ではジェンダーは構築主義がいうように、社会的・文化的に「作られた」ものです。このことは、ジェンダーの内容の多様性が指し示しています。
しかしジェンダーは「身体レベルの性別」と無関係なのではなく、人間の「身体レベルの性別」に対する認識に根ざして編み上げられています。そうでなければ、様々な時代や文化の中でジェンダーとセックスが一対一の対応関係をなしているということが説明できません。性二分性の普遍性は、時代や文化を問わず「身体レベルの性別」が普遍的であることと、人間の認識に一定の共通点があるということ、この二つの事実に還元することが出来ます。
ただ、ジェンダーが人間の「身体レベルの性別」に対する認識に根ざしているといっても、それが具体的に編み上げられる過程においては、他の要因、つまり文化的な違いや自然条件の違いなどが入り込んで来ざるを得ません。これが、ジェンダーの内容が時代や文化によって異なる理由です。このように考えないと、ジェンダーが持つ「内容の多様性」と「性二分性の普遍性」という二つの事実について、同時に説明することは不可能でしょう。
そして私の考えでは、ジェンダーの内容について考える場合、文化や自然条件などの違いに根ざしている部分を別にして、人間が「身体レベルの性別」から受け取る「意味」や「価値」について考えれば、そこから「男性」や「女性」の本質(ジェンダーにおける性別の意味本質)を取り出すことが出来るはずです。
この場合の本質というのは、「男(女)はこうあらねばならない」ということではなくて、「ジェンダーにおける性概念の基本形」くらいの意味に考えてください。実際には、ここからさらに様々な性の在りようのバリエーションについて考えて行くことが可能な出発点としても使えるもの、という意味です。そして、このような出発点さえ見つけ得ることが出来れば、性についての混乱しがちな考察を、筋道だった体系として描き出すことが出来るはずなのです。
これがわからないと「性自認」について考えることは不可能で、したがって性同一性障害について考察することも不可能なんです。「性自認」という場合の「性」というのは、自分の身体についての性別ではなく、あくまでもジェンダーに対する認識です。だから、当事者が(あるいは私達が)、「男(女)」という存在をどのような概念として捉えているかということが重要なのであって、これはとりあえずは主観的なものです(身体の性別のように科学的な客観性を求めることができない)。
だけど、詳しく見たら一人ひとりが異なる内容の「男」や「女」という概念を持っているとしても、そこには何か社会的に共有されている性質はあるはずですね。そうでなければ、私達が日常会話の中で「男」とか「女」という言葉を使うことは不可能(あるいは、そういう言葉を使っても意味が通じないはず)だからです。また現代の日本人が、時代も文化も異なる基盤を持つ「ギリシャ神話」を読んでさえ、そこに見られる男女の在り方は了解可能なものとして受け取られます。そして、その「男」や「女」(という概念)は、性同一性障害の当事者と非当事者との間でも共有されています(だから両者の間でも「男」や「女」という言葉がそれなりに通じる)。
その上で、「性自認」の成立について考察してみると、そこで当事者と非当事者との共通点や相違点が浮かび上がってきます。両者が(一方的な理解ではなく)理解し合うためには、この共通点や相違点を読み解けばよいわけです。そうしたら、少なくとも相互理解の足がかりを整えることは出来ます。この場合の「性自認」の成立というのも、歴史的(個人史的)な事実として過去に何があったかということではなくて、なぜ人は自分を男(女)だと確信するのかということの理由、「性自認」という確信の成立条件を明らかにするということです。
これらが解明できてようやく、「普通はジェンダーとセックスが一対一の対応関係をなしているのに、なぜ性同一性障害という例外が生じるのか」ということの説明ができます。「性自認」という確信の成立条件で触れられることなのですが、人間の「意味」や「価値」をさらに掘り下げて考えると、「欲望」(可能性の開示と追求)という底板に突き当たります。性同一性障害の本質を一言でいえば、自分の身体とは異なる性別(ジェンダー)の概念が「欲望」として開示されてしまうこと、だといえるでしょう。この場合、欲望の開示が当人の自己選択・自己決定によって起こるのではないことに注意する必要があります。身体とは異なる性で生きることを自己選択的に決定した人は、性同一性障害とは似て非なる存在で、性同一性障害の特徴はむしろ自分のこうした性質が自分の意志ではどうにもならないという点にあります(当事者は、性同一性障害に伴う精神的苦痛を、自分の意志で背負い込んでいるわけではありませんよね)。
では、なぜ自分の身体とは異なる性別(ジェンダー)の概念が「欲望」として開示されてしまうのかというと、これは不明というしかありません。それ以上は掘り下げることができないのが、「欲望」が底板だということの意味です。だから、欲望の由来を説明することはできません。これを無理に説明しようとすると、必ず深層心理学などで使われているような「物語」を要請してしまうからです(これは哲学的思考においては「禁じ手」です)。しかし「欲望の由来を説明できない」ということは説明可能です。
簡単にいえば、どんなにコーヒーが好きな人でも、時にはコーラが飲みたいと思うことがあるでしょう。そしてその時に、その人は「なぜ今だけはコーラなのか」を合理的に説明することはできないでしょう。それ以前に、なぜ普段はコーヒーが好きかということも完全に言い尽くすことは出来ないはずで、それと同じことです。ただ、「コーラを飲みたい」という気分が欲望としてやってきた、としか言いようがない。それが「欲望」というものの性質なのです。
ただ、コーヒーやコーラと「性」との違いは、前者が人生の中での「その都度の欲望」であるのに対して、性自認の根底をなすような欲望は、その人の人生のビジョンそのものに直結しているということです。これは当事者と非当事者とを問わず、多かれ少なかれ、また肯定的なものとしてであれ否定的なものとしてであれ、「性」という概念はそういう働きをしているということです(正確には、むしろ性概念がそういう観点から作られているというべきで、それは上記の「性概念の意味本質」を取り出す過程で明らかに出来ます)。
