from 純子さん (2003年10月20日 13:16)
私の感想ですが、う〜ん、イマイチでした。別にどこが反対というわけではないんですが、普段のお龍さんのキレがないというか?
何故なんでしょう?
どうも龍子さんが「お子様中心主義」の教育者と、「ロリコン」とを強引に共犯関係にしてしまった点にひっかかりを感じたのかもしいれません。
確かに「お子様中心主義」の教育者も「ロリコン」マンガ描いたり見たりしている人たいちも、「児童ポルノ規制法」を過剰に推進しようとした一部の国会議員も、自分たちのロマンティシズムを子供に投影しているという共通点があるのは事実でしょう。
これは啓蒙主義やロマン主義に起源をたどれる近代の産物だという主張もそのとおりなんです。でも、それは同時代を経験している者がみんな共有している、「いわゆる一つの時代の気分」というか、「空気」というか、「コンセンサス」というか、「風潮」というか、「フーコーだったらパラダイムといっているだろうもの」なのであって、それだけで共犯関係とまで言いきってしまってよいものなのかどうか?
どうもそこにひっかりを感じてしまったんです。
さらに「お子様中心主義」の教育者と「児童に性器の名前を大声でいわせるような、現在の非常識な性教育」を推進している教育者も、近代の「解放」神話を共有しているという点は正しいけれども、それをそのまま同一勢力とみなしていいのかどうか? 「TS原理主義者」と「ジェンダーフリー派」みたいに狭い仲間内だけで、熾烈な思想闘争、洗脳合戦をくりひろげているのかも?
それに、関連してなんですが、「教育」に関する議論を読む時、いつも気になることがあるんです。要するに「教育」というのは、みんな何がしかの「教育」体験はあるわけで、そのせいでみんな「一家言」を持っている。 早い話が「政治」「哲学」「心理」とおなじく、いい加減な「床屋論議」が通用してしまう分野なんです。
だから、わけの解らない有象夢想、魑魅魍魎みたいな知識人が、後から後から沸いてきて、何が事実で、何が仮定、何が仮説で、何が定説なのか、わけがわからない無茶苦茶な議論になってしまう。
たとえば
「性教育は低年齢化している」のか?
「おかしな教材」とはどんな教材?
「小学生に性器の名前を言わせる」とは、どんな言葉をどういう状況で?
その教育の結果どういう被害が出ているのか? みんな5W1Hが抜けているんですね。
それは、たとえば「順位を決めない徒競走」の例なんかにもあります。よく保守派の方が社説の前ふりに使っているんですが、これも、どこの学校で、いつ頃行われたものなのか? 誰が命令してやらせたことなのか、よく解らない。
もちろん、これが事実だったら、私だって怒りますよ。目的のわからない行為を子供に強制しているわけで、囚人に穴を掘らして、次に埋めさせるという拷問と同じです。洗脳の一種だと思います。
でも、それは事実だったらの話です。そんな、事実はいったいどこにあるんでしょう?
これは龍子さんに対する反論でも批判でもなくて、私は本当に真剣に知りたいんです。
どうも、昔、左翼系の知識人がよく使っていた「氷が溶けたら春になる」というネタと同じで、みんなであるネタを誇張して使い回しているうちに、出典がわからなくなってしまった、一種の伝言ゲーム的ガセネタではないかと……。
私の結論、右も左も知識人は信用できない! イデオロギー的な主張をする人間は、特に!
