ご質問です


from 青山さん (2003年09月19日 21:04)

いきなりですが、疑問がありますので質問させてください。
お龍さんの徒然草の中で、ジェンダーフリーは自動的にジェンダーレス
になる、というようなことを書いておられますが、何故ですか。
ジェンダーフリーとジェンダーレスは違うのではないですか?


性別に関係ないものは「ジェンダー」と呼びません

 確かにジェンダーフリー推進派は現在、「ジェンダーフリーは性差を否定しない、ジェンダーフリーとジェンダーレスは違う」と主張していますね。だけど、これはせいぜいここ1〜2年くらいの主張であり、両者の違いというのは単なる言葉の言い替えに過ぎず、実質的には両者は同じことなのです。

 ジェンダーフリーは自動的にジェンダーレスになるというのは、このHPではずいぶん以前から指摘していることで、たとえばジェンダー素描の、T's とジェンダー(98年12月20日)ですね。もう5年近くも前になります(^^;)。

 改めて説明すると、まず「ジェンダー」というのは、社会的、文化的、心理的な性差のことですね。

 一方、「ジェンダーフリー」というのは、最近のジェンダーフリー推進派の説明では「ジェンダー」を「男女の自由な生き方を枠付けして圧迫するもの」と規定した上で、このジェンダーにとらわれることなく「自分らしく」生きて行こうというものです。ついでに書いておくと、ジェンダーフリー推進派は、「ジェンダーフリーは性差否定ではない」とも言っていますね。しかしご質問にある通り、このように規定してもジェンダーフリーは必ず「ジェンダーレス」になります

 理由は簡単で、性別(身体的性別=セックス)に関係なく選べるものは、定義上「ジェンダー」とは呼べないからです。

 たとえば自動車を買うのに、ホンダを買うかトヨタを買うかという事は、性別とは関係ありません。「アタシは女だからホンダを買うわ」とか「男ならニッサンじゃなければおかしいじゃないか」という人はいません。つまり、こういうのを「ジェンダー」とは呼ばないわけですね。「ジェンダーにとらわれることなく」というのは、要するにジェンダーをこの例と同じにしてしまえ、ジェンダーをジェンダーでなくしてしまえということであって、「ジェンダーレス化」にほかなりません。

 したがって、、ジェンダーフリー推進派がいくら「ジェンダーフリーは性差否定ではない」も言っても、ジェンダーにとらわれることなく生きて行こうというのであれば、それはジェンダーの消滅を志向する以外の何ものでもありません。

 また、「ジェンダーフリーは性差否定ではない」というのは、せいぜいこの1〜2年に出てきた主張で、それ以前にはありません。

 たとえば、でたらめてジェンダーフリーで取り上げた、江原由美子という人は有名なフェミニストで、勁草書房などから何冊も本を出している人です。フェミニズムはいくつかの系統に分かれていますが、江原由美子さんはラジカル・フェミニズムという系統の人で、このラジカル・フェミニズムでは、性差別は性差があるから起こるので、性差別をなくすためには性差をなくさなければならないと主張します。この人が、ラジカル・フェミニズムは間違いだったと「転向」したという話はまったく聞きませんが、そういう人がつい昨年も、東京都文京区発行の季刊「PARTNER」21号の特集「あらためてジェンダーフリー」に文章を書いたりしているわけです。

 この、江原由美子という人の本は今でも書店で入手可能ですし、図書館にもあると思います。その中ではっきり「性差否定」が主張されていますから、実際に確認してみてください。

 また、これは関西の自治体だそうですが、「ジェンダーチェック」と称する質問表を作成しているところもあります。既存のジェンダーに沿った答えが多いと「ジェンダーにとらわれている」とか「封建主義の遺物」というコメントと共に低い点数をつけるのだそうです(^^;)。市によっては、ホームページにも掲載されているらしいですね。