以上、長くなってしまいましたけど(^^;)、骨子だけ・・・。
私の考えでは、アイデンティティというのは原理的には簡単で、その本質は「他者との関係において自分が何であるか」ということだと思います。ちょっと考えてみたらわかることなんですけど、他者が存在しないとしたらアイデンティティというのはいらないんです。というより、成立しないんです。他者が存在するからこそ「この私」という概念が成立するのであって、他者との関係を無視した「私そのもの」を考えるとしたら、これは背理ですね。
逆にいえば、アイデンティティ不安、あるいは自我不安というのは、アイデンティティそのもの(とか自我そのもの)の問題なのではなくて、他者との関係に問題があるということです。たとえば、「君は死んで、楽器になった」といわれることで「アイデンティティーの揺らぎ」が生じるとしたら、これはその発言内容と、それまで自分が持っていた自己像とが合わないということです。このように、他者は「私」のアイデンティティを揺るがし相対化するような存在ですけど、逆に発言内容と自己像とが一致したら、その他者(発言者)は「私」にとって、自己像を強化してくれる存在として現れるでしょう。
『11人いる!』のフロルは、一定の年齢になったら自分が男になるか女になるかを選択しなければならないという設定になっているのですが、この作品の中で彼(?)が自分が「女」になることを決定した理由も、また「他者」でした。まぁ、性別はともかくとしても、人は誰でも「自分が何であるか」ということを、他者との関係の中で引きうけたり拒否したりしているわけです。それは、私達が他者に支配されているとか、他者との関係に支配されているということでは、必ずしもありません。
中には、どう見ても支配されているとしか思えないような人も見受けられることもありますけれど(^^;)、でも、他者との関係の中で「自分が何であるか」を引き受けることと、支配されることとは、必ずしもイコールではありません。他者との関係が本当に「よい関係」だと思える時には、支配されているという感じはやってこないと思うんですね。むしろ、よろこんで「自分が何であるか」ということを、相手の期待に沿うように引き受けようと思ったりします。
逆にいえば、「よい関係」だと思っているようなところから、嫌な役目を押しつけられているような感じがしたら、それが本当に自分にとって「よい関係」なのかどうかを、自分に向って確かめなおしてみたらよいと思うんです。そうしたら、「自分は孤独になるのが怖くて、この人との関係を『よい関係』だと無理に思い込もうとしていたのかもしれない」とか、「これはちょっとシンドイけど、この人の期待に応えることが自分にとってもよいことだと思える」とか、わかるわけでしょう。
あるいは「現実の私と、自分で持っている自己像との間に開きがあるのではないか」ということに気がつく場合もあります。簡単な例でいうと(これは私が毎シーズン経験することですけど)、スキーに行って自分では上手に滑っているつもりでも、本当に上手な人から下手だといわれた、とかですね(笑)。この場合、「下手な自分」を受け入れるか、もっと上手になるために練習するかすればよいわけです。アイデンティティを変えるか、アイデンティティにふさわしいように自分を変えるか、ということです。あるいは、その背景となっている他者との関係を確かめなおしてみるとか、方法はいろいろあります。その中から、自分が納得できそうな方法を選べばよいわけです。
このスキーの例でいうと、やっぱり自分が「本当に上手な人」だと思って一目置いている人から「下手だ」といわれた時が、一番ショックが大きいわけです。逆に、自分にとってどうでもいい人から同じことを言われても「ほっとけ、アホ」としか思わない(笑)。誉められる場合でも同じで、自分が一目置いている人から誉められた方がうれしいでしょう。つまり、そういう人ほど「私」のアイデンティティを揺るがしたり強化したりする影響力が強いのです。逆にいえば、「私」のアイデンティティに対する影響力の大きさから、「自分がその人のことをどう思っているか」をある程度知ることも出来ます。
だから、自分のアイデンティティについて考える場合、自分のことだけをいくら考えても答えは出てこなくて、それは、自分と周囲の人達との関係について考え直すことが問題の本質なのです。たとえ、自分のアイデンティティ不安が「現実の自分」と「自己像」との乖離に起因しているのだとしても、自分が持っている「自己像」を誰かに認めてもらいたいと思っているから、その人に否定されると「ガ〜ン!」なわけで(笑)。
だから、もし里花さんがアイデンティティ不安を感じているとしたら、それは逆説的に救いがあって、里花さんの周囲に大事な人(達)がいるということなんです(里花さんにとって大切に思える人、という意味ね)。周囲の誰も気にならなくなったら、それは周囲に誰もいないのと同じで、アイデンティティなんか問題だと思えるはずがありません。
はっきりいって、そうなったら救いがなくて(少なくとも私にはどう考えたらよいのかわからなくて)、それは自然治癒力のない人が病気にかかるようなものです。風邪を引いたら、熱や鼻水やくしゃみが出るでしょう。そういった症状はうっとうしいけど、でも自分の体が風邪と戦っている証拠なんです。風邪を引いても症状が出ない人がいたら、危なくて仕方がない(^^;)。「悩み」もそういう症状と同じです。うつ病がひどくなると、悩む気力もなくなって、ひたすら無気力になっちゃう人がいるでしょう。そうなったら私の管轄外で、病院に行って、せめて悩むエネルギーくらいは回復してもらう必要があります。
里花さんの場合には、いろいろ悩みはあるのかもしれないけれども、もしそうだとしても自分を快方に向わせるための力があって、それが「悩み」という形で現れているわけです。