別に龍子さんを批判するつもりは毛頭なくて、もちろん「家族論」は「子なし要件」緩和のための重要なカギなのは事実だと思いますから頑張って欲しいんですが。ちょっと今回はピントがズレているかなと気になったもので……
追記1 偽りの二者択一
ひさしぶりに某ホームページを見ていたら、「ジェンダーフリー」な方の迷走ぶりは、ひどいですね。気持ち悪いったらないです。
目指すのは「男女二元制への無条件な帰属か、多様性の承認か」で周囲のサポートグループの代表者に踏み絵をせまっていました。
これは「偽りの二者択一」という単純な洗脳の手法なんですが(統一協会などがよく使っています)。
「無条件な帰属」と「多様性の承認」だったら、誰だって自分の欲望を「承認」して欲しいですから「承認」を選んでしまう。でもこれだと、「多様性を承認するため男女二元性に幅を設ける」といった、より現実的な意見や多様な選択肢が、かえって抜け落ちるんですよ。というか本当は多様性を認めているふりをして自分の一元的な意見を押しつけるのが目的なんですね。
他のサポートグループの人たちがひっかからないで、国会議員の方たちへのロビー活動のパイプを閉ざしてしまわないことを祈っています。
この気持ち悪さは「TS原理主義」と喧嘩していた時、以来です。吐き気がする、鳥肌がたつ、おかげでバレエのレッスンに集中できないじゃないか。ええい、どうしてくれよう。
追記2 TS原理主義について
ちなみに「TS原理主義」という言葉の言いだしっぺは、たぶん私じゃないかな。昔、あるサポートグループの人を話していたとき。私が「ああ、あのTS原理主義の人たちね!」と言った瞬間に、相手がのけぞったのを覚えています。「言い得て妙」と評価いただきました。
意味、用法ともに、龍子さんの使い方のほうが正しいです。「ジェンダーフリー」な方の使い方だと「イスラム教徒はみんなアルカイダ」になってしまう。TSとTVの単純な感情のいきちがいを、どうしても「文明の衝突」にしてしまいたいらしい。
「TS原理主義」の特徴は、自分の意見を主張するときに「私たちTSは……」と人称が「私たち」になって、けっして「私は……」と言わないことです。ちなみにこれ「ジェンダーフリー」な方もそうなんです……。
「我々、○○は、米国帝国主義の支配的政策に対し、一丸となって……」。○○に「労働者大衆」が入るか、「大日本帝国臣民」が入るかが左翼と反米保守の違いですね。
追記3 生の権力について
あ、そうそう、それからこれも「ジェンダーフリー」な方の発言なんですが、
「そこの認識が違っている人が一緒にやるのは、まさに野合であって、うまくいかないでしょう」
なんてセリフもありました。ジェンダーフリーに同意しない人間を排除しろと言ってるんでしょうけど。「野合」というのは「男女が媒酌なしに通じること。密かに結びつくこと。」という意味ですから、「そこの認識が違っている人が一緒にやるのは、まさに結婚式も挙げないフリーセックスのようなものであって、うまくいかないでしょう。お父さん許しません!」とそう言ってるんですね。
これがフーコーのいう「生の権力」ですね。自分ではガンコ親父(異性愛絶対主義)を批判しているつもりで、その実、自分も気がつけばガンコ親父の一人になってしまっているわけです。
ところで、私の印象ですけど、フーコーは、単純に反権力の立場に立ったとは思えないんです。むしろ私の印象では「反権力を主張しているそこのあなた、あなたも実は権力の一部なんですよ」と言われているような気がします。
だからフーコーの理論をマルクス主義的な単純な反権力と結びつけて主張してると、主張している本人の足下の方がボロボロと崩れてしまうことになる。
それよりも、フーコーの研究は権力の適切な行使のための批判的な意見という形で受け止めたほうがいいと思います。
その場合の基準は「同性愛と生存の美学」。美学だがら基準は「正しい・間違い」じゃなくて、「好き・嫌い」なんですよね。
そういうふうに、私には読めました。
ちなみに、フーコー自身は、共産主義全盛の時代に既にポーランドの「連帯」の活動を手伝ったりしていたそうです。
追記4 家族の定義
『なぜ私はここに「いる」のか』はまだ立ち読みで、家族論の所だけ、読んだんですが、小浜先生、あいかわらずキツイなあ。いやあ、私の「家族」なんて、小浜さんから見たら「家族ゴッコ」にしか見えないだろうなあ。「擬制」とか言われちゃいそう。でも、正論だと思います。
ちなみにパートナーと私が「結婚式」を挙げたときに参考にした本は『家族・私有財産・国家の起源』(岩波文庫)じゃなくて『ブライダル・ハンドブック』(PHP出版)でした。完全に異性愛者の「結婚式」の真似です! これって「異性愛絶対主義」とか言われちゃうんですかねえ?
周囲は「遊び」だと思ったみたいですけど、私たちは「真剣な」つもりでした。今して考えると、真剣なつもりで、ちょっと見通しが甘かったかなと思います。特に経済的な!!