 要するに、ジェンダーフリー推進派にとって、ジェンダーは消滅させるべき「悪」であり、ジェンダーフリーは「真理」であり、それに賛同しない者(私のような ^^;)は「程度の低い人間」という烙印を押して、洗脳ないし粛清の対象にでもしたいのでしょう(笑)。「ジェンダーフリーは性差否定ではない」というのは、単なるエクスキューズ(いい訳)に過ぎません

 なぜ、こういういい訳が必要になったかというと、現在のジェンダーフリーは、かつてのフェミニズム運動と違って、「男女共同参画」の形で政府や自治体といった行政の中に入り込んでいるからです。保守系の政権党の議員を「だましだまし」推進して行かないと、自分たちが放り出されたり、「男女共同参画」そのものが無に帰す可能性もあります。それで、社会にジェンダーフリーに対する警戒色が現れ始めた1〜2年前から、「ジェンダーフリーは性差否定ではない」といい始めたわけです。

 それから、ジェンダーフリー推進派は、「ジェンダー」と「自分らしさ」を、両者がさも相容れない概念であるかのような仕方で対置するんですね。だけど、これは言葉のトリック(詭弁)です。「ジェンダー」に限らず、あらゆる慣習や伝統は、それ自体としては必ずしも「自分らしさ」と相容れないような概念ではありません。このような誤りについては、『自分らしさ』とジェンダーで既に指摘してありますので、そちらをご覧ください

 私の考えを総論的に述べれば、ジェンダーというのは決してなくなることはありません。ジェンダーがなくならないということは、一定以上の男女がジェンダーを維持し続けるということです。

 ただし、ジェンダーの中身は時代と共に変化します。これはフェミニストやジェンダーフリー論者が何も言わなくても(また、そういう人たちが存在しなくても)、必ず変化します。これは言語と同じことですね。古典と現代文を見比べればわかりますけど、言語というのは、改革論者がいなくても、日本語なら日本語という基本骨格を残しつつ、しかしけっして固定することが不可能な変化をするわけです。

 ジェンダーも、たとえばガチガチの伝統主義者や国粋主義者のように、その内容を固定し、なおかつ例外を認めず押し付けるというようなことをすると、とても不自然であると同時に、迷惑極まりないものになります。いつの時代にも「言葉の乱れ」を嘆いて見せる自称・文化人がいますけど、ああいうのは鬱陶しいですね。だから私はジェンダーに関して、そういう人たちとも対立しています(笑)。

 一方、ジェンダーフリー論者の「押し付け」もご免こうむりたいわけです。既存のジェンダーに沿う回答をしたら、なぜ「封建主義の遺物」の烙印を押されて低い点数をつけられなければならないのか。それから、最近はさすがになりをひそめましたけど、専業主婦をしている女性は意識が低いなんていう放言を平気でするフェミニストも、ずいぶんいました。今でも、言葉を控えて「私は多様性を認めます」というポーズを取っているだけで、その意識はたいして変わっていないと思います。扶養控除等の廃止を主張するなどの、経済的な面での締め付けに転じただけです。「ジェンダー」や「性別役割分担」は「悪」であるという前提で専業主婦を肯定しても、説得力がありません。

 このジェンダーフリーの「押し付け」の例として、彼らの検閲思想があります。ジェンダーフリー論者はこれを「メディア・リテラシー」と称していますが、やっていることは検閲そのものです(^^;)。昨年、ジェンダーフリーの検閲思想で指摘したのはCMについてですけど、他には教科書の文章のチェックという例もあります。

 たとえば、光村図書の小学校5年生の国語教科書に掲載されていた「どろんこ祭り」(今江祥智)。どろをぶつけ合う村祭りで、「気弱な男の子」が「おきゃんな女の子」をやり込めたことから「そこで初めて、二人とも、本来の男の子、女の子にたちもどったみたいだった」と締めくくられるんですけど、それがジェンダーを助長すると批判されて、削除にいたったわけです。しかもこのときの批判者は、あきれたことに日弁連なんですね。国が検閲なんかしたら大騒ぎする人たちなんですけど、どうして自分たちには教科書を検閲する権利があると思い込んだのか、まったく理解できません。