ちなみに、うちのパートナーが、家族を定義したんですけど。
「人間が帰属意識を感じる社会の最小単位」
だそうです。つまり、外から帰ってきたときに、相手がいると「ああ帰ってきたな」とメンバーが感じる最小の「群れ」ということらしい。人間は「群れ」を作る動物ですから、こうゆう「群れ」がなくて、一人で社会に対峙するのは、けっこうキツイと思います。
それから、これから擬制でもいいから「結婚」したいと思っている当事者には「異性愛絶対主義に反対したり、ジェンダーフリーに賛同したりする暇があったら金を貯めろ!」と言いたい。真剣に言いたい!
独身の時は、それほど感じなかったんですが、小さくとも社会的な集団を維持するとなると経済的な裏付けがないほうが異性愛者の差別視よりもキツイです。
もちろん同性婚を認めて、「パートナーを生命保険の受取人」にできるようにして欲しいとか、「遺産相続の権利を」とか、「扶養家族の指定をできるように」といった運動なら賛成です。経済的な裏付けの一部ですから。
ただ、この「風潮」が、フーコーのいうエピステーメとかパラダイムというほど強固なものかというと、私は全然そうは思わないわけです。私だけではなく、誰でも自分の子供時代を思い出して、本気で「あの頃の私はけがれのない存在だった」なんて思うだろうか? 私は、成績優秀なそれなりに「よい子」ではあったけど(劣等生になったのは中学校以降ね)、その反面、やっぱりそれなりに「クソガキ」ぶりを(^^;)発揮していたという記憶と自覚もあるわけです(笑)。そしてこれは時代的な制約を課せられたエピステーメとかパラダイムではなくて、いつの時代にも子供なんてそんなものではないか、と思う。
「お子様中心主義」は時代の「空気」には違いないのだけれども、パラダイムというほどの普遍性はないと思います。たとえばマスコミで評論家が意見を求められたときや、市井が街頭インタビューに答えるときには「お子様中心主義」に則って答えるけれども、それ以外の日常ではそんなことを忘れて「このガキゃー!」とか言ったりする(笑)。パラダイムというより、今の時代の「タテマエ」ではないかと思うんです。
だから教育に関しては文部科学省の官僚の反応が一番鈍い。「タテマエ」しか言わないからね。でも「タテマエ」というのは無難な回答を保証してくれるけれども、実は本気でそんなことを信じているわけではない。多くの人にとっては、そんなものではないかと思うんですね。
だけど、中にはそれを大真面目に信奉してしまう人がいます。「お子様中心主義」の教育者と「現在の非常識な性教育」を推進している教育者とは、完全にイコールではないかも知れないけれども、大部分は重なっていると思うんです。
昔の安保闘争なんかでもそうなんですけど、特殊な価値観を信奉してしまう人が全体の三割くらいになると、それがその時代のパラダイムであるかのように見えてしまう。以前、司馬遼太郎が随筆か何かでそんなことを書いていたのを読んだ記憶があります。実は先月、小浜逸郎さんとお話する機会があって、あの方は全共闘世代ですから、これについて質問してみたんです。わざと具体的な数字を伏せて、「当時の大学生が全員、全共闘として騒いでいたわけではないでしょう?実際には半分もいなかったんじゃないですか?」といったら、ズバリ「三割だね」と即答されました(笑)。
「お子様中心主義」の教育者と「現在の非常識な性教育」を推進している教育者とは、この「三割」(実際にはもっと少ないでしょうが)の中で重なり合っていると思う。母集団が小さいから、どうしてもそうなってしまう。それ以外はほとんどが「ノンポリ層」で、一番少ないのが、私も含めた「積極的な抵抗勢力」だと思うんですね。
これは、T's の中でも同じことが言えると思います。7月の特例法の成立後に、ジェンダーフリー支持者の側からは「右傾化だ」という声が挙がったけれども、それは全然違う。
私自身「右」ではないし(笑)、「積極的な抵抗勢力」としても、これは T's の中で一番の少数派だと思います。ただ、ジェンダーフリー派は T's の需要に応えることが出来なかった。T's の問題意識を汲み取れずに、よそからフェミニズムを持ってきて「使え」と言ったって、そんなもん使いやしません。そういう不満があったと思うんですね。
拳銃にたとえれば、この不満が発射楽になっていて、たまたま私という引き金がいた。火薬がなければ、引き金を引いても弾は出ません。「カチーン!」と空撃ちして終わりですね。でも、火薬が詰まってたものだから弾が出てしまった(笑)。そのパワーは火薬のパワーであって、引き金のパワーではありません。私の分際というのは、そんなものだと思うんですね。
別の表現をすれば、フェミニズムやジェンダーフリーという王様と、「セクシャルマイノリティならジェンダーフリーに賛同してしかるべし」という「空気」があった。ところが、それを見ている中に、私という「空気」のわからない馬鹿なガキがいて、「王様は裸だ」と言っちゃったわけですね(^^;)。それで、他の人たちもその場を支配していた「空気」にとらわれずに済んで、王様を誉めそやすのをやめちゃった。そういうことだったと思います。だから私もある意味、人々から見たら「異端」なんですよ。
う〜ん、困ったな(笑)。具体的な指摘が存在しないわけではないんですけど、それを今ここに示せるような形で、手元に保存していないんですよ(^^;)。 とりあえず、順番に答えて行くと、性教育というのは昔は中学校か、せいぜい小学校高学年だったと思うんです。私の場合でいうと、小学校の時は女の子だけ集められて映画を見せられたというのがあって、たぶん生理か何かの説明だったんだと思います。男子には何もなし。中学に入って「保健体育」で習うわけですね。だけど今は、小学1年生相手の性教育がある。これはやっぱり「低年齢化」と表現してもよいだろうと思います。
次に、「おかしな教材」ですけど、たとえば性器のついた男女の人形があって、それで性交まで演じて見せるとかですね。「小学生に性器の名前を言わせる」というのは、私が知った例では、歌なんです。「からだのうた」というそうですけど、性器の名前とかを折りこんだ歌を、男女一緒に学級の児童全員に歌わせる。そんな話がありましたね。どこかで歌詞も紹介されていたんだけどな…。
今わかるのは、具体的な学校名はないんですけど、民主党の土屋たかゆき都議の、都議会での質問の記録です(http://www.gikai.metro.tokyo.jp/gijiroku/honkaigi/2003-2/d5223314.htm)。ちょっと抜き出して描いてみましょう。
| 昨年十二月の新聞報道で、北区立の小学校の理科の授業で性交の方法を説明したり、さらには、八王子市立の小学校においても、性器が映った出産ビデオを児童に見せようとしていたことが発覚しました。 |
| ある都立養護学校の教諭は、小学部の児童に「からだのうた」を歌わせています。歌詞は既に横山教育長にお渡ししてありますので、後のご答弁の際にお読みいただきたいのですが、歌詞は、男女の性器の名称を歌うことになっています。この教諭は、性教育の授業のときには、毎回「からだのうた」を歌うことから始め、歌に合わせて教師が該当する体の部位にさわることで、身体のつながりと名称を理解させるといっています。 また、杉並区立中学校のある教諭は、成人向けインターネットホームページ「中絶掲示板」を教材として使用しています。 父親、兄、おじから性的加害を受けるビデオを教材として使用しているのは、町田市立の小学校教諭です。家族のきずなをゆがめる内容で、論評のしようがありません。 また、性交人形を使用した教育実践も行われています。(ボードを示す)これが、その性交人形の写真ですけれども、メキシコ製と日本製があるといわれているらしいんですけれども、スージーとフレッドと名前がついたこの人形は、人間の性行為を解説する授業で使用しています。この性器を強調した人形が教室に持ち込まれているのです。 ある小学校教諭は、学校で使用する図書として不適切と判断されている「せっくすのえほん」を教材として使用しています。(パネルを示す)これが、その表紙です。内容は、性交に関して、こうした、パネルを見ていただきたいんですが、イラスト入りで紹介をしているわけです。これが教室の中に持ち込まれているわけです。 このような例は、一々挙げたら切りがありません。教育庁は昨年十二月、学校における性教育の指導についての通知を出しています。ところが、そんな通知はどこ吹く風の教員が、独断的な教育を続けているのです。教育庁は、通知を出すだけで事態が改善されたと認識していたのでしょうか。 |
次に、この質問に対する、横山洋吉教育長の回答の一部です。