 逆に、ジェンダーをガチガチに固定的に考える伝統主義者・国粋主義者も困り者ですけど、少なくとも彼らがCMや小説などを「検閲」して、「我が国の伝統的な男女の在り様が描かれていない、けしからん!」というのは、これまで聞いたことがありません。

 逆に、左翼にとってはこれが当たり前で「社会主義リアリズム」とか「プロレタリア文学」なんていう言葉があります。「この作品は革命の大義を書いていない、けしからん!」というのは、昔からざらにあったわけです。「プロレタリア」を「ジェンダーフリー」に、「ブルジョワ」を「ジェンダー」に置きかえれば、両者は同じ事をやっているわけです。つまり、

 哲学も文学も教育もCMも、すべて2種類ある。「ジェンダーにとらわれたもの(ブルジョワ)」と、「ジェンダーフリー(プロレタリア)」だ。そして、後者の方が正しい。なぜなら、前者はイデオロギー(当然のこととして信じられている誤った考え方)だから。そのことは、ジェンダーフリー(マルクス主義)を「真理」だと認めないので、すぐわかる!

 こんな感じですね。しかも、「検閲」の対象になるのは「表現」だけではありません。前述のジェンダーチェック表のように、人々の内面(価値観等)にまで踏み込んでくるわけです。だけど、ここまでやったら、これはもう「近代社会」ではありません。ヨーロッパの中世キリスト教社会か、社会主義国です。

 キリスト教ではたとえば、男性が女性を見て淫らな気持ちを起こしたら姦淫したのと同じだ、と聖書に書いてありますね。それから、社会主義国でも思想上の理由で収容所に送られたりします。つまりどちらも、人間の内面に踏み込んで束縛するわけです。

 一方、近代社会(近代自由主義社会)で規制の対象になるのは「行為」であって、内面は規制の対象になりません。だから、もし私が誰かに殺意を持っても、それだけでは逮捕も処罰もされません。何らかの「行為」を起こして初めて、殺人予備や殺人未遂、あるいは殺人罪などに問われるわけです。

 ところが、あちこちの自治体の男女共同参画条例などを見ると「固定的な性別役割意識の解消」などと書かれているのが見つかります。「解消」の代わりに、「払拭」とか「取り除く」などと書かれていることもあるかも知れませんが、「男らしさ・女らしさ」より「自分らしさ」などといいながら、実際にやろうとしていることは、法律や条例で人々の「意識」のありようを規定することであって、これは近代原理からの重大な逸脱です

 しかも、これは一部の自治体の「行き過ぎ」というようなものではなく、男女共同参画基本法の策定の過程で織り込まれているものです。

 1996年に男女共同参画審議会が「男女共同参画ビジョン」という答申を出しているんですけど、同審議会の委員の1人であった大沢真理さんは、審議過程で「『男女共同参画』は、…ジェンダーそのものの解消を志向するという」趣旨を確認したと証言し、「政府文書が、ジェンダーそのものの解消を展望するなどは前代未聞といえる」と解説しています(「『男女共同参画ビジョン』の特徴と意義」、『女性と労働21』1996年11月)。同じことは他でも述べていて、たとえば『ラディカルに語れば』(平凡社)という本の中でも、冒頭の上野千鶴子さんとの対談の中にこの話が出てきます。

 「ジェンダーフリーとジェンダーレスは違う」というジェンダーフリー推進派の主張がここ1〜2年のものに過ぎない。私は最初にそう書きました。なぜなら、ジェンダーフリーが「ジェンダーそのものの解消を志向する」ものとして進められてきたという事実があるからです。しかも、それはジェンダーフリーを批判する側の人間が言っているだけではなくて、このようにフェミニズム側の資料に当たっても、やっぱりそう書いてあるわけですね。

 近年の資料だけでなく、このようにもう少し前の資料に当たれば、このことは誰でも確かめることが可能です。

L.Jin-na


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