| 次に、性教育にかかわる実態調査についてでございますが、平成十四年十二月に、区市町村教育委員会及び公立小中学校を対象として、学校における性教育の指導に関する調査を行ってまいりました。 その結果、発達段階を踏まえない性教育の指導に対する苦情が、小学校で十件、中学校で一件、教育委員会で三件あったことなどを把握いたしております。このため、都教育委員会としましては、適正な性教育の実施について通知しますとともに、新たに性教育に関する指導資料を作成、配布するなど、各学校及び区市町村教育委員会を指導してまいっております。 |
どうでしょう? これだけでは、純子さんのいう「5W1H」を満たしているとはいえませんが、少なくとも指摘されているような非常識な性教育が「存在しない」と言い張ることが不可能だということは、おわかりだと思います。それに、私自身は見ていませんけど、土屋都議の質問を信じるならば、こうした実例は「実践報告、論文等」の形で性教協の季刊誌に書いてあるそうです。私も今後、具体的な情報を目にしたら、できるだけ手元にとどめておくようにします。
もちろん私も、ジェンダーフリーに対するバッシングが全部正しいとは思っていません。たとえば今年の一月に週刊新潮で、福岡県のある高校で男女が同じ教室で着替えをしているという記事があったんです。【online magazine Sexual Science】に『対談「ジェンダーフリー」バッシングを考える』という記事があって、そこで性教育の人間もこれに触れているんですけど、こんな教頭のコメントが載っていたというんですね。
これは、私はちょっと違うんじゃないかと思った。というのは、「ジェンダーフリー」なんか存在しなかった時代に中学・高校を過ごした人からでも、「男女同室着替え」の経験談を集めることができたからです。「5W1H」にこだわらなくても、こういう形で反証を集めることはできる。犯罪捜査でこれをやったら拙いんですけど(^^;)、この記事の信憑性がどの程度かということを測るなら、こういう方法もありだと思うんですね。
「男女同室着替え」はジェンダーフリーと関係なく、どうも「更衣室がない、狭い、教室から遠い」などの条件があると、こういう事が起こるらしい。これはあくまでも私の推測ですけど、この記事の高校も、そんな学校の“One of them”に過ぎないのではないかと思います。
だけど、ただでさえ少子化で生徒が集まり難いこの時代に、取材に対して「それは我が校が設備の悪いボロ学校だから…」とは言えませんよね(笑 ^^;)。生徒にコメントを求めたら、まったく違う答えが返ってくるかもしれないんです。だけど、教頭としてはそれは言えないので、いい訳にジェンダーフリーを持ち出したら、かえって裏目に出てしまった。そんな「悲喜劇」だったのではないでしょうか。
だから私は、ジェンダーフリー批判をするのにも、この「男女同室着替え」のネタは使っていないんです(使ってませんよね? ^^;)。単に使う機会がなくて使っていないネタもあるけど、少なくともこれは、怪しくて使えないネタですね。
>追記1 偽りの二者択一
私は同じことを「両極端」とか「虚構の対立図式」と呼んでいます。ジェンダーフリーに限らず、たとえばマルクス主義のような「真理主義」の時代が過ぎたら、一転してポストモダンの「相対主義・懐疑主義」の時代になってしまう。
ジェンダーフリーにも、他にもたくさんありますよ。「男 vs 女」を筆頭に、「本質主義 vs 構築主義」とか、「専業主婦 vs 働く女性」とかね(笑)。「男女」は、まぁ対立することもあるけど(^^;)、男女の関係をすべてこれで説明しようとしたら無理がある。それはフェミニストがどんなに屁理屈ならべて否定しても、ほとんどの男女は日常経験を通じて「知っている」わけですよね。
それから、現在では「本質主義」を唱える人はほとんどいない。この「本質主義 vs 構築主義」というのは、19世紀末から20世紀半ばまでは「生物的決定論 vs 文化決定論」という形で存在していたんだけれども、現在、どこを探せば「本質主義 vs 構築主義」の論争が見つかるのか、さっぱりわからない(笑)。しかも「ジェンダーとは何か」の冒頭で述べたように、私から見ればどちらも欠陥説だから、こういう対立図式は、仮に実在したとしても意味がないんです。
「専業主婦 vs 働く女性」だって、「専業主婦」一般と「働く女性」一般が対立関係にあるなんていう事実はありません。ただ、フェミニストが両者を対立的に扱っているだけ。いずれも「詭弁の手法」に過ぎませんね。
>追記2 TS原理主義について
この「意味、用法ともに、龍子さんの使い方のほうが正しいです」というのは、「ジェンダーフリーはトランスを救うか?」で書いたやつかしら?(↓)
|
やっぱり「TS原理主義」という言葉は、こういう意味で使われていたよね(^^;)。三橋さんのいうように、「性同一性障害の当事者の一部には,男女二元論を絶対視し,既存の男らしさ女らしさの枠組みをとても固定的に考える人たちがいます」といったら、ほとんどの TS は「TS原理主義」になってしまう。まさに「イスラム教徒はみんなアルカイダ」というのと同じことになってしまうんですね。
それと、「なんでこれが『TS原理主義』なんだ?」ということが、いまだにわからない…。「性二分制原理主義」というならまだわかるんだけど、それを「TS原理主義」というのは、そもそも TS が性二分制に立脚するものだと思っていなければ出てこない発想だと思うんです。だけど、だったら T's の間で性別を相対化しようとしても無駄なことくらい、最初からわかりそうなものです。私は以前から、ジェンダーフリーは T's にとって自己否定の思想だと指摘しているんですから、それに対して反論も対策もなしに「啓蒙」しても、受け入れられるはずがない。そもそも、そういう思想を受け入れる動機が欠けているからです。このあたりの先方の認識というのが、よくわかりません。どう考えても説明がつかない。
>追記3 生の権力について
私のフーコーの評価というのは、「『クィア』の難問 」で書いちゃったと思っているんですけど、実はフーコーの解釈というのは、すごく難しい問題ですよね。他のポストモダニストより難しいんじゃないかと思う。例えば、性がどのように語られてきたかを延々と書いて、「だからどうした」と言いたくなるようなところがあるでしょう。
『同性愛と生存の美学』を読むと、確かに純子さんのいうような解釈ができるし、フーコーをできるだけよい形で解釈しようと思ったら、やっぱりそうなると思うんです。しかもこれは、フーコーが強く影響を受けたニーチェとも重なるので、無理のない解釈にもなっていると思う。
ただ、フーコーがテレビか何かに映像で出て、それがひたすら哄笑しているシーンだと聞くと、「やっぱりこいつも相対主義・懐疑主義の範疇の男なのか?」とも思ってしまうわけです(笑)。
個人の価値観に関しては、基本的には基準は「正しい・間違い」じゃなくて「好き・嫌い」でいいと思うんだけど、これだけだと「社会」の話に発展しないんですよ。どんな制度や法律を作ろうか、という時に、各人が自分の価値観を主張するばかりでは納まりがつかない。それをどうするのかという次のステップを考えざるを得ないわけです。
ニーチェ・フーコーの説だと、各人の解釈があるばかりだから、人によって「好き・嫌い」が違ったり世界観(社会観)が違ったりすることは説明できるんだけど、誰が計算しても「2+3=5」になるということが説明できません。
確かにフーコーは、単なる相対主義・懐疑主義で「真理」を否定したわけではなくて、個人にとっての意味や価値は肯定したと思う。だけど、社会についてはどうでしょう。むしろなんらかの言説が、現象学でいう「共通了解」として共有されることすらも、(それを「真理」と混同して)拒否しているのではないか。だから、よりよい制度の作り方とか、そういう話が出てこないのではないか、という気がするんです。だから、私はフーコーがマルクス主義的な意味での「反権力」だとは思わないんですけど、一種のアナーキズム的な反権力の傾向は持っていたのではないかと思うんですね。
だから個人の生き方を考える場合にはいいんだけど、社会思想としてどうかというと、たちまち相対主義・懐疑主義になってしまう。ここが困るなぁ…と思うんです。
>追記4 家族の定義
まず、小浜さんのいう家族の「擬制」という言葉ですけど、これは語感や字面からも、誤解されやすい言葉だと思うんですね。でも、あくまで「擬制」であって、「偽制」や「疑制」ではありません(^^;)。小浜さんの本心としては、家族の「擬制」ということを、「家族ゴッコ」とか「遊び」だと言ってるわけではありません。男女が結婚して子供を生み育てる「家族」と、その「擬制」との間に価値の上下を付けようということでは全然、ない。これは確かです。
以下は「私の理解では」という話になりますけど、「家族」という概念がどのようなものか、まずその意味をはっきりさせましょうということだと思うんですね。要するに小浜さんは「家族とは何か」という本質直観をしているわけです。
「家族」概念を相対化ないし解体したい人たちは、異性同士の同棲、同性愛カップル、養子縁組、仲のよい友達同士の同居、一人暮し(^^;)、そういうものも全部「家族」だと言うわけです。だけど、最初からそういう主張を前提にして考えると、「家族」と「世帯」の意味の違いも判らなくなってしまう。
だから、考える順序として、まず男女が結婚して子供を生み育てる「家族」について考える。するとそれが、同性愛カップルや養子縁組なんかにも適用できるわけです(さすがに一人暮しも家族だというのは、無理がある)。別の表現でいうと、男女が結婚して子供を生み育てる「家族」が家族概念の原型で、他はその派生型だという感じですね。
>「人間が帰属意識を感じる社会の最小単位」
うーん、これは家族の要件ではあるけれども、これだけだと定義になるかなぁ…。どういう質の「帰属意識」かということが、必要かもしれませんね。たとえば、社長と社員の二人だけの会社があって、お互いに個人的な思い入れはなくて、ビジネスライクに割り切った関係なんだけど、でもその会社に対する帰属意識はある、という場合にどうするのか。これも「人間が帰属意識を感じる社会の最小単位」になるけど、「家族」とはいえないでしょう。
これは屁理屈に見えるかも知れないけど(^^;)、でも仮にこういうモデルを置いてみて、自分の中の「家族」概念と対比したら、「家族の本質」を取り出せると思うんです。
まず「契約関係」じゃなくて「エロス的関係」がないと、やっぱり「家族」とは言えないんじゃないかということが一つ。それから、ヘーゲルは社会の最小単位は「家族」じゃなくて「夫婦」だといっているんですけど(笑)、これはつまり「結婚」が含まれる関係ということですよね。ここでは、指し当たって法的に認められる「婚姻」に限らなくてもいいと思うのだけど、「性愛的な結び付きが核になっている」ということです。
これは、そういう在り方が「擬制としての家族」の範囲に含まれるかという事を具体的に示すと思うんですけど、こう考えると、「同性愛カップル」は含まれても「一人暮し」は含まれないということがわかるでしょう。そして「性愛的な結び付き」という横のつながりの他に、子孫という縦のつながりの問題がある。もちろん、同性愛カップルは二人の間に子供を作ることはできないけれど(バンコランとマライヒじゃないんだから ^^;)、養子という形での「子供」は考えられるわけです。養子を取らなければ「家族」ではないと言うのではありませんよ。そういうことがあり得るという通念があればよいと思う。
結果として、小浜さんの説になっちゃうんだけど(^^;)、このあたりが「家族」及びその「擬制」といい得るための、最低条件ではないかと思います。
そして、同性婚を認めろという場合にも、「家族」概念の解体・相対化を根拠として主張するのと、「家族」概念の基本を捉え直し肯定した上で、そのバリアントも認めてくれというのでは、話がまるで違ってしまうわけです。フェミニストみたいに「家族」の多様性なんていったらブチ壊しで(笑)、むしろ形は違ってもその本質は同じで、それは自分たちにとっても大切なものなんだという事を訴えて行かなければダメです。同性愛者は、どうしてそういう主張をしないかなと思う。
7月の性同一性障害の特例法も、ジェンダーフリーを根拠にしては絶対に成立しなかっただろうと思います。あの法律は、馳浩議員(自民党)や、山谷えり子議員(保守新党)といった、ジェンダーフリーを批判している人たちが、プロジェクトチームのメンバーになっていたわけですからね。
「子なし要件」の緩和も同じことで、立法に携わる議員と「出発点」を共有できなかったら、いつまで経っても実現できるはずがありません。現実的な筋道をつけなければ出来ないことだし、「出来ねば無意味」でしょう。「家族」概念を否定・相対化するどころではなく、「家族」の大切さというものを切々と訴えていかなければならない。
今はその理論を準備しつつ、一方では来年の特例法の施行後の「戸籍の性別変更が出来た!」という報道を待っています。それに対する世間の反応も見なければなりません。あまり先走りすぎても世の中がついてこない(^^;)。
一度、実例が出来てしまえば、世間の価値観はそれでいくぶんか変わります。そうしたら、次にどこまで出来そうかという見通しが立ちますから、出来ることをする。この繰り返しですね。迂遠なように見えて、これが一番確かだと思うんですね。